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未来惑星ザルドス(書籍) _(書籍) |
2008 | ||
2007 | ||
2006 | ||
2005 | ||
2004 | イン・マイ・カントリー 監督・製作 | |
2003 | ||
2002 | ||
2001 | テイラー・オブ・パナマ 監督・製作・脚本 | |
2000 | ||
1999 | ||
1998 | ジェネラル 天国は血の匂い 監督・製作・脚本 | |
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ラングーンを越えて 監督・製作 | |
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | ||
1990 | 女神たちの季節 監督・製作・脚本 | |
1989 | ||
1988 | ||
1987 | 戦場の小さな天使たち 監督・製作・脚本 | |
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ネモの不思議な旅/異次元惑星のプリンセスを救え!! 製作 | |
1983 | ||
1982 | 殺人天使 製作 | |
1981 | エクスカリバー 監督・製作・脚本 | |
1980 | ハイパー・ウェポン/最終狙撃者 製作総指揮 | |
1979 | ||
1978 | ||
1977 | エクソシスト2 監督・製作 | |
1976 | ||
1975 | ||
1974 | 未来惑星ザルドス 監督・製作・原作・脚本 | |
1973 | ||
1972 | 脱出 監督・製作 | |
1971 | ||
1970 | 最後の栄光 監督・脚本 | |
1969 | ||
1968 | 太平洋の地獄 監督 | |
1967 | 殺しの分け前/ポイント・ブランク 監督 | |
1966 | ||
1965 | 5人の週末 監督 | |
1964 | ||
1963 | ||
1962 | ||
1961 | ||
1960 | ||
1959 | ||
1958 | ||
1957 | ||
1956 | ||
1955 | ||
1954 | ||
1953 | ||
1952 | ||
1951 | ||
1950 | ||
1949 | ||
1948 | ||
1947 | ||
1946 | ||
1945 | ||
1944 | ||
1943 | ||
1942 | ||
1941 | ||
1940 | ||
1939 | ||
1938 | ||
1937 | ||
1936 | ||
1935 | ||
1934 | ||
1933 | 1'18 シェパートンで誕生 |
テイラー・オブ・パナマ 2001 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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エクスカリバー 1981 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1981アカデミー撮影賞 1981カンヌ国際映画祭詩学貢献映画賞 |
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イングランドの伝説上の王アーサーの壮大な生涯を描いた作品。枝葉の多いアーサー王伝説の中から聖杯探索を除けば全てアーサー王に焦点を当てる。 アーサーと言う存在は文字通りアヴァロンの霧の中にあり、実在したかどうかも分からない古代ブリテンの伝説の王だが、15C中世になってトマス・マロリーにより、伝説をまとめ、一貫した壮大な物語「アーサー王の死」が描かれることにより、一気に世界的に有名になった。 ただ、マロリーはこの物語を描く時に中世の騎士道の理想を見出そうとしたため、極めて中途半端な描かれ方になってしまった。アーサー王をキリスト教の擁護者として、そして同時にドルイド信仰の最高峰に持ち上げてしまったのだ。土地信仰と外来のキリスト教信仰が混在した(そう言えば「西遊記」も道教と仏教の混合だっけ。結構似た部分あるんじゃないかな?)不思議な物語になってしまった。文学的に見る限りは完成度が高く、ハリウッド作品のかなりの数はこの物語をベースとしているのは明か。 その「アーサー王の死」そのものを描いた映画はこれしかない。そう言う意味ではまさしく快挙と言える映画である(日本ではアニメ作品があったが、これが又、全然面白くなかった)。 「アーサー王の死」の物語は大きくいくつかのパートに分かれる。 1.ウーサー=ペンドラゴンがコーンウォール王になりすまし、彼の妻イグレーヌを奪い、それでアーサーが生まれる。 2.生まれてすぐアーサーは魔術師マーリンに連れ去られ、騎士の家に預けられ、騎士の従者にされるのだが、ある日偶然に王者しか抜けないとされる剣を抜いてしまう。 3.マーリンに誘われ、湖の精から宝剣エクスカリバーを手に入れる。 4.強い騎士を集め、ブリテン制圧に乗り出す。(ここで最大の友であるランスロットと出会う) 5.グイネヴィアとの結婚。ただ、グイネヴィアとランスロットは互いに一目惚れしてしまう。 6.ブリテン制圧が終わり、円卓の騎士が誕生する。 7.個々の騎士達の物語。重要な騎士パーシヴァル登場。 8.ランスロットとグイネヴィアの不倫関係。 9.失意のアーサーに姉のモーゲンが近づき、子供を得る。 10.聖杯探求。 11.モーゲンとその子モルドレッドが王位を要求。 12.果てしない戦闘の末のアーサー王の消滅。 これらは脚色さえすれば単独で一本以上の映画になるほどのクォリティを持つ(特に騎士の個々の話などは実に多彩で魅力に溢れている。機会があればエッシェンバッハの「パルツィヴァル」などを読んでみると良い)。実際、ハリウッドでは結構類型作品が見られるほど。それ程の凄まじい内容量を持つ作品だ。 だからこそ、そんなものを一本の映画にするためにはかなりの分量を削らねばならない。結局ウーサーとアーサーとランスロット、そしてパーシヴァル位しか中心はいなくなるのだが(前半の中心となるべきマーリンさえも狂言回し的な意味合いでしかない)、それでさえこの映画には詰め込みすぎの感がある。最近での『ハリー・ポッター』(2001)や、『ロード・オブ・ザ・リング』(2001)を彷彿とさせる。でも、あくまで魔法は付け足し程度で人間のドラマにした所は大正解。SFXもこれで充分。しかも、本作では「平和」というキーワードに「世界平和」と言う含みも持たせ、ちゃんと現代的に仕上げているのも見事なところ。 この映画の問題を一つ。上記の2と3を見ていただければ、岩から抜いた剣はエクスカリバーではないことがわかるだろう(実は岩から抜いた剣はあっけなく折れてしまう)。ところが、この映画ではエクスカリバーはアーサーの父ウーサーに与えられたことになっていて、それでウーサーが岩にそれを刺したことになっている。これは『エクスカリバー』と言う題に合わせるために敢えて行った改変だと思われるが、それでこの映画が放映されてから、岩から抜いた剣がエクスカリバーであるという理解がなされてしまった。それは誤解だよ。 ちなみにマロリーの「アーサー王の死」ではアーサーは死んだとされていない。エクスカリバーを湖に投げ込んだパーシヴァルが瀕死のアーサーの元に戻ると、そこにはアーサーはおらず、霧の中アヴァロンへと向かう船だけが見えて、終わる(実際アーサーが復活してローマに攻め込むと言う外伝もあり)。 後に押井守が『Avalon』(2001)を作った際、「勇者の眠る地アヴァロン」と劇中にあったが、まさしくこのアーサー王が眠る地アヴァロンが念頭にあったはず。 子供の頃読んだ「アーサー王と円卓の騎士」の魅力が忘れられず、機会あらば関連書籍を読みまくったため、つい長くなってしまった。でも一度好き放題あの作品の魅力を書いてみたいな。 |
エクソシスト2 Exorcist II: The Heretic |
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未来惑星ザルドス 1974 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
1974英アカデミー撮影賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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20世紀末に起こった核戦争により地球は荒廃してしまった。だがその後人類の一部は独自の文化を築きあげた。科学文明を進め、不老不死となった彼らはボルテックスという下界とは隔絶されたドームに住み、ドーム外にいる獣人と呼ばれる人間達を管理していた。だが獣人の一人ゼッド(コネリー)は、この支配体制に疑問を持ち、ボルテックスの正体を調べ始めるのだが… SF映画としては一種のカルト作として知られるこの作品。確かに物語はかなり破綻してるし、予算不足からSFギミックもかなり少な目(なんと100万ドルで作ってしまったのだとか)、さらにコネリーが全編赤褌姿だという、まるで羞恥プレイのような作品だけに、見た目から物語までまさしく“カルト”と呼ばれるだけのことはあるのだが、それでも70年代のSFに親しんだ人間にとって、本作は本当に喜ばしい作品である。 本作の物語は単純なようでいて結構ややこしい。主人公ゼッドを獣人と呼ばれる被支配者階級に置き、階級闘争のような話で展開していったと思ったら、今度はゼッドは支配者階級によりペットのようにされてちょっと喜んでたり、自分の同胞である獣人よりもむしろ支配者階級に共感を覚えてみたり、実は支配者階級の方が滅ぼされることを望んでいたという事実を知ってみたり。と、100分ちょっとの中によくここまで詰め込んだと思えるくらいの内容がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。そのためあまりにも展開が早く、脈絡が取れないため、置いていかれると何が何だか分からなくなってしまう。 小説と映画は違う。それは情報の質がまるで異なるため、小説で書かれたことを限りある映画でやろうとすると無理が生じるのだが、それを全く考えずに、映画で小説的な難解さを勢いで作ってしまおうというのが本作のコンセプト。内容は極めて難解で、観る人によって色々解釈が変わってくるのだが、まさしくそれが70年代SFの最大の特徴だった。行きすぎた科学に対する警鐘と、自然体で生きることの重要さ。そして人間の内面にこそ真理がある。という、まさしくヒッピー文化が引っ張っていった疑似科学がここには目一杯詰め込まれてる。それを何の衒いもなく、更にアクション大作にするつもりもなく淡々と作り上げてしまったのが本作。 私も最初はこれ単なるアクション作だろうと思って観始めたら、中盤からの展開の凄さに目を離せなくなってしまった。無茶苦茶人を食ったオチも秀逸。 でも本作で何より楽しいのは、ブアマン監督の「俺はこんなのを作りたいんだ!」という自己主張がそこらかしこに見えることだと思う。まさしくこの作品はブアマンという人物の“顔”が見える作品なのだ。この自己主張っぷりが痺れる。 一方ではツッコミ所も無茶苦茶多い作品でもある。表題である“ザルドス”とは、前半部分に出てきた空飛ぶでっかい顔のことだが、これが具体的に何であるのか全く語られることなく、活躍もしない。わざわざラストでザルドスの謎解きまでやっているのだが、その意味も物語上の必然性が全く無い。特に全編ふんどし姿のコネリーの姿は強烈なインパクトあり。特にコネリーはかなり毛深いので、上半身裸だと胸毛にばかり目が行ってしまい、笑わせようとしているのやら、気持ち悪わせたがってるのやら、判断付かない個性を見せてくれる。 でも無茶苦茶っぷりが逆に楽しくなる、真に“愛すべきSF映画”とは、このような作品のことを言うのだ。 |
脱出 1972 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
1972米アカデミー作品賞、監督賞(ブアマン) 1972英アカデミー撮影賞 |
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エド=ジェントリー(ヴォイト)、ルイス=メドロック(レイノルズ)、ドリュー(コックス)、ボビー=トリッピ(ビーティ)の4人は、ジョージア州にあるカフラワシー川がもうすぐダムによってつぶされることを聞き、最後のカヌー下りを楽しみにやってきた。愛想の悪い現地オーリーの人たちに車を運んでもらってカヌーをこぎ始める。だが、これが彼らにとって恐怖の始まりとなる… アメリカの詩人ジェームズ=ディッキーの長編小説をディッキー自身が脚色し、ブアマン監督が映画化(保安官役でディッキー本人も登場している)。1973年全米興行成績1位。 映画を観るモチベーションというのは人それぞれだと思う。派手なアクション作品を観るのも、芸術的な作品を観るのも、それぞれの好みに他ならないのだが、映画を観たい!と言うのは、やはり感情を揺さぶれるものを観たい!と言うのがやはりモチベーションの最たるものではないかと思う。 ただ、そうすると、感情を揺さぶられる。というのは個人的なものになっていくし、時代にも左右されていく。 実際、本作は現代の目で観る限り、物語は単純な上に、アクションと言っても全部騙し討ちみたいなもので、爽快感がない。あるのは絶え間ない緊張感とその後の虚脱感ばかり。 これが当時のアメリカ人にとって受け入れられたのは何故だろうか?と考えると面白い。映画を通して時代を観るというのは、なかなか楽しいもんだ。 時代を考えると、この当時は丁度ヴェトナム戦争の真っ只中にあり、厭戦気分が高まっていた丁度その時代であり、しかも戦争に出た兵士達も数多くいたはずである。戦争のPTSDに苦しめられている元兵士達の心情を考えてみると、本作の意味合いってものが見えてくる気がする。 彼らの苦しみはそのまま本作で生き残った主人公達の苦しみでもあったのでは無かろうか? 戦争に正々堂々はない。生き残るためには相手の見えない所から銃を撃って敵を殺さねばならないのだし、逆にいつどこから撃たれるか分からない。その緊張状態の中でずっと過ごすことになる。 そう言う人間から観てこそ、実は本作は分かってくるのかも知れない。彼らにとってこそ、本作は非常にリアリティが高い作品なのかも。 主人公達にとって、現地の人間は得体の知れない存在であり、そして恐ろしい存在でもある。そのような存在に対して出来ることは、やられる前にやるという先制攻撃だけ。しかし一方では、相手は人間だから、本当に殺してしまったら法的に罪に問われてしまう。 結局そうやって一線を越え、しかも自分たちが助かる道を選んでしまった彼らは、これから後、後遺症に悩まされつつずっと過ごすことになるのだろう(あるいは最後にダムから出てくる手は、彼らにとっての“救い”になったのかも知れない)。 …考えれば考えるほど鬱になりそうな気がするが、それこそがリアリティと言う奴。 映画を楽しむモチベーションとは、あるいはこうやって「俺だけじゃないんだ」と思わせる共感が得られるものであるのかもしれない。 最初に「爽快感がない」と書いたけど、川下りのシーンなどでダイナミズムは遺憾なく発揮されているので見応えは充分にあり、本作が単なる鬱に陥れるために作られたものではないことがよく分かるし、レイノルズが決してヒーローとしては描かれてないのにも、新境地への意気込みが感じられる。決して単純なヒーローを描かないのはブアマン監督らしさでもあるけど。 ちなみに本作がネッド=ビーティのデビュー作なのだが…男に犯される役とは災難だった。 |