カリガリ博士 |
1919年 ロベルト・ウイーネ(監) |
ある精神病患者が語る恐怖の体験…謎の人物カリガリ博士(クラウス)はカーニバルで夢遊病者ツェザーレ(ファイト)の予言を看板にした見世物を出していた。その小屋を覗いたフランツィスとその友人アランだったが、アランは調子にのって自分がいつまで生きられるかを眠り男に尋ねる。答えは“明日の朝まで!”。そして本当に彼は翌日には殺されてしまった。友人の突然の死にフランツィスは疑惑究明に乗り出すが… これを称すると、ドイツ版『ドグラ・マグラ』(1988)。実に上手い作品だった。不気味なキャラクターを演じるクラウスとファイトのイッてしまったような演技も素晴らしいし、特にあの舞台背景は見事だった。ゆがんだ町並みと高低差を利用したセット、意味もなく描かれる渦巻き等により、常に不安がつきまとう感じが良く出せていた。字幕そのものも凝った作りをしていて(ちょっと読みにくいんだけど、どうせ日本語しか見てないからあまり問題はない)、更に苛つかせるよう演出された音楽が見事にはまっている。サイレント映画の可能性と言うものをつくづく考えさせられた。何でもこの舞台のようなパースの狂った舞台は後に「ドイツ表現主義」(あるいはストレートに「カリガリズム」)と呼ばれるに至った。芸術界や舞台にも相当な影響を与えた映画だったのだろう。 だけど、この作品で私が一番感心できたのはなんと言ってもカメラ・アングル。あれだけ狂ったパースで舞台が作られているのに、キャラクターをきっちりと収め、しかも際だたせていた技術は本当に見事だった。これが作られたのは日本ではまだ大正時代だったが、この時代に既にドイツの映画、殊にカメラ・ワークは既に頂点に達していたのではないか? 話そのものはオープニングとエンディングで青年フランツィスが精神病患者であることを強調することによって、彼の妄想であることを強調しているが、これは検閲の目を恐れた製作者の意向によるものらしい。ただ、そのお陰でかえって不思議な、悪夢のような映像を作り上げてくれた。それがますます江戸川乱歩や夢野久作の作品のような印象を与える。これを権力者による意識操作の恐怖として捉えることもできる。ラストを夢オチにしてしまった事からも、その反発心が垣間見える。 尚、この作品は最初、後に『メトロポリス』(1926)を作る事になるフリッツ=ラングの元に持ち込まれた企画で、この作品のオチの部分はラング監督のアイディア。 ここで眠り男ツェザーレを演じているコンラート=ファイトは当時のドイツを代表する俳優だったが、妻がユダヤ人だったため、後にドイツ国内にいることに危険を感じ、後にイギリスに移住することになる。ドイツ映画の持っていた可能性と、そしてそれを完璧に潰してしまったナチスの罪をも考えさせられる。 仮に「これに近い作品を挙げろ」と言われたら、私は確実に押井守の『紅い眼鏡』(1987)を挙げる。音楽と言い、舞台の用い方と言い、何かとても似てる感じがするよ。 |
カリガリ博士 | → | ||||||
【かりがり-はかせ】 | |||||||
|
ツェーザレ | → | |||
【つぇーざれ】 | ||||
|
フランシス | → | |||
【ふらんしす】 | ||||
|
ホルステンヴァル | → | |||
【ほるすてんう゛ぁる】 | ||||
|