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2005 | ナニー・マクフィーの魔法のステッキ 監督 | |
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1998 | ウェイクアップ!ネッド 脚本 | |
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1963 | 12'30 誕生 |
ナニー・マクフィーの魔法のステッキ 2005 | |||||||||||||||||||||||
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葬儀社に勤めるセドリック=ブラウン(ファース)は一年前に妻を失い、わんぱく盛りの7人の子どもたちが残された。大好きな母がいなくなってしまい、子供達はナニー(乳母)にいたずらすることで寂しさを紛らわしていた。だがそのために雇われたナニーは次から次へと去ってしまう。そんなブラウン家に、ある日新しいナニーが現われた。大きな魔法のステッキを携えていたマクフィー(トンプソン)と名乗るそのナニーに早速いたずらを仕掛ける子供達だが… イギリスの児童小説「ふしぎなマチルダばあや」を俳優であり、脚本家でもあるトンプソンが自らを主人公として脚本化した作品。 原作は知らなかったが、一見して感じるのは、『メリー・ポピンズ』をリメイクしたような感じ。謎の乳母が突然やってきて、子供達をしつけ、事が済むと誰にも知られることなく去っていく。という枠組みは同じ。 違いと言えば、『メリー・ポピンズ』は「こどもらしい考えが大切」と言うことをみんなに伝えていったのに、ここでは「責任を持つこと」を伝える。というところがあり、枠組みが似ていても両者にはかなりの違いも見受けられる。 これは求めている時代背景も合わせて考えてみる事も出来る。『メリー・ポピンズ』の場合は規則で縛られている時代だから“自由”を。本作の場合こどもがフリーな状態になりすぎている現代だからこそこのような物語になってるのかもしれない。 人間が何かをなす場合、何かを犠牲にして達成させることになる。しかしこどもはそれが分からない。こどもだからという免罪符がある場合もあるし、親が守っているという安心感がある場合もある。だが、それはいつまでも続くわけではないし、こどもの時点からその事を教え込ませるのは親の責任でもある。むしろこどもが無茶苦茶やってるのはそれを求めている事だってあるのだ。 ここでは親であるセドリックはその責任を持っているのだが、その責任を果たしていなかった。彼はこども達のことを愛していたとしても、ただこどもが嫌がらせをしているとしか思ってないし、自分自身のことで手一杯だから、結果的に甘やかす一方で終わってしまっている。 その意味でここでマクフィーがやってることは、母親の肩代わりだったとも考えられる。一見彼女のしていることは突き放しのようだが、彼女はこども達に常に選択を強いるし、その結果はこども達一人一人がちゃんと分かるようになってる。原因と結果をしっかり教えているのだ。彼女がやってることは改めて考えると、母親のなすべき役割を果たしている。 それはこどもだけではなく、父であるセドリックにもあてはまるだろう。彼も又、近くのものばかり見ていて、本当に大切なことを忘れてしまっている。マクフィーの存在は、彼にそれを教えるためにあった。 こう考えることも出来るだろう。 マクフィーはいなくなった母親こそが派遣した存在だったのかも。 そう考えると、こども達が責任感を知る度にマクフィーの姿が変わってくるのも意味があるだろう。こども達をしつけることは彼女の使命だったと考えられるのだから。 その辺を考えさせてくれるが、その辺は多分無理に考える必要は無いんじゃないかな?心温まる作品を観ようと思うなら、見たまんま捕らえるのが正しいのだろうし。 |