緑の光線 |
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エリック・ロメール(脚)
マリー・リヴィエール
リサ・エレディア
ヴァンサン・ゴーティエ
ベアトリス・ロマン |
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★★★★ |
物語 |
人物 |
演出 |
設定 |
思い入れ |
3 |
3 |
3 |
5 |
3 |
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彼氏と一緒にバカンスの予定がドタキャンされてしまい、困ったデルフィーヌ(リビエール)は休暇をどう使うか思案した揚げ句、親切な友人の誘いで彼女の実家に寄宿する。しかし心塞ぎ、次々に居場所を求めてさまようことに…
ヌーヴェルバーグの旗手の一人ロメール監督が作り上げた、一人のパリジェンヌの孤独とちょっとしたご褒美の話。
ヌーヴェルバーグ作品と一口に言っても、監督ごとに多彩な特徴がある。映画の枠組そのものをぶっ壊して見せたゴダールや、人の複雑な内面を映像化できないかと努力したトリュフォーら。その中で共通して持っているものは、痛切な風刺だった。古い世代を笑い、新しい思想を笑い飛ばす。結局人間なんてどうしようもないものだと笑いつつ、それを映像化して見せようとしている。
その中でロメールの特徴は、多くの作品で世代格差と言うものがあろうかと思う。かつての世代が持っていた価値観と現現
現 その中でロメールの特徴は、多くの作品で世代格差と言うものがあろうかと思う。かつての世代が持っていた価値観と現在の人間の価値観は明らかに異なる。それを批判することなく、自然体で映像化して見せている。
そんなロメールがここで作ったのは、あくまで一人の若者に焦点を置き、若者世代の持つアンニュイな心そのものを映像化してみようとしたところが特徴といえようか。
世界と自分の間には壁があり、ほかの人がみんな楽しんでる中、自分だけが取り残された気にさせる。こう言った気分はおそらく世代を超えて、一度は誰しも経験したことがあるもので、その苛ついた退屈さを耐えることが、青年期に味わう人生の試練となる。
多くの人はそこの時期に打ち込むものを見つけていく。ある者はスポーツに、ある者は勉強に。暴力に向かったり、陰湿なイジメに走るのもこの時期特有。最も本を読むのもこの時期(というか私がそうだ)。それに何より、人を好きになるのもこの時期が一番激しい。
ただ、これらの根底には実は退屈さに対する恐れというものがある気がする。何よりも退屈であることに耐えられないので、色々なものに打ち込むのは、その退屈さを振り捨てるため、あるいは忘れるためとも思えてしまう。
ただ、退屈さを打ち込むもので抑え込むのも限度があり、時に激しい退屈に襲われるときもある。こう言う時がつらい。何かしてないと気ばかり焦るのに何も出来ない。それでも人づきあいが出来る人なら何かと退屈しのぎは出来るものだが、これで人づきあい下手だと、本当に退屈を持て余してしまう。
映画にするのはこれはかなり難しいのだが(それ以前にこの状態を映画にする事自体がそれまで無かった)、ロメールはその辺上手いこと映像化して見せた。物語自体が、本当に何もしない、退屈極まりない流れなのだが、なんか「うんうん」と頷けることが多く、変な意味で共感をもって観られる。人の心に入り込む、そんな映画もあるのだな。
表題の「緑の光線」の用い方も効果的。 |
製作年 |
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