とどのつまり

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旧版

新版
1985年(新版2004年)
アニメージュコミック
画:森山ゆうじ
 いつの時代かも知れない(おそらくは)日本。下水には人間さえも襲う水猫と呼ばれる化け物が蔓延り、TRUMPと呼ばれる国家組織とおぼしき武装集団によって言論統制がなされ、“アリス”と呼ばれる浮浪少女らが次々に逮捕される。そんな中、テレビではアイドル番組やアニメーションが続々と放映されているおかしな世界。そんな中、“有能なアニメーター”であるはずの“俺”が出会ったおかしな人々と、彼らの闘争の日々。
 押井守にとっては初の漫画原作作品。何でも製作会社からアニメ製作をストップされ、全く仕事がないので、取り敢えず好き放題やらせてもらおう。と言うコンセプトで作られたとか。
 押井守の思考そのものがあふれ出すかのような作品で、一読程度では先ず理解不能(多分何度読んでも完全に理解することは無理なんじゃなかろうかとさえ思える)。
 旧版は発売当時に私は購入したのだが、これを探すのはとにかく苦労した。たまたま当時上京しており、神田の古書街をかけずり回り、最後に何故か三省堂の漫画コーナーで新品を見つけたというのも今となっては良い思い出。現物は私が持っているものを含め、3冊を確認。現在は新装版で復刊されているので、比較的手に入れやすい。こんなものを「風の谷のナウシカ」と同時期に掲載してくれた徳間の慧眼にはただただ頭が下がる。

 本作には話毎の明確な区切りはないが、連載された話数に沿って見てみたい。

・第1話
 オープニングで突然の人死に。この時代がどこか現在の日本とは異なる時であることを感じられる一コマ。しかしながらそこから主人公の日常として、アニメーションスタジオの様子が展開していく。“有能な”アニメーターとしての“俺”の日常部分。スタジオの仲間はTRUMPに対する抵抗組織の一員ではないか?と思いつつ、しかし自分が一歩踏み込むことが出来ない“俺”の前に現れる浮浪少女。自分が何をしようとしているのか、そんなことも考え無しに少女を家に連れ帰る。

 この部分は一応導入になるのだが、自分見えないところで仲間達が何かおかしな事をしてないか?という疑心暗鬼と、それならそれで何故自分にそれを打ち明けてくれないのか?という一種のコンプレックスを抱えていた主人公が少女と出会う時、物語は動き出す。ここで重要なのは、主人公はここに至っても具体的なアクションは起こしていないということ。何をすると言うよりも、ただ少女が自分にくっついてくるから。というだけの理由で家に連れてくるのである。物語は外的要因によって強引に始められ、それが主人公が見ようとしなかった人間の裏の部分を突きつけてくることになる。
 この部分で「アリス狩り」と呼ばれる、権力者による未登録児童の収容作業が行われていることが語られるが、この詳細は不明。スタジオから離れ、家に帰ろうとする主人公の周囲に誰も人はおらず、ただ兵器らしきものを運搬してる描写あり。後、主人公のモノローグで「時計だって放っておかれりゃいつかは止まるのだ」という言葉が挿入。「うる星やつら」で繰り返し登場したモティーフではあるが、その直後に懐中時計を耳に当てている絵が描かれているので、この時点では深い考えではなく、物理的に止まってしまった自分の時計に苛立っているのかもしれない。

・第2話
 “俺”が少女を連れて行った先は恋人のいるアパート。それをなじるか?と思った恋人は何も言わずに二人を迎え入れ、更に自分自身が昔未登録児童であったことを明かす。

 この部分でストーリー上の動きはほとんどなし。ただ家に帰って(?)きて、風呂に入って飯喰ってるだけ。設定上主人公には半同棲している恋人がおり(妻ではないようだが)、彼女も又アニメーターであることが(動画家?)分かり、TRUMPに対抗する組織がCATSという名前であることが分かる。主人公は同じ事務所のアニメーターがCATSの一員であることをほぼ確信している。
 物語上の進展は無いにせよ、1話で何を考えているのか今ひとつ分からなかった主人公の考えが明確化する。ただ明確な考えがあるわけではなく、自分自身がどこかの陣営に属していると思いたくない。という考えを持っているということだけ。そう言う立場に自分を置く場合、当然未登録児童は放置しておくに越したことはないのだが、それを敢えて連れてきてしまったのは“好奇心”と説明される。
 風呂場が突然下水とつながり、恋人がカミングアウトした途端部屋全体が下水になると言う、表現上の演出は駆使されている。物語上あまり関係を持たないが、主人公の思考はループしていつしか又下水に帰って行く。

・第3話
 この未登録児童を逃がしてやるため“俺”はスタジオのアニメーター仲間を喫茶店に呼び出し、CATSの協力を要請する。だが会話はことごとく噛み合わず、彼らが本当にCATSなのか、そしてこの未登録児童をどうすれば良いのか分からないまま、なし崩しに飲み会に入り込んでしまう。

 これまで強いて自ら問いかけることをしなかったアニメーター仲間に対し、主人公は初めて「お前らはCATSか?」と問いかける。主人公はこれで一歩踏み出したと自分では思っていたようだが、その会話は妙ちくりんで、要領を一切得ない。ただ、ここでの会話で交わされるキーワードとして「非合法」とはなにか?という事があると思われる。アニメーターの一人が言った言葉で、「非合法ということを明かした瞬間、非合法ではなくなる」という言葉があるが、これは“社会”という通論の中では論点がおかしい。だが、もしこの世界で、この組織が非合法であると思っているのが主人公たった一人しか存在しないのであれば?主人公がそう思っている限りはCATSは非合法であり得るが、知った途端、周知の事実になってCATSは存在意義をなくす。本作はあるいは完璧に閉じられた世界なのでは?という疑問が生じる。
 これまで外側から動かされる一方であった主人公が初めて自らの意思で動いた話でもあるが、同時に「俺は何者だ?」という疑問が初めて提示される。「世界はそのまま巨大な舞台であり、自分を含めてすべての人間はその上でそれぞれの役割を演じる役者なのではないか?」これはそのまま実はこの作品のメインテーマでもある。
 そして主人公の考えに呼応するかのように、世界はだんだん歪みを増してくる。「帽子屋」なる喫茶店が廃墟と化したり、主人公達だけしか存在しない舞台になったり。主人公達が対峙している机もコマ毎に変化していく。

・第4話
 唐突にアニメスタジオで目覚めた“俺”は恋人の密告によってこの建物がTRUMPによって囲まれていることに気づく。しかも仲間達はスタジオに隠されていた武器を持ち、戦い始める。急速な展開についていけない“俺”は、勧めに従い逃げる“俺”だが、その背後ではスタジオは機銃掃射によって完全に壊滅してしまう。

 これまで会話中心で展開してきた物語が一気にアクションへと突入。ここに理屈はなく、一方的な暴力と、それに対する抵抗を楽しんでるスタジオの面々。ここで印象に残るのは仲間が「逃げろ」と言っているのに対し、主人公は「どっから逃げりゃいいんだよ」と聞き返すシーン。仲間の方はそれを聞いて「一体何を考えてるの?」と言った表情をしていること。本来舞台に上がった以上、それらを知っていて当たり前。という立ち位置に立っているからだろうか?
 不条理さというか、ここでアニメーター達の銃撃によって頭を吹っ飛ばされたはずのTRUMPの人間で誰も死んでる人間がいないこと、第1話の冒頭で水猫によって殺されたはずの男がTRUMPの中に入ってると言った描写あり。ますます舞台を思わせる展開となっている。

・第5話
 下水を逃げ回り、地上に出た“俺”と未登録児童は、しばらく何をして良いか分からなかったが、三月兎の仲間が言っていた『時計堂』というアニメスタジオに連絡を取り、仲間とは旧知だったらしい演出監督によってしばらく時計堂のスタジオに匿ってもらえることになる。

 前回からの続きになるのだが、主人公が「自分は何をすべきか」という事を主軸に物語は展開。何をすべきか?しかし何にも考えつかないという堂々巡りが繰り返されることになり、その過程で又しても「俺は誰だ?」の問いかけがなされるようになる。「(アクションを描かせりゃちょっとしたもんの)アニメーター」だったはずの主人公が、実は何一つ絵が描けない素人であることが発覚。
 この話は会話中心となるため、不条理な描写はほとんど無し。飛んでいる大きな飛行船に「とどのつまり」と大きく書かれているのが趣味を思わせることくらいかな?ここが初出となるが、主人公のいたアニメスタジオの名前は「三月兎」というらしい。

・第6話
 “俺”は、実は自分自身の名前さえも知らない記憶喪失であることに気づく。それで改めて「自分は誰か?」と考え始めるのだが、思考はぐるぐる回り、何も思いつかなかった。そんな時、“俺”の“恋人”がスタジオに現れ、未登録児童を連れ去ってしまう。

 改めて「自分は誰?」の疑問が提示されるのだが、「自分は誰だろうと考えてる自分は一体誰か?」という禅問答のような話が登場。余計な事ばかり考えている内に、「オレはある時(突然に)そこに存在した」。という事実を思い出す。何の答えにもなっていないのだが、自分はここに存在し、“自分”を演じ続けねばならない。という結論で一応の決着。
 自分とは何者か?というのは心中劇であるため、当然のごとく不条理劇が展開。自分を脇に置き、横目で眺めるとはどうすれば良いのか?それは延々と繰り返されるループなのではないか?という具合。

・第7話
 「戦争じゃ」という監督の一言で盛り上がる時計堂の面々。知り合いのアニメスタジオに片っ端から電話して武器や人員の調達を図る。そんな状況について行けない“俺”はやはりどこかに逃げ道を探そうとするのだが、やはり否応なく彼らに流されていく。

 逃げてきた先でもやっぱり未登録児童のお陰で戦争に巻き込まれてしまう主人公。激動の展開を見せるこの話に、一人醒めてる主人公は、遠くからこの事情を眺めている。一歩離れてしまうと、これはなんかの冗談でしかないのだが、その冗談によって人が死ぬ。バーレスク(喜劇)としての現実世界。そして押井監督得意の食事シーンが登場。時計堂の面々がさもうまそうに店屋物の出前を食べる描写あり。
 一応主人公の内面も描かれるが、主人公の立ち位置が呆然としている状態のため、ほとんどが黒一色の世界。ここでも又第1話で殺されたはずの男が、珍猫亭という中華料理屋の出前持ちとして登場。あと不条理というわけではないが、テレビでアイドルが歌ってる描写あり。歌詞は「だァ〜れも知らないヒ・ミ・ツ!!私も知らないワ・タ・シのヒミッツ〜!! いつか誰かが訪れて〜 劇(ドラマ)の幕をひくときに〜ィ 舞台のそででこっそり〜とォ〜 ワタシがワタシにィ囁いたァ〜!! ヒ・ミ・ツ! だ〜れも知らないわッからなァ〜い〜! 私も知らないわっからなァい〜!! ヒ・ミ・ツ! だれかそっと教えてほしいのォにィ〜 ワタシにそっと教えてほしい〜の〜に〜っ!! ヒ・ミ・ツ! いいえいいえ知っている〜! いいえいいえ〜知って〜い〜る〜 知らないで〜いるのはァ〜! きっとわ・た・しだけェ〜!!」どこかこの作品そのものを表しているような歌詞である。

・第8話
 武装してTRUMP本部に向かう時計堂の面々。だがその動きは既に察知されており、彼らの眼前に完全武装したTRUMPが立ちはだかる。あくまで強行突破を主張する監督の命令に従い、攻撃を始めてしまう。しかし圧倒的な戦力差であっという間に追い詰められてしまう。

 ここは全編アクション。バルカン砲にバズーカ砲。グリップを装着してフルオートで撃ち出すモーゼル、ツインローターのヘリコプターなど、後の押井作品に度々登場するギミックが満載。多分本作において最も見所の多い部分。しかし故にこそ細部のみの描写に終始してしまった。カントクがモーゼルを構えて撃つまでのコマ割はそのままアニメ的演出そのまま。

・第9話
 成り行きでTRUMPのヘリを撃ち落としてしまった“俺”は時計堂の生き残りと共に地下水道へと潜る。CATSのメンバーの集合地へと向かうのだが、その中で“俺”は、果たして本当にCATSという組織が存在するのか。という疑問を口にする。

 これまで流される一報だった主人公が初めて自分の意志で言葉を語る。これまで自分だけに知らされず、全員が自分を欺いているのではないか?と思っていたが、実はそうではなく、実質的にCATSなるものは存在せずに、単に自分が知らされてない。という事だけで架空の存在があったのではないか?とも考える。様々な理由を挙げて理論武装する主人公だが、それに対しカントクは「実はCATSこそが幼女誘拐団であり、TRUMPこそが彼らから未登録児童を保護する機関だという可能性を示唆する。
 自分の目で見たもの以外は、本当にそこに存在するのか。初期の押井作品に共通するテーマが論じられる事になるが、結果としてそれは「分からない」とだけ結論づけられてしまう。ここでの語りは後に「TalkingHead」でも論じられる事になる。

・第10話
 TRUMPの総司令部へとやってきた“俺”と時計堂の面々。てっきりCATSなる組織は存在しないと思っていた“俺”の前に現れたのは、武装したアニメーターの集団だった。状況に対処する前に突撃隊に指名されてしまい、総攻撃の先方を務めることに。だが突入した先に見たものは、あまりにも意外なものだった。

 結局何が何だか分からないまま、流されるようにして戦いに参加させられる主人公。必死になってこの状況の打開を考える主人公だが、いくら考えても、何故自分がここにいるのかが分からない以上、流れに乗る以外の方法が見いだせない。ここで「主体性」というものが問われていくが、果たして人間にとっての「主体性」なるものはどれだけ意味を持つのか。
 最後に主人公のモノローグで「人の生死のかかる時に現実はけっして冗談ではありえないのだから」という言葉が出るのだが、いざふたを開けてみれば、この上ない冗談が目の前に展開している。土台敵の本部が野球用のスタジアムという時点でなんかおかしい訳なのだが、そのマウンドで恋人と未登録児童がレジャーシート置いてそうめん喰ってるとは、なんともシュールな。

・第11話
 意外な光景を見て呆然としていた“俺”たちは突然の爆撃によって吹き飛ばされてしまった。そして気づくと、“俺”は恋人の家で風呂に入っていた。全ては夢だったのか?と安堵する“俺”だが…

 物語のオチ。一応謎は説明されるが、それは主人公の立ち位置がやはり不安定である事が分かった“だけ”の事であり、ここから新たなる謎が始まる。結論としては要するに、「現実は不条理なものだ」ということ。生きている限り人間は<現実>という<物語>を演じ続けるしかない。
 コマ割は極めて独特。廃墟に向かい、空中から落下するシーン。水の中で全ての人間の先頭を切って泳いでいる姿、魚眼レンズ。これらを見ただけで「ああ押井演出だ」と分かるものばかり。

 人生の<物語>を作るのは自分自身しかいない。そして作り上げる<物語>こそが当人を作り上げていく。オチとしてはいい加減な不時着の仕方ではあるのだが、含蓄も感じ取られる。人生とは、「自分を演じ続けること」
 事実私は未だにこの結論に囚われ続けているのだから…

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