田舎町を激しい嵐が襲った。翌日映画のポスター作家デヴィッド(ジェーン)はいくつもの懸案事項を目の前にする。家の前の立木が家に向かって倒れ、窓硝子が割れて描きかけのポスターが駄目になってしまったこと。同様に隣に住むNYの弁護士のブレント(ブラウアー)の立木がボート小屋を破壊してしまったこと。しかも湖の向こう側からは得体の知れぬ霧が立ちこめている。色々不安を抱えつつ、買い出しのために息子のビリー(ギャンブル)とブレントと共に地元のスーパーマーケットにいくことにした。だが湖に発生した霧はなんと町を覆い尽くし、しかも霧の中から得体の知れぬ触手が人間を捕まえ始める…
ホラー作家として知られるスティーヴン・キングの初期短編の映画化作。「スケルトン・クルー」という短編集に収められた本作「霧」は実は私の大のお気に入り。物語はシンプルながら、閉じこめられた人間の心の動きの描写がホントに見事で、「これは絶対に映画になる」と思いこんでいたものだが、あれからもう20年。なんでこれが出てこないんだろう?と常々思ってた。
それがようやく映画化。しかも『ショーシャンクの空に』、『グリーン・マイル』のダラボン監督とあっては、是非劇場で。と思い拝見。実は物語に没入してしまうため、ホラー作品は劇場ではあんまり観たくないのが本音なのだが。
出来としてはやはり素晴らしい。単なるB級SFにならないように細心の注意を払い、徹底して人の描写を中心とした結果だろう。お陰でショックシーンもさほど多用されず(これがとにかく苦手なので)、雰囲気で恐ろしさを伝えていき、何より怖いのは怪物とかではなく、人間こそがいちばん恐ろしいと言うことをしっかり伝えてくれている。
オープニングでちょっとした違和感。キング作品の大半はハリウッドの準メジャーであるキャッスルロックという製作会社が作っている。ところが本作の製作会社はディメンジョン・フィルム。古くからB級SF作品ばかりを作ってる会社で、ハリウッドの中ではかなり格下に見られる製作会社だ。なんでこんなところに作らせた?ダラボンだったらもっと良いところで作れただろうに…
と、思ったのだが、ラストのシーンを観てなるほど納得。これはメジャーでは到底作れない。「ラストの衝撃」とキャッチコピーで書かれていたのは伊達ではない。特にハリウッドでは絶対タブー視されていたことを敢えてやってしまった訳だから。
後、細かいところだが、主人公のデヴィッドはポスター作家という設定。オープニングに書かれているポスターを観て思わずニヤニヤした人は多いんじゃないだろうか?左手にリボルバーを持って、背後に黒いドアを背負って立つカウボーイ。その足下にはバラの花。いつかディメンション・フィルムスはこれを作ってやろうという願いだろうか?
しかし、描写として素晴らしいことは認めるのだが、ラストはどうだろう?
原作は霧の中に走り出し、そこで延々と霧の中を突き進むのがラストシーンだった。これは一種の絶望なのかも知れないが、絶望の中に一筋の希望。という雰囲気を作り出していたのだが、こちらでは、話が全く逆になってしまい、希望の中に、主人公だけが本物の絶望に直面してしまった。あのラストだったら、主人公、自殺するしか手が残されてないじゃん。どうしてもその部分が引っかかって仕方ない。それにラスト前のあの描写はちょっとキツ過ぎたんじゃないか?自分自身としても、あれだけはやらせたくなかったし。それになあ、これじゃラストシーンがそのまま神林長平の「戦闘妖精・雪風」につながってしまうんだよなあ。 |