没落貴族の娘ヴィクトリア(ワトソン)との結婚を強いられた青年ヴィクター(デップ)。政略結婚ではあったものの、ヴィクトリアに一目惚れしたヴィクター。だが、複雑な結婚の儀式のせりふを覚えきることが出来なかったため、森の中でせりふの練習をすることに。ようやくきちんとせりふを言い切ることが出来た、手にした結婚指輪をヴィクトリアの代わりに木の枝に差し込んだのだが、なんと木の枝と思っていたのは本物の人骨で、しかも腐乱した死体が花嫁衣装を着て出てきてしまった。ヴィクターの言葉を真に受けた彼女はヴィクターを死者の国に連れ去ってしまうのだが…
『チャーリーとチョコレート工場』から僅か一月弱で公開されることになったバートン&デップのタッグ作品。しかも本作は、私の大好きな『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1993)同様のストップモーションアニメーション作品。
『チャーリーとチョコレート工場』は、確かに面白かったのだが、何かちょっと乗り切れない部分を感じたものだ。それは結局“黒さ”が足りないという点に他ならなかった。あの作品は綺麗にまとまりすぎて、悪意的なものがどうにも見受けられなかったのだ。少なくとも私が好むバートン作品の醍醐味はすっきりしたまとめよりも、割に合わない感情をどこかに残してくれる後味の悪さの方。これはバートン監督がこれまでの駄々っ子的体質を『ビッグ・フィッシュ』(2003)を撮ることで卒業したから。とも見ることが出来るのだが、昔からのファンとしては、それでは寂しい。実際これだけ“黒い”ものを持ってる監督は大変貴重なのだ。
で、本作だが、一発で持って行かれた。
やるなこりゃ!これだ。これがバートンだ!
ホラー的要素が極めて強い作品にもかかわらず、この色彩感覚と言い、悪意に満ちたキャラクタ描写と言い、もうこれは、「バートン作品」としか言いようのない“らしさ”に溢れている。
本作の魅力を語る上で一番が“皮肉さ”なのだが、それは地上と死者の世界の対比にも溢れていよう。冬を舞台としているだけに、モノトーンで描かれる街は、整然としているだけにほとんど生気がない。一方、死者の国は歪んだキュビズムで構成され、それぞれの立体物が原色の光を放つ。音楽も禁じられた地上世界と、即興ジャズを奏で続ける死者の国。悪意に溢れた人物ばかりの地上世界と、明るく善意に溢れた死者の世界…そのどちらが魅力的で活き活きしているか。それは言うまでもないだろう。更に地上で唯一色彩があった蝶でさえも実は…そう言うケレン味だってちゃーんと遺してくれてるし。
この対比は巧いなあ。ほ〜ら、現実はこんなに陰鬱なんだよ。それで目をちょっとだけ転じてごらん。死んだ後はこんな楽しい世界が待ってるんだよ…という逆転の発想、というより、ネガティヴなものを力業で明るいものに仕上げようとするのがバートン流だ。それに結構この作品は人死にが出てくる。登場人物の少なさの割りに、はっきり死んだと分かるのが二人。それに途中退場したヴィクターの両親だって、あのまま…という可能性だってある。そうすると、登場した生者の半分近くが死んでることに…それを放っておいて、ハッピー・エンドっぽくまとめるのも、むしろ大喝采だ。そう、その割り切れなさこそ私の観たかったものなんだから。
それに、なまじ特撮ファンになんてなってしまうと技術の困難さが分かるだけに、この作品にどれだけ膨大な手作業と画期的な技術が用いられているかが見えてしまい、それが画面の隅々から訴えてくるような気にさせられてくる。
この気の遠くなるようなアニメーションを、敢えてCGを使わずにストップウォッチアニメーションでやろうという、現代のドン・キ・ホーテ的な熱意に胸を打たれる…こんな人間が今もいるんだと思うと、マジ泣けてくる。特にあの表情の付け方はどうだ。『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』と較べたって、格段に技術的には上がってる。CG全盛の時代にこの技術を磨いている人がいたなんて、嬉しいばかり。
確かに傑作である『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』と較べると、物語性はちょっと低いかも知れない。あの作品ではまった人間だって、本作は「面白くない」と感じるかも知れない。しかしそれだって良い。これが私の好きなバートンの世界なんだから。久々に「誰がなんと言おうと、私はこれが好きなんだ!」と言える映画に出会えたのが何より嬉しい。
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