天使のたまご

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天使のたまご 1985

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★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 石の町の廃墟の中で一人生き続ける“少女”。時間により刻々変化するこの町の中で少女はたまごを自ら暖め続けていた。そんな“少女”の元に“少年”が訪れる。「そのたまごの中には何があるのか?」という“少年”の問いに対し、“少女”が見せたものとは…鬼才押井守による、天野喜孝による美しい絵の中で繰り広げられる、たった二人のドラマ。
 前年に『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を世に送り出し、その名をアニメ界のみならず映画界に刻みつけた押井守が、同じタツノコ出身の天野喜孝と組んで渾身を込めて作り上げた映像。まさしくこれは映像美。髪の毛一本一本までを丹念に描写したその絵はまさしく芸術と言っても良い程。
 ただし、これは
採算を度外視し、しかも押井守の内面世界をあまりにも前面に出しすぎてしまった。その結果、映画としては大コケ。あまりにも訳が分からな過ぎたのである。当時の評論家は口を揃え、「美しいのは認めるが、これは全然理解できない」と言っていた。まさにアニメ界における鬼子となった作品である。実際、この作品の後押井氏には全然仕事が回ってこなかったそうである(こいつに作らせたいように作らせるととんでもないものを作る。と言う風評が立ってしまった)。これが上手くいけば「邦画界のタルコフスキー」となり得たかも知れないのだが…
 一応私が知っている裏話をさせてもらおう。
 当初本作品の舞台は日本。環八沿いのコンビニが舞台だった。おかしな奴らばかりがたむろしている夜中のコンビニに突然たまごを抱えた少女が入ってきて、そのたまごを巡っての解釈に明け暮れている内に、夜中の12時にコンビニの前に箱舟が横付けするという作品だったそうだ…(いずれにせよ変な作品だな)ところが、『タイム・ボカン』シリーズの絵柄を期待してリリカルな作品にするはずが、天野喜孝氏が持ち込んだイメージボードを見て、方向転換をしたそうだ。押井氏本人の言葉で、「コンビニは(私の)テーマ」と語っているだけあって、そちらも見てみたかった気がする。
 この作品のキャラクター・デザイン及び美術を担当した天野喜孝は、この時はブレイクをする前とは言え、それでも極端に忙しい人で、製作段階にはいるまで殆ど絵が仕上がってなかった。それでスタジオに半ば監禁し、2週間程ぶっ続けに絵を描かせたそうだ。しかも一日20〜30枚を上げさせたと言う超人的なスケジュール(本人も後に「ディーン(製作会社)になんか来るもんか」と叙述しているほど)。しかし、その甲斐あってか、絵の一枚一枚は鬼気迫る程の迫力を生み出した。そしてその絵を映像化したディーンのスタッフも残業に次ぐ残業で、殆どぼろぼろになって完成させたそうな。
 それで、この作品がコケて、アニメ界から総スカンを食った押井守に仕事を回そうとしたのは只一人、宮崎駿だった。丁度氏が手がけようとしていた
『ルパン三世』の監督に起用しよう。と申し出たのである。ところが、この押井版『ルパン三世』は結局日の目を見ることなく終わった。どれ程「押井守」という名前が恐れられていたかを端的に示すエピソードだろう。(この辺は『紅い眼鏡』(1987)のパンフレットに宮崎氏が寄稿した文書に書かれていたりする。企画段階でボツったこの作品を慰めるために二人で冬の日本海にドライブに行ったとか…)今だったら確実に通るであろう企画(と言うより、絶対不可能になってしまった)だけに、勿体ないことをしたものだ。
 奥さんと二人安アパートで来る日も来る日も来ない仕事を待っていたとか…

 何か話が暗くなってきたな。
 この作品は、未だに押井氏ファンの間では解釈を巡って語られる程の難解さを見せているが、これは
「極限の人間ドラマ」であるとだけは一致した見解。最初自分の世界が壊れることを怖れ、少年を拒絶する少女はやがて彼を受け入れる。一旦受け入れた後は自分の全てを見せようとするのだが、逆に少年の裏切り(これも裏切りかどうかと言うのは謎)に遭う。これを少女の「成長物語」と見るか、それとも単純な、裏切りを主題とした物語とするか。未だに分からない。
 一応私の解釈としては、この街は外界から自らを遮断した方舟であり、少年はその街に「舞い戻ってきた」外界へのメッセンジャーだった。だが、街の住民は少年を受け入れることを拒み、ただ自らの思念の中にこもり続け、唯一微かに外への関心を持っていた少女自身も、間違っていた。まさにこの街自体がたまごの中にあったわけだ。結局少年は自らがこの街に受け入れられないことを知り、再び、今度はあてどもない旅に出た。と言うことになるか。

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