銀座で起こる飛び込み自殺事件。しかし肝腎の死体が見つからず、大騒ぎしていくうち、徐々にその姿が現れてくる。自殺したのは実は戦時中極秘にされていた透明特攻隊の生き残りだと言うことが分かる。そんな時、“透明人間”を自称する包帯でぐるぐる巻きのギャング団が窃盗を繰り返し始める。新聞記者小松(土屋嘉男)は現場で見かけた不審なサンドイッチマン南條(河津清三郎)こそが本当の透明人間であることを突き止める。南條のアパートには盲目の少女がおり、彼はオルゴールをプレゼントするため、オルゴールを買い求めていたのだ。
透明人間ものはSF映画としては定番だが、さすがゴジラと同じ年に、しかも同じ円谷英二特技監督によって作られただけに、本作はひと味違う。透明人間とはモンスターであり、恐怖の対象という立場を逆転の発想により、哀しみへと変えている。後の「変身人間」にいたる東宝特撮の流れはここで既に作られていたことに驚かされる。
人ならぬ者になってしまい、そのなかで、あくまで人間たろうとする南條の心の動きが実に見事。
クラウン(ピエロ)と言うのは、哀しい存在だ。自分を馬鹿にされることで、人に笑いを与えていく。その笑い一つ一つが、実は自らを消耗させていく。南條が選んだクラウンとは、自分自身の心情そのものだったのだろう。
そんな彼が唯一心を許せるのが盲目の少女まりだった。彼女は目が見えないため、人の動きには敏感だが、当然彼女にとって、南條は他の人と何ら変わることのない普通の人間だった。
冒頭、透明人間の自殺のシーンがある。名前を持たない彼と南條との違いは、自分を受け入れてくれる人がいたのか、いないのか。その点にあった。まりがいなければ、南條は生き続ける気力を奮い立たせることは無かっただろうし、自らを世間の目にさらすような真似も出来なかったはずだ。親子ほども年が離れた二人であるが、その関係は本当に密接なものであったことが窺える。
第二の肌がクラウンだから、笑いの表情しか出せない南條が、その笑いの中に哀しみを隠しているという河津清三郎の演技は素晴らしいが、まり役の近藤圭子の演技も凄い。目が見えないから焦点は合わさず、ただ顔の向きだけで、誰がそこにいるのかをしっかり演出していた。彼女の目の演技あってこその、透明人間の存在感だった。
ストーリーも硬質。ラストは救いが無かったけど、あれが南條の満足だったんだろうなと思わせ、決して暗くはない。重い作品だが、しっかり泣かせてくれるよ。
それと、本編のストーリーを損なわない、特撮の技術が又素晴らしい。本編の60%とも言われる特撮パートが、実にさりげなく、高度な技術が使われている。例えば透明人間がスクーターを運転するシーンは、ワイヤーのみで操作。とてもそうとは思えないリアルな繰演だった。それにタオルで顔を拭くと、透明の肌が現れるシーンは、実は顔に墨を塗っていたのだそうだ。それをマスク合成しているとか。これ又逆転の発想だな。
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