書籍 |
アート&メイキング・オブ・ダークナイト・トリロジー |
コミック |
DCvs(バーサス)マーヴル |
DCユニバース:レガシーズ Vol.1 Vol.2 |
オールスター:バットマン&ロビン ザ・ボーイ・ワンダー |
バットマン イヤーワン/イヤーツー |
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1968年 レスリー・H・マーティンソン(監) |
かつてゴッサム・シティを恐怖に陥れた悪の天才たち、ペンギン、キャットウーマン、ジョーカー、ナゾラーが連合軍を組んだ。世界征服をたくらむ彼らの野望を阻止すべく、立ち上がったバットマンとロビンは新兵器を駆使し、彼らと戦う! いやあ、笑った笑った。バットマンというと、どうしてもティム・バートン版を思い浮かべてしまうが、オリジナルはもっと馬鹿げていて、こんなに楽しい作品だったんだね。 見所満載、突っ込み放題、笑えるシーンの連続は、単純なヒーロー作品とは一線を画した、ある意味素晴らしい出来だと言える。もう笑った笑った。 あんまり楽しかったもので、一つ一つのツボを挙げてみたい。 まず最初の出撃でバットコプターからバットマンが降りてくる所でサメに食いつかれるシーン。サメが全く動いてないと言うのは兎も角、バットコプターの中に「サメ撃退スプレー」が常備されているというのが凄い。備えあれば憂いなしとは言うが、こんなどうしようもない備えをしてるのが愛すべきだね。 あっさり誘拐されてしまうウェイン(実はバットマン)。ヒーローが誘拐されてしまうと言うのは結構あるけど、その過程が簡単にキャット・ウーマンの色気に参ってしまって。しかもそれを監視するはずのロビンとアルフレッドがそんなブルースの姿を観るのを嫌がって、と言うのもかなり間抜け。 悪人の巣窟。一応この基地はペンギンの持ち物の潜水艦で、そこに四人の悪人が集まっているのだが、手下は常に3人しか出てこない。(一応あっという間に消えてしまうやられ役で他にも5人出てくるけど)首領の方が多い悪の組織って、何か貧乏くさいな。(大体提督を誘拐したは良いけど、その給仕を人任せにせず、ジョーカー本人が行ってるってのも良い) 爆弾を持ってうろうろするバットマン。これがこの作品の白眉ではないか?いつ破裂するか分からない爆弾を抱え、放り投げようとすると必ずそこには人がいる。ただ、そこに出てくる人間はかなり少なく、しかも爆弾がそこにあると言う事実を全く無視して平然と歩き回ってる。それに対してあたふたし続けるバットマンの姿が実に微笑ましい。 ペンギンの開発した超兵器。人の水分を取り去り、粉末状にして持ち運ぶと言う恐ろしい兵器だ。フリーズ・ドライ人間というのはなかなか楽しい設定なんだけど、その粉末を全て試験管に詰めるキャット・ウーマンに対し、ペンギンが「こぼすなよ」と注意しながら、どう見てもボロボロこぼれてる。こんな状態で再生したら一体どうなる? バットコプターがミサイルに当たってしまい、不時着の後、国連本部まで走るバットマンとロビン。何とヘリコプターが逆さまになると言うあり得ない描写は構わないんだけど、ゴッサム・シティって、実はニュー・ヨークであったという衝撃の事実がここで明らかにされている。 潜水艦上で戦うバットマンたち。“CRAAAK”とか“BOON”とかの演出はやっぱりバットマン。やっぱりこれがないとね。それはそうと、水の中に引きずり込まれるロビンとかが結構哀れだぞ。 ラスト、国連安保理委員を助け出したはいいけど、ミスを犯してしまって逃げるバットマンとロビン。これよ。このコソコソ感があってこそのバットマンよ。 格好良いだけのヒーローは数多くあれど、映画でこれだけ笑いを取れるヒーローは、バットマンをおいて他にない!絶対肯定。真面目に作って馬鹿としか思えない作品は嫌だが、狙って馬鹿をやってる作品は大好きだ。 |
アルフレッド | → | |||
【あるふれっど】 | ||||
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キトカ | → | |||
【きとか】 | ||||
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キャットウーマン | → | |||
【きゃっと-うーまん】 | ||||
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ゴッサム・シティ | → | |||
【ごっさむ-してぃ】 | ||||
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サメ撃退スプレー | → | |||
【さめ-げきたい-すぷれー】 | ||||
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ジョーカー | → | |||
【じょーかー】 | ||||
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ディック | → | |||
【でぃっく】 | ||||
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ナゾラー | → | |||
【なぞらー】 | ||||
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バットコプター | → | |||
【ばっと-こぷたー】 | ||||
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バットマン | → | バットマン 1966/ アダム・ウェスト as バットマン 1/4 アクションフィギュア | ||
【ばっと-まん】 | ||||
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バットモービル | → | |||
【ばっと-もーびる】 | ||||
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フリーズ・ドライ人間 | → | |||
【ふりーず-どらい-にんげん】 | ||||
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ブルース | → | |||
【ぶるーす】 | ||||
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ペンギン | → | |||
【ぺんぎん】 | ||||
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ロビン | → | |||
【ろびん】 | ||||
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1989 ティム・バートン(監) |
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市制200年祭を迎えようとするゴッサムシティ。犯罪組織のボスのグリソム(パランス)は右腕のジャック(ニコルソン)が自分の女と姦通した為、罠を張って警察に追いつめさせる。何処からともなく現れたバットマンに化学工場に追いつめられたジャックは廃液の中に沈んだ。謎のヒーローのバットマンの正体を取材すべくジャーナリストのビッキー(ベイシンガー)は活動を開始。そんな中で大富豪のウェイン(キートン)と知り合い恋に落ちた。一方、九死に一生を得たジャックはジョーカーとして生まれ変わりグリソムを殺害。バットマンに復讐を誓うのだった… 本作はティム=バートンが『ビートル・ジュース』(1988)に次いでマイケル=キートンを主役に据えて作り上げた作品。以降の『バットマン』シリーズの方向性を決定づけた作品である。有名なアメリカン・ヒーローの映画化とあって、製作元のWBも総力を挙げてこれを支援(公開時には関連キャラクター商品として160件ものライセンスを発行し、ライセンスだけで約5000万ドルを稼ぎ出す)。大ヒットを飛ばすこととなった。 相変わらず好調のオープニングの作りは、『ビートル・ジュース』、『シザーハンズ』(1990)の間にはまった面白いカメラ・ワークで、町並み(あるいはオブジェ)に肉薄し、流れるように移動する。そして最後に空高くに上がって今まで見てきたところを俯瞰して見るのだが、それが三作品それぞれに全く違う。この作品ではそれが巨大なオブジェであり、しかもそれが巨大なバットマンのマークになっているという凝りよう。いいねえ。このケレン味。 『ビートル・ジュース』のベテルギウス役で馬鹿に徹したキートンがヒーロー役?と、ちょっと危惧があったが、意外にもこの役に良くはまっていて、キートンの芸風の幅というものを感じさせてくれた。そしてバットマンに絡むジョーカー役がジャック=ニコルソン!これ程はまった役は無かろう。見事に役柄にはまった二人が織りなす狂気の映像。まさしくそれがバートンの求めたものだったのかもしれない。 特にニコルソンの、完全に向こうの世界にイッてしまった演技は特筆もので、あの意味不明で謎めいた台詞「月夜に悪魔と踊ったことがあるか?」。自分を罠にはめたグリソムに向かって大笑いしながら何発もの銃弾を撃ち込むシーン、地の皮膚が白くなってしまったため、変装のために肌色を塗りつけるシーン。色物のように見えて、その魅力を最大限に活かしていた感がある。ジョーカーという名前の通り、まさしく“笑いの狂気”と呼ぶにふさわしい。残酷で狂気に彩られたジョーカーこそが実は本作の主役なのかも知れない。 ゴシック建築風に作られたゴッサム・シティの造形は見事で、昼のない夜だけの町並みを巧く表現していたんじゃないかな?確かに前評判ほどスピード感は感じられなかったけど、逆にそれがバットマンの武器をくっきりと映し出していたし。やや凝りすぎの感があるカメラ・ワークが良い。それになにより、バットマンは夜の町が似合う。ゴテゴテしたゴッサム・シティだからこそ、彼の姿は映えるのだ。 ところで、アメリカン・ヒーローというのは古来、人を守って戦った。彼らは家庭では良き父親であり、夫であるのだが、人のため、又国のために働くことに疑問を抱くことなく、基本的に争いは嫌いでありつつも、正義を遂行するためには敢えて悪人殺しを辞さない人間だった。オリジナルのバットマンでもそれが踏襲されていたはずだ。ところがここでのバットマンはそう言う倫理観は持ち合わせていない。彼はただ、悪を憎み、悪を撲滅するためだけに活動する。結果としてそれが人助けとなることはあっても、ある意味彼の行っていることは命がけの趣味に過ぎない。考えてみれば迷惑な話だ。これってひょっとして『ダーティ・ハリー2』(1973)の白バイ警官や、『セブン』(1995)の犯人に近いんじゃないか?描きようによってはモロ悪人にもなってしまう。 そのようなヒーロー像を作り上げたバートンが、私は大好きだ。 |
アルフレッド | → | |||
【あるふれっど】 | ||||
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グリソム | → | |||
【ぐりそむ】 | ||||
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ジョーカー | → | |||
【じょーかー】 | ||||
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月夜に悪魔と踊ったことがあるか? | → | ジョーカー | ||
【つきよ-に-あくま-と-おどった-こと-が-あるか】 | ||||
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バットウィング | → | バットマン | ||
【ばっと-うぃんぐ】 | ||||
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バットマン | → | ブルース | ||
【ばっと-まん】 | ||||
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バットモービル | → | バットマン | ||
【ばっと-もーびる】 | ||||
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ブルース | → | |||
【ぶるーす】 | ||||
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1992年 ティム・バートン(監) |
クリスマスを迎えようとしているゴッサム・シティの地下で暗躍する陰。30年前に親に捨てられ、ペンギンに育てられたというペンギン(ダニー・デヴィート)が部下をひきつれて復讐に現れたのだ。一方街の実力者マックス(ウォーケン)の秘書であるセリーナ(ファイファー)は、街の電力を全て我がものにしようとするマックスの陰謀を知ってしまったためにビルから突き落とされたが、新しくキャットウーマンとして蘇生するのだった。ペンギンとキャットウーマンとが組み、バットマン(キートン)を悪者に仕立て上げようとする…シリーズ第2作。 先の『バットマン』(1989)で新しい感覚のダーク・ヒーローを作り出し、大ヒットを記録したバートン監督&キートンによる第2作。とてもそうは見えなかったが、バートン監督は初のハリウッド大作のプレッシャーから「死にかけた」とまで語っていた。それで第2作となる本作では、細かいところにマニアックな名称やアイテムを配し、自分自身のフィールドに持ち込み、のびのびと作っているのがよく分かる。 悪に対して全く容赦しないバットマンの姿は前作以上に映え、夜の中、黒いスーツを着た三人の主人公が舞い飛ぶ(本当にこの作品は踊りが結構入ってる)。演出も良い。 ただ、本作の最大の目玉は俳優の方にこそあり。1作目でニコルソンの怪演ぶりが話題になったが、それに増して役者の個性が光っている。 物語は1作目を更にダークにした感じではあるが、悪役が二人になった分、物語がやや複雑化。ペンギン、キャットウーマン、バットマンそれぞれが主人公格で見所を作ったため、やや散漫な作りになり、主人公であるはずのバットマンが単なる悪人を懲らしめる役割しか担わなくなってしまった。でもそれを逆手に取り、悪を憎むバットマンの行動を極端化させることによって、あたかもバットマン自身が悪人であるかのように描写することにも成功している。悪人にはどんな卑怯な手も許されるという割り切り方で、ここまで悪人っぽいヒーローはなかなかお目にかかれない。今回のアルフレッドもブルースの行動を半ば諦めたかのように見つめている。この辺の細かい描写があるからバットマンのダークヒーローぶりが映える。 この設定があるからこそ、昼と夜の人格の使い分けが俄然面白くなる。二面性を持ったキャラを二人使う事で面白い駆け引きが楽しめるようになった。ブルースとセリーナは日中は善男善女として表の顔を見せ、夜になるとヒーローと悪人へと変身。しかし、実態はどっちも自分の欲望に忠実なだけで、やってることに差はない。どっちも悪人と言えば悪人になってしまうのだ。その微妙なバランスが最後まで続く。そう言う意味ではメインストーリーから外されてしまった感のあるペンギンだが、こいつはこいつでデヴィートが思いっきり悪ノリしてのびのび演じているので、これも充分(前作ではニコルソンが怪演ぶりを見せていたが、実はデヴィートとニコルソンは個人的にも友人だったので、ライバル意識があったんだと思われる)。 このバランスを上手く仕上げれば名人芸とも言えるのだが、ただ、バートンはそこまで細かい監督じゃないので、役者に好き放題演らせただけ。という印象もあり。その辺ちょっと散漫さも感じるのだが、撮ってる本人が楽しんでそうなので、それで良いのだろう。 今回ファイファーのキャットウーマンぶりはバートン監督もお気に入りだったらしく、彼女のスピンオフ計画も立てたらしいが、それは流れてしまい、流れ流れて12年後にハリー=ベリーを主役に迎えて『キャット・ウーマン』(2004)が出来ることになるのだが…作らなかった方が良かったんじゃ無かろうか? |
アヒル号 | → | ペンギン | ||
【あひる-ごう】 | ||||
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オズワルド | → | ペンギン | ||
【おずわるど】 | ||||
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キャットウーマン | → | |||
【きゃっと-うーまん】 | ||||
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セリーナ | → | キャットウーマン | ||
【せりーな】 | ||||
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ペンギン | → | |||
【ぺんぎん】 | ||||
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ペンギン・ミサイル | → | ペンギン | ||
【ぺんぎん-みさいる】 | ||||
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マックス | → | |||
【まっくす】 | ||||
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1995年 ジョエル・シューマカー |
バットマン=ウエイン(キルマー)の活躍に守られるのゴッサム・シティ。だが悪の根は決して消え去ることはなく、次々に悪者は現れ続けた。かつて敏腕検事だったが法廷で硫酸をかけられて人格崩壊に陥った怪人トゥー・フェイス(ジョーンズ)、ウエインの会社に次々と危険な発明品を持ち込んでは断られ続けたエドワード・ニグマ(ジム・キャリー)がウエインを逆恨みして誕生したリドラーの二人が手を組み、バットマンに挑戦してくる。一方ウエインは精神科医Dr.チェイス(キッドマン)と知り合い、惹かれるものを感じるのだが、彼女はバットマンの精神分析に夢中になっていた。さらにトゥー・フェイスの部下に家族を殺された空中ブランコ乗りのディック・グレイソン(クリス・オドネル)も現れ… バートン監督&キートンのコンビでヒットを記録した新生バットマンも、シリーズ3作目となった本作は、監督・主演を変えて、再びコミカル路線へと方向転換した。 DCコミックの二大ヒーローの一方の雄『バットマン』の誕生は、徹底的に陽性の『スーパーマン』に対する一種のアンチテーゼとして誕生したヒーローだった。だからこそ、夜に限定された世界で闇を象徴するコウモリをシルエットとし、一種病的に悪を憎む存在として描かれた。しかしコミックが進むに従い、バットマンの性格は徐々にソフトに、出てくる敵はコミカルに、そして話も馬鹿馬鹿しく変わっていく。これはある意味では冷戦構造下で単純なヒーローを時代が求めたと言うこともあるだろうが、大きいのは相棒ロビンの登場によるものだった。彼の登場によって、バットマンはこれまでのように孤独なヒーローではなくなり、ロビンを頼れる仲間としつつも、暴走しがちな若者を抑える老成したメンターとしての役割を持つようになったのだ。悪に対しまっすぐ突っ込んでいって逆にやられるロビン、そしてそれを知恵で助けるバットマン。という構図を持つに至ったのである。それがコミカルさに拍車をかける結果となった。 ただし、70年代に入り、価値観多様が叫ばれるようになるとDCコミックは衰退してしまった。世の中が複雑であることを知った子供にとっては、単純明快なヒーローはおとぎ話とさほど変わらなくなってしまったのだ。その結果として、低迷したDCは、バットマンを脱構築させ、完全な闇のヒーローとして新生させた『ダークナイト』を発表。当時はさほど受けなかったようだが、映画のバートン版『バットマン』は明らかにこの『ダークナイト』に大きく影響を受けていて、複雑なヒーローを作り上げてくれていた。 こう言った歴史をあらかじめ考えあわせてみると、本作はバートン版の『バットマン』が変質したものではなく、実際はコミック版の歴史を遅れてたどって元の路線に戻ったのだと言うことが分かる。歴史はぐるっと回り、90年代で一つの円環を作り上げたと言うわけだ(結局それはさらに10年後、ノーラン監督によって再度変えられていくが)。 この良し悪しはここでは言うつもりはないが、今回については詰めすぎとしかいえない。なんせトゥー・フェイス、リドラー共に誕生から書かねばならないし、そこにロビンの誕生話と、新しい女性キャラとブルースの恋愛物語…今回の路線をお祭り騒ぎにしようという狙いはともかく、出てくるキャラが多すぎてしまい、自家中毒を起こしてしまった感じ。これをまとめようと言う脚本の努力は認めるが、到底まとめ切れるものじゃなかった。 トミー・リー・ジョーンズ、ジム・キャリー共に重要なキャラだが、二人とも目立たせようとしたら、どっちも目立たなくなってしまった。特にトゥー・フェイスは『バットマン』のジョーカーとキャラがかぶってるために、どうしても「ニコルソンだったらなあ」という思いが出てしまうし、キャリーはキャリーでそのエキセントリックさが空回りで終わってしまった感じ。あと、オドネルは悪くないが、ロビンの誕生は話を端よりすぎ。このキャラの存在意義を出すことができなかった。これじゃ単なるおっきな悪ガキだろ? 結局お祭り騒ぎが空騒ぎに終わってしまった。と言うのが正直な感想。いろいろ残念。 |
シュガー | → | |||
【しゅがー】 | ||||
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スパイス | → | |||
【すぱいす】 | ||||
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チェイス | → | |||
【ちぇいす】 | ||||
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トゥー・フェイス | → | |||
【とぅー-ふぇいす】 | ||||
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マインド・コントロール装置 | → | |||
【まいんど-こんとろーる-そうち】 | ||||
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リドラー | → | |||
【りどらー】 | ||||
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ロビン | → | |||
【ろびん】 | ||||
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キャット・ウーマン |
2004年 ピトフ(監) ハリー=ベリー、シャロン=ストーン、ベンジャミン=ブラッド、ランベール=ウィルソン |
華やかな広告デザイナーの世界にあってペイシェンス=フィリップス(ベリー)は、内気のためぱっとせず、高慢な社長のジョージ=ヘデア(ウィルソン)とモデルでもある社長夫人ローレル(ストーン)に鼻であしらわれていた。そんなある日、ペイシェンスは偶然にまもなく発売になる若返りクリーム"ビューリン"が恐ろしい副作用を持つことを知ってしまった。それが元で会社の人間に追われ、廃水と共に海に流されて絶命してしまう。だが彼女は、廃水の影響で超人的な能力を持つキャットウーマンとして新しい命を授かる… バートン監督がバットマン・リターンズを作った際に登場したキャットウーマン。オリジナルのTVシリーズでは単なるお色気キャラだった彼女を闇の住民として描いたバートンはこのキャラをいたく気に入り、彼女をフィーチャーしたスピンオフの企画を立てたが、それは流れに流れ、10年以上も経ってようやくピトフ監督の元で完成した。 キャットウーマンがあのフェロモンの固まりベリーだと言うことで当初は期待したが、敵役がストーンと聞いた途端劇場で観る気をなくす。この人は独特の持論を持ち、常にフェミニスト発言を繰り返すが、実生活のみならず映画でもそう言う役ばかりやっていて、物語から見事に浮きまくっていて痛々しいのと、どうにもあの態度が気にくわないので、この人が出るとあんまり面白そうに思えなくなってしまう。 それで実際に映画観てみると、なんだか本当にストーンはストーンそのもの。これも一種男社会に対する女性の反逆なんだろうけど、女の主張が延々と続き、最後は男を見下して殺す…なんだかなあ。折角のベリーの好演もこいつが出た途端に下らなく見えてしまう不思議。 これを敵役にしたのが全ての元凶…と言うか、書いていて分かったけど、本当に私はこの人嫌いなんだな。 実際の話としては、「悪魔の毒毒モンスター」の女版といった風情。大々的に宣伝した大作の割には話のスケールが小さすぎる。結局ベリーのお色気とアクションで観るしかない作品なんだろう。それで良いという人には是非お勧め。ボンデージ姿の立ち居振る舞いは確かに一見の価値はあるだろう。バートン版にあった闇の部分とか、物語の展開を期待してはいけません。割と批評は分かれるんじゃないかな? |
オフィーリア | → | |||
【おふぃーりあ】 | ||||
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キャットウーマン | → | ペイシェンス | ||
【きゃっと-うーまん】 | ||||
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ジョージ | → | |||
【じょーじ】 | ||||
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トム | → | |||
【とむ】 | ||||
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ビューリン | → | |||
【びゅーりん】 | ||||
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ペイシェンス | → | |||
【ぺいしぇんす】 | ||||
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ヘデア社 | → | |||
【へであ-しゃ】 | ||||
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ローレル | → | |||
【ろーれる】 | ||||
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2005年 クリストファー・ノーラン(監) |
少年時代、両親が町のちんぴらに殺害されるのを目撃したブルース=ウェイン(ベール)は、成長してもそのトラウマから悪を憎む心を振り払うことが出来ないでいた。自分の心の闇を直視する旅に出たブルースはやがてヒマラヤの僧院に行き着く。そこで師となるヘンリー=デュガード(ニーソン)の手ほどきを受け、やがて独り立ちをする。そして彼は悪の蔓延るゴッサム・シティへと帰ってきた。悪を倒すことを自らの使命として… アメコミの老舗DCコミックから誕生したバットマン。同じDCコミックにはスーパーマンがあるが、その後塵を拝する形でコミック化されたバットマンは一つの大きな特徴を付けられた。 自身が宇宙人で、文字通り人間を超える存在のスーパーマンは、ひたすら善意により悪をくじいて人間を助けようとする。その姿も青と赤の原色に身を包み(国旗の色)、徹底した“陽”の面を強調したヒーローだったのに対し(スパイダーマンも同じ色なのはちゃんと理由があるのだ)、バットマンは、科学で身を守っているとはいえ、あくまで人間。しかも“悪を憎む”事に特化したヒーローであり、その活動も主に夜に行われる。黒一色に身を包んだ“陰”の部分を強調した存在に仕上がっていた。 やがて時は流れ、コミックでは相棒のロビンが登場し、バットマンの姿も黒一色から濃紺と白に変わっていくに連れ、その性格もどんどん軽くなっていった。どちらかというとどたばたのコメディ色を強調していくようになったわけだ。そんなわけでTV化された際はこれがベースとなり、劇場版となった『バットマン』(1966)も、ツッコミどころ満載のギャグ作品に仕上げられ、やがて表舞台から姿を消していった。 それを復活させたのがティム=バートン監督。バートン監督が作り上げた『バットマン』(1989)はあくまでオリジナル版の“陰”の部分を強調したものであり、今から思うと、これこそが90年代のハリウッド映画の始まりだったのかもしれない。 バートン版のバットマンは悪に対し、本当に情け容赦ない。悪を懲らしめることが悪なら、それも受け止めてやる。これは私がやりたいからやっているのだ!何が悪い。と言う鋼鉄の意志を持つ孤高のヒーローとして誕生したのだ。 これは目から鱗。こんな格好良い、そしてこんな身勝手なヒーローを見せつけてくれるとは! しかしながら、この孤高のヒーローも、続編毎にどんどんパワーダウン。やがては原作コミックと同じようにギャグへと走るようになっていく。 そして最後の『バットマン&ロビン』(1997)から8年後、ノーラン監督により、新たに本作が制作された。 『ビギンズ』の題の通り、本作もオリジナル版への原点回帰が図られているが、流石に若手随一のノーラン監督。目指すべき方向は同じでも、立脚点をまるで変えてしまった。バートン版の“闇”が舞台と悪を憎む心に集約されていたのに対し、ここでのテーマは、心の闇になっている。 ここでのブルースは確かに悪を憎む心はある。ただし、バートン版ではモチベーションだったそれが“トラウマ”として位置づけられているのが大きな特徴。だからここでのブルースは悩みまくっている。自分のこの思いは、本当に正しいものなのか、それとも、大きな間違いを犯そうとしているのではないか?だからそれが修行という形で現れる。自分が悪に染まってみることによって悪を理解しようとしたり、肉体と精神を鍛え上げようとしたり…そこで一見克服したかのように見えながらも、やはり悩みつつ悪と戦う姿がそこにはあった。ヒマラヤでラーズと袂を分かち、僧院を破壊していながら、自分の師であるデュカードを助けたところにそこは現れているだろう。実際、デュカードの精神こそが本来“悪を憎む”という意味においては正しかったはずなのだ。だが、ブルースは両親が愛したゴッサム・シティを憎む切ることは出来ない。結果として、彼は悪の温床としてのゴッサム・シティではなく、その中にある悪を一つ一つ潰していくことを選ぶこととなる。しかし、それも又新たなる彼の悩みともなっていった。この作品でバットマンはほとんど直接人を殺していない。悪を憎もうとも人を憎むことが最後まで出来ないまま終わる。 これらのことを克服することによって、一作目の『バットマン』(1989)へ続く。と言う形で終わらせたのだろう。 それにブルースの心理的なアンビバレンツを主題とするなら、ゴッサム・シティをこれまでのゴシック様式を捨て、近代建築に変えたのも理解できる。私自身、最初ゴッサム・シティを見た時は、「駄目だよこれじゃ」とか思ったのだが、これはひょっとして狙って行ったのかも知れない。敢えてそれを行った狙いは、おそらくこの作品のテーマ、心の闇に関係がある。近代建築で覆われた、見た目大変美しく整った町並みの内部はどうだ?実際に中に入ってみて、何気なく角を曲がってみると、そこにはカオスが潜んでいる。汚い町並みと、腐敗した人間ばかりがそこにはいる。人間の心そのものをここでは表現しようとしていると、そのように思う。そうなると、ウェイン邸を燃やしてしまったのも、過去への決別つまりトラウマの克服を象徴していたのかも知れない。ブルースがコウモリをモティーフとしたバットマンになるのも、自分のトラウマを克服するためと言う理由が付けられている。ノーラン監督の狙いが心の闇にあるのならば、一々象徴的な出来事として解釈することも可能だ。細かく分析しても面白いかも知れない(ここではやらないけど)。 一方、本作で乗り切れない部分もやはりあった。心理描写においては大変巧みなノーラン監督も、アクション部分は大変月並みなものになってしまったのが極めて残念。CGを駆使して派手な演出するのは最近のハリウッドの特徴だが、派手な“だけ”の演出はいい加減飽きた。CGを使えばどんなものも表現できるのならば、むしろ地味なものをじっくり見させる方向へとそろそろ移行しても良い時期。闇を舞台とするバットマンだったら、遙かにそっちの方が重要になるはず。同じく金を遣うんだったら、そう言うところで凝って欲しかったぞ。バットモービルが「戦車」になってしまったのには笑ったけど、あの使い方も、もうちょっと使い道考えて欲しかった。あのカーチェイスはくどいだけ。 キャラの使い方に関してはかなり面白い。評価すべきはやっぱりニーソンの使い方だろう。昔からヒーロー役ばかりやってるこの人を敵として用いる場合、これはベストの使い方。それに皮肉なことに、悪役ばかりで有名なオールドマンをゴードン巡査部長という、正義側に置いたのも卓見。この人の巧さを充分に引き出していた。ベールも前作『マシニスト』(2004)で極限まで落とした体重を、ベスト体重以上に上げたのみならず(40キロ近くの増量だったそうだ)、20〜27歳という年代の違いまでちゃんと表現していたのは、やっぱり凄いな。若手俳優の中でも特に芸の幅というものを見せつけてくれた感じだった。マイケル=ケイン、モーガン=フリーマンというヴェテランの使い方も良し…まあ、渡辺謙の使い方は大きく間違っていたとしか言いようがないけど。 全般的に見て、「大当たり」という所まではいかないけど、充分当たりの作品と言える。 |
アルフレッド | → | |||
【あるふれっど】 | ||||
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コウモリ | → | |||
【こうもり】 | ||||
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ゴードン | → | |||
【ごーどん】 | ||||
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ゴッサム・シティ | → | |||
【ごっさむ-してぃ】 | ||||
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バットマン | → | |||
【ばっと-まん】 | ||||
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バットモービル | → | |||
【ばっと-もーびる】 | ||||
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ブルース | → | |||
【ぶるーす】 | ||||
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ヘンリー | → | |||
【へんりー】 | ||||
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ラーズ・アル・グール | → | |||
【らーず-ある-ぐーる】 | ||||
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ルシウス | → | |||
【るしうす】 | ||||
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レイチェル | → | |||
【れいちぇる】 | ||||
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2008年 クリストファー・ノーラン(監) |
ゴッサムシティで悪を懲らしめるバットマン(ベイル)と、影でバットマンを支援するゴードン警部補(オールドマン)のお陰で犯罪は減少傾向にあったが、バットマンの存在に危機感を覚えたギャング達の中に、更に凶悪な"ジョーカー"(レジャー)と名乗る正体不明の男が頭角を現していた。バットマンを嘲笑うかのごとく次々と凶悪事件を引き起こしていくジョーカー。そんな中、新しく赴任した正義感溢れる地方検事のハービー(エッカート)はバットマンとも協力して犯罪の一掃を強力に進めていくことを宣言する。それはすぐさまジョーカーの知るところとなり、バットマン、ハービー共に標的とされていくのだった… 『バットマン・ビギンズ』を叩きつけ、新生バットマンを宣言したノーラン監督が再び主演のベイルと組んで作り上げた新制バットマンシリーズ第2作。本作でジョーカーを演じたレジャーは撮影後急死した事でもニュースになったが、記録破りのヒットを記録中(流石にトップの『タイタニック』は抜けそうにないが)。 これ観たときは、「凄い」とは思ったが、同時に「やってくれた」というか、「やっちまった」という気分が強い。正直な話を言わせてもらえれば、本作は全くわたしの美意識には合わない。物語の展開そのものは今ひとつの気がするのだが、それを超えて凄まじいものを見せてくれた。 作品毎に何かしらの新機軸を取り入れ続けるノーラン監督だが(前作『バットマン・ビギンズ』では徹底して“心の闇”を描こうとしたように)、枠組みとしての挑戦はこれまで成りを潜めさせていたと思える。ところが、この超大作で、枠組みを見事にぶっ壊すやり方を使ってしまった。バートン監督が『バットマン』(1989)では自分を抑え、『バットマン・リターンズ』で弾けたように、まさにこれはノーラン監督による映画の枠組みに対する挑戦である。 この作品の新機軸。それは「映画として作ってない」という事。このつくり方は映画ではなく、ゲームのつくり方だ。 ヒーローものというのは大抵はフォーマットが決められているが、その中で重要な要素は「わたしがやらねば誰がやる」という自意識にある。ヒーローはヒーロー故に苦しめられ、やむにやまれぬ状況に追い詰められながら戦っていくというのが通常のヒーローものの基調となる。つまり、ヒーローは、巨悪を前にして、必ずそれを倒さねばならない状況へと追い詰められていくものである。これはつまり主人公の選択の幅は無茶苦茶狭いということ。 例えば同じ“私設自警団”ヒーローが主人公の『スパイダーマン3』と較べてみると分かりやすいだろう。あの作品でのピーターが自分の意志で選択したものは驚くほど少ない。せいぜいブラックスーツを脱ぐときに選択をした事と、MJをさらったヴェノムとサンドマンに対抗するためにゴブリンJrに助けを求めた事くらいだが、これもストーリーの展開上、やはりやむにやまれず行った行為として捉えることが出来る。ヒーローはあまり選択の幅を持たせないのがフォーマット。決断は必要かもしれないけど、それは物語の節目。あるいは最後の決断に使われる。 しかるに本作の場合、全くそれを逆転させてしまった。主人公のブルース:バットマンは嫌と言うくらいに選択の場に立たされている。しかも、それらはことごとく二択になって。 最初にブルースが取らねばならない選択はバットマンを取るかレイチェルを取るか。という選択。そこでバットマンの方を取ることで物語は開始されるのだが、選択はその後山ほど登場する。レイチェルを取るかハービーを取るか(これはしつこいほど描かれる)、ジョーカーを殺すか殺さないか。自分の正体を明かすのか明かさないのか。トゥーフェイスを許すのか許さないのか。劇中いくつもの選択肢が現れ、それらに答えていくわけだが、その答えは全て正解とは言えない。いやむしろ、映画が終わってみると、かなり悪い選択を行ってしまって、いわゆるバッドエンドの一つになってしまった感じがする。最初にレイチェルを選ばなかったことによってレイチェルはハービーの方に行ってしまうし、ジョーカーを殺さないことでレイチェルを殺してしまう。命を救うのをレイチェルではなくハービーにすることでトゥーフェイスを誕生させてしまった。ハービーの名誉を守ることでバットマンが犯罪者になってしまった… 物語は一方向しかないので、「もしも」は無いのだが、この選択を上手くやっていれば、完全なハッピーエンドの終わり方もあったのではないか?そう思うと、これはやり直しの利かないゲームをやってる気分にさせられてしまう。 更に選択を強いられるのはバットマンだけではなく、劇中の多くのキャラは同じように幾度となく二択の選択しに直面し、そのどちらかを選ぶことで物語は展開していくことになる。非常に単純な二択問題。Yes/No、Do/None、Right/Left、そしてTwo-Face。これらを事ある毎に出すことによって、物語の展開を予測の付かないものにしてしまった。そう言う言う意味で、ハービーが常にコイントスやってるのと、トゥーフェイスの登場は、本作においては必然性のある役割なのだ。 確証はないけど、この脚本を書く際、ノーラン兄弟が、物語を一方向にせず、数多くの二択を作って、もしこちらを取ったらどうなる?と言うことで話し合った結果なんじゃないだろうか?いろんな選択はあり得るのだが、間違った選択も入れることにして(と言うか間違った選択の方を多くして)、物語を作っていったら、先が読めない変な物語になってしまったと言う事なのかも。 確かに新しいつくり方ではあるが、真似して作る作品がないことを願いたい。こういうのは本作一本で良いよ。 |
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2012年 クリストファー・ノーラン(監) |
人々の尊敬を集めた地方検事ハービー・デントの罪を被り、ゴッサム・シティから姿を消したブルース・ウェイン=バットマン(ベイル)。それから8年が経過したが、ブルースは半引退の身で、ゴッサム・シティも束の間の平安を享受していた。そんな時、新たなるテロリスト、ベインが現れた。核融合装置を手にしたベインはゴッサム・シティを孤立状態に置き、刑務所を解放して街を無法地帯に変えた。それを見たブルースは自らの封印を解き、再びバットマンとしてベインの前に立つ… ヒーローものとしては極めて異であった前作『ダークナイト』。これはヒーローの脱構築作品であると共に、“ヒーロー論”を極限まで押し進めた作品だった。あの作品でヒーローのあり方を示したバットマンが再び帰ってきた。しかも同じ『ダークナイト』の名を冠して。 あの作品でかなり衝撃を受けた身としては、これは言うまでもなく観なければならない作品の筆頭である。喜び勇んでIMAXで拝見。 …これはとても面白い作品だが、『ダークナイト』を越える衝撃を与えてくれるほどのものではなかった。それが正直な感想である。 それが感想とはいえ、それでも本作には最高点を上げたい。それだけの力を持った作品だ。 まず本作は『ダークナイト』の続編には違いないが、それ以前にノーラン版バットマンの総括作品である。三部作であるため、一作目の『バットマン・ビギンズ』も含めての最終作と考えねばならないだろう。 まず第一作目『バットマン・ビギンズ』はヒーローの誕生を描いた。両親を殺され、暗闇を恐れる青年が、自らのトラウマを克服して闇の騎士となるまでを描いた。正直これがそんなに面白い作品だとは思ってないのだが、これもまたヒーロー論としては大切な部分が入っていた。 ここではつまり、ヒーローは心に闇を持つ存在であるという前提条件が出されたことになる。バットマンという格好の素材を得たことが大きいが、これまでのどの作品よりも、ヒーローは闇に近く、その闇があるからこそ強くなれることを示して見せた。それまでの健全なヒーロー像からかけ離れたヒーローで、これもヒーローの脱構築を目指した作品であることが分かる。しかし物語はあくまで正当論を崩すことなく展開していった。 そして二作目『ダークナイト』はヒーローのあり方を描いた作品と言えよう。自らの思いに頼らず、ヒーローであればこういう態度を取らねばならないという正義を執行する側の覚悟が語られていた。 それに対して本作は、ヒーローの引き際について描いた作品と言えよう。まさしく三部作の最後にふさわしい話である。 2作目で既にヒーローの覚悟は描かれた。そしてその結末は一つしかあり得ない。即ち、正義に準じた死である。この部分に向かっていかに物語を構築するかが本作の重要な点だった。 そこで物語をどう作るか。ここでノーランは二つの視点を作った。一つは有象無象の市民の中からの視点、神の如き視点から見た視点。 そして市民からの視点部分でヒーローの後継者を作り上げた。ジョン・ブレイクという若者警官を物語の重要な部分に配し、この正義感溢れる青年(しかも孤児という設定まで与えて)が、やがて消えたヒーローの代わりとなるべく活躍する成長の物語として描いた。他にもフォーリー警察副部長という、目端が利く小人物を作り、その心境の変化によって、街の人間の意識を作り上げる。 この流れは、ベインによって支配され完全な無気力状態に陥っていた街の人々が希望を見いだし、支配に対する反抗と圧政からの脱出という、反抗の物語として捉えられる。 バットマンはいなくなった。しかしヒーローは消えはしない。市民の心に正義を求める心があるならば、そこに再び新しいヒーローが現れるだろう。とするもの。 このフォーマットは実は結構なじみが深い。日本では、いわゆる平成ウルトラマンシリーズは全てこのフォーマットに則って作られている位だから。 この形に持っていったか!と言うのが、特撮ファンにとってはなんとも嬉しいところ。少なくとも新しいウルトラマンはハリウッドにおいても完全肯定された気分にされた訳だから。 ただし、これは特撮ファンに取っては限界でもある。これがあるから私はこの作品を肯定せざるを得ず、そこから一歩踏み出すレビューが書けない。なんせこれを否定したら、私のこれまで培ってきたものが全部否定してしまう訳だから。 それでも敢えてこの作品について語るのであれば、この作品からもノーランの挑戦心がビンビンに伝わってきたと言うことだろうか。フォーマットは確かに特撮というかヒーロー作品の最後に則ってはいるものの、そこから逸脱させている部分も多々存在する。 まず、ここまでの二作によって成長してきたブルースに、もう一段階の成長を描いて見せた。正義のためなら自分の楽しみはおろか命まで差しだしても構わないと『ダークナイト』で行き着くところまで行ってしまったヒーローの姿があったのだが、そこに新たなる修行を加えることによって、それを変質させてみせた。命を捨てることによって、生きる事を選択させたのだ。ここにおいてこれまでの自分自身を超える物語を見せた。この部分があるため、『ダークナイト』で決まっていたと思われたラスト、つまりバットマンの死で物語が終わるという形から脱却させてみせた。あのラストシーンは、実は三部作を通して一つ一つブルースはきちんと成長していることを示している。 実際あのラストはノーラン自身のこれまでのフィルモグラフィから見ても異色。例えば『インセプション』のようにあそこはアルフレッドの驚いた顔を見せてブルース自身は見せないのがノーランらしさのはずなのに、敢えてあそこでブルースの顔を出してみせたのは、すべきことをして、後は姿を消すことも一つの成長として描いたということになるのだ。 形に囚われることなく進歩していくこと。その中できっちりと個性を見せているノーランという監督はやっぱりすごい人だと思う。 |
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