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妖星ゴラス |
1962年 本多猪四郎(監) 池部良、上原謙、志村喬、坂下文夫、白川由美、水野久美、 |
1980年。初の土星探検宇宙船隼号が火星軌道を通過した時、地球から新しい星を調査するように指令が下った。ゴラスと名付けられたこの星は地球の6000倍という超質量を持ち、隼号は重力以上により遭難してしまう。ゴラスの軌道をどうしても変えることが出来ないことが分かった国連は、日本の科学者田沢(池部良)の提案で、地球そのものに推進装置を付け移動させるという「南極計画」を実行に移すのだった。 隕石が地球にやってきて、それをどう回避するか。これは近年になって『アルマゲドン』(1998)やら『ディープ・インパクト』(1998)と言うハリウッド作品になって登場したのだが、なんとその30年以上も前に日本が更に荒唐無稽(良い意味で)かつ素敵な作品として作っていた! 何せ地球そのものを動かしてしまおうという逆転の発想が凄い。まともだったら到底考え付きそうもない内容だ。まずその豪毅さを買いたい。 更に考えさせられるのは、日本の特撮と海外の特撮の姿勢の違いだった。日本のモンスター特撮映画の場合、表題の怪物が主人公となり、ハリウッド作品だと、それに対抗する人間が主人公となるから。事実『アルマゲドン』であれ、『ディープ・インパクト』であれ、隕石は人間の手で排除されるためだけに存在する。そう、これは脅威の排除であって、そこに敬意というものは存在しなかった。一方、本作においては、ゴラスは圧倒的な力を持ち、脅威であるが、その一方、ゴラスは単なる天災ではなく、そのものにまるで人格を持たせるかのように敬意を持って遇せられている。なんだかんだ言っても、しっかり本作は怪獣映画の定式に則ってる。 ただ、他の怪獣映画とゴラスは大きな違いがある。 ゴラスは地球にやってこなかったのだ。言うなれば、ゴジラ(1954)の目撃情報はあって、その脅威は知られていても、実際東京にはやってこなかった。と言うパターンと言っても良い。 これがどういう事かと言えば、本来主人公であるはずの怪獣がいなくなってしまったため、主人公は人間の側に持っていくことになる。極端な脅威に対し、人が出来ること。それはヒーローの存在ではなかった。ここに登場する人間全てが力を合わせることで、力を見せるのだ。ここに登場する人間全てが主人公となっている。無茶苦茶な設定を言う前に、怪獣の定式に則っていながら完全に人間側に主人公を持ってきたという点こそが本作の醍醐味なのでは無かろうか? 全員が主人公なのだから、南極計画で働く一人一人であれ、ゴラスを肴にくだを巻く酒飲みだって、やっぱりれっきとした主人公なんだよ(あれ?この客、天本英世じゃないか)。それがなんと言っても嬉しいところだ。 それに何より、この作品の面白さとは、通常のSFパニック映画に見られるような、逃げまどう人間とか、人間の無力さとかとは無縁だと言うこと。ここの登場人物は皆、無茶苦茶やる気を出してるし、それがどれだけ無茶苦茶であっても、一つの目標に向かってみんな一生懸命頑張ってる姿が泣かせるじゃないか。 …まあ、確かにストーリー的にはいくつも難があるし、特に後半のマグマは意味があるのやら無かったのやら分からない部分があったし、設定的に言っても無理はあるので、やや点数は落とさせてもらうけど、それでもこの圧倒的なドラマには素直に拍手を送りたい。 勿論これも忘れてはいけない。主題歌「おいら宇宙のパイロット」はつい口ずさみたくなる名曲。 正直、『アルマゲドン』のスペースシャトルのクルーになるのは願い下げだが、南極計画で働く人間にはなりたいと思う。本当にやりがいがありそうだ(そりゃ、あんな頭まで筋肉で出来てそうなくせに計画性無しの行き当たりばったりより、ちゃんと計画が明示されていて、自分がなにをやろうとしているのか、自分の使命がはっきりしているほうがはるかにやりがいがある)。 |
鳳号 | → | ゴラス | ||
【おおとり-ごう】 | ||||
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ゴラス | → | 南極計画 | ||
【ごらす】 | ||||
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田沢博士 | → | ゴラス、南極計画 | ||
【たざわ-はかせ】 | ||||
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南極計画 | → | ゴラス、田沢博士 | ||
【なんきょく-けいかく】 | ||||
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野村滝子 | → | |||
【のむら-たきこ】 | ||||
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隼号 | → | ゴラス | ||
【はやぶさ-ごう】 | ||||
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マグマ | → | ゴラス、南極計画 | ||
【まぐま】 | ||||
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