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1972年。 ダグラス・トランブル(監) |
地球上に植物が育たなくなり、3つの宇宙船のみで植物が生育されている未来。植物学者のフリーマン・ローウェルはそのうちの一機ヴァレー・フォージ号で大切に植物を育てていたのだが、ある日地球から宇宙船を廃棄して帰還せよとの命令が下ってしまう。地球に戻れると大喜びする宇宙船クルーだが、植物を失いたくないフリーマンは… 1970年代。1968年の『2001年宇宙の旅』(1968)と『猿の惑星』(1968)の出来が素晴らしかったため、それ以降今一つ活性化していなかったSF界だが、そんな不毛の時代にぽこっと出来てしまったSF作。 本作は当時のハードSF小説ブームをそのまま映画にしたような感じに作られている。折からのヒッピー文化の中にあってハードSFは「馬を宇宙船に、銃をビームに持ち変えた」ウエスタンの亜種から脱却し、より内面に、より哲学的に変化していったのだ。 小説においてもこの時代にハードSFが流行っていたものだが、その変化は映画にも波及していった。その変化はあまりに急だったが、これは当時のヴェトナム戦争の不毛さ、環境破壊の進む世界への絶望があったためと思われる。時代が物語に救いを求めていくようになったと考えられるだろう。少しずつ変化していった小説とは異なり、いきなり哲学にシフトアップしたのだから、映画の進化の速さはとんでもなかった(本作のみならず同年代に作られた『未来惑星ザルドス』(1974)なんかも極端な哲学的な物語になってる)。 それをかなり分かりやすくして、ある意味極端な形で映画にしたのが本作だろう。 本作は一種のディストピアもので、この当時汚染によって世界は植物が育たなくなり、唯一の逃げ道は宇宙船の中だけとなってる。まともに考えたら荒唐無稽な話かもしれないが、だからこそSFだと言いはれる。 そして主人公に至っては人間よりも植物の方にシンパシーを感じる人で、植物を守るためには仲間を殺すことも厭わないという極端な、現代で言うところの環境テロリストみたいな人。いやはや香ばしい設定である。 でも、これこそそが当時の世界の閉息感を表した物語でもあるんだろう。そして陰ひなたから、こういう作品を作る人がたくさん出ていたからこそ環境問題は重要政策となっていき、ここで示されたような未来は“現時点では”回避されている。 ただ、本作はそういうメインの物語よりも(ついでに主人公よりも)、健気なロボットが一番の魅力でもある。 最初、三体いたロボットたちは、単なる備品でしかないのだが、鬱陶しい人間の仲間たちがいなくなってしまってから急激にその存在感を増す。単なる機械ではなく、寂しい主人公のパートナーとなり、一緒に植物を守る同志ともなっていく。そして最後にたった一体で植物を守り続ける人類の希望へと変わっていく。これはまさしく後の『ウォーリー』(2008)の元ネタだろう。 ロボット自体は全く変わってないのに、受け取る人間の側の心境の変化によってどんどん人間っぽくなっていくというのは、認識論の勉強にもなる。 環境保護の面から見るだけでなく、観ている側の認識がどんどん変わっていくという面をみても、哲学的な意味合いを感じさせられる。 SFを啓蒙作品として考えるなら、外せない一本。 |
暗黒空間 | → | |||
【あんこく-くうかん】 | ||||
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ヴァレー・フォージ号 | → | |||
【う゛ぁれー-ふぉーじ-ごう】 | ||||
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ウルフ | → | |||
【うるふ】 | ||||
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キーナン | → | |||
【きーなん】 | ||||
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デューイ | → | |||
【でゅーい】 | ||||
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バーカー | → | |||
【ばーかー】 | ||||
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ヒューイ | → | |||
【ひゅーい】 | ||||
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フリーマン | → | |||
【ふりーまん】 | ||||
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リューイ | → | |||
【りゅーい】 | ||||
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1974年 ジョン・ブアマン(監) |
20世紀末に起こった核戦争により地球は荒廃してしまった。だがその後人類の一部は独自の文化を築きあげた。科学文明を進め、不老不死となった彼らはボルテックスという下界とは隔絶されたドームに住み、ドーム外にいる獣人と呼ばれる人間達を管理していた。だが獣人の一人ゼッド(コネリー)は、この支配体制に疑問を持ち、ボルテックスの正体を調べ始めるのだが… SF映画としては一種のカルト作として知られるこの作品。確かに物語はかなり破綻してるし、予算不足からSFギミックもかなり少な目(なんと100万ドルで作ってしまったのだとか)、さらにコネリーが全編赤褌姿だという、まるで羞恥プレイのような作品だけに、見た目から物語までまさしく“カルト”と呼ばれるだけのことはあるのだが、それでも70年代のSFに親しんだ人間にとって、本作は本当に喜ばしい作品である。 本作の物語は単純なようでいて結構ややこしい。主人公ゼッドを獣人と呼ばれる被支配者階級に置き、階級闘争のような話で展開していったと思ったら、今度はゼッドは支配者階級によりペットのようにされてちょっと喜んでたり、自分の同胞である獣人よりもむしろ支配者階級に共感を覚えてみたり、実は支配者階級の方が滅ぼされることを望んでいたという事実を知ってみたり。と、100分ちょっとの中によくここまで詰め込んだと思えるくらいの内容がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。あまりにも展開が早く、脈絡が取れないため、置いていかれると何が何だか分からなくなってしまう。 小説と映画は違う。それは情報の質がまるで異なるため、小説で書かれたことを限りある映画でやろうとすると無理が生じるのだが、それを全く考えずに、映画で小説的な難解さを勢いで作ってしまおうというのが本作のコンセプト。内容は極めて難解で、観る人によって色々解釈が変わってくるのだが、まさしくそれが70年代SFの最大の特徴だった。行きすぎた科学に対する警鐘と、自然体で生きることの重要さ。そして人間の内面にこそ真理がある。という、まさしくヒッピー文化が引っ張っていった疑似科学がここには目一杯詰め込まれてる。それを何の衒いもなく、更にアクション大作にするつもりもなく淡々と作り上げてしまったのが本作。 私も最初はこれ単なるアクション作だろうと思って観始めたら、中盤からの展開の凄さに目を離せなくなってしまった。無茶苦茶人を食ったオチも秀逸。 でも本作で何より楽しいのは、ブアマン監督の「俺はこんなのを作りたいんだ!」という自己主張がそこらかしこに見えることだと思う。まさしくこの作品はブアマンという人物の“顔”が見える作品なのだ。この自己主張っぷりが痺れる。 一方ではツッコミ所も無茶苦茶多い作品でもある。特に全編ふんどし姿のコネリーの姿は強烈なインパクトあり。特にコネリーはかなり毛深いので、上半身裸だと胸毛にばかり目が行ってしまい、笑わせようとしているのやら、気持ち悪わせたがってるのやら、判断付かない個性を見せてくれる。 でも無茶苦茶っぷりが逆に楽しくなる、真に“愛すべきSF映画”とは、このような作品のことを言うのだ。 |
アーサー | → | |||
【あーさー】 | ||||
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【えたーなす】 | ||||
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コンスエラ | → | |||
【こんすえら】 | ||||
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ザルドス | → | |||
【ざるどす】 | ||||
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獣人 | → | |||
【じゅうじん】 | ||||
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ゼッド | → | |||
【ぜっど】 | ||||
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ボルテックス | → | |||
【ぼるてっくす】 | ||||
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メイ | → | |||
【めい】 | ||||
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