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特撮事典

ギリアム作品

ブラザーズ・グリム

2005年
テリー・ギリアム(監)
 19世紀。フランス統治下のドイツで。兄ウィル(デイモン)と弟ジェイコブ(レジャー)のグリム兄弟は各地の村を旅し、魔物退治の傍らその地に伝わる古い物語を集め回っていた。だが、その魔物退治がインチキであることがばれてしまい、将軍ドゥラトンブにより捕らえられてしまった兄弟は、ある村で起きている少女連続失踪事件の解明を命じられる。村の漁師の少女アンジェリカ(ヘディ)の助けを借り、森の奥深く入っていく兄弟だったが…
 本当に久々のギリアム監督の新作。この日をどれだけ首を長くして待ったことか。思えば3年前に監督のライフ・ワークである
『ラ・マンチャの男』を映画化すると聞いて、どんなことがあってもこれだけは観るぞ!とわくわくしてたもんだが、結局それはお流れ(その顛末は『ロスト・イン・ラマンチャ』(2001)に詳しい)。その後しばらくして、今度は「グリム兄弟やるぞ」とのニュースが。
 ヨーロッパの中世に大変思い入れのある監督のこと。これもやってくれそうな予感はあったので、本当に指折り数えるようにしてこの日を待った。そして期待度は無茶苦茶高いままに劇場へ向かう。
 うん。監督らしいギミックや演出に溢れており、容赦ない描写も所々散見できる。これは確かにギリアム作品だ。物語としても、結構面白くはある。フランスとドイツの軋轢やシュヴァルツヴァルトの森を中心に持ってくるなど、設定もなかなか練り込まれてる。
 だが、それでどうだったか?と言われたら、首を傾げてしまう。
 ギリアム監督は常に私に新鮮な驚きを与えてくれる。どちらも一般的な評価は低いが、『バロン』(1989)では、
「他の誰がなんと言おうと私はこれが作りたいんだ!」という主張に溢れた作品を。『ラスベガスをやっつけろ』(1998)では、これまで培ってきたものを一旦全部取っ払い、それでも尚監督にしか作り得ないものを作り上げてくれた。だから、観るたびに何かしら新鮮な驚きがそこにはあったのだ。
 しかし、本作ではどうだろう?確かに監督っぽさは保持している。だがそれは
「周りの人にどう思われているか?」という観点でのみの演出であり、たとえ“らしさ”はあっても、完全な妥協でしかなかったようにしか思えない。作りが受けに回ってしまったとしか思えない。
 一言言わせてもらうと、
「ギリアムは守りに入っちゃいけない監督なんだよ!」と言うことである。彼の作りたいように、そして自分の思いの丈をぶっつけて作って欲しかった。それがたとえ世間から“失敗作”と言われようとも、彼のそう言う姿勢こそがコアなファンを作ってきたんだろう。失敗を恐れて手堅く作ろうなんて、そんなギリアム監督の姿は見たくないんだ。
 折角グリム兄弟という魅力的な素材を使っておきながら、物語に深く入り込むことなく、上っ面だけ物語をなぞって単なるアクションにしてしまったのはあまりにいただけない。グリム兄弟作品をほんの少しだけ出して、味付けだけで済ませてしまうなど、ほとんど『シュレック』(2001)と変わらないぞ。『狼の血族』(1984)のニール=ジョーダンあたりの突っ込んだ、残酷な描写が欲しかった。あそこまで引っ張って最後に単なるハッピーエンドで終わらせるってのも寂しすぎる。現実との境界が曖昧になり、物語の中に分け入ってしまう位の演出を期待してたのに。
 それに毎回凝った仕掛けで楽しませてくれるのに、今回はセンスのないCGの使い方がやたら多く(ここまでCGモロ分かりの演出も無かろう)、それも引く。あんなCG使う位だったら手作りの特撮でやれ!
 キャラに関しては、やっぱり主人公二人が間違ってなかった?兄弟が逆の方が絶対はまったよ。ベルッチももうちょっと妖艶な美しさ出せる人なのになあ。カヴァルディが最後に改心してしまう過程も全然描写不足。
 最後に、猫好きな人間に「レアだな」を見せつけるのはあんまりだよ
(そう言えば兄弟の名前って兄がヤーコブで弟がヴィルヘルムだったはず。逆じゃないのか?ひょっとして配役を変えた?)
 期待度が高すぎた。しかし、かといって低い点数付けるのもはばかれる…ギリアムファンとして、これがギリギリの評価だ。

 

アンジェリカ
【あんじぇりか】
 村に住む娘。猟師である父を森に失い、女だてらに猟師して幼い妹たちを守っていたが、森の魔女に妹たちをさらわれてしまい、グリム兄弟の探検に同行する。 甘崎
ウィル
【うぃる】
 ウィル=グリム(正確な名前はヴィルヘルム=カール=グリムで、本当は弟のはず)。グリム兄弟の兄。兄弟の主導権は常に彼が持ち、結構な女好きでもある。役はマット=デイモン。 甘崎
カヴァルディ
【かう゛ぁるでぃ】
 ドゥラトンブ配下の武人で、拷問をこよなく愛する危ない人。しかし同時にグリム兄弟の話のファンでもあったことが分かる。訳はピーター=ストーメア。 甘崎
ジェイコブ
【じぇいこぶ】
 ジェイコブ=グリム(正確な名前はヤーコプ=ルードヴィッヒ=カール=グリムで、本当は兄のはず)。グリム兄弟の弟。物語の収拾に血道を上げるというかなりオタクっぽい描写がされている。役はヒース=レジャー。 甘崎
ドゥラトンブ
【どぅらとんぶ】
 ドイツに駐屯するフランス軍の将軍。森の魔女を退治するためにグリム兄弟を利用する。 甘崎
森の魔女
【もり-の-まじょ】
 伝説によれば500年前に領主の元に嫁いできた女王で、永遠の若さを手に入れようとしたが、それは失敗し、永遠の命だけを得てしまう。結果、既に骨と皮の存在。役はモニカ=ベルッチ。 甘崎

Dr.パルナサスの鏡


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2009年
テリー・ギリアム(監)
 2007年。心の中の欲望を鏡の向こうの世界に創り出す装置“イマジナリウム”を看板とするDr.パルナサス(プラマー)率いる旅芸人の一座がロンドンにやってきた。しかし、怪しげな装置に興味を示すのはほとんどおらず、せいぜい酔客が冷やかし半分に入る程度。しかも入ってしまうと行方不明になってしまうという体たらく。結果逃げ出すように転々と場所を変えていくことになるのだが、そんな中、パルナサスの娘ヴァレンティナ(コール)は偶然首を吊られている男を発見し、救い出すことに。何か訳ありのその男はトニー(レジャー)と名乗り、一座に加わる。彼の魅力で女性客が増え始めるが…
 
『ローズ・イン・タイドランド』以来沈黙を保ってきたギリアム監督が再び世に出したファンタジックな作品。元々は『ブラザーズ・グリム』で主演を演じさせ、『ダークナイト』のジョーカー役でブレイクしたヒース・レジャーを主演に据えていたのだが、その急逝によって完成さえ危ぶまれてしまった(この監督は映画制作に不運な事態が起こることで有名)、代役としてジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルと言う、これ又当代きっての名優を代役にすることで完成させた(ギリアム監督の人徳と言うよりはレジャーの遺作をきちんとしたいと言う事のようだけど)。お陰でとてつもなく豪華な作品に仕上がった。
 ギリアム監督は基本的にファンタジー作家だと思う。空想の遊びの上に極彩色の夢のような世界を与えてくれる。
 ただし、それが
極めて”悪夢”に近いと言う点が子供の描くファンタジーとは異なるところ。夢の世界なんてものはたいがい碌でもないものばかりだが、その碌でもない夢というものを描き続けるのがギリアム流と言ったところだろうか。
 そんな”悪夢作家”ギリアムが一般的にも一番脂が乗っていたのが丁度「バンデットQ」や「バロン」を作っていた時期に当たる80年代だった。衒学的に陥ることも、殊更残酷な描写になることも無く、ある意味最も観客の立場を考えて作った作品といえるかもしれない。
 以降の作風はどんどん悪夢描写へと深化していき、子供っぽいおもちゃじみた画面はなりを潜めてしまう。お陰で好事家ばかりが楽しめるカルト作家になってしまったのだが、そんなギリアムが再び円熟期の物語に帰ってきた。ファンとしては喜ばしいことだ。
 それで何故久々にこんなダークファンタジーを作る気になったのか、その理由を”勝手に”考えてみると、ようやく映画の技術がギリアムの求めていた水準に達してくれたから。と言うのが一番の理由なのでは無かろうか?
『バンデットQ』なり『バロン』なりふんだんに特殊撮影は用いられていたが、あくまでそれは「特撮」のレベル(…って私が言うのもなんだが)。それらが不自然無く画面にとけ込めるだけ映画の質が上がってきたと言うことだろう。
 まずはそれを素直に喜びたいと思うが、やっぱりギリアムはギリアムで、物語は分かりづらく出来ているのが難点。
 それで改めて本作を眺めてみると、一応話の中心はレジャー演じるトニーと言うことになるだろうが、本質的には主役はパルナサスの方にある。
 自ら瞑想状態になることで、人を夢の世界につれていくことが出来るパルナサス。その夢の中で正しい道に導き、決断させることを目的にしているのだが、それには理由がある。

 本来「世界を創る」賢者であったパルナサスは悪魔(?)ニックの手によりその任を強制的に解かれ、ニックとのゲームに参加させられた。ニックが彼を選んだ理由は、パルナサスが人の精神を解放させることが出来る。と言う特殊能力を持っている事が第一だろうが、基本はおそらくそれは永遠の命を持ってしまった彼の気まぐれ、あるいは自分のなすゲームのプレイヤーとして選ばれた、いわば暇つぶしの相手に過ぎない。
 だからニックは一見無謀とも見える賭をパルナサスに対してふっかけるが、実はそれに勝とうなどと言う考えはない。無理難題を前に悪戦苦闘するパルナサスを見ることだけが彼にとっての楽しみなのだから。だからこそパルナサスに不死まで与えて、しかも自分との約束を定期的にとりつけて面白がっている。いわば悪魔に見入られてしまった存在であろう。ニックは定期的にご褒美をパルナサスに与えることによって絶望に陥る事を防ぎながら、その中で苦しみ悶えるパルナサスを見て楽しんでる。悪魔と言っても、その実は全く分からず、彼はいわば、グノーシス思想におけるデミウルゴスのような存在として取って良かろう。見入られた方はたまったものじゃないけど。
 神によって魅入られてしまった男にとって自由意志など存在しない。強制的に神の暇つぶしのゲームにつきあわされた挙げ句にボロボロにされ、絶望にうちひしがれた姿を晒して悪意の神を楽しませるしかないのだから。
 しかし、それで一番悲惨なのは、その事をパルナサス自身が知っていると言うことなのかも知れない。知らない時は、試練を乗り越えてついに不死を得たり、あるいは若さを手に入れたと思っていたかもしれないが、それ自体が実は更なる絶望を引き出すための下準備に過ぎないのだから。
 ラストシーン、ニックに奪い去られたはずのヴァレンティナがロンドンの片隅で慎ましやかに家族を持っていることが描かれるのだが、恐らくはこれまたニックの策略で、パルナサスが触れることができないところでヴァレンティナが幸せになっているということを示すことで、まだゲームは終わってない。ということを暗示しているのだろう。
 だから本作は決してハッピーエンドではない。なにせこれから先、パルナサスは永遠とも言える生の中、ニックに悩まされ続けることになるのだから。
 こう言った悪意をあたかもハッピーエンドのように提示してくれるギリアムって、だから大好きだ。

 まあでも本作の場合、物語云々よりもレジャーの遺作として、あるいは豪華な俳優陣で記憶される作品ではあろう。何せ鏡の中に入ったトニーを演じるのがデップ、ロウ、ファレルという、当代きっての男優ばかり。見ごたえあるのは当然だろう。
 その中でも一番期待していたのがデップだったけど(何せかつて主演で演じるはずの『ラ・マンチャの男』が失敗したという経緯もあるし)、三人の中では一番はまって見えなかったのはちょっと残念なところだった。何でも撮影に二日しか取れなかった人のことで、役作りをする時間がなかったのだろう。
 その点はちょっと残念だったが、あとの二人はちゃんとはまってたし、こういう悪意に満ちた物語が大好きなので、充分満足いった。

 

アントン
【あんとん】
 旅芸人の一員。ヴァレンティナに恋心を憶えている。 甘崎
イマジナリウム
【いまじなりうむ】
 パルナサスが開くことが出来る人間の心の願望の世界。ここで誘惑に打ち勝った人間はそのまま生還できるが、欲に駆られた人間はニックに魂を取られる。 甘崎
ヴァレンティナ
【う゛ぁれんてぃな】
 パルナサスの娘で旅芸人の花形ヒロイン。16歳になった時にニックにその身を奪われる定めだった。 甘崎
Dr.パルナサス
【どくたー-ぱるなさす】
  甘崎
トニー
【とにー】
 ヴァレンティナによって命を救われた記憶喪失の男。口が巧く、イマジナリウムの中に入った女性を虜にしてしまう技量を持つ。現実世界ではヒース・レジャーが、鏡の中ではジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルが演じた。 甘崎
パーシー
【ぱーしー】
 旅芸人の一員。パルナサスとは旧知の仲で、パルナサスのことは何でも知っている。 甘崎
Mr.ニック
【みすたー-にっく】
 パルナサスの後をいつもついて回る奇妙な男。僧院にこもり、この世界の物語を紡いでいたパルナサスを現実世界に引っ張り出し、意味のない賭を何度となく仕掛けてくる。 甘崎
名称
【】
  甘崎