フランケンシュタイン |
1931年 ジェームズ・ホエール(監) |
永遠の生命を追い求めるフランケンシュタイン博士は、死体をつなぎ合わせて人造人間を造り上げることに成功した。だが、脳を取り違えてしまい、その頭蓋に収められたものは、殺人者の狂った脳髄だった… メアリ=シェリーの原作の有名な怪奇小説の映画化作品。かつて原作の映画化は既に1910年に一度試みられているが(『プレザンプション』と言う題で舞台劇にはなっていたが)、その当時は完全な色物扱いで、特筆すべき所はなったそうだ。だが本作はまさに時代がこれを求めていたと思えるほどにこの作品は大受けした(当時は大恐慌時代の傷がアメリカを傷つけていたと言う事実があった)。この作品はそれだけで様々な功罪をもたらした。マイナス面としては、あまりに原作をないがしろにした改編。一方でプラス面としては、怪奇映画を一気にメジャーに持っていったという功績。事実1930年代のユニヴァーサル怪奇映画路線はひとえに本作の成功によるもの。また、メイキャッパーのジャック=ピアースによる怪物の造型は、以降の特殊メイクにも大きな影響を与えることになる。 それで本作が何故ここまで受けたか。と言うことを考えると、原作との乖離が上手く機能した為ではないかと私には思える。 物語と劇場作品のギャップというのはどうしても存在する。字で読む限りは受け手側はイマジネーションを働かせて、頭の中にそのビジュアルイメージを作り上げてしまう。本を読んだ受け手側それぞれに違ったイメージがプリントされる。それが映画になると、否応なしに画面が目に飛び込んできて、耳には声や音が聞こえてくる。映像によってイメージが統一されることになる。 ストーリーの変化もある。小説の場合かなり自由に話の長さを規定できるのに対し、時間的な制約のある映画だと、長編小説のプロットを取捨選択しなければならず、そのつなぎの部分を監督独自の解釈によって補うわけだが、時として原作の一部だけを借用し、残りの大部分をオリジナルで作ってしまうこともある。本作はその見本みたいなものだ。 たまたま映画の方を先に観てしまい、その後原作を読んで、そのギャップに驚いたものだ。それだけこの映画の印象が強烈で、とりわけボリス=カーロフ(本名ウィリアム=ヘンリー=プラット。本作で改名)演じるモンスター(フランケンシュタインとはモンスターを作った人物で、怪物自体はモンスターという名称でしかない)の印象が強かった。それまでにも様々なメディアで登場する彼を模したキャラがたくさんあったし(『怪物くん』にもフランケンなんてのがいたな)、どうしてもフランケンシュタインと言うと、モンスターの方を思い出してしまう。 それだけ様々なメディアに定着させるほど強烈、且つ素晴らしいキャラクターを映画では創造出来ていた。キャラクター性は充分及第点。 ところで原作と本作のモンスターの大きな違いを挙げてみると、原作ではかなり高い知性を持った存在として描かれていた彼を、いかにもモンスターらしく知性を低めた描写をしていると言うこと(喋ることも出来ない)、罰を伴った教育によって躾られていくこと。などがある。概ね映画に登場するモンスターは野獣と同じように描かれている。 いくら人型をしていても、野獣と同じ扱いだから、おいたをしたら退治されてしまう… 原作であれ本作であれ、モンスターの悲しみを描こうとしていると言う点においては一致しているけど、その描き方のベクトルが全く違っているわけだ。 原作におけるモンスターの悲哀は、自分が世間から認められることはなく、造物主のフランケンシュタインからさえ疎まれた存在であることにおいて強調されていた。誰にも分かってもらうことのないたまらない寂しさ。そしてそれ故に自分を認めてくれるものが欲しいと切望する心。 一方、映画のモンスターの悲哀とは、野獣のそれと変わりがない。彼は人間に飼われることを是とせず、逃げだそうと虎視眈々と狙っている野獣なのだ。彼が逃げ出すのは、フランケンシュタインの助手フリッツ(イゴールという名前が有名になったけど、これは『フランケンシュタイン復活』でのベラ=ルゴシ役)の虐待に耐えかねて。 そして逃げ出したら、今度は町の人間からの迫害が始まる。人のエゴによって生み出された生命が、人の都合で消されていく。それを映画では悲哀としている。原作ではモンスターの立場から、そして映画では彼を取り巻く人間たちの立場から、哀しみを描くと言うことだ。 この改変が何故必要だったのか。単に当時はセンセーショナルな映像が求められていたと言うだけなのかも知れないし、それが故に原作を戯画化したような本作が認められたのかも知れない。しかしながら、故にこそ、この作品がホラー作品としての佳作足り得た。 実際、この作品のお陰で数々のフランケンシュタインものの映画が作られることになるのだし、後年コッポラ監督の肝いりで作られた新生『フランケンシュタイン』(1994)が全然面白くないと言う結果に終わったのは事実だ。 この作品にはかなり多くの見せ場がある。有名な落雷による怪物蘇生シーンや、ラストの風車小屋の焼け落ちるシーン、助手フリッツと怪物の対峙シーンなんかも結構好きだ。その中でも白眉は沼でのモンスターと少女の交流のシーンで、モンスターの誕生シーン共々数々の映画でパクリが作られるほどのインパクトを持っていた。モンスターは何も悪くなかったのだ。あれは何も知らなかったが故の事故に過ぎない(この作品を観る大分前に押井守監督による『うる星やつら2』(1984)でもあった。あのシーンでは明るい湖のシーンとなっていたが、これは押井監督が「記憶だけで描いたから」とのこと。他にも『ミツバチのささやき』(1973)でもオマージュが献げられている)。あのシーンの挿入のお陰で、モンスターは本当に何も知らず、そして人間並みの罪悪感も持っていると言う事実を見せつけてくれた。これぞ映画の力だな。 モンスターは悲しい存在。ただ怖いだけじゃ駄目なんだよ。 ところで本作によって発掘された感のあるカーロフだが(印象づけるためか、オープニングのキャスト紹介ではモンスター役は“?”となっている凝りよう)、元々は怪物役には『魔人ドラキュラ』のドラキュラ役がヒットしたベラ=ルゴシになるはずだった。だがルゴシが特殊メイクを嫌がったため急遽配役が回ってきたそうだ。もしルゴシがこれを受けていれば多分ここまでのヒットにはならなかっただろうが、『エド・ウッド』(1994)であんなにカーロフに敵愾心を燃やすこともなかっただろう(笑) |
ヴィクター | → | |||
【う゛ぃくたー】 | ||||
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エリザベス | → | |||
【えりざべす】 | ||||
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フランケンシュタインの怪物 | → | |||
【ふらんけんしゅたいん-の-かいぶつ】 | ||||
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フリッツ | → | |||
【ふりっつ】 | ||||
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ヘンリー | → | |||
【へんりー】 | ||||
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ワルドマン | → | |||
【わるどまん】 | ||||
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フランケンシュタインの花嫁 |
1935年 ジェームズ=ホエール(監) ボリス=カーロフ、ヴァレリー=ホブソン、エルザ=ランチェスター |
風車小屋と共に炎に包まれた怪物は、地下水に落ちて助かっていた。人目を避け、逃げ回る怪物はやがて目の見えない老人に出会い、彼から言葉を学ぶ。一方人造人間の創造に意欲的なプレトリアス博士が、研究を止めたフランケンシュタイン博士を脅迫し、共同で怪物のための“花嫁”を作り出そうとする… ボリス=カーロフによるモンスター描写によって好評を博した『フランケンシュタイン』(1931)の続編。 冒頭部分でバイロンとパーシー&メアリのシェリー夫妻の描写。文学においては歴史に残るような話だが、なんせ本作はホラー。わざとらしい巻き舌で喋るバイロンにはちょっと失笑。 最後に殺されてしまったはずのモンスターが生き残っていた!というのはホラーでは常套手段の一つであり、お陰でシリーズ化されたホラー作品の何と多い事よ。ただし、本作の場合は前作の大ヒットにより、ユニヴァーサルはすぐに続編を作るつもりだったようだが、ホエール監督がなかなか首を縦に振らず、その説得に4年もかかってしまった。これくらい骨があってこそ、傑作が出来るってもんだ。 映画というのはそもそも一本の時間内でスタッフの力の全てを出し切るため、終わり方はそれなりに感動的なものになる。ところが、そのドラマが良くなれば良くなるほど、それで完結にはしてもらえないと言う風潮がある…まさしくジレンマ。 それで出来た作品というと、概ねにおいて最初の作品に便乗して作られているものばかりだから、大概録でもないものに仕上がってしまう。前作で出来たファンは必ず観るから、シナリオが駄目でも収益は見込めるだろうが、一度完結した物語を再度作り直すので、大体は一作目とストーリーは変えず、ちょっと視覚的に派手にする程度で終わることが多い。復活劇も概ね苦しい言い訳が考えられる。例えば偶然抜け道があって生き残ったとか(このパターンが一番多い)とか、凄いのになると双子を出すとか子供が成長して(『男たちの挽歌II』(1987))、あるいは誤診だった(沖田艦長とか)とか…などというパターンがある。これがホラーになると理由も何もなく、ただ復活すると言う放棄パターンも多い(『ハロウィン』(1978)とか『エルム街の悪夢』(1984)なんかはその典型)。 それで本作なのだが、ここにも冒頭、前作で風車小屋が炎に包まれ、焼け死んだはずの怪物が、実は“偶然”そこにあった地下水路にはまりこんで生き残っていた。と言う、とてつもなく苦しい言い訳を用意して始められた 大概このパターンはクズになる。わざわざ冒頭で原作者メアリ=シェリーに扮するランチェスターを出させて、いかにももったいぶった事を言わせているのも興ざめ。 …だと思った。 しかしながら、そのパターンが当てはまらないのも、やはり存在したと言うことを突きつけられた。 いや、はっきり言おう。これは傑作だ。なんで奇跡的にこんな物語を作ることが出来たのか、そこに驚かされた。 前作『フランケンシュタイン』のコメントで、原作を改竄したこと、そしてモンスターの哀しみを無視したと言うことを私は書いたけど、続編の本作は、やはり原作から相当離れているにせよ、殊“モンスターの哀しみ”を描くと言う点においては、これほど優れた作品は無いと思えるほどに上手くできていた。 目の見えない老人とモンスターの交流は、見ていて本当に痛々しい(原作にも同じ部分があるのだが、これまたコッポラ版『フランケンシュタイン』(1994)では描写に失敗している)。あんなに嬉しそうな表情を見せるあの老人の姿は、喜べば喜ぶほど涙をそそられる。あれは本当に上手かった(あまりにも出来が良すぎたため、この部分はこの映画の中でも最高に印象に残り、様々な映画でパクられてる。『世にも不思議なアメージング・ストーリー』(1986)でも、当然『ヤング・フランケンシュタイン』(1974)でも…)。 そして最後に登場する“花嫁”(ランチェスター2役)。この存在感が凄まじい。目をつり上げ、歯をむき出しにして、声なき声で叫ぶあの姿!これこそ元祖SQ(スクリーミング・クイーン)であり、彼女を超える叫び声の名手は出てこないだろうと思えるほどのインパクトだった(私的には『フリークス』(1932)が元祖かも)。 何より忘れてはならないのが、そのエピソードの一つ一つが、きちんとモンスターの存在の哀しみ、と言う方向を向いていたと言うこと。社会に受け入れられることはない。望まれず、そして望まずに生まれてしまい、死をも許されない存在。そして“優しさ”を知ってしまった悲哀。カーロフは前作を越える演技を見せてくれた。 『フランケンシュタイン』と本作『フランケンシュタインの花嫁』は別々の映画ではなく、一つの映画として考えたい。二つあわせるならば、ホラー映画の最高傑作の一本と断言しても良い。 |
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