テロに溢れる世界の平和を守るために国際警備組織“チーム・アメリカ”が結成された。とある国の独裁者がテロリストに大量破壊兵器を売りさばこうとしている、との情報を掴んだチーム・アメリカのリーダーのスポッツウッドは、ブロードウェイ俳優ゲイリーをリクルートし、おとり捜査をさせようと発案。強引にゲイリーを仲間に引き込むのだが…
人間の笑いというのは、根元的にどこか差別的なものが多いと思う。それは時に共通認識を高めるためであり、どうしようもない自分の今の状況を笑い飛ばすためであったりする。しかし、同時に人間には理性や常識というのもあり、人を差別することはいけない事という認識もあるため、その笑いというのは、どこか秘密めいた、そして後味の悪さを残すもの。
ただし、これが仮に身近なものではなく、国家的なものになると、話は少々変わってくる。特に戦争状態にある国だと、愛国心を鼓舞するために国家レベルで敵国を侮蔑的に語るようになっていく。それが正義になっていくわけだから。
ところで本作だが、敢えて肯定的に捉えてみると、そのような狂騒状態にあるアメリカという国を皮肉ってみた。と言うことも出来るのだが、単純に考えると、本作は単にガキが作った挑戦作。とにかく何でも良い。良識ぶったオトナが嫌がることをやって、「どうだ。面白いだろう」と叩きつけてやろう。と言う感じが一番強い。
映画の可能性として、それはありだと思う。観てる側としては、大笑いして、なんか後味の悪さを噛みしめるってのは、挑戦的な作り方としては悪くない。私自身かなり笑ってしまい、それで自分自身、ちょっとこれはいけないな?と思うこともあったのも事実だったし。「パール・ハーバーは糞だ」には、それを越えて思いっきり頷いたし。
ただ、この後味の悪さは、何か違っている気がしてならない。一体何が悪かったのか。色々と考えてみた。
一つには、この作品、正義を行うチーム・アメリカの無茶苦茶さを笑うべき作品のはずなのに、本当に最後の方になるとヒーローになってしまったと言う点。チーム・アメリカは自分たちで“正義”を標榜する単なるカウンター・テロ組織で終わって欲しかった。そもそもこの笑いは全てを相対的に観るからこそ笑える作品へと変わっていくはず。それが一方的な価値観の押しつけのように見えてしまったことが一番の悪さだった。世界遺産を片っ端からぶちこわし、テロは許さないけど、それに巻き込まれる一般市民をも顧みないチーム・アメリカの活躍をもっと主軸にし、最後の最後に、それこそ“神の手”が降りてきてチーム・アメリカ全員が殺されてしまうとか、あるいは北朝鮮にやってきた各国首脳を惨殺した上で、世界中のテロ組織どころか国そのまでも滅ぼし尽くすとか、そこまでやってこそ、本当に物語として成り立つんじゃ無かろうか?最後にチーム・アメリカを単純なヒーローにしてしまってはいけなかったはずなのだ。後味の悪さを作り上げるには、そういった無茶苦茶さが必要のはず。(トレイ=パーカーが大成功したTVアニメの『サウス・パーク』は、無茶苦茶やっても、最後は常識をちゃんと出していたから安心できたのでは?)
更にハリウッド・セレブを惨殺する事に血道を上げすぎて、それだけしか印象に残らないのも問題。彼らだって単に受け狙いで戦争反対を語っていた訳ではないはずだ。それなりに自分のキャリアの中で、思うことがあってそれらの主張をしている。その部分をすっぱり抜けさせて、単なる悪役に堕し、殺されるだけと言うのも問題だな。ガキの論理を押し通すにしても、一方的すぎては面白くも何ともないのだ。仮にこの作品が全米公開された『華氏911』(2004)に対抗し、それを笑おうとしたのだったとしたら、単にムーアをぶっ殺すだけじゃなくて、映画そのものに対するアンチテーゼを出すべきだったんじゃないかな?そこが限界だったのか?
面白くなかった訳じゃないし、笑った自分自身に妙な後ろめたさを感じさせてくれた点はとりあえず評価しよう。 |