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バロン(書籍) 評論 テリー・ギリアム映像大全(書籍) インタビュー テリー・ギリアム―映画作家が自身を語る(書籍) 書評 _(書籍) |
2020 | |||||||||
2019 | テリー・ギリアムのドン・キホーテ 監督・脚本 | ||||||||
2018 | |||||||||
2017 | |||||||||
2016 | |||||||||
2015 | |||||||||
2014 | |||||||||
2013 | |||||||||
2012 | |||||||||
2011 | |||||||||
ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド 出演 | |||||||||
レイ・ハリーハウゼン 特殊効果の巨人 出演 | |||||||||
2010 | |||||||||
2009 | Dr.パルナサスの鏡 監督・製作・脚本 | ||||||||
2008 | |||||||||
2007 | |||||||||
2006 | |||||||||
2005 | ローズ・イン・タイドランド | ||||||||
ブラザーズ・グリム | |||||||||
2004 | |||||||||
2003 | |||||||||
2002 | |||||||||
2001 | ロスト・イン・ラ・マンチャ 出演 | ||||||||
2000 | |||||||||
1999 | |||||||||
1998 | ラスベガスをやっつけろ 監督・脚本 | ||||||||
1997 | |||||||||
1996 | |||||||||
1995 | 12モンキーズ 監督 | ||||||||
1994 | |||||||||
1993 | |||||||||
1992 | |||||||||
1991 | フィッシャー・キング 監督 | ||||||||
1990 | |||||||||
1989 | バロン 監督・脚本 | ||||||||
ベスト・オブ・モンティ・パイソン 出演 | |||||||||
1988 | |||||||||
1987 | |||||||||
1986 | |||||||||
1985 | 未来世紀ブラジル 監督 | ||||||||
1984 | |||||||||
1983 | モンティ・パイソン/人生狂騒曲 「クリムゾン 老人は荒野をめざす」監督・出演 | ||||||||
1982 | モンティ・パイソン/ライブ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル 脚本・出演 | ||||||||
1981 | バンデットQ 監督・製作・脚本 | ||||||||
1980 | |||||||||
1979 | モンティ・パイソン/ライフ・オブ・ブライアン 脚本・出演 | ||||||||
1978 | ジャバーウォッキー 監督・出演 | ||||||||
1977 | |||||||||
1976 | |||||||||
1975 | モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル テリー・ジョーンズと共同監督・脚本・出演 | ||||||||
1974 | |||||||||
1973 | |||||||||
1972 | |||||||||
1971 | モンティ・パイソン・アンド・ナウ 監督・脚本・出演 | ||||||||
1970 | |||||||||
1969 |
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1968 | |||||||||
1967 | |||||||||
1966 | |||||||||
1965 | |||||||||
1964 | |||||||||
1963 | |||||||||
1962 | |||||||||
1961 | |||||||||
1960 | |||||||||
1959 | |||||||||
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1955 | |||||||||
1954 | |||||||||
1953 | |||||||||
1952 | |||||||||
1951 | |||||||||
1950 | |||||||||
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1948 | |||||||||
1947 | |||||||||
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1944 | |||||||||
1943 | |||||||||
1942 | |||||||||
1941 | |||||||||
1940 | 11'22 ミネソタ州ミネアポリスで誕生 |
テリー・ギリアムのドン・キホーテ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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新進気鋭の映像作家トビー(ドライヴァー)は、スペインでドン・キホーテをモティーフとしたCM撮影の監督をしていたが、満足いく映像が撮れずにクサっていた。そんな時、過去学生映画として撮った『ドン・キホーテ』の撮影現場がそれほど遠くないことを知り、あの時の村人がどうなっているのか気になってしまい、現場を離れて村へと向かった。そこでトビーが見たものは、あの映画が有名になってしまったために崩壊してしまった共同体の姿だった。更にドン・キホーテを演じた村の靴屋ハビエル(プライス)は自分が本物のドン・キホーテであると勘違いしてしまっており、トビーにサンチョ・パンザと呼びかけて、一緒に放浪の旅に出ることを誘ってくる。慌てて逃げ出したトビーだったが、そのお陰で村を火事に巻き込んでしまった。 今から30年近くも前。テリー・ギリアム監督によって『ドン・キホーテを殺した男』と題された一つの映画の構想が発表された。 それは中世スペインを舞台にしたタイムスリップもので、現代の青年が時を遡ってしまって、ドン・キホーテを名乗る老人と旅をするというものだった。主人公は丁度ブレイク中のジョニー・デップと、ジャン・ロシュフォール。 5年も掛けてなんとか金を作って撮影を開始したのは良いのだが、なんと鉄砲水でセットが全部流されてしまうと言う、なんとも不幸な事件が起こり、撮影は中止となってしまう。その顛末は『ロスト・イン・ラマンチャ』(2001)として映画化までされたので、決して無駄ではなかったようではある。 しかし諦めきれなかったギリアムは次にユアン・マクレガー主演で作ろうとしたらしい。ただ、これはほとんどニュースになることもなく、やはり資金難のため失敗。 これはもう作るなと言われてるとしか思えない。諦めてしまった方が「幻の企画」として、そっちの方が有名になる。だから本作が完成したと聞いた時は、正直、「やらんほうが良かったんじゃないか?」という思いと、あと数十年後に来る「テリー・ギリアム追悼ドキュメンタリー映画」の企画が潰えたのが残念(済まん。不謹慎)。 ただ、それだけ時間をかけた企画ではあるが、作品そのものが映画史に残るべきものというレベルには達してない。駄作とまでは言わないし、私なんぞは充分楽しめる作品だが、監督にしては分かりやすいし、生々しさもなくなってる。何度も言うが、やはりこの企画は成立させなかった方が… さて、それで本作の内容だが、先行したキャッチフレーズが「批評家が怒り狂った」とか「理解不能」とか書かれていた割に、実にすっきりわかりやすい作品で、監督作品の中ではかなりわかりやすい部類に入るだろう。 かつて『ロスト・イン・ラマンチャ』(2001)を観た限りでは、現代人の青年が中世にタイムスリップして、そこでドン・キホーテを名乗る老人と出会うという作品だったと思うのだが、本作ではそこを改変してSF要素を排し、全て現代で完結させることになった。 時代を現代に限定したからこそ悪夢っぽい雰囲気を出すことに成功してるので、むしろ現代にあって、これは基本的に正しかったと思う。 ただ、その分リアリティが犠牲になった。ぽっかり出てくる時代錯誤の村とか人間とか、見た目中世の村を強引に現代と言い切るためにストーリー上無意味な説明を加えざるを得なくなった。 その混乱を楽しむことが本作の面白さと言われたら、確かにそれもその通り。すっきりしない物語だからこそ面白い作品だと思えば良い。 現代だか中世だかよく分からない混沌とした世界を彷徨うドン・キホーテとサンチョ・パンザ。これこそ本来の「ドン・キホーテ」の持つ魅力だったとも言える。 すっきりしない方がギリアムらしくて良い。ギリアムファンは優しいのだ。 最初の企画では主演がジョニー・デップだったが、それが30年を経てアダム・ドライヴァーに変更。これはどうかと思ったら、実はかなりはまってた。神経質で繊細なために刺々しくなってしまう男という役はまさにはまり役。ぴったりの主演を引っ張ってこれた。ジョナサン・プライスは言うまでもない。むしろオリジナル版よりも配役は良かったかもしれない。 概ねで言うなら、混乱を楽しめる人は結構楽しめる作品ではある。 |
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Dr.パルナサスの鏡 The Imaginarium of Doctor Parnassus |
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2009米アカデミー美術賞、衣装デザイン賞 2009英アカデミープロダクションデザイン賞、メイクアップ&ヘアー賞 |
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2007年。心の中の欲望を鏡の向こうの世界に創り出す装置“イマジナリウム”を看板とするDr.パルナサス(プラマー)率いる旅芸人の一座がロンドンにやってきた。しかし、怪しげな装置に興味を示すのはほとんどおらず、せいぜい酔客が冷やかし半分に入る程度。しかも入ってしまうと行方不明になってしまうという体たらく。結果逃げ出すように転々と場所を変えていくことになるのだが、そんな中、パルナサスの娘ヴァレンティナ(コール)は偶然首を吊られている男を発見し、救い出すことに。何か訳ありのその男はトニー(レジャー)と名乗り、一座に加わる。彼の魅力で女性客が増え始めるが… 『ローズ・イン・タイドランド』以来沈黙を保ってきたギリアム監督が再び世に出したファンタジックな作品。元々は『ブラザーズ・グリム』で主演を演じさせ、『ダークナイト』(2008)のジョーカー役でブレイクしたヒース・レジャーを主演に据えていたのだが、その急逝によって完成さえ危ぶまれてしまった(この監督は映画制作に不運な事態が起こることで有名)、代役としてジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルと言う、これ又当代きっての名優を代役にすることで完成させた(ギリアム監督の人徳と言うよりはレジャーの遺作をきちんとしたいと言う事のようだけど)。お陰でとてつもなく豪華な作品に仕上がった。 ギリアム監督は基本的にファンタジー作家だと思う。空想の遊びの上に極彩色の夢のような世界を与えてくれる。 ただし、それが極めて”悪夢”に近いと言う点が子供の描くファンタジーとは異なるところ。夢の世界なんてものはたいがい碌でもないものばかりだが、その碌でもない夢というものを描き続けるのがギリアム流と言ったところだろうか。 そんな”悪夢作家”ギリアムが一般的にも一番脂が乗っていたのが丁度「バンデットQ」や「バロン」を作っていた時期に当たる80年代だった。衒学的に陥ることも、殊更残酷な描写になることも無く、ある意味最も観客の立場を考えて作った作品といえるかもしれない。 以降の作風はどんどん悪夢描写へと深化していき、子供っぽいおもちゃじみた画面はなりを潜めてしまう。お陰で好事家ばかりが楽しめるカルト作家になってしまったのだが、そんなギリアムが再び円熟期の物語に帰ってきた。ファンとしては喜ばしいことだ。 それで何故久々にこんなダークファンタジーを作る気になったのか、その理由を”勝手に”考えてみると、ようやく映画の技術がギリアムの求めていた水準に達してくれたから。と言うのが一番の理由なのでは無かろうか?『バンデットQ』なり『バロン』なりふんだんに特殊撮影は用いられていたが、あくまでそれは「特撮」のレベル(…って私が言うのもなんだが)。それらが不自然無く画面にとけ込めるだけ映画の質が上がってきたと言うことだろう。 まずはそれを素直に喜びたいと思う。 それで改めて本作を眺めてみると、一応話の中心はレジャー演じるトニーと言うことになるだろうが、本質的には主役はパルナサスの方にある。 自ら瞑想状態になることで、人を夢の世界につれていくことが出来るパルナサス。その夢の中で正しい道に導き、決断させることを目的にしているのだが、それには理由がある。 本来「世界を創る」賢者であったパルナサスは悪魔(?)ニックの手によりその任を強制的に解かれ、ニックとのゲームに参加させられた。ニックが彼を選んだ理由は、パルナサスが人の精神を解放させることが出来る。と言う特殊能力を持っている事が第一だろうが、基本はおそらくそれは永遠の命を持ってしまった彼の気まぐれ、あるいは自分のなすゲームのプレイヤーとして選ばれた、いわば暇つぶしの相手に過ぎない。 だからニックは一見無謀とも見える賭をパルナサスに対してふっかけるが、実はそれに勝とうなどと言う考えはない。無理難題を前に悪戦苦闘するパルナサスを見ることだけが彼にとっての楽しみなのだから。だからこそパルナサスに不死まで与えて、しかも自分との約束を定期的にとりつけて面白がっている。いわば悪魔に見入られてしまった存在であろう。ニックは定期的にご褒美をパルナサスに与えることによって絶望に陥る事を防ぎながら、その中で苦しみ悶えるパルナサスを見て楽しんでる。悪魔と言っても、その実は全く分からず、彼はいわば、グノーシス思想におけるデミウルゴスのような存在として取って良かろう。魅入られた方はたまったものじゃないけど。 神によって魅入られてしまった男にとって自由意志など存在しない。強制的に神の暇つぶしのゲームにつきあわされた挙げ句にボロボロにされ、絶望にうちひしがれた姿を晒して悪意の神を楽しませるしかないのだから。 しかし、それで一番悲惨なのは、その事をパルナサス自身が知っていると言うことなのかも知れない。知らない時は、試練を乗り越えてついに不死を得たり、あるいは若さを手に入れたと思っていたかもしれないが、それ自体が実は更なる絶望を引き出すための下準備に過ぎないのだから。 ラストシーン、ニックに奪い去られたはずのヴァレンティナがロンドンの片隅で慎ましやかに家族を持っていることが描かれるのだが、恐らくはこれまたニックの策略で、パルナサスが触れることができないところでヴァレンティナが幸せになっているということを示すことで、まだゲームは終わってない。ということを暗示しているのだろう。 だから本作は決してハッピーエンドではない。なにせこれから先、パルナサスは永遠とも言える生の中、ニックに悩まされ続けることになるのだから。 こう言った悪意をあたかもハッピーエンドのように提示してくれるギリアムって、だから大好きだ。 …これを書いてる内に思ったが、このパルナサスの姿って、実はギリアム自身の事だとも考えられよう。かつてモンティ・パイソンの一員としてデビューを果たし、その後物語を創る事を自分の使命と考えるようになったのに、容赦なく作品を酷評され(時折賞賛も受けるが)、完全なカルト作家にされてしまったギリアムこそが、絶望と時折与えられるご褒美にすがるパルナサスの姿にも重なる。そうなるとニックとは彼を批判する批評家とも考えられるし、あるいは映画を観ている我々なのかもしれない。ラストシーンは、その状態を受け入れた。というギリアムの宣言と考える事も出来よう。 まあでも本作の場合、物語云々よりもレジャーの遺作として、あるいは豪華な俳優陣で記憶される作品ではあろう。何せ鏡の中に入ったトニーを演じるのがデップ、ロウ、ファレルという、当代きっての男優ばかり。見ごたえあるのは当然だろう。 その中でも一番期待していたのがデップだったけど(何せかつて主演で演じるはずの『ラ・マンチャの男』が失敗したという経緯もあるし)、三人の中では一番はまって見えなかったのはちょっと残念なところだった。何でも撮影に二日しか取れなかった人のことで、役作りをする時間がなかったのだろう。 その点はちょっと残念だったが、あとの二人はちゃんとはまってたし、こういう悪意に満ちた物語が大好きなので、充分満足いった。 |
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ローズ・イン・タイドランド Tideland |
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10歳のジェライザ・ローズ(フェルランド)の目の前で母親(ティリー)が麻薬摂取過剰で死んでしまった。同じくヤク中で元ロックスターの父ノア(ブリッジス)と共にノアの生まれ故郷テキサスの一軒家に連れてこられたが、そのノアまで薬で死んでしまった。その現実を受け入れることのできないままジェライザ・ローズは家の周りを探検に出かけるが… ミッチ=カリンの小説「タイドランド」の映画化。 テリー=ギリアム。この監督の与えてくれる悪夢世界は私にとっては大変貴重なもの。現に今までも数多くの悪夢世界が彼によって紡ぎだされてきたし、それを観ることが私にとっての楽しみでもあった。 だが、昨年本当に久々に投入されたギリアムの新作『ブラザーズ・グリム』はその意味では思い切り期待はずれ。だって全然狂って見えなかった。こんな普通の作品をギリアムに作ってもらっては困る。まさかこの監督、これからこんな媚びたものを作り続けるんだろうか?と、ちょっと暗澹たる気分にされたものだが、この新作の前評判を聞いてすごく興味を持った。久々にギリアム製の悪夢世界に浸りこめるかもしれない。何せ内容が凄すぎて全国公開は不可能となったくらいだから。かなりわくわくして劇場へ… うむ。確かにこれは私の求めていたギリアム世界そのものだった。約2時間高密度状態に翻弄され続け。 だが、なんというか…この作品は、私の期待の遥か上を行っていた。 よもやここまでとんでもない作品を作るか?これじゃ悪夢そのものじゃないか。そりゃ確かに悪夢世界を見せられる事を望んでいたのは確かだけど、ここまで表現上やばいんじゃないか?と思えたのも本当に久々の体験。 出てくるキャラにまともな人間が誰一人存在せず、やってることもテロ、ペドフィリア一歩手前、ネクロフィリア、近親偏愛(そのまんま『サイコ』(1960)もやってたし)…おいおい。お腹いっぱいなんてもんじゃない。完全に観てる間、ローズと共に夢の世界へと、しかもとびっきりの悪夢世界へと連れて行ってもらえた。 これだよ。これがギリアムだよ。久々に本当にギリアムと出会えたって感じ。 だが、これら大人から観てかなりヤバイ描写も、実の話を言えば、子供にとっては本当に身近なものなんだろう。確かにジェライザ・ローズを取り巻く環境は褒められたものではないし、彼女自身それに強く影響も受けているのだが、彼女が内包する悪夢も又、想像力の旺盛な彼女にとっては大変身近なものであり、どんな悪いことが起こっても、現実から離れることでそれを受け止めてしまう。一方、その想像力は余計なこともしでかして自分や他人を危険に引き入れたりもする。確かにこうやって子供は処世術を学んでいくものだ。 だが、当然それには適切な大人の介入が必要となる。 ところが本作にはそう言う意味で“手本となる大人”が存在せず、観ている側としてはドキドキしっぱなしになる。一体いつ彼女の周りの世界が崩壊するのか?あるいは彼女は取り返しのつかないことをしでかすのではないか? そう言う意味では最後までドキドキしっぱなしで観ることができた。 キャラに関してだが、前知識を持たずに観たため、スタッフロールでのけぞった。何だ?この豪華なキャスティングは?インディペンデント映画でこんな人達が出てるとは思いもしなかった。特にパパ役のブリッジスって…サングラス外さなかったから、全然分からなかった。勿論ほとんど全編に渡って出ずっぱりで、台詞の大半が独り言という主人公フェルランドの不思議な色気も特筆すべき。この年齢でこれだけの大役をこなせるとは、恐るべき子どもだよ(ギリアムもすっかり惚れ込んでるようだから、又登場してくるかもね)。 描写があまりにもインモラルで、一見物語上の盛り上がりもないため、大半の人間にとっては不快感しか受け取れないだろう。だけど、精神的なベクトルがギリアムに向いている人間にとってはこの上ない快感をもたらしてくれるはず。極めて狭い範囲ではあるが、是非お薦めしたい作品でもある。ギリアムもこんな作品作ってしまっては、次回作作れるかどうか分からなくなるため、評価して欲しい作品である。 |
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ブラザーズ・グリム | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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19世紀。フランス統治下のドイツで。兄ウィル(デイモン)と弟ジェイコブ(レジャー)のグリム兄弟は各地の村を旅し、魔物退治の傍らその地に伝わる古い物語を集め回っていた。だが、その魔物退治がインチキであることがばれてしまい、将軍ドゥラトンブにより捕らえられてしまった兄弟は、ある村で起きている少女連続失踪事件の解明を命じられる。村の漁師の少女アンジェリカ(ヘディ)の助けを借り、森の奥深く入っていく兄弟だったが… 本当に久々のギリアム監督の新作。この日をどれだけ首を長くして待ったことか。思えば3年前に監督のライフ・ワークである『ラ・マンチャの男』を映画化すると聞いて、どんなことがあってもこれだけは観るぞ!とわくわくしてたもんだが、結局それはお流れ(その顛末は『ロスト・イン・ラマンチャ』に詳しい)。その後しばらくして、今度は「グリム兄弟やるぞ」とのニュースが。 ヨーロッパの中世に大変思い入れのある監督のこと。これもやってくれそうな予感はあったので、本当に指折り数えるようにしてこの日を待った。そして期待度は無茶苦茶高いままに劇場へ向かう。 で、その出来だが… うん。監督らしいギミックや演出に溢れており、容赦ない描写も所々散見できる。これは確かにギリアム作品だ。物語としても、結構面白くはある。ナポレオン制圧下のフランスとドイツの軋轢やシュヴァルツヴァルトの森を中心に持ってくるなど、設定もなかなか練り込まれてる(ドイツの名物料理ブラッドソーセージ(ブルートブルスト)をいかにも不味そうに食べるシーンもなかなか)。 だが、それでどうだったか?と言われたら、首を傾げてしまう。 ギリアム監督は常に私に新鮮な驚きを与えてくれる。どちらも一般的な評価は低いが、『バロン』では、「他の誰がなんと言おうと私はこれが作りたいんだ!」という主張に溢れた作品を。『ラスベガスをやっつけろ』では、これまで培ってきたものを一旦全部取っ払い、それでも尚監督にしか作り得ないものを作り上げてくれた。だから、観るたびに何かしら新鮮な驚きがそこにはあったのだ。 しかし、本作ではどうだろう?確かに監督っぽさは保持している。だがそれは「周りの人にどう思われているか?」という観点でのみの演出であり、たとえ“らしさ”はあっても、完全な妥協でしかなかったようにしか思えない。作りが受けに回ってしまったとしか思えない。 一言言わせてもらうと、「ギリアムは守りに入っちゃいけない監督なんだよ!」と言うことである。彼の作りたいように、そして自分の思いの丈をぶっつけて作って欲しかった。それがたとえ世間から“失敗作”と言われようとも、彼のそう言う姿勢こそがコアなファンを作ってきたんだろう。失敗を恐れて手堅く作ろうなんて、そんなギリアム監督の姿は見たくないんだ。これじゃ自分らしい作品を作ろうと汲々としていたとしか思えない。 折角グリム兄弟という魅力的な素材を使っておきながら、物語に深く入り込むことなく、上っ面だけ物語をなぞって単なるアクションにしてしまったのはあまりにいただけない。グリム兄弟作品をほんの少しだけ出して、味付けだけで済ませてしまうなど、ほとんど『シュレック』(2001)と変わらないぞ。『狼の血族』(1984)のニール=ジョーダンあたりの突っ込んだ、残酷な描写が欲しかった。あそこまで引っ張って最後に単なるハッピーエンドで終わらせるってのも寂しすぎる。現実との境界が曖昧になり、物語の中に分け入ってしまう位の演出を期待してたのに。 それに毎回凝った仕掛けで楽しませてくれるのに、今回はセンスのないCGの使い方がやたら多く(ここまでCGモロ分かりの演出も無かろう)、それも引く。あんなCG使う位だったら手作りの特撮でやってくれ! キャラに関しては、やっぱり主人公二人が間違ってなかった?兄弟が逆の方が絶対はまったよ。ベルッチももうちょっと妖艶な美しさ出せる人なのになあ。カヴァルディが最後に改心してしまう過程も全然描写不足。 最後に、猫好きな人間に「レアだな」を見せつけるのはあんまりだよ(そう言えば兄弟の名前って兄がヤーコブで弟がヴィルヘルムだったはず。逆じゃないのか?ひょっとして配役を変えた?)。 期待度が高すぎた。しかし、かといって低い点数付けるのもはばかれる…ギリアムファンとして、これがギリギリの評価だ。 |
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ラスベガスをやっつけろ 1998 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1998カンヌ国際映画祭パルム・ドール | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1970年初頭、赤いオープンカーで一路ラスベガスに疾走するラウル=デューク(ジョニー=デップ)と弁護士ドクター=ゴンゾー(デル・トロ)。“レッド・シャーク”と名付けたオープンカーのトランクには一杯の麻薬。既に麻薬でラリっている二人だが、ラスベガスに辿り着いた時にはバッド・トリップにどっぷり浸かっていた。彼らの見た夢とも現実ともつかない世界。 ハンター=S=トンプソンによる60年代のドラッグと狂気に彩られた小説の映画化作。低予算ながら、カンヌ国際映画祭にも出品された(その際、「ヨッパライとラリってるやつらでいっぱいの部屋に、ひとりだけ素面でいるような感じ」と評される)。 さすが!やはりギリアムだ。悪夢のような2時間をありがとう(いや、マジで)。低予算を逆手にとって無茶苦茶な作品を仕上げてくれた。 最早夢だか現実だか訳分からない世界が展開して、見終わった後、完全に平衡感覚を失った自分に気付いた。これよ。これがギリアムよ。 ギリアムの他の諸作品と同様、一旦結末を見せた後で、前に倍加する悪夢を展開させる。どうしたって逃げられないという状況。それが兎に角気持ち悪く、同時にこれ程監督の技量に乗せられてしまった事に気付かされる。二本分の映画、しかもとびっきりの悪夢を見せつけられたようで、兎に角疲れる。そして、それがたまらなく心地よい。 主演のジョニー・デップはさすが。と言う演技を見せてくれる。デップの更なる一面を見せつけられ、それが感動。ゴンゾーというキャラは今ひとつつかみ所がないのだが、常にニヤニヤと笑いながらデュークを見守ってる。更にあらん限りの悪徳を試した後でデュークを見捨てる辺り、まるでメフィストフェレスだ。それにしてもデル・トロはえらく太ってるな。『トラフィック』(2000)の時のあの痩せすぎた身体とは似ても似つかない。 何度でも言おう。とびっきりの悪夢をありがとう。これからもついて行きますぜ。 本作は元々脚本を書いたアレックス=コックスが監督するはずだったのだが、結局馘となってしまったため、前々からこの作品を映画化したがっていたギリアムに持ち込まれたものだという。しかし、この時点で予算は徹底縮小。デップなんて、今からすればほとんどボランティアのような金額しかもらえなかったという。まあ、その分、デップは大ファンであったトンプソンに会って、有意義なひとときを過ごしたとか…ちなみにここに登場する“レッド・シャーク”はトンプソンが使っていた本物だが、それ以外にも色々とくすねてきたとか… |
12モンキーズ 1995 | |||||||||||||||||||||||||||
1995米アカデミー助演男優賞(ピット)、衣装デザイン賞 1995ゴールデン・グローブ助演男優賞(ピット) 1996MTV主演男優賞(ピット) |
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1996年12月28日。この日謎の細菌によって99%の人間が死に、地下生活を送らざるを得なくなった人類。そして科学者達はその原因究明に心血を注ぎ、ついに「12モンキーズ」と言う謎の組織にたどり着いた。2035年、科学者グループはジェームズ=コール(ウィリス)と言う囚人に「12モンキーズ」の調査を強いて、ウィルスが蔓延しはじめたとされる1996年に送り込まれることになる。だが手違いで1990年にタイムスリップしてしまう。そこでコールは精神病院に入れられ、謎の男ジェフリー(ピット)に出会うのだが… クリス=マルケルの短編小説「塔迎台」の『ラ・ジュテ』(1962)(製作当時ギリアム監督は本作を観ていなかったとのこと)に続く2回目の映画化作。本人によれば、「情報の氾濫と、そこにあふれかえる騒音の中から、いかにして自分たちの人生に有用かつ重要なものをより分けていくか。を問いかけた作品」。 これは久々のギリアム作品とあって、大ファンだった私は指折り数えるように楽しみにしていた作品だった。そして、その望み通り、見事な悪夢世界を作ってくれたギリアムに惜しみない拍手を送った。たとえ後にこの作品のオリジナル『ラ・ジュテ』を観て、そのイメージに圧倒されたとしても、やはりギリアム作品として、この『12モンキーズ』は私の中で非常に強い印象、光を保っている。 『ラ・ジュテ』と本作を較べると、時間の関係や撮影の問題などで、前者の方が遙かに純化され、謎の部分の解明も非常にスマートだったのに対し、本作は余計な部分をずいぶんと詰め込み、ややストーリー的にたるみが見られたりするが、その辺はさすがギリアム監督。その余計な部分をわざと放って置いて、すっきりしないまま終わらせたのは、一種の確信犯ではなかろうか?(ちょっとうがった見方かな?)。劇中至る所に登場するキー・ワードほとんど意味が分からない。と言うより、多分意味そのものがあまり無いのではないかとさえ思える(タイトルの『12モンキーズ』でさえ、実は全く意味を持たなかったと言う強烈なオチを残していた)。これを真面目にとって観たら、幾通りもの意味が見えたりするので、そう言うのが楽しい人は真面目に観て、出来たらその人なりの解釈を教えてほしい。大変な可能性を秘めた映画なので、是非色々聞きたいものだ。 後、この作品に限ってのことではないが、ギリアム監督はよくノイズ音を用いる(私なりにノイズ音の一番上手い監督はキューブリック監督だと思ってるけど)。特に本作では特徴的に用いられている。全くの無音状態の2035年時の地上。猥雑な1990年の町並み。精神病院での不協和音、クライマックスとして1996年のラジオから繰り返し流れてくる事件の声…どれも微かに精神をいらだたせるような、何か意味を持ちそうで持たない不思議な感触を与えてくれる。そう考えると、この作品はむしろ皮膚感覚で観るべき映画なのかも知れない。 この作品を彩るキャラクターだが、本当にギリアム監督はピン・ポイントで良い役者を配する。主人公のコール役ブルース=ウィリスは“ヒーローとして仕立て上げられたヒーローになりたくない男”を好演し、『ダイ・ハード』(1988)以来のマイ・ヒット。後、どうしてもギリアム監督に使ってもらいたくて自己PRまでしたというブラッド=ピットも、いつもとはまるで違うイッちまった役を巧く演じていて、アクセント的に良い味だしていたと思うし、芸幅を広げるのには良い機会だったんじゃないかな?ただ、この役が本当に彼に合う役だったかどうかは、今になってもちょっと疑問が残る。ヴァル=キルマーかジョニー=デップであったら、ますます良かったような気もせんではない(実はデップも候補に挙がっていたのだそうだが、製作者側が拒否したのだとか)。結果的にジェフリーは狂言回しのままだったし。マデリーン=ストーは、良い役とは思うけど、後半の狂乱の演技がやり過ぎっぽいかな?…ところで今LDを引っ張り出して観ててみたら、デヴィッド=モースまで出てたのね。知らんかったよ。 それと勿論本作も“夢”の演出はますます冴える。1990年の悪夢のような出来事が唐突に終わり、あり得ない田園風景を見せられた後、ますます救いようのない状況に落ち込まされる主人公の姿がブラックな笑いと共に印象に残る。悪夢のような世界を彷徨い歩かざるを得ない主人公って言うのは、ほんと、心惹かれるねえ。 ラストの雑感だが、あのテロリストが最後に乗った飛行機の隣にいたのは委員会の一人だった。しかも相変わらずの老け顔と言うことがあったから、彼女はわざわざ時を超えて本当に人類を滅亡から救う一歩手前まで来ていたんだろうな。問題はその前にウィルスの容器が開けられていたのだが、そこでウィルスは出てしまっているのか、それともまだその中に残っていたのか。その結論は出ていない。これも一つのケレン味なのかな? 私にとっては設定、キャラクター、雰囲気、ケレン味、共々に最高に好みの一本。 |
フィッシャー・キング 1991 | |||||||||||||||||||||||||||
1991米アカデミー助演女優賞(ルール)、主演男優賞(ウィリアムズ)、脚本賞、作曲賞、美術(監督)賞、美術(装置)賞 1991英アカデミー助演女優賞(プラマー)、オリジナル脚本賞 1991ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(ギリアム) 1991LA批評家協会女優賞(ルール) 1991シカゴ映画批評家協会助演女優賞(ルール)、監督賞、助演女優賞(プラマー) 1991ゴールデン・グローブ男優賞(ウィリアムズ)、助演女優賞(ルール) |
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かつて過激なトークで売れっ子DJだったジャック=ルーカス(ブリッジス)は今やアン(ルール)の経営するビデオショップで、居候のような生活を送っていた。実は彼の過激な台詞を真に受けた男が本当にパブで銃を乱射し、7人の犠牲者を出して自らも死んでしまったのだ。メディアや警察によって糾弾されたジャックは、最早外に出るのも怖がるようになってしまった。そんなある日、暴漢たちに襲われたジャックを一人の男が救う。その男ペリー(ウィリアムズ)はホームレスで、自分は“聖杯”を探していると言う。そしてペリーはジャックを「聖杯の鍵」と言う。突拍子もないことに巻き込まれてしまったと考えたジャックだが、実はそのペリーこそ、かつての銃乱射事件で愛する妻を失った人物であることを知る… 衝撃的な『未来世紀ブラジル』を叩きつけ、それまでの“モンティ・パイソンのアニメーター”から、一流の監督の仲間入りを果たしたテリー=ギリアム。だが、その『バロン』で評判ががた落ちし、ハリウッドからも相当に敬遠されてしまった。そんな失意の中、「完全にプロデューサーの言うことを聞くなら」という条件付けでハリウッド・システムの中で作り上げた作品(実は『アダムス・ファミリー』(1991)もオファーされていたそうだが、ギリアムは「今までの作り方と違うのだから」と言うことで、今まで全く作ったことのないジャンルである本作の方を選んだのだとか)。 確かに明らかに他のギリアム作品と較べると、タッチもストーリーも“らしくない”というか、はっきり言ってしまえば“異質”とも言える作品なのだが…こう言わせてもらうと、やっぱりギリアムはギリアムであった。この人が作ると、ニューヨークもおしゃれな町ではなく、ゴミ溜めから月を掴もうと手を伸ばすような所へと変貌してしまう。このケレン味がたまらないのだ。 本作は演出の良さが光るが、むしろ本作は人の精神世界そのものを丁寧に描いた作品と言えると思う。特に主人公ジャックの行動を見ていると、その過程がとてもよく分かる。 彼はそもそも傲慢な性格だったが、それはおそらく気の弱さの裏返しだった。自分の弱さを見せないために、不特定多数の人間をこき下ろす。あたかも大衆の味方をしているように見せつつ、それは不安と隣り合わせ。だからこそ、攻撃が自分に向けられた途端、全てを投げ出して自分の殻の中に入り込んでしまう(まるで現在のネット右翼みたいだ)。そして極端に内弁慶な人嫌いになってしまうのだが、実はこれこそが彼の本当の姿だったと思われる。 そして全ての虚飾を剥ぎ取り、弱々しい一個の人間となった時にペリーと出会うのだ。当初ペリーの個性に否応なしに巻き込まれてしまうのだが、最初の頃、ジャックはやはり接触を恐れ、彼ともびくびくつきあっている。だけど、ペリーが実は自分と関わりを持っていることを知った時、ペリーを守らねばならない。という義務感を持つに至る。 ジャックはあくまで保護者として、義務的にペリーとふれあい、彼の精神治療を行おうとするのだが、実はその時必然的に触れあわねばならなくなる。 ここが重要な点。彼は癒しを与える側ではなく、実はふれあいを通して癒しを受ける立場にあったのだ。 そしてペリーと共に精神的な冒険を経ることによって(ここに表れる様々なアイテムも精神的なものとして捉えられる。“赤の騎士”は、不安の象徴として描かれるし、“聖杯”を盗むと言うことは、まさに達成感を得るために他ならない。重要なのはこれらの象徴を通して彼らの癒しが描かれる訳だから、赤の騎士も聖杯も実は本当である必要は全くないのだ)、彼は今までの自分から一歩踏み出した、本当に人を思いやる人間へと変えられていく。当初他人と肌を触れあわせることを極端に嫌がっていたジャックが、肌のふれあいを通して癒されていき、最後にペリーと手をつないで夜空を見上げているのは実に象徴的な出来事であった。 勿論その過程はジャックだけではない。ペリーも又、ジャックの成長に従い癒されていく。むさ苦しい男二人が触れあう事も又、重要な事なのだ。 傷つくことを極端に恐れる人間だったから、それを超えることによって、本当に優しさを手にすることが出来た。その過程がとても良い作品だったのだ。 この辺確かにギリアムらしくないのかも知れないけど、だからこそ挑戦としては格好の作品だったし、それも見事に自分で消化してくれている。 勿論ギリアムらしさがよく表れているのが演出面。本作はストーリー・ボードを用いず、即興で決めた所も多々あり。ほとんど即興で作ったのはグランド・セントラル駅でのワルツのシーンが有名だが、他にもチャイニーズ・レストランのシーンや、駅でウィリアムズが呆然としているシーンはワルツのシーンが長引いてしまったため、撮影許可時間を過ぎてしまい、結局本当の群衆の中で撮影したとか。アドリブがとんでもなく多い作品だった訳だ。むしろその方がらしくなるのがギリアムの面白い所だよ。 又、本作で芸域を更に広げた感のあるウィリアムズは、『バロン』繋がりで出演したのだが、その時点でギリアムはウィリアムズの即興演出や暴走に相当苦労したらしく、こいつを抑えるために、ヴェテランのブリッジスをもう一方の主人公にしたとか。確かにブリッジスは実に安定性のある演技を見せてくれてる。 |
バロン 1989 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1989米アカデミー美術装置賞、美術監督賞、衣装デザイン賞、メイクアップ賞、特殊視覚効果賞 1989英アカデミープロダクションデザイン賞、衣装デザイン賞、メイクアップ賞 |
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トルコ軍の侵攻を受けたドイツの地方都市。その恐怖を忘れようと町では大々的に演劇が演じられていた。劇の名は「バロン・ミュンハウゼン」。“ほら吹き男爵”の名で有名な実在の人物の劇だった。だが、そのクライマックスで突如舞台に上がる一人の老人。彼は言う。「私こそがミュンハウゼン男爵その人であり、私がトルコ軍の攻撃を凌いでみせる」と。そして一座の少女サリー(ポーリー)を伴い、トルコ軍を撃退すべく、かつての仲間を探しに行くのだが… 鬼才テリー=ギリアムが贈る荒唐無稽な冒険譚。とにかく画面が派手で、登場人物が実に活き活きしているのがなんとも楽しい。 ところで、特撮という面でこの作品を考えてみたい。 特撮というのは、“あり得ないものを本当にあるように見せる技術”と言って差し支えないと思うのだが、方向性は二系統あると思う。一つは“実際にあり得るかもしれないもの”を撮る技術。ビルの破壊や人間の力ではどうしようもない力学的な指向性を与えること。そしてもう一つは“絶対に起こらないもの”を撮る技術。 前者は『フォレスト・ガンプ』(1994)に登場する羽根から始まり、『アポロ13』(1995)の発射シーンなど、実際に起こっているけど、通常では見ることが出来ないものリアル性を強調した特撮となり、CG技術の発達した現在では普通に用いられている。一方後者は『ゴジラ』(1954)などの怪獣ものに代表される、通常“特撮”と呼ばれる一連の作品だと言って良いだろう。“あり得ないものをあり得るように撮る”という意味においては同じだが、自然さを強調する方向性と不自然さを強調する方向性の二系統へと分かれるわけだ。 本作品は明らかに後者。しかも面白いことにその特撮技術を全く自然っぽく作るつもりがないらしく、いかにも作り物のように作っていることが特徴的。特撮技術をふんだんに用い、まるで夢物語のような(事実夢物語だが)作品を作り上げてしまった。“夢”を描くならば、リアリティは必要ない。と言うような開き直りが見られて実に楽しい。 凄まじい予算を用い、興行的には失敗したそうだが(イタリアで制作されたため、『クレオパトラ』(1963)以来の失敗作と喧伝された)、これ程派手な話をこの時代に作ったと言う事実こそが賞賛すべき点であり、そして何より一流所の登場人物が皆とにかく楽しそうだ。特に月の王に扮したロビン=ウィリアムズの怪演は、彼のファンには必見もの。元々はショーン=コネリーと考えていたそうだが、この役はやっぱりウィリアムズのものだろう(ちなみにウィリアムズはキャストとしてクレジットされていない。これはマネージャーが、ウィリアムズの名前で下らない映画を売り込もうとしていると主張したためだとか)。勿論主人公のミュンハウゼン男爵扮するジョン=ネヴィルやモンティ・パイソンのメンバーであるエリック=アイドルの好演、ヴィーナス役のユマ=サーマンの美しさ。あっと驚くオチの見事さ等々見所満載で幸せな気分になれること請け合い。 ギリアム自身もモンティ・パイソンのメンバーなだけに、笑いが見事に私のツボにはまっているし(モンティ・パイソンのメンバーは演劇者であると同時に全員優れた映像技術者でもある)、何よりテリー=ギリアムという名前だけで“良い作品”と思ってしまう私にとっては見事に大当たりを取った作品。 |
未来世紀ブラジル 1985 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1985アカデミー脚本賞、美術監督・装置賞 1985LA批評家協会作品賞、監督賞(ギリアム)、脚本賞 |
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徹底的な管理体制が敷かれているが、爆弾テロも続発する近未来の何処かの国。その情報局に身を置く小官吏であるサム=ラウリー(プライス)にとって唯一の慰めは夢の中で翼を持ったヒーローとなることだった。その夢の中では必ず彼が助けることになる女性がいた。情報局の操作ミス調査の事後処理に向かったサムはそこで夢の中で出てくるのとそっくりな女性ジル=レイトン(グライスト)と出会う。だが、なんと情報局は操作ミスの隠蔽工作でアイダを殺そうとしていることを知る。彼女を救うために危ない橋を渡ることを決意したラウリーだが… 夢を題材にした映画が好き。 その中でも飛びっきりの悪夢。観ている内に酔ってしまい、終わった時には完全に平衡感覚を失ってまっすぐ歩くのさえ困難になるほどの衝撃を与えてくれる作品。そんな作品を常に求めているのだが、そこまでのものを与えてくれる監督はそう多くない。だが… テリー=ギリアム。彼の作品は常に私にとてつもない快楽を与えてくれる。 その彼と出会った記念すべき作品がこれだった。 彼の作品は常に“夢”そのものを映画化する。そしてその夢は常に飛びっきりの悪夢に変わる。画面上に展開される画面はまさに悪夢そのものだ。そしてそれをブラックな笑いに押し込める。何という才能か。 この物語はどことも分からぬ未来世界で(一応タイトル通りにブラジルとすることも出来るが、劇中一言も国の名前は挙げられておらず、しかも基本的に冬を舞台としていると言う皮肉ぶり。ブラジルというのは最後に用いられた歌の名前に過ぎない)、官僚体制に押しつぶされる人間を描くのだが、ここにイデオロギー色があるとか、そう言うのは関係がない。ただ監督はストレスというものを端的に撮ろうとしているだけとも見える。単にそう言うのを撮ろうと思った。それで良いんじゃない? 主人公サムはその官僚組織の中にあって、心は既に押しつぶされかかっている。本来彼を慰めてくれるはずの母親は自分の美貌を保つ以外の興味を無くし、彼は仕事でも家庭でも既に極度のストレス状態に置かれる。そんな彼が唯一縋るものは夢でしかなかった。 そしてその唯一の慰め、それに縋ろうとする彼は無惨に打ち砕かれる。自分はヒーローとはなれず、自分が助けようとした者、なかんづくそれによって助けられることを望んだ女性ジルは彼の前から連れ去られ、残ったのは“反逆罪”の汚名を着せられた裸の自分だけだった。最後に残った夢でさえ、悪夢が忍び寄る。 全てが失われた時、彼の生活は今までの確固たる姿を失い、悪夢そのものへと化していく。 それを描ききった監督の技量と、偏狂的とも言えるディテールの緻密さ。少しずつ少しずつ肉体的にも精神的にも追いつめられる主人公の姿を撮り切った監督には頭が下がる。 そして何より私がギリアムという人物に惚れたのは、それで終わらないと言う点にある。彼の作品においては、本作、『12モンキーズ』(1995)、『ラスベガスをやっつけろ』(1998)に共通して、悪夢の揺れ返しが起こる。何とかしてこの悪夢から逃れようとする主人公の前に、突然何の脈絡もなく”救い”が提示される。どうせ不条理な世界。こういうハッピーエンドもあるのか、と何となくほっと安堵した瞬間… 直後に、以前に倍する悪夢を叩きつける。 これこそギリアムの醍醐味で、救いようのない世界に観客も又叩き込まれる。彼の作品を観る度、ころっとそれに引っかかるのが悔しくもあるが、引っかかったため、泥沼のような快楽へと身を堕とすことが出来る。 しかもここに登場する建物の魅力的なこと。無機質な質感ばかりなのだが、壁一枚取り外すと、そこには有機的なダクトがぬめっており、まるで生きものだ。これも又悪夢的な感触を与えてくれる。その中で無表情な人間がただ歩き回るシーンの不気味さ。無機的な気持ち悪さと言うべきか。 目覚めたまま飛びっきりの悪夢を与えてくれる監督テリー=ギリアム。彼の撮る世界こそ、私にとって何よりの快楽装置だ。絶対支持。 本作には色々と裏話がある。企画段階ではどの製作会社もそっぽを向いており、たまたま20世紀フォックスが『第五惑星』の監督候補としてギリアムを挙げ、そこでようやく興味を持ったお陰で製作にこぎつけたとか、最初、監督が考えていた題は『1984 1/2』というものだったのが(1/2とは勿論フェリーニの『8 1/2』(1963)から)、先にラザフォード監督の『1984』が公開されてしまったため、どうするかと考えて、作品のテーマソング「ブラジル」をそのまま題に使ってしまったとか、ヒロインのジル役は揉めに揉め、ロザンナ=アークェット、ジェイミー=リー=カーティス、レイ=ドーン=チョン、レベッカ=デモーネイ、ジョアンナ=パクラ、ケリー=マクギリス、マドンナ…更にこれだけ揉めて決まったグライストのシーンが気に入らなかった監督は必要最小限度を残し、その大部分をカットしてしまった(どうして選んだんだろう?)。更にデ・ニーロは主人公サムの友人ジャック=リント役を演りたがり、相当に揉めた上、役が決まってからも、その完璧主義ぶりがスタッフを精神疲労に陥れたとか。完成後ユニヴァーサルのシド=シャインバーグと戦ったとか(作品として長すぎるとのことで、切るかどうかから始め、編集権そのもので揉めたとか)…その辺は「バトル・オブ・ブラジル」という本にまでなってる。撮影そのものの完成度もそうだけど、ゴシップにも事欠かない作品だった。 |
バンデットQ 1981 | |||||||||||||||||||||||||||
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両親から相手にされず、むくれた少年ケヴィン(ワーノック)の目の前に突然現れた6人の小さい男達。彼らはバンデット(泥棒)で、自分たちのボスである神から盗んだ時間の地図を使って、これから世界中の過去の財宝を盗みに行くところのだと言う。ケヴィンは彼らに連れられ、過去の様々な時代(シャーウッドの森からタイタニック号まで)を旅し、その度に様々な人物?と出会う。アガメムノン王(コネリー)から巨大な海坊主、悪魔、はては造物主まで…さて、彼らは首尾良くお宝を盗み出すことが出来るのだろうか? ギリアム監督が製作者に『未来世紀ブラジル』の企画を出して回っていた時、ある製作者からもっと楽しめる作品なら。と言う返事をもらったために急遽企画したと言われる。 「おもちゃ箱をひっくり返したような」と言う表現があるが、それがまさしくこの映画そのものを表している感じ。突飛な出来事とそこにまつわるドタバタで全編が彩られているので、とても楽しい。 いくつもの時代を通り抜け、そこで大騒ぎを起こして逃げ出すと言うこの形式はそのまま『タイム・ボカン』。映画だと出ていく時代が限られるので、テレビシリーズ向きだったかも知れない(まあ、これだけ豪華なのはテレビじゃ作ることもできないと思うけど)。それだったら、本当に実写版『タイム・ボカン』になっただろうに(その場合、むしろ主人公達は悪役トリオ役か?)。 最初子供向きだと高をくくっていたのだが、思った以上に内容には見応えがあり、中盤以降はのめり込んでいった。テレビじゃなくて映画で観たかったなあ(でも、日本公開版はかなりカットされていたそうだけど)。確かにおとぎ話のような展開なのだが、結構残酷な部分もあって決して子供向きとは言えず、万人にお勧めできる作品ってわけでもない。後年のギリアム作品が好きだって人だったら確実に楽しめるとは思うけど。 ところでこの映画のベスト・ショットはやっぱり最後のショーン=コネリーのウィンク。夢オチ?と思った瞬間のあのショットは見事にこの映画を表していたと思う(このシーンは即興で、最初はコネリーのアガメムノンは死んでしまうはずだったが、主人公の一人が死ぬことによって最後のシーンが出来たとのこと)。『未来世紀ブラジル』のデ・ニーロの使い方と言い、有名人をちょい役に使う巧さはこの監督の良さだ。予算はかなりキツキツで大変だったみたいだけど、即興で作るのが上手いギリアム監督らしさが出るのが面白い所だ(コネリーも丁度スランプ時期に当たっていたので、のびのびした役が演りたかった。とはギリアム監督本人の言。)。 ちなみに本作はオリジナルで111分あるが、日本での公開は遅れ、更に『幻魔大戦』(1983)との併映とされてしまったため、103分になっている。けっ。どっちが面白いと思ってるんじゃ。 |
ジャバーウォッキー Jabberwocky |
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中世ヨーロッパにあるブルーノ王国の辺境で父と共に樽職人をしていたデニス(パリン)は、父の死を機に城に登って一旗揚げようと考える。自分が勝手に恋人だと思ってる??に別れを告げ、意気揚々と城へとたどり着くが、何の縁者もコネもないデニスは城に入れてさえもらえなかった。そんな折、城下町で怪物が出ると言う噂が流れており、困ったブルーノ王は、怪物を退治する者を選ぶ、騎士のトーナメントを開催する。なんとか城に潜り込めたデニスはその戦いに巻き込まれてしまう。 モンティ・パイソンのメンバーの一員だったテリー・ギリアムによる監督第一作。実質的には既に『モンティ・パイソン・アンド・ナウ』と『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』で共同監督を務めていて(実質はメイン監督だったとも)、既に監督経験があったことから、映画製作のノウハウは既に持っていた状態だったそうで、それまで暖めていた企画をついに映画にしたのが本作となる。そのためには仲間であるモンティ・パイソンのメンバーの全面的バックアップがあって、本作でも総出演。主人公自体がメンバーの一人であるマイケル・パリンだったし、他のメンバーもカメオと言うよりもわらかし役でしっかり登場してる(ギリアム本人も石売りとして登場してる)。 本作は一応特撮と言って良いとは思うが、それも確かに魅力だろう。だが本作の魅力はそれで語るにはあまりに勿体ない。非常に魅力たっぷりな作品だから。 一つ一つ挙げていこう。 まず本作は中世を描いた物語としては、かなりリアリティを求めた作品であること。先の『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』が単なるコメディではなく、所々非常に細やかな設定に裏打ちされていることもあったが、そこで培われたリアリティをここでも発揮されている。 この作品の年代は明らかにされていないが、4〜5世紀を描いた『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』よりは遅く、おそらくそこから11世紀までの間の出来事だろう。おそらくは設定としては10世紀くらい。この時代のヨーロッパ中世の大きな特徴は閉塞感と言える。ヨーロッパは巨大なのであまりその印象はないが、実はほぼ鎖国状態にあって、外部からほとんど情報も物資も入ってこない。徐々に徐々に国全体の力が失われていく。そんな時代となる。王族にとっては継承権のこと以外はほぼ全てが娯楽であり、その娯楽の延長線で刺激だけを求めるようになっている。国民が死のうが騎士が命がけで戦おうが、それこそ化け物が出ようが自分には関係が無いので、それが無聊を慰めることであれば歓迎する。 そして国が何にもしてくれないため、国民の暮らし(そもそも「国民」という意識自体がないので、その辺の地方を治める領主がトップなんだが)それが何にもやってくれずに、税金だけむしり取るので、政治に嫌気がさし、自分たちの狭い家族の世界が良ければそれで良いという考えに陥ってる。 そんな現代とは全く異なった価値観の中でドラマを考えるということ自体がすごいことだ。 そしてこの作品、以降のギリアム作品の要素がこれでもかと詰まっているのも特徴的。既に一作目から作風は確立していたことに気づかされる。 良い意味でも悪い意味でもギリアム作品に共通するテーマは、何も知らない主人公が逃げ回りながら自分の成功を夢見るというもので、ほぼ全ての作品がそういう作風になってる。主人公は大概世界から嫌われており、運も悪く、常に誰かから追い回されている。それに対してこれと言った対抗手段がないので主人公は逃げ回るのだが、行く先々で余計なことをしてしまって周囲から嫌われて又追いかけられるというものの繰り返しになる。しかも主人公はその逃げてる中でも自分探しをしていくものだ。この自分探しというところが監督特有の描写で、これあってのギリアム。そしてその要素は全部これに詰まっている。 後は中世に忠実と言うことで、甲冑での戦いが妙にリアル。何故甲冑を着込んでいる騎士は従者を必要とするのか。本作ほどそれをはっきり示した作品はない。なんせ甲冑を着るのも脱ぐのも一人では出来ないし、周りが見えないので槍を持って突っ込む以外の動きが出来ないのだから、それ以外は全部従者に任せないい行けない。格好良いように見えて大変情けないのが騎士というもので、肝心なのは騎士より従者である事がはっきりと示されている。要するに騎士というのは兵器のようなもので、その照準を付けるのも発車するのも全部従者の役割だ。こんなことを描く映画は私が知る限りでは本作のみだった。これだけ観るだけでも元取れた気になれる。 そして試合ごとに一人死んでいくと言う狂気の騎士の対戦も、中世ではそれなりに行われていたが、この行為自体が本当に馬鹿げていることをコメディとして盛り込んだのも大きい。そもそも中世を描いた作品は少ないのに、これを描いた作品はほぼ皆無。近年になってやっと『最後の決闘裁判』(2021)として作られたが、狂気の度合いで言うなら本作は遥かに上を行ってる。 後は当然特撮好きとなれば、ジャバーウォッキーの造形がもうなんというか、大好き。良いよね、この着ぐるみ感溢れる不自然さがたまらん。 正直本作は観てる間はたいした作品のように思えないのだが、観終えた瞬間に「とっても良いもの観た!」と思えたし、時間が経てば経つほど評価が上がっていく感がする。全方位で大好きな映画だ。 |
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