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ディズニーのアニメーターだったが、退社して監督へ。 | ||||||||||
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評論 ティム・バートン[映画作家が自身を語る] ティム・バートン―期待の映像作家シリーズ バートン オン バートン―映画作家が自身を語る 幻想のアメリカ (カイエ・デュ・シネマ・ジャポン・映画の21世紀) |
2018 | ||
2017 | ||
2016 | ||
2015 | ||
2014 | ビッグ・アイズ 監督・製作 | |
2013 | ||
2012 | フランケンウィニー 監督 | |
ダーク・シャドウ 監督 | ||
リンカーン/秘密の書 製作 | ||
2011 | レイ・ハリーハウゼン 特殊効果の巨人 出演 | |
2010 | アリス・イン・ワンダーランド 監督 | |
2009 | 9<ナイン> 〜9番目の奇妙な人形〜 製作 | |
2008 | ||
2007 | スウィニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 監督 | |
2006 | ||
2005 | ティム・バートンのコープスブライド 監督・製作 | |
チャーリーとチョコレート工場 監督 | ||
2004 | ||
2003 | ビッグ・フィッシュ 監督 | |
2002 | ||
2001 | PLANET OF THE APES 猿の惑星 監督 | |
2000 | マリオ・バーヴァ 地獄の舞踏 出演 | |
1999 | スリーピー・ホロウ 監督 | |
1998 | ||
1997 | ||
1996 | マーズ・アタック 監督・製作 | |
ジャイアント・ピーチ 製作 | ||
1995 | バットマン フォーエヴァー 製作 | |
1994 | エド・ウッド 監督・製作 | |
1993 | ナイトメアー・ビフォア・クリスマス 製作・原案 | |
キャビン・ボーイ 航海、先に立たず 製作 | ||
1992 | バットマン・リターンズ 監督・製作 | |
1990 | シザーハンズ 監督・製作・原案 | |
1989 | バットマン 監督 | |
1988 | ビートルジュース 監督 | |
1985 | フェアリー・テール・シアター アラジンと魔法のランプ 監督 | |
ピーウィーの大冒険 監督 | ||
1984 | フランケンウィニー 監督デビュー | |
1958 | 8'25 カリフォルニア州バーバンクで誕生 |
ビッグ・アイズ 2014 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
2014英アカデミー主演女優賞(アダムス)、プロダクションデザイン賞 2014ゴールデン・グローブ女優賞(アダムス)、男優賞(ヴァルツ)、歌曲賞 2014インディペンデント・スピリット脚本賞 2014放送映画批評家協会歌曲賞 |
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暴力的な夫から娘のデアン(リッター)と共にサンフランシスコに逃れてきたマーガレットは、この町で不動産業を手がける画家のウォルター・キーン(ヴァルツ)と出会う。意気投合した二人はマーガレットの離婚成立と共に結婚し、二人の画廊を作ることを夢見る。やがて個展を開いたところ、マーガレットの描いた目の大きな女の子の絵が爆発的に売れ始めるのだが、ウォルターはこの絵を売り込みつつ、これを自分が描いたと主張し始める。生活のためと、真実を隠して次々と絵を描くマーガレットだが… アメリカで実在したゴーストライター(というのか?)事件を基にティム・バートン監督が作り上げた作品。私は寡聞にしてこの絵のことは知らなかったが、日本の漫画で当然のごとく描かれていく目の大きな人物のルーツはこんなところにあったのかも?と思わせる、アートの世界では結構重要な人物について描く(ぱっと見で奈良美智の絵かと思ったが、ひょっとしたらその影響が強いんだろうか?)。 昨年、日本でも“現代のベートーベン”と賞賛された作曲家が実は作品をゴーストライターに書かせていたという事件があって、本作もそんな意味ではタイムリーとも言えるものだし、何よりバートン監督の作品だから、観ておくべきだろう、との思いもあって劇場に足を運んだ。 とりあえず題材は面白いと思う。バートンはこれまでも『エド・ウッド』という、古い時代の痛快な人物を描いた作品を作っており、これまで観たどんな伝記作品よりも面白かったし、監督が本当に好きな人物をとことん掘り下げて描いてみせる姿勢はすばらしいと思う。アート界に旋風をもたらし、庶民の手の届く芸術を確立した重要な時期を描いてもいるし、男女間の格差の是正を世界に求める“進んだ”アメリカでも、わずか半世紀前まで男性上位のこんな時代があったという歴史の検証にもなってる。 そんな意味で、大枠においてはこの作品はかなり堅実な作品のはずなんだが… バートン作品は昔から合う作品と合わない作品があって、合う作品は無茶苦茶ぴったり合うんだが、合わないのはとことん合わない。そのため、評価が一定しないものなのだが、本作は完全に“合わない”方だった。 大監督に向かってこういうことを言うのもなんだが、全般的に演出が悪すぎる。本来面白くなるはずの作品を演出で貶めてしまったとしか言いようがない。 色んな意味で本作には歯がゆい演出が目立つ。 いくつか例を挙げれば、ヴァルツ演じるウォルターがあまりに小悪党っぽすぎるとか、最後の裁判シーンでなんら逆転劇がなかったとか、マーガレットの神秘主義への傾倒が物語上全く意味をなしてないとか、余計な枝道が目立つ上に、肝心な部分への説明がないので、ストレスがたまる。 何より一番の問題は、マーガレットがウォルターに強要されて絵を描き続け、それを自分の作品とは言えなかったという部分に説得力がないと言うのが致命的。50〜60年代の価値観では、まだ妻は夫に従うものという価値観が強かったのかもしれないが、だったらその部分でのストーリーの補強が重要なはず。観ている側は新世紀の価値観で画面を観ているので、そこで説得力を持たせないと、ひたすら夫に仕えるだけのマーガレットの行動に納得いかないし、やってることが歯がゆいばかりになってしまう。 見終わってから演出をどうこう言うのも何だが、本作で求められていたのは、事実を淡々と並べるだけで終わる作品ではなく、バートンらしい演出で、事実をどう料理するか?だったはず。そしてバートンらしさとは、これは結局神秘的な部分ではなかったのかな?本作でもマーガレットの目には世界が普通とはちょっと違ったものに見えているという演出がちょっとだけ使われていたけど、これを全編にわたってスパイスのように使っていれば、だいぶ印象が変わったんじゃないかな? やっぱり演出で損してるよなあ。 |
フランケンウィニー | |||||||||||||||||||||||
2012米アカデミー長編アニメ賞 2012英アカデミー長編アニメ賞 2012ゴールデン・グローブアニメーション賞 2012NY批評家協会アニメーション賞 2012LA批評家協会アニメーション賞 2012シカゴ映画批評家協会アニメ映画賞 2012放送映画批評家協会長編アニメーション賞 2012タイムベスト第9位 |
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アメリカの片田舎に両親と暮らすヴィクターは科学が大好きでいつも犬のスパーキーと共に屋根裏で発明や映画作りに熱中する日々を送っていた。それはそれで充実した日々だったのだが、そんなある日スパーキーは事故で命を落としてしまう。ヴィクターは科学の授業をヒントに雷を使ってスパーキーを生き返らせようとするのだが… これは結構有名な話だが、バートン監督は最初ディズニーにアニメーターとして入社した。だが、短編クレイアニメ『フランケンウィニー』を作ってしまったため、ディズニーの上層部とぶつかって退社してフリーになったという経緯がある。 そんな因縁のあるバートンとディズニーが再び手を組み、しかも確執の元となった『フランケンウィニー』を長編映画として作る運びとなった。本作ができたという事は隔世の感を覚えるものでもある。 それで勇んで観た訳だが… まずは物語だが、これは確かに楽しい。50年代とかのB級怪奇映画(敢えて“ホラー”とは言わない)を知っていると元ネタの分かる演出が次々に出てくるし、こどもっぽい無邪気さと残酷さが混在する毒のある物語展開は私の大好物だ。 かつてバートンは『エド・ウッド』で怪奇映画への愛をしっかり描いていたが、本作ではバックステージ的な外郭ではなく、内容に踏み込んでやってくれていて、ここでも愛情を知ることができる。特に50年代のユニヴァーサル製怪奇映画に大変な愛情が込められていた。ここまで突き詰めれば、作ってる方はさぞかし楽しかっただろう(似たような作品として『モンスターVSエイリアン』(2009)があるが、これも当時の映画を知っているならばすごく楽しめる)。 難点を言うなら、ラストできちんとまとめるべきところでまとめてくれなかったことかな?最後に犬が再び生き返ってめでたしめでたし。ではなく、不自然な生まれ変わりをした犬は自然死で終わらないと物語としては破綻してしまうから。 …いやしかし、これも又監督の悪意と考えるならば、ありなのかも? 出来る事なら、このDVDには特典でオリジナル版を同梱して欲しいもんだ。 と、言うことで、内容的には大満足ではあるが、いくつか思うこともあるので、少し書いてみよう。 そのものはまだ観ていないのだが、オリジナル版の『フランケンウィニー』が当時のディズニーに受け入れられなかった理由は、当時のディズニーの体制にあったのだろう。 ウォルト・ディズニーによる設立以来、ディズニーは夢の担い手として君臨し続けている。だがディズニーにも歴史がある。実は70年代から80年代にかけ、ディズニーはかなり経営的に危ない時期にあった。簡単に言えば、当時のディズニーは非常に保守化していたのだ。こどもの喜ぶものは普遍的であるとして、50年代の価値観を守ることを自分たちの使命と考えていたから。激動する世界の中、古いコンテンツを守っていたのだ。これは姿勢としては立派ではあったし、事実ディズニーランドは多くの家族を収容し続けていた。ただし、ディズニーランドを離れた当時のディズニーのメディアコンテンツはことごとく失敗に終わってしまった。映画を作っては必ず失敗するし、新しいアニメも作れない。 そんな時期に作られた『フランケンウィニー』は、到底ディズニーの眼鏡に適うものではなかった。特に過去を振り返って、“古き良き時代”をパロディにするような、そして明らかにライバルであるユニヴァーサルにべったりな作品を作られてしまっては、そりゃ怒るだろう。 しかし80年代を境としてディズニーは変わった。経営建て直しのために新CEOとなったアイズナー、そしてピクサーコンテンツをひっさげて登場したラセターと世代交代が続き、その度ごとにディズニーは攻めの要素を強めていった。今やどんなリベラルなものでもどんっと受け止められる体制が出来上がっているのだ。 ここにおいてディズニーも、かつて切り捨てたコンテンツに目を留めることができるようになった。特に内容は魅力的でありながら、その毒気が当時の会社方針にそぐわなかった『フランケンウィニー』を今になって復活させることができたと考えられるだろう(ついでに、もはやユニヴァーサルを全く敵としてないという自信も。最早この作品そのものがUSJに対する嫌味にすら感じられる)。 要所要所できっちり決める元ディズニー社員バートンも、この作品が作れたことで本当に和解できたと考えると、なかなか感慨深いものがある。 |
ダーク・シャドウ 2012 | |||||||||||||||||||||||
2012国内興行成績第6位 | |||||||||||||||||||||||
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18世紀。メイン州コリンズポートの領主の青年バーナバス・コリンズ(デップ)は、魔女のアンジェリーク(グリーン)を失恋させてしまい、その恨みからヴァンパイアに変えられてしまい、更に村人達を扇動したアンジェリークの手によって墓に生き埋めにされてしまう。そして1972年、道路拡張工事が彼の埋められていた棺を掘り当ててしまい、解放されて自由の身となる。しかし、2世紀の間にコリンウッド家はすっかり没落してしまっていた。それを目撃したバーナバスは、再び当主としてコリンウッド家の再興を誓う。だがこの町には宿敵の魔女アンジェリークにより牛耳られていた… 名コンビとされるティム・バートンとデップ(とカーター)コンビの最新作。なんだかんだ言ってもこのコンビ作ははずす気になれずに早速劇場へと向かった。 このコンビの前作『アリス・イン・ワンダーランド』は大ヒットを記録してはいても私としては今一つ。この二人だったらもう少し荒削りのものが似合っているような感じはあった。 そして本作。そうそう。こう言うのが観たかったんだ。そう思えるような作品に仕上げてくれている。確かに『アリス・イン・ワンダーランド』や『チャーリーとチョコレート工場』のように話が練れているわけではない。いやむしろごつごつし過ぎだし、話もホラーでもなしコメディでもなしと、中途半端。実際受ける要素はそう多くないとは思うのだが(まるで新人が作ったような作品でもある)、むしろ私にとっては、近年の二人のコンビ作の中では一番楽しかったと思う。 二人のコンビ作で私が一番好きなのはなんといっても『エド・ウッド』だが、それに次いで好きなのが『スリーピー・ホロウ』。本作はその雰囲気がちゃんと継承されているのが一番うれしい。 そしてこの作品を通して思ったことなんだが、映画に限らず、物語というのは違う価値観を持った人間が出会うことによって始まるものだということに気づかせていただいた。 どんな映画でも、それがなければ始まらない。それは恋愛を主題にした作品であっても、アクションであっても、登場する複数の人間が、自分の個性を主張しあいつつ、お互いを受け入れ合っていく課程が物語となっていくものだ。 本作の場合、それが極端な形で現れた。 200年前の価値観を持ち続けるヴァンパイアが現代に現れ、そこで自分の子孫たちと仲良く過ごしていこうとする。結果として2世紀に渡るカルチャーギャップがそこには生じることになる。 ここでのさじ加減が難しい。ギャップを受けた人間同士のかねあいをどう描くかによって、映画は生きもするし死にもする。 本作の場合、主人公は不死のヴァンパイアであるにも関わらず、基本的に学ぶことが大好きで偉ぶらないので、子孫に対しても下手に出て、それがコミカルさを演出していくことになる。 このときのデップの演技が実に良い。本来はご先祖様なのだが、異邦人としてどこかここには馴染まない言動をすることになる。どこにいても、どこかしっくり馴染まない役は、かつてデップが持っていたもっとも大きな個性だったし、ブレイク前のデップが帰ってきた気分にさせられて楽しかった…これを書いていて、なぜあの当時のデップが大好きだったのか理由が分かった気になった。そうか、デップに自分を投影していたんだな。 なんかそんなデップの姿を観ているだけで楽しさを感じさせた。 そしてこの舞台となるのが1972年という絶妙な年だったこともおもしろい。 1970年代はいわば、破壊の世代だった。既存の価値観を打ち壊し、破壊の末にある新しい価値観を模索していった時代と言っても良い。それがもっとも精鋭化していた時代に、それこそ過去の価値観しか持ってない人物が現れたらどうなる? これは2000年代にしてしまっては面白くなくなる。1972年という絶妙な年だからこそ成り立つのだ。 ここで遠慮がちなデップの演技が実にはまっている。「昔はこうだったから、私に従え」ではなく、この時代で生きるためにはどうすれば良いのかを紆余曲折を経ながら考え続け、色々と挑戦しつつ、それでも古い価値観を捨てられない時分を受け入れていく。その辺の過程が上手く出来ているがため、本作はとても面白く感じる。 結局本作は、一種のファースト・コンタクトものとして観るのが正しいと思う。異文化のぶつかり合いと、価値観の違いによる微妙なコメディ。 |
アリス・イン・ワンダーランド 2010 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2009スクリーム・アワード最も期待されるファンタジー映画 2010米アカデミー美術賞、衣装デザイン賞、視覚効果賞 2010英アカデミー衣装デザイン賞、メイクアップ賞、美術賞、視覚効果賞 2010ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(デップ)、音楽賞 2010放送映画批評家協会衣装デザイン賞、メイクアップ賞、美術賞、視覚効果賞 2010MTVムービー・アワード作品賞、グローバル・スーパースター賞(デップ)、悪役賞(ボナム=カーター) 2010スクリーム・アワード助演女優賞(ハサウェイ) 2010世界興収ランキング第2位 2010ブロードキャスト映画批評家協会衣装デザイン賞、メイクアップ賞 2010映画com.ワースト第2位 2010HIHOはくさい映画第2位 2011サターンファンタジー作品賞、衣装賞、メイクアップ賞、プロダクションデザイン賞、特殊効果賞 |
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かつてワンダーランドで冒険を繰り広げたちっちゃなアリスももう19歳。ワンダーランドでの冒険も彼女の中では夢の中の物語となっていた。だが、アリス本人は自分の素直な気持ちを汲んでくれない周囲に対し、かなり反発を覚えていた。そんな時、園遊会で好きでもない幼なじみから結婚を迫られたアリスは、再びチョッキを着た白ウサギの姿を目にする。思わずウサギを追いかけたアリスは、丘陵に開いた穴から落ちてしまい、そのまま懐かしのワンダーランドへ。だがそこは彼女の知っている場所とは随分異なっていた… ティム・バートン&ジョニー・デップの最強コンビが織りなす童話の世界。「不思議の国のアリス」の完全続編。 本作は2010年度春の最大の期待作だった。実際観客動員数は全世界的にもの凄い数に上り、更に3Dと言う事もあって、私にとっても相当な気合いで観に行くことになった。 …のだが、やや気分的には落ち込んだ。 少なくとも私としては、この作品は「無難」としか言えない。心揺さぶられる部分があまりにも少なかった。期待度の高さに裏切られてしまった感じもあり。 いや、作品としてはかなりまとまっているとは思う。脚本はかなり練られていて、「不思議の国のアリス」および「鏡の国のアリス」の続編としては充分な出来だし、それにアリスの成長を絡めた物語はかなり深いレベルで映画としての完成度も高い。 良い部分は色々数えることは出来る。例えばワンダーランドの住民達は、主要人物の性格が多少変わっているにせよ、ちゃんとオリジナルで登場したキャラはきちんと出ているし、そこでの言動も一々頷けることが多い。私なんぞは、原作読んだのはもう遙かな昔とは言え、「読み込んでるなあ」という思いにさせられた。 また、本作は女性の成長物語に焦点を絞っているのも良い感じ。19歳になったアリスは、一見もう大人なのだが、その実は思春期をまだ脱してない女の子に過ぎない。周囲に対して主張を持たないのにただ押しつけられる出来事に対して反発を繰り返している。そんなアリスが様々な冒険を経て、心の成長を遂げ、最後は自立した一人の女性として帰ってくる。この辺の描写はかなり細かく、アリスの立ち居振る舞いは最初と最後で全く異なっているだけでなく、劇中にも刻々と変化して行ってる。描写としてはかなりのレベルに至ってる。 と、まあ少なくともお膳立てに関してはきっちり揃ってるのだ。 だけど、なんでこんなに薄味になるんだ? 成長物語という意味ではかつて『ビッグ・フィッシュ』であれだけ見事に人の成長を描けていたバートンが、その描写にまるで力が入ってない。いや、確かにその変化もちゃんと目に見える形で出してはいるのだ(前半部分、周囲に流されると言う事に対して苛ついていたアリスの視点はふらついていたのに、赤の女王と白の女王の決戦の辺りになると真っ直ぐ前を向いていた辺りとか)。でも、それがまるで心地よく感じない。たくさん出てくるワンダーランドのキャラクタに関しても、マッドハッターとチェシャ猫以外はほとんど存在してるだけって感じ。そして肝心なこの二人のキャラの性格がかなり原作とは変わってる。マッドハッターが言った「この世界は狂ってなければ生きていけない」という言葉がとても虚しく聞こえてしまう。だって全然狂ってるように見えないんだもん。 これは『ナルニア国物語 ライオンと魔女』(2005)の時にも感じた事なのだが、ファンタジー作品の場合、主題を相当に絞り込まないと、物語がとても表層的になってしまう。何か一点、物語上、ここだけは描かねば。と言う所があると、その部分を中心に物語が広がっていくが、物語を無難にまとめるだけになると物語が広がらない。 本作で重要なのは、アリスがジャバウォーキーと戦い、それに勝利するという予言がどうなるか。と言う部分だったはず。だったらそこをもっと深めていくべきだったんじゃないか?別段それは時間を長くしろとか、派手にしろ。と言う意味では無く、アリスがその運命を呑み込み、ジャバウォーキーとの戦いに挑むまでをもっと情感たっぷりに仕上げて欲しかった。 何となく逃げていたらそこにジャバウォーキーがいて、剣を振るったら倒れた…それならそれでも悪くないと思うんだけど、それを劇的に描いてこそ、それが作家の力量になるんじゃないか? それに現実の世界とワンダーランドのつながりが希薄。むしろもっと時間使って良いから、現実の世界の人間関係をたっぷり見せてこそ、ワンダーランドの冒険に意味を持たせられるんじゃないか。魅力的なキャラがかなり登場しているだけに勿体ない。 なんか『チャーリーとチョコレート工場』以降、演出力が変になってきたような気がするよ。単に私の好みが合わなくなっただけ。と言われればそれまでだけど。 総評を言えば、「上手く作られてはいるけど、好みの作品ではない」としか。 |
スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 2007 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
2007米アカデミー美術賞、主演男優賞(デップ)、衣装デザイン賞 2007英アカデミー衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアー賞 2007ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(デップ)、女優賞(ボナム・カーター)、監督賞 2007放送映画批評家協会作品賞、主演男優賞(デップ)、アンサンブル演技賞、監督賞、若手男優賞(サンダース) 2007ナショナル・ボード・オブ・レビュー監督賞、トップ10 2008スクリーム映画BEST HORROR MOVIE、BEST ACTOR IN A HORROR MOVIE OR TV SHOW(デップ) 2007ピーター・トラヴァースベスト第5位 2007ゴールデン・トマト・アウォーズミュージカル第3位 2007ブリティッシュ・フィルム・アワード女優賞(ボナム・カーター) 2008MTVムービー・アワード悪役賞(デップ) 2008サターンホラー作品賞、衣装デザイン賞、主演男優賞(デップ)、主演女優賞(ボナム=カーター)、助演男優賞(リックマン)、監督賞、脚本賞、メイクアップ賞 2008スクリーム・アワードホラー映画賞、ホラー映画主演男優賞(デップ)、リメイク賞 |
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19世紀ロンドンフリート街にあるミートパイ屋の二階に一軒の理髪店が開業した。その剃刀捌きは名人芸で、多くの客がやってきた。だがスウィニー・トッド(デップ)と名乗るその店主は一つの目的があった。実は彼はこの店で15年前に理髪店を営み、妻と娘と幸せに暮らしていたベンジャミン・バーカーという男で、妻に横恋慕したターピン判事(リックマン)によって無実の罪で流刑にされてしまったのだ。彼の目的は自分をこんな目に遭わせたルーピンを殺すこと。復讐の念のみで生き続けてきたスウィニーはパイ屋の女主人ミセス・ラベット(ボナム・カーター)と共謀し、次々に犠牲者の喉を掻き切っていく。 スティーヴン=ソンドハイムとヒュー=ウィーラーによるトニー賞受賞の同名舞台を映画化。デップにとっては初挑戦となるミュージカル作品。 デップ&バートンというゴールデン・コンビの6作目の作品。このコンビによる作品は今のところ外れが無く、無茶苦茶私の好み。当然この作品は2008年の年頭を飾る期待の大作だった。 それで結果として言わせてもらうと、悪い作品ではない。けど、好みではない。と言うところに落ち着くだろうか? ダークな雰囲気やゴシック様式。彩度を落としてモノクロ風にした美術など、バートン流のケレン味に溢れているし、19世紀ロンドンの描写もかなり細かく演出出来ている。情け容赦のない殺害シーンなんかもしっかり描写。19世紀のロンドンに思い入れが強いらしいデップも(本人曰く「切り裂きジャック研究家」)、内に狂気を秘めた凶暴な役を実に楽しそうに演じていた。 ただ、グロテスクさと言い、ミュージカルパートと言い、私の好みとはややずれが生じている。かつてひどく失望した『マーズ・アタック』の時と同じ気持ちにさせられてしまった。面白い部分より疑問に思う部分の方が多いのだ。 いくつか例を挙げてみよう。 一つにはそれは本作のミュージカルパートにある。 優れたミュージカルは、歌の部分で物語を説明しつつ奥行きを広げる。例えば『オペラ座の怪人』があれだけ長い原作をコンパクトにまとめられたのは、ミュージカルパートのお陰に他ならない。あの作品の場合、ミュージカルが物語をしっかり補完しており、主人公達の心情に奥行きを与えているのだ。しかるに本作の場合は、ミュージカルパートは単体のミュージカルでしかない。そこで心情を吐露することはあっても、物語そのものに寄与する部分が少なすぎる。結果的に演出過剰なだけになり、登場人物の奥行きを広げることに失敗。しかもミュージカルが印象に残らない。 二つめに、そのミュージカルパートが足を引っ張ってしまい、物語が極端なまでに簡素化されてしまったこと。特に致命的なのが動機の部分。幸せ絶頂の部分を丁寧に描くことで悲劇はメリハリを増すのに、その部分を簡素化しすぎたため、スウィニーは単なる凶暴な人間にしか見えなくなってしまった。その割に殺人シーンがやたらたくさんあるため、内容があまりにも単純で、メリハリがない。ただ残酷なシーンだけ連ねただけになった。 三つ目。雰囲気の演出に凝ったり、殺人を次々にこなすよりも、殺人の後始末を丁寧に描いて欲しかったという点。ミセス・ラベットの説明で「身寄りのない人や旅人ばかり」と一言では、説得力も何もない。しかもあれだけのサンルームで外から人に見られてないと思う時点でどうにかしてるんじゃないのか?ラストシーンだけパイから指が出ていたけど、あんな杜撰な管理ではそれ以前に出ていて不思議じゃないだろ?事務的物理的に死体処理を、それこそねちねちと丁寧に描いてこそ、本作のディテールは映えるんじゃないのか?少なくとも私は本作を観る場合、殺人そのものよりもそっちの方に惹かれる。 設定という点であれば、生きている娘を何とかしようとか全然思いもしないスウィニーの性格も難点か。完全に狂っていたとしても、否、狂っているからこそ親子の情を描いて欲しかった。『ビッグ・フィッシュ』でのあの細やかな親子の愛情の演出は何処に行った? 少なくともデップ、ボナム・カーター双方の演技は鬼気迫るものがあり、実に楽しいし、ゴア演出も映えているのだが、やっぱりちょっときついな。デップ&バートンのコンビ作では初めて評価が低くなってしまった。どれだけ「大物」と言われるようになっても、好きな作品を自由に作るバートン監督には敬意を表するけどね。 |
ティム・バートンのコープス・ブライド 2005 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2005米アカデミー長編アニメ賞 2005放送映画批評家協会長編アニメ賞 2005ナショナル・ボード・オブ・レビュー長編アニメ賞 2005アメリカ製作者組合アニメ部門賞 2005アニー作品賞、動画賞、監督賞 |
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没落貴族の娘ヴィクトリア(ワトソン)との結婚を強いられた青年ヴィクター(デップ)。政略結婚ではあったものの、ヴィクトリアに一目惚れしたヴィクター。だが、複雑な結婚の儀式のせりふを覚えきることが出来なかったため、森の中でせりふの練習をすることに。ようやくきちんとせりふを言い切ることが出来た、手にした結婚指輪をヴィクトリアの代わりに木の枝に差し込んだのだが、なんと木の枝と思っていたのは本物の人骨で、しかも腐乱した死体が花嫁衣装を着て出てきてしまった。ヴィクターの言葉を真に受けた彼女はヴィクターを死者の国に連れ去ってしまうのだが… バートン監督とマイク・ジョンソン監督のタッグによるストップウォッチアニメーション。 『チャーリーとチョコレート工場』から僅か一月弱で公開されることになったバートン&デップのタッグ作品。しかも本作は、私の大好きな『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1993)同様のストップモーションアニメーション作品。 『チャーリーとチョコレート工場』は、確かに面白かったのだが、何かちょっと乗り切れない部分を感じたものだ。それは結局“黒さ”が足りないという点に他ならなかった。あの作品は綺麗にまとまりすぎて、悪意的なものがどうにも見受けられなかったのだ。少なくとも私が好むバートン作品の醍醐味はすっきりしたまとめよりも、割に合わない感情をどこかに残してくれる後味の悪さの方。これはバートン監督がこれまでの駄々っ子的体質を『ビッグ・フィッシュ』を撮ることで卒業したから。とも見ることが出来るのだが、昔からのファンとしては、それでは寂しい。実際これだけ“黒い”ものを持ってる監督は大変貴重なのだ。 で、本作だが、一発で持って行かれた。 やるなこりゃ!これだ。これがバートンだ! ホラー的要素が極めて強い作品にもかかわらず、この色彩感覚と言い、悪意に満ちたキャラクタ描写と言い、もうこれは、「バートン作品」としか言いようのない“らしさ”に溢れている。 本作の魅力を語る上で一番が“皮肉さ”なのだが、それは地上と死者の世界の対比にも溢れていよう。冬を舞台としているだけに、モノトーンで描かれる街は、整然としているだけにほとんど生気がない。一方、死者の国は歪んだキュビズムで構成され、それぞれの立体物が原色の光を放つ。音楽も禁じられた地上世界と、即興ジャズを奏で続ける死者の国。悪意に溢れた人物ばかりの地上世界と、明るく善意に溢れた死者の世界…そのどちらが魅力的で活き活きしているか。それは言うまでもないだろう。更に地上で唯一色彩があった蝶でさえも実は…そう言うケレン味だってちゃーんと遺してくれてるし。 この対比は巧いなあ。ほ〜ら、現実はこんなに陰鬱なんだよ。それで目をちょっとだけ転じてごらん。死んだ後はこんな楽しい世界が待ってるんだよ…という逆転の発想、というより、ネガティヴなものを力業で明るいものに仕上げようとするのがバートン流だ。それに結構この作品は人死にが出てくる。登場人物の少なさの割りに、はっきり死んだと分かるのが二人。それに途中退場したヴィクターの両親だって、あのまま…という可能性だってある。そうすると、登場した生者の半分近くが死んでることに…それを放っておいて、ハッピー・エンドっぽくまとめるのも、むしろ大喝采だ。そう、その割り切れなさこそ私の観たかったものなんだから。 それに、なまじ特撮ファンになんてなってしまうと技術の困難さが分かるだけに、この作品にどれだけ膨大な手作業と画期的な技術が用いられているかが見えてしまい、それが画面の隅々から訴えてくるような気にさせられてくる。 この気の遠くなるようなアニメーションを、敢えてCGを使わずにストップウォッチアニメーションでやろうという、現代のドン・キ・ホーテ的な熱意に胸を打たれる…こんな人間が今もいるんだと思うと、マジ泣けてくる。特にあの表情の付け方はどうだ。『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』と較べたって、格段に技術的には上がってる。CG全盛の時代にこの技術を磨いている人がいたなんて、嬉しいばかり。 確かに傑作である『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』と較べると、物語性はちょっと低いかも知れない。あの作品ではまった人間だって、本作は「面白くない」と感じるかも知れない。しかしそれだって良い。これが私の好きなバートンの世界なんだから。久々に「誰がなんと言おうと、私はこれが好きなんだ!」と言える映画に出会えたのが何より嬉しい。 |
チャーリーとチョコレート工場 2005 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2005米アカデミー衣装デザイン賞 2005英アカデミープロダクションデザイン賞、衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアー賞、特殊視覚効果賞 2005日本アカデミー外国作品賞 2005ゴールデン・グローブ男優賞(デップ) 2005放送映画批評家協会若手男優賞(ハイモア)、ファミリー映画賞 2005ロンドン映画批評家男優賞(デップ) 2005全米BoxOfficeトップ6位 2005エンパイア男優賞(デップ) 2005外国映画興収第3位 |
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とある町にウィリー・ウォンカ(デップ)が作り上げた世界一のチョコレートをつくり続けている巨大なチョコレート工場があった。15年の間、誰一人出入りしたことがなかったが、ある日突然ウォンカが世界中から5組の少年を工場に招待するというお誘いが。その資格はウォンカ印のチョコレートにゴールデン・チケットが入っていると言うこと。たまたまこの町の片隅に住む、貧しいながら明るくお人好しに生きるチャーリー(ハイモア)は5枚目のチケットを引き当ててしまった。そして世界中から集まった子供達の前に工場が門を開ける… ロアルド=ダールによる童話(既に1971年にスチュアート監督により『夢のチョコレート工場』(1971)が制作されている)をモティーフにバートン&デップという最強コンビで作り上げた作品。 本作には大変期待していた。何せバートン&デップは私にとっても最強コンビであり、この二人が組んではずれだったことはない。ものすごい期待を胸に劇場へ。 まず凄いのはデップ。この人は性格俳優になる素質充分なのに、あらゆる作品で見事にはまってしまうという、その器用さには驚くばかり。本作では他の誰でもなく、見事なまでにウィリーになりきっていた。常ににこにこしていながら、表情がまるでとってつけたような仮面のようで、その笑みは極めて邪悪に見えたし(なんでも娘に「気持ち悪い」と言われたそうだが、その「気持ち悪さ」こそがウィリーの味だ)、チャーリーの何気ない一言によって、仮面が瞬間的に壊れた時の表情が又素晴らしい。同じ微笑みであっても、ラストシーンでの笑みがストーリー中の笑みとはまるで別物に演じ分けているのも流石という出来。それに対応するチャーリー少年は毒気が全然無いのだが、それがウィリーの持つ毒気と相乗効果をもって、上手く中和してくれていたし、他の細々したキャラも含め、配役は見事。老いてますます盛んという御大クリストファー=リーがここでも良い味を出していたし、このキャラをわざわざ持ってきたのもバートンらしくて良し(ちなみに監督はリーの大ファン)。 演出も良い。オープニングシーンは、最近ではすっかりなりを潜めた接写を駆使したもので(かつてバートンが『ビートルジュース』(1988)、『バットマン』(1989)、『シザーハンズ』(1990)と連発してオープニングで使った技法だ)、バートンファンとしてはそこだけでも嬉しい。更にバートンは生の特撮にこだわりのあるところが特撮好きとしてはたまらないのだが、ここでもチョコレートのねっとりした質感はCGではなく、本物の川を作ったという、そういう生へのこだわりが感じられたのも嬉しい(リスも何匹かは本物を使っていたとか)。ウンパ・ルンパのミュージカルも耳にこびりつきそうな面白さだったし、子供にここまでするか?というお仕置きの数々もそれぞれに個性あって良し。命に関わるようなシャレにならない罠をしかけて、それを大げさに喜んでるデップの表情も面白い。突然「ツァラトゥストラかく語りき」が流れて、場面が突如『2001年宇宙の旅』(1968)になった時は心の中で喝采を上げていた。流石よくわかってらっしゃる(ところであそこで『2001年宇宙の旅』のオープニングっぽいシーンが流されたけど、むしろこれは失敗に終わったバートン版『PLANET OF APES 猿の惑星』(2001)の意趣返しか?とも思える訳だが…)。 更に本作は描写的に毒気は多いが、決してそれだけで終わっていない点も重要。結局最後は家族の素晴らしさと言う所にしっかり着地している。これはバートン監督の昨年の作品『ビッグ・フィッシュ』(2003)を経ての、新しい境地の開拓と見ることもできる。そういう意味で大変バランスに優れた作品に仕上げてくれた。その辺のバランス感覚は大変見事で、後味も良い。ウィリー自身の中にあるトラウマと戦っていくという過程も、ベタながら嬉しい作りだ。ウォンカが子供だけでなく、親まで招いたのは、家族の混乱を楽しむためだったんだろうけど、結局チャーリーのお陰で家族の混乱ではなく暖かさというものを知ったからなんだろう。 で、一個の作品として見る限り、本作は大変良い作品と言える。理屈で考える限り、本作に文句を入れるべき所は少ない。 …ないのだが、何故かちょっと不満を覚えてしまう。敢えて言えば、それは私がバートンに求めているのは、こんなに整理された万人向けの居心地の良い作品だったのだろうか?と言う点。もっとぐっちゃぐっちゃで中途半端で、解釈を観る側に丸投げにするような作品こそがバートンの真骨頂ではなかっただろうか?子供にちょっとしたオイタをするだけじゃなく、中に入った大人の方が叫びだして逃げようとするくらいの悪意があっても良かったのでは?その結果として話がまとまらなくても良い。例えば工場が暴走してしまい、工場の周囲に集まった大人達までが恐ろしい思いをさせておいて、チャーリーとウォンカはその結果ボロボロになってしまい、最後に帰るべき所として家族を提示してやったのなら…そこまでやって欲しかった。 本作はバートンの作品としてはまとまりすぎている。本作には、バートン流の悪意があまりにも希薄なのだ。悪意ではなく、職人技と優しさをその替わりに置いてしまったような…ファンの感じる贅沢すぎる感想なのかも知れない。むしろファンとしては監督が制作する側として成長したことを喜ぶのが本筋なのだろうが、それは私自身がまだそういう境地に至ってないからなんだろう。普通に「良い監督」にしたくないって気持ちが強いんだろうな。 |
ビッグ・フィッシュ 2003 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2003米アカデミー作曲賞 2003英アカデミー作品賞、助演男優賞(フィニー)、監督賞(バートン)、脚色賞、プロダクションデザイン賞、メイクアップ&ヘアー賞、特殊視覚効果賞 2003シカゴ映画批評家協会音楽賞 2003ゴールデン・グローブ作品賞、助演男優賞(フィニー)、音楽賞、歌曲賞 2003放送映画批評家協会作品賞、監督賞(バートン)、脚本賞、歌曲賞、音楽賞 2003ローリング・ストーンベスト第7位 2004サターンファンタジー作品賞、主演男優賞(フィニー) 2004キネマ旬報外国映画第10位 |
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有能なビジネスマンでありながら、その口の巧さと壮大なホラでみんなに人気のエドワード(フィニー)。彼は常に自分の人生を、おとぎ話のように語っていた。魔女や巨人、そして村の伝説だった“大きな魚”との出会い。ただし、父の話のお陰で結婚式がぶちこわされてしまったエドワードが最も愛し、一番理解して欲しかったはずの息子ウィル(クラダップ)だけが、父を嫌っていた。やがて死の床につくエドワードの元へ帰ってきたウィルはほら話に隠された若き頃の父(マクレガー)の真実を探すことになる。 この作品、二つの意味で私のツボにはまった。 一つにはこの設定。ホラ吹きを主題にしてると言うこと。 古い思い出になるが、私は子供の頃、ホラ吹きになりたかった。これは昔、NHKの人形劇で「笛吹童子」という番組をやっていて、その中で嘘ばっかり言う人物が出てくるのだが、そこで彼は「俺は嘘つきじゃなくてホラ吹きだ」と誇りを持って主張していた。うろ覚えだが、確か「嘘つきは人を傷つけるけど、ホラは人に希望を与える」みたいな事を言っていて、子供心に、人に希望を与えるためにホラを吹くって、結構格好良いんじゃないか?とか思ってた…思えば全然面白くない人間になってしまったもんだな。 …それはまあ、置いておいて。 これは実は映画の本質に関わっている。映画とはそもそも壮大なホラ話である。と言う根本的な点を再認識させられた。 映画とはそもそもあり得ない話をどう観客に楽しんでもらえるか。と言うところにその本質がある。映画とは所詮フィルムに過ぎず、言わば動く写真、極論すれば動く絵空事に過ぎない。生の感触として手に触れることも出来なければ、語りかけたとしても、それに答えてくれる訳でもない。 しかし、映画は人を感動させるし、人生の意味を捉え直す人もいる。人生の意味を見いだす人もいるだろう。結局映画という虚像、つまりホラの中に希望を見いだす事も可能だということ。嘘ではなく、ホラだからこそ、それが可能なのだ。 それにホラというのは、繰り返し聴かされるあるいは観ることで、より多くの人が同じ体験を得ることが可能となる。これは重要なことで、これがやがて共通体験になっていくものだ。ホラとは決して聞いて終わりじゃない。それについて人と話すことで本当に楽しくなっていく。映画も同じで、単純に観るだけで終わらせることなく、語ることで、それが体験として残っていく。あたかも良くできたホラ話をみんなで思い出して語るように…近年になって私もその楽しみをはっきり知るに至ったのだが。 ホラというのは、受け止める人間によって変わるし、それを自ら表現して、語り合うことで自分自身の体験にもなっていくものだ(山本茂美の書いた「あゝ野麦峠」で製糸工場で働いていた女性達が、不思議と同じ笑い話の体験を持っていたと言う下りがあった。事実ホラとはやがて自分自身の体験になっていくのだよ) 本作が壮大なホラ話を主題としているって事は、つまり映画そのものを表してるって事であり、ラストシーンで談笑する面々とは、今ここで映画について語ってる私たちの姿でもある。彼らはエドワードがかつてであった人達で、彼らの姿がどんどん拡大していって壮大なホラ話になっていくのだが、彼らは登場人物ではなく、彼の話を楽しんだ人達に他ならない。 …私の妄想かも知れないけど、ここまでバートン監督が考えていたのでは?と思わせたところで、彼のホラ話は私には有用だった。 そしてもう一つ、私にとってのツボってのは、私は「家族を作る」物語ってのに極端に弱いってこと。実はどれだけ自分が愛されていると言うことに気付き、反発しまくっていた主人公が変わっていく物語は、どれほどベタでも駄目で涙腺がゆるんでしまう。正直バートンがそんなものを作るって事で疑問視していたんだが、蓋を開けてみたらどうだ。やっぱりやられてしまったよ(笑) ここでの息子ウィルは父に反発心を覚えているので、一番たくさん父エドワードのホラ話を聞かされていながら、反発心からそれが受け入れられないでいる。自分はエドワードとは違った生き方を求め、現実しか必要のないビジネスに身を置いて、現実の中に生きていた。 だが、反発心から選んだ職業であったため、それがいくら理想と思っていたとしても、彼の本質はそれを受け入れられずにいた。前半で見せるウィルの、口をきっと結んだ固い表情にそれが現れているだろう。笑顔を見せることがあっても、それはぎこちない笑顔で、前半部分の彼は本当にぴりぴりした雰囲気を身にまとっていた。 だが、それもエドワードの死という現実を受け入れねばならない事で、徐々に変質していく。単なる肉親の死でしかなかったものが、義務感から死の床の父につきあっていく内に、変質していく。その過程が見事。クラダップって、こんなに巧い役者だったか? そして最後、ウィルは父の死を受け入れた時、同時に自分自身をも受け入れていた。そう。本当はホラを語る父が好きだったこと、何よりも、自分自身がストーリーテリングすることが大好きだったと言うことに。 かつてエドワードは魔女の目の中に自分の死を見て、「信じられない最後だった」と言っていたが、最愛の息子が、実は自分と同じ本質を持っていた事を知らされた。自分のホラは脈々と受け継がれていくだろう事を知った。それこそが本当に「信じられない最後」だったのかもしれない。ちなみに「Big Fish」というのは英語の諺の一部で、正確に引用すると、「a big fish in a little pond」(井の中の蛙)というものだが、エドワードは自分が決して「井の中の蛙」ではなかったことを知らされることになる。これは素敵だ。 ホラとは、まさに人を生かすものである。 キャラクターも良いねえ。ヴェテランのフィニーはやっぱり巧いけど、表情の変化でしっかり感情を表現していたクラダップも良い。それに脇を固めるのがスティーヴ・ブシェミーとかダニー・デヴィートだろ?いやはや。やられたやられた。 よもやバートンがこんなものを作り出すとは。勿論彼らしさと言うのもかなり多く見受けられるけど、彼自身が父を亡くしたと言うことが、自身の本質も少し変えていったのかも知れない…自分自身の話をすれば、この作品を観るつい一月ほど前に私も祖母を亡くした。それも多分この作品を受け入れられた理由なんだろう。 いつもの私らしくなく、物語そのものを語ることはしないレビューになってしまったけど、素敵なホラを吹けるような人間になりたいってことを、改めて思わされたね。 後になって原作の方を読んでみたが、原作は実に小説的な仕上がり方をしていて、一読しただけではこれが映画になるとは到底思えない作り。よくこの難しい話を映画に出来たものだ。 |
PLANET OF THE APES 猿の惑星 2001 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2001英アカデミー衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアー賞 2001ゴールデン・ラズベリー最低リメイク・続編賞 2001毎日映画コンクール最優秀宣伝賞 2002MTVムービー・アワード悪役賞(ロス)、カメオ出演賞(ヘストン) |
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冒険を求めるあまり宇宙船からポッドに乗り、磁気嵐の中に突っ込んでいった宇宙飛行士レオは時期嵐に揉まれ、見知らぬ惑星に不時着した。そこはなんと猿が支配する惑星で、人間は奴隷として、あるいは狩りの獲物としてのみ生存を許されていた。そこで出会った人間に好意的な猿の女性アリの支援を受けつつ、成り行きで人間の地位向上を求め、戦うことになる。 言うまでもないが、かつての大作映画シリーズ『猿の惑星』(1968)のリメイク版で、今回の監督はティム・バートン。私の最も買っている監督の一人である…が、彼の作品は私としては当たりはずれが大きく、今回の作品は私の中では完全な外れの範疇にはいる。 何せ名作のリメイク。チャールス・ヘストン主演のこの作品は私も好きなので、どうしても採点は辛くならざるを得ない。 総じて言えば、今回はあまりにも娯楽に偏りすぎ。それはそれで良いのかも知れないが、映画内での台詞も引っかかる部分が多かったし、ストーリー展開もかなり強引(あ、これはいつもか)。 又、前作で衝撃のラストは一回性と言う意味で強烈なメッセージ性を持つが(あれは東西冷戦を皮肉ったと言う見方が一般的)、今回のオチは意外性を求めるあまり、救いようのないものになっている。これを冗談ととることが出来れば、立派なバートンファンと言えるだろう(笑)私は時としてこの監督の悪趣味な描写が鼻につくので、その辺が好きになれない。 猿の造形は実に素晴らしく、技術の進歩を思わされる。ゴリラやチンパンジーに模した猿たちが平等に生きている様は、地上の民族対立に対する皮肉と取れないこともないが…猿の種族を見て、「猿の惑星」よりむしろ「猿の軍団」を思い出すのだが… バートン的なケレン味もたっぷり入っているし、純粋に娯楽映画を観たいという人ならOKの取れる作品とは思う。 後で原作の方も読んでみたのだが、実は原作はあのラストそのものだったことが分かった。だからといってこの作品が良いというつもりはみじんもないが。 本作を観たアメリカの評論家は「『エド・ウッド』の監督が、本当にエド・ウッドになってしまった」と嘆いたとか。 |
スリーピー・ホロウ 1999 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1999米アカデミー美術賞、撮影賞、衣装デザイン賞 1999英アカデミープロダクションデザイン賞、衣装デザイン賞、特殊視覚効果賞 1999LA批評家協会美術賞 2000MTVムービー・アワード悪役賞(ウォーケン) |
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1799年、ニュー・ヨーク郊外の村スリーピー・ホロウで人間の首を切り落とす猟奇的な連続殺人事件が発生した。調査に訪れた市警捜査官のイカボット(デップ)は、南北戦争で殺され、自分の首を求めてさまよう幽霊騎士の伝説を聞かされる。科学的考察を信条とするイカボットは最初それを信じなかったが、しかし彼自身が不思議な事件に巻き込まれるようになって… アメリカの民話「スリーピー・ホロウの伝説」あるいは「イカボットと首無し騎士の物語」をベースに鬼才ティム・バートンが作り上げた荒唐無稽な物語。劇中でイカボットがハロウィン用ランタンを投げつけられるシーンでその物語に言及こそしているが、実際は完全に自己流解釈した作品。 私にとってバートン監督作品は最高か最低の二つの点数しかつけられないと言う不思議な監督なのだが、デップを主人公とした三作品『シザーハンズ』(1990) 『エド・ウッド』(1994) そして本作は全て大好き。 この作品にはいくつか難点もあったりするが(科学信奉者であるはずのイカボットがあまりに簡単に伝説を信じるとか、時として無茶苦茶特撮がチャチだとか、何よりこの展開は通常人間が伝説を真似てやっていたことが分かって万々歳で終わるはず)、そんなもん全てぶっ飛ばすほどの良さがある。 先ず、完全にコテコテのゴシック・ホラーを徹底してやってくれたこと。その辺の描写には全く妥協が無く、アメリカを舞台に良くもここまで中世的雰囲気を醸してくれたもんだと感心することしきり。悪夢的世界の中で幻想的に進む物語は、本作特有のもの。この雰囲気だけでも満点。 この描写能力だけでも唸らせるが、それだけに終わらず、首無し騎士の非道ぶり、殺陣は文句なし。レイ=パークを起用したのは大成功だろう。デップも久々に『シザーハンズ』を思わせる中途半端な感情を持つ役を好演してくれた。リッチの小悪魔ぶりも良いし、リッチの映し方は本作がベストで、すっかりファンになってしまった。あと、ゴシック・ホラーと言えばこの人!“吸血鬼役者”クリストファー=リーをカメオ出演させると言う凝りよう。 小気味良い程の監督のこだわりがひしひしと感じられ、これだけの凝り方を魅せられちゃあ、最高点上げるしかないでしょう。 ちなみにこの作品は多分「ホラー」に分類されると思うのだが、本当に怖かったのはイカボットの回想シーンで母ちゃんがアイアン・メイディンから叫びながら出てくる所くらいで、さほど怖いと言う感じではない。でもそんなのは枝葉末節。要するにバートンのこだわりにどっぷり浸かれれば、それで良い。 |
マーズ・アタック 1996 | |||||||||||||||||||||||
1997MTVムービー・アワード格闘シーン賞(ジム・ブラウンとエイリアンの戦い) 1997キネマ旬報外国映画第8位 |
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宇宙から地球にメッセージが届く。地球に友好条約を求める火星人であることを知り、大統領(ニコルソン)は狂喜する。だが、それは偽りの友好使節だった。地球に着いた彼らは見境無しに人間を虐殺し始める。地球上のあらゆる武器は彼らに通用せず、滅びを待つばかりの地球。だが、彼らには重大な欠点があったのだ! 50年代のSF映画をベースに、枚挙の暇がないほど超有名人が目白押し。これだけの豪華キャストを揃え、これだけチープな作品を作れたことに、さすがバートン監督だと一応の拍手を送ろう。 この作品のキャッチ・コピーはに「スピルバーグ、これを見ろ」だったが、確かにこれは同年に製作された『インディペンデンス・デイ』を意識したとしか思えない作品。あちらもそうだが、これもいきなり宇宙人がやってきて問答無用に人間を殺しまくる(ID4の場合、「破壊」だが、これは「虐殺」と称するしかない)。そこになんの愛情も、感慨も入れない作りに、ちょっと引く。 情けないジャック=ニコルソンの演技を見せつけられ、更に引く(この人、こういう役を演らせると極めてミスマッチ。それが狙いだったのかも知れないけどね)。 海兵隊がバタバタ倒れる中、ゲーム好きな子供二人が次々に火星人を撃ち殺すのを見て、またまた引く。 オチの火星人爆発のあまりに下らないシーンを見せつけられ、完全に引きまくる。 ティム=バートンはこういう悪乗り作品を時折作る。それがツボにはまれば凄く楽しくなるのだが、見事に全てのツボを外され、見終わった後、怒りしか感じなかった。 これは、友達とあら探しをわいわいしながら見る作品だね。一人で観るのはあんまりお薦めできない。 |
エド・ウッド 1994 | |||||||||||||||||||||||
1994米アカデミー助演男優賞(ランドー)、メイクアップ賞 1994全米批評家協会助演男優賞(ランドー)、撮影賞 1994NY批評家協会助演男優賞(ランドー)、撮影賞 1994LA批評家協会助演男優賞(ランドー)、撮影賞、音楽賞 1994シカゴ映画批評家協会主演男優賞(デップ) 1994ゴールデン・グローブ助演男優賞(ランドー) 1995英アカデミー助演男優賞(ランドー) 1995カンヌ国際映画祭パルム・ドール 1995キネマ旬報外国映画第5位 |
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50年代のハリウッド。この町で映画監督になる日を夢見て下働きをしていたエド(デップ)は、ふとしたきっかけで知り合った往年のドラキュラ俳優、ベラ・ルゴシ(ランドー)と共に映画を撮る。服装倒錯者の男を描いた『グレンとグレンダ』で監督デビューを飾った後、資金繰りに苦労しつつも次々と映画を製作していく。 “史上最低の監督”と謳われたエドワード・D・ウッドJr..通称エド・ウッドの半生を描く伝記的作品。この人物はバートン監督がかねてから作りたがっていた素材で、その分バートン監督の個性が最もよく出た作品とも言える。興行成績そのものはさほど高くないにせよ、その作家性は、世界中で多くの賞を得たことからも伺えるだろう。 映画監督が映画を作る上で先ずぶち当たる、そして最大の難関は資金繰り。映画の資金集めを扱った映画はこれまでにいくつも作られているが、この映画の場合、実録な分、リアリティは格段に増している。しかも本作の主人公は… 心から映画を愛し、夢を追い続け、そして史上最低の映画監督と謳われた男エド・ウッドをジョニー=デップが見事に演じきっている。デップとバートンが組んだ作品は見事な程に私の好みに一致する。これほどの破天荒な男の生き様を活き活きと描ききったバートン監督にこの作品に関しては惜しみない拍手を送りたい。 この作品の最大の特徴は、何と言っても全員が本当に楽しそうであること。特にデップ演じるエド・ウッド本人がとにかくフル回転。笑みが画面一杯に溢れている。あんなどうしようもないもの撮っておいて「素晴らしい(Perfect!)」と言い切ってしまう厚顔さも凄いが、彼の笑顔を観てるだけで許してしまいそうになる。それだけデップは笑顔の迫力がある。 『プラン9・フロム・アウタースペース』(1959)の予算を取るためにバプティスト教会に改宗してしまう辺り、泣かせるものもある。これこそ映画人の根性だ!取り敢えず現在DVDで何作かの監督作品を観ることができるので、この作品に感激した人間は是非鑑賞をお勧めする。 ベラ=ルゴシは往年のドラキュラ役者として有名な人だが、相当屈折しているらしく、ボリス=カーロフの名前を出されただけで激怒するのも良い(結局残るのはカーロフだった)。ルゴシと言い、その後でやはりドラキュラ作品で有名になったクリストファー=リーと言い、あまりにドラキュラを上手く演じすぎるとそのイメージで固定されてしまい、他の作品を演じることが出来ないと言うのが悲しいな。そのベラ=ルゴシ役を演じ、見事オスカーに輝いたランドーは往年のテレビシリーズ『スパイ大作戦』のローラン=ハンド役だったが、授賞式で「『スパイ大作戦』テーマだけはやめてくれ。あれはもうゴメンだ」とコメントしている。冗談なのか本気なのかちょっと聞いてみたい(笑) |
バットマン・リターンズ 1992 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1992米アカデミーメイクアップ賞、特殊視覚効果賞 1992ゴールデン・ラズベリー最低助演男優賞(デヴィート) 1993MTVムービー・アワード キス・シーン賞(キートン&ファイファー)、悪役賞(デヴィート)、魅惑的な女優賞(ファイファー) |
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クリスマスを迎えようとしているゴッサム・シティの地下で暗躍する陰。30年前に親に捨てられ、ペンギンに育てられたというペンギン(デヴィート)が部下をひきつれて復讐に現れたのだ。一方街の実力者マックス(ウォーケン)の秘書であるセリーナ(ファイファー)は、街の電力を全て我がものにしようとするマックスの陰謀を知ってしまったためにビルから突き落とされたが、新しくキャットウーマンとして蘇生するのだった。ペンギンとキャットウーマンとが組み、バットマン(キートン)を悪者に仕立て上げようとする… 先の『バットマン』(1989)で新しい感覚のダーク・ヒーローを作り出し、大ヒットを記録したバートン監督&キートンによる第2作。とてもそうは見えなかったが、バートン監督は初のハリウッド大作のプレッシャーから「死にかけた」とまで語っていた。それで第2作となる本作では、細かいところにマニアックな名称やアイテムを配し、自分自身のフィールドに持ち込み、のびのびと作っているのがよく分かる。 悪に対して全く容赦しないバットマンの姿は前作以上に映え、夜の中、黒いスーツを着た三人の主人公が舞い飛ぶ(本当にこの作品は踊りが結構入ってる)。演出も良い。 ただ、本作の最大の目玉は俳優の方にこそあり。1作目でニコルソンの怪演ぶりが話題になったが、それに増して役者の個性が光っている。 物語は1作目を更にダークにした感じではあるが、悪役が二人になった分、物語がやや複雑化。ペンギン、キャットウーマン、バットマンそれぞれが主人公格で見所を作ったため、やや散漫な作りになり、主人公であるはずのバットマンが単なる悪人を懲らしめる役割しか担わなくなってしまったのは一面の真理。 しかし、本作の面白いところはそれを逆手に取り、悪を憎むバットマンの行動を極端化させることによって、あたかもバットマン自身が悪人であるかのように描写することにも成功している。バットマンの行動様式は悪人にはどんな卑怯な手も許されるという割り切り方で描かれており、まさしく悪のヒーロー。唯一の味方である執事のアルフレッドもブルースの行動を半ば諦めたかのように見つめているし、この辺の細かい描写があるからバットマンのダークヒーローぶりが映える。 この設定があるからこそ、昼と夜の人格の使い分けが俄然面白くなる。バットマンとキャットウーマンという二面性を持ったキャラを二人使う事で面白い駆け引きが楽しめるようになった。ブルースとセリーナは日中は善男善女として表の顔を見せ、夜になるとヒーローと悪人へと変身。しかし、実態はどっちも自分の欲望に忠実なだけで、やってることに差はない。どっちも悪人と言えば悪人にるし、一方ではどっちも自分なりの正義のために戦っている。その微妙なバランスが最後まで続くのが良いコントラストになってる。 そう言う意味ではメインストーリーから外されてしまった感のあるペンギンだが、こいつはこいつでデヴィートが思いっきり悪ノリしてのびのび演じているので、堂々たる悪人っぷりを見せてくれている(前作ではニコルソンが怪演ぶりを見せていたが、実はデヴィートとニコルソンは個人的にも友人だったので、ライバル意識があったんだと思える)。 このバランスを上手く仕上げれば名人芸とも言えるのだが、ただ、バートンはそこまで細かい監督じゃないので、役者に好き放題演らせただけ。という印象もあり。その辺ちょっと散漫さも感じるのだが、撮ってる本人が楽しんでそうなので、それで良いのだろう。 今回ファイファーのキャットウーマンぶりはバートン監督もお気に入りだったらしく、彼女のスピンオフ計画も立てたらしいが、それは流れてしまい、流れ流れて12年後にハリー=ベリーを主役に迎えて『キャットウーマン』(2004)が出来ることになるのだが…作らなかった方が良かったんじゃ無かろうか? |
シザーハンズ 1990 | |||||||||||||||||||||||
1990米アカデミーメイクアップ賞 1990ゴールデン・グローブ男優賞(デップ) 1991英アカデミープロダクションデザイン賞 |
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人里離れた丘の上で発明家によりハサミ人形から作り出された人造人間エドワード(デップ)は、完成直前に博士が急死してしまった為、彼は両手がハサミのままこの世に残されてしまう。丘の上の家で、孤独な日々を送っていた彼の元にある日、化粧品のセールス・ウーマンのペグ(ウィースト)が訪ねて来た。心優しい彼女は、そんな彼の姿に同情し、自分の家に連れて帰る。そうして家の中へ通された彼は、写真に写っているペグの娘キム(ライダー)に心奪われ、彼女に恋してしまうが… ポスターを最初に見た時、これはホラー映画か?と思う程のインパクトを持った作品だった。当時私はデップの名前は知らなかったが、バートン&ライダーは『ビートルジュース』(1988)で既に馴染みだったので、結構期待できそうな気がしてきた(ホラーも好きだし)。しかし、出てきたのは期待を完全に裏切った。これはもの悲しいお伽噺だ。不覚にも最後のあの雪のシーンは涙が浮かんだ。そして勿論、この作品を皮切りに、私はデップ大ファンへとなった(以降このコンビはいくつもの作品を作っているが、どれも大好きなものばかりである) まるで箱庭のような町で、世界と遮断されたこの町(何で丘の上にあんな立派な廃屋があって、それが誰にも気付かれなかったか、とは言うべきではないだろうけど)の中にも様々な人間関係がある。それが微妙なバランスで調和を取っていた所に闖入者が入ってきたことで人間関係が崩れていく。排除されるしかないエドワードと、それを黙認するしかない町の“良識ある”人々。結局これは共同体そのものの本質なのかもしれない。それをさらりと描ききったのがバートンの上手い所だ。やっぱ好きだわ。これ。 ところでこの作品は『ビートルジュース』、『バットマン』(1989)と続き、オープニングがとにかく面白い。町並み(あるいはオブジェ)に肉薄し、流れるように移動する。そして最後に空高くに上がって今まで見てきたところを俯瞰して見るのだが、それが三作品それぞれに全く違う。ここではそれが本当の町になってしまう。是非この三作を見比べてみて欲しい。 余談だが、この作品に競演した事ですっかりライダーを気に入ったデップは腕に「Winona Forever」と言う刺青を彫ったのだが、結局別れてしまったその刺青をレーザーメスで消そうとしたのだが、どうしても「Wino Forever」と言う文字が残ってしまったとか…消せない刺青とは、とても悲しいものだな(ちなみにこれを大槻ケンヂが「ワインフォーエバー」という歌にしている)、その後この文字は「Wine Forever」と彫り直して現在に至っているそうな。 |
バットマン 1989 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1989米アカデミー美術監督賞、美術装置賞 1989英アカデミー助演男優賞(ニコルソン) 1989ゴールデン・グローブ男優賞(ニコルソン) |
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市制200年祭を迎えようとするゴッサムシティ。犯罪組織のボスのグリソム(パランス)は右腕のジャック(ニコルソン)が自分の女と姦通した為、罠を張って警察に追いつめさせる。何処からともなく現れたバットマンに化学工場に追いつめられたジャックは廃液の中に沈んだ。謎のヒーローのバットマンの正体を取材すべくジャーナリストのビッキー(ベイシンガー)は活動を開始。そんな中で大富豪のウェイン(キートン)と知り合い恋に落ちた。一方、九死に一生を得たジャックはジョーカーとして生まれ変わりグリソムを殺害。バットマンに復讐を誓うのだった… 本作はティム・バートンが『ビートル・ジュース』(1988)に次いでマイケル・キートンを主役に据えて作り上げた作品。以降の『バットマン』シリーズの方向性を決定づけた作品である。有名なアメリカン・ヒーローの映画化とあって、製作元のWBも総力を挙げてこれを支援(公開時には関連キャラクター商品として160件ものライセンスを発行し、ライセンスだけで約5000万ドルを稼ぎ出す)。大ヒットを飛ばすこととなった。 相変わらず好調のオープニングの作りは、『ビートル・ジュース』、『シザーハンズ』(1990)の間にはまった面白いカメラ・ワークで、町並み(あるいはオブジェ)に肉薄し、流れるように移動する。そして最後に空高くに上がって今まで見てきたところを俯瞰して見るのだが、それが三作品それぞれに全く違う。この作品ではそれが巨大なオブジェであり、しかもそれが巨大なバットマンのマークになっているという凝りよう。いいねえ。このケレン味。 『ビートル・ジュース』のベテルギウス役で馬鹿に徹したキートンがヒーロー役?と、ちょっと危惧があったが、意外にもこの役に良くはまっていて、キートンの芸風の幅というものを感じさせてくれた。そしてバットマンに絡むジョーカー役がジャック・ニコルソン!これ程はまった役は無かろう。見事に役柄にはまった二人が織りなす狂気の映像。まさしくそれがバートンの求めたものだったのかもしれない。 特にニコルソンの、完全に向こうの世界にイッてしまった演技は特筆もので、あの意味不明で謎めいた台詞「月夜に悪魔と踊ったことがあるか?」。自分を罠にはめたグリソムに向かって大笑いしながら何発もの銃弾を撃ち込むシーン、地の皮膚が白くなってしまったため、変装のために肌色を塗りつけるシーン。色物のように見えて、その魅力を最大限に活かしていた感がある。ジョーカーという名前の通り、まさしく“笑いの狂気”と呼ぶにふさわしい。残酷で狂気に彩られたジョーカーこそが実は本作の主役だとも言えよう。 ゴシック建築風に作られたゴッサム・シティの造形は見事で、昼のない夜だけの町並みを巧く表現していたんじゃないかな?確かに前評判ほどスピード感は感じられなかったけど、逆にそれがバットマンの武器をくっきりと映し出していたし。やや凝りすぎの感があるカメラ・ワークが良い。それになにより、バットマンは夜の町が似合う。ゴテゴテしたゴッサム・シティだからこそ、彼の姿は映えるのだ。 ところで、アメリカン・ヒーローというのは古来、人を守って戦った。彼らは家庭では良き父親であり、夫であるのだが、人のため、又国のために働くことに疑問を抱くことなく、基本的に争いは嫌いでありつつも、正義を遂行するためには敢えて悪人殺しを辞さない人間だった。オリジナルのバットマンでもそれが踏襲されていたはずだ。ところがここでのバットマンはそう言う倫理観は持ち合わせていない。彼はただ、悪を憎み、悪を撲滅するためだけに活動する。結果としてそれが人助けとなることはあっても、ある意味彼の行っていることは命がけの趣味に過ぎない。考えてみれば迷惑な話だ。これってひょっとして『ダーティ・ハリー2』(1973)の白バイ警官や、『セブン』(1995)の犯人に近いんじゃないか?描きようによってはモロ悪人にもなってしまう。 そのようなヒーロー像を作り上げたバートンが、私は大好きだ。 |
ビートルジュース 1988 | |||||||||||||||||||||||
1988米アカデミーメイクアップ賞 1988全米批評家協会主演男優賞(キートン) |
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郊外の瀟洒な家で幸せに暮らすアダム(ボールドウィン)とバーバラ(デイヴィス)。アダムは屋根裏部屋に町の模型を作ることを趣味としていた。そんな二人がある日事故に遭い、ずぶ濡れになって家に帰ってきたのだが、どうも様子がおかしい。なんと、彼らはこの世の人ではなくなっていたのだ。しかもその家からは一歩も出られない。どうすることもできない二人の家に新しい家主が越してくることに。理解できない悪い趣味を持つ家主に呆れるが脅かしても何の効果もなかった。しかも屋根裏部屋からあの世に続く扉が現れる。そこで出会った老婆から“バイオ・エクソシスト”「ベテルギウス」を呼び出してはいけない」と忠告を受けるのだが… 監督ティム・バートンの名前を一躍有名にした出世作で1988年全米興行成績10位。私もこの作品で監督の名前を知り、ウィノナ=ライダーのファンとなった(関係ない?) とにかく監督の悪ノリ大爆発と言った感があり、それがスマッシュヒットを呼んだのだろう。私自身もこれはとにかく楽しめた。 一見ホラー話を笑いに徹した作品として仕上げた作りは好感が持てるし、下手なパクリをせずにあくまで作品単体として楽しんでもらおうとするサーヴィス精神が見えるのは実に親切。 この作品からバートン流のケレン味が良く出るようになった。特にオープニングの作りは、本作、『バットマン』(1989)、『シザーハンズ』(1990)と続く面白いカメラ・ワークで、町並み(あるいはオブジェ)に肉薄し、流れるように移動する。そして最後に空高くに上がって今まで見てきたところを俯瞰して見るのだが、それが三作品それぞれに全く違うのが良い。本作では、この町が実は作り物で、ミニチュアの町であることが分かる。最高のつかみ方だ。 マイケル=キートンは勿論巧い役者だけど、あの顔してこれだけ濃い、下品な役が出来るのは偉い(これのイメージを払拭するのは大変だっただろうけど)。あと、なんと言っても小生意気なウィノナ=ライダーの姿がキュートすぎて… ボールドウィン&デイヴィスのとぼけた幽霊役も良い。自分たちが本物の幽霊であることを納得させるためにシーツをかぶって幽霊の真似をするなんて、涙ぐましい努力には笑わせてもらった。 本作において一つだけ気になること。悪魔とかを呼び出す時は、普通本当の名前を言わなければならないはずなんだけど、何でベテルギウスがビートル・ジュースって名前で反応できるんだろ?召還方法がちょっといい加減じゃないかな? ところで本作は吹き替え版でベテルギウス役を西川のりおが吹き替えており、吹き替え版も又、スマッシュヒットとなった。確かにあの濃い役はぴったりだったと思う。 |
ピーウィーの大冒険 1985 | |||||||||||||||||||||||||||
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町の人気者ピーウィーは大事な赤い自転車をガキ大将に盗まれてしまう。町のインチキ占い師の「アラモの果て」にあると言うお告げを信じたピーウィーの冒険はついにアメリカを横断して展開する。 実質的にバートン監督のデビュー作。私は未見だが、元は「ピーウィー・ハーマン・ショウ」というアメリカのこども向け番組でブレイクしたので、その映画化らしい。こどもの精神を持つ大人がエキセントリックな役柄を演じているのがこの映画を観ても元のシリーズの方向性が分かる。 映画としてそれほど悪い内容の作品ではないのだが、ただ、キャラクター造形とか演出とかどうにも入り込めないことばかりで、面白さとまではいかず。 アメリカ横断で、数多くの町に行くのは良いのだが、要は物語がぶつ切りで、長い物語がこのキャラでは長い物語が作れないという致命的な部分を露呈してる。後年のバートンらしいこだわりや、ラストのゴジラ対キングギドラのシーン!なんかはオタク魂全開で楽しくはあって、いくつか笑える部分があっただけまだましだが、コメディなのに痛々しく感じさせては駄目だね。 私にとってバートン作品は合う合わないが極端なのだが、デビュー作である本作が一番合わないというのは、ある意味問題じゃないか? |