明治時代。日本の文明開化が進み始め、少しずつ闇が駆逐されていった時代。そこにはまだ妖しき生き物“蟲”がいた時代でもあった。蟲は人間に取り憑き、不可解な自然現象を引き起こす。蟲の謎を紐解き、蟲に取り憑かれた人々を癒す能力を持つ者は“蟲師”と呼ばれた。そんな蟲師の一人ギンコ(オダギリジョー)は日本中を旅しながら、各地で蟲に冒された人々を癒してきた。そんなある時、彼は虹を捕まえようとする不思議な男虹郎(大森南朋)と出会うのだが、その直後、蟲の力を文字に封じ込める女性・淡幽(蒼井優)の体に変異が起きたとの報せを受ける…
漆原友紀の同名漫画の映画化作品で、これが実写第2作目となる漫画家・アニメ監督家の大友克洋が監督したということでかなりの話題になった。原作は私もそれなりに好きで、何話かは読んでいる。
ただ、ネットの話題は今ひとつ。かなり酷評されていたので、私自身もほとんど期待はせずに鑑賞。
う〜ん。確かに酷評の理由は分かる。私は全部読んでないけど、原作の何話かの話をつなぎ合わせたが、つなぎがあまり良くなく、一見一つ一つの物語が乖離して見えてしまう。物語自体も結構退屈と言えば退屈。虹郎の存在が一見無意味に見えるし、それにギンコの子供時代ヨキがとにかく下手で見てられない。
ただ、これが駄目作品か?と言われると、決してそんなことはない。少なくとも、この物語はある一定の方向性で見ると、「あ、なるほど」と思えるものを持っている。
本作はエンターテインメントとして観るよりは、実はギンコという青年の精神的な物語として見ると面白い。ここに登場する蟲というのが、単なる自然現象ではなく、人間の精神のあり方として見るならば、実は本作の方向性はカウンセリングの過程をしっかりと辿っているのだ。
本作の最大のテーマは“トラウマ”というもの。この言葉は割と簡単に語られることが多いし、私自身もレビューの際には適当な言葉を持ってくるより、これで一括りにすることが多いのだが、厳密に言えば、トラウマとは心的外傷(psychological trauma)のこと。主に幼児期に継続的な暴力や性的虐待を受けたり、あるいは親の死を間近に経験することで起こる。これが人格形成にゆがみを生じさせてしまうことを言う。言わば、本来持つ性質がそれらの外的要因によって歪められてしまった状態のこと。これがあると日常生活にも支障が出るし、普段は隠されていたとしても、何らかの要因でこれが出てしまうと、命の危険さえある。
最初の物語で真火という少女の話を持っていったのは、ギンコの役割は蟲を操ることであると共に、それを用いてトラウマを克服させるカウンセラーとしての役割を持っている事を見せようとしていたのだろう。真火は母親の死を直視することで、自分の中にトラウマを抱え込んだ。蟲のせいとは言っても、それは自分自身が引き込んだものだから、自分でそれを克服しなければならない。ギンコが真火の母親の頭に生えた阿を壊すことで回復したのは、真火がその瞬間母の死を受け入れたから。いわゆるギンコは蟲を使ってスピリチュアル・カウンセリングを施したのだ。
そしてギンコ自身の話に移っていくが、彼の場合はもっと複雑。
彼はヨキと呼ばれた子供の頃の記憶を持っていない。これも蟲のせいにされてはいるものの、これは実は彼自身があまりに辛い過去を持つため、自分自身の記憶に封印を施したからと見ることが出来る。
では何がショックだったのか?それは母親の死と言うこともあっただろうが、蟲師としての先生であるぬいを失ったことの方が大きい。ぬいは自分自身闇の中に沈み込むが、その際、ヨキの左目をくりぬいている。彼女にとって、これはヨキを救うためだったはずだが、ヨキはそれを自分を拒絶したものとして受け取ったのかもしれない。だからトコヤミに支配されてしまい、それを記憶と共に封印した。ここでのトコヤミはギンコにとってはトラウマの象徴。
それでも封印はほぼ完璧なものだったから、あんまり人と関わらないようにしている分には普通に生活出来ていた。
しかし、淡幽の屋敷でギンコは自分の過去を直視せざるを得なくなる。絶対に見たくなかったものを見た瞬間、彼の自我は一旦崩壊してしまった。
ただし、崩壊したからと言って、自我そのものが消え去る訳ではない。そこからが彼の本当の癒しへと入っていくのだ。
彼の精神を癒していくのは、彼自身が蟲師であり、人を癒す立場にあったことから。虹郎の「人を癒し自分も癒してる」という言葉は実にその過程をよく表している。トラウマを直視してしまった人間が元に戻るためには時間がかかるが、そこで最も大切なのは、既に確立した日常生活の中で癒していくものなのだから。そこに虹郎が一緒にいたのも大きい。癒しは一人でも得られるが、彼を見つめ、面倒を看てくれる人がいるならば、その効果は非常に大きいのだ。人の闇を見続けるため、カウンセラーは無条件で時分自身を受け入れてくれる人を必要とする。虹郎は何をする訳ではないが、唯一、ギンコの全てを受け入れている。
そうして時間をかけつつギンコは自分自身を受け入れていく。彼の心にあったトコヤミがトラウマの象徴であるとすればギンコ“銀蟲”は彼自身の本当の心。それを見つけ出していく。
そしてラストシーン。トラウマに陥った人間に限ったことではないが、人が本当に癒されるのは、実は自分自身の中にある親を“殺す”事によってなされる。人の心には常に親の影があるが、自分の心の中で作り上げた親の姿に影響され続けると、人はいつまでも子供のまま。親は自分自身の心の延長に過ぎないから、自分と同一視してしまう。家庭内暴力というのは、実は自傷行為と変わらない。と言われるのはそのためである(ついでに言えば、日本人は極めてこの親離れが下手な国民とも言われている)。
ギンコはラストシーンで自分の心を支配していた親であったぬいを埋葬する。その時に彼は“銀蟲”という自分自身を受け入れるのだ。
つまり、本作は“蟲”というキーワードを使ったスピリチュアル・カウンセリングそのもの過程が描かれた作品とも言える訳である。
ただし。言っちゃなんだが、わざわざそれをわかりにくく物語にしているってのが本作の最大の問題。大友監督の狙いは大変優れているのだけど、物語がそれに付いていかなかったし、分かるように作ろうとしなかった。
例えば『17歳のカルテ』(1999)なんかはその過程を丁寧に辿りつつ、それが観ている側にも分かるように作られていたのだが、ここに来て大友監督の実写での実力不足が露呈してしまった。
傑作になり損ね…以前の問題で、今は全然受け入れられてないみたいだけど、ひょっとしたら10年くらいしたら再評価されるかもしれないね。 |