サーカスのバイクスタント芸人のジョニー・プレイズは、ガンに冒された父親を治すため、彼の前に現れたメフィストと契約を交わす。そのため父のガンは治ったものの、直後にその父が事故死してしまう。13年後、不死身のバイクスタントとして名を馳せるようになったジョニー(ケイジ)の前に再びメフィストが現れる。そして契約の破棄を条件に、悪魔の力の源泉「サン・ヴェンガンザの書」を探すようにと命じるのだった…
近年ハリウッドではヒーローものの作品が大流行りである。ヒーローものは70年代に結構作られてはいるものの、それらは概ねはTVMであり、日本の特撮の二番煎じと言った趣のものばかり。その後ポツポツと思い出したように80年代から90年代に渡って少しずつ作られていったが、あくまでそれも特撮の範囲内で、限られた人間が楽しむためだけに作られていった感じだった。
それが変わったのがサム・ライミの『スパイダーマン』(2002)の大ヒットによるもの。特撮よりもCGの発達による見栄えのする画面とダイナミズムが大きく受け、その後現在に至るまで多くのヒーロー作品が作られている(作られすぎという気もするんだが、それが受けるんだから仕方のないところか?)。
特にスパイダーマンを擁するMARVELの躍進は目覚ましく、『スパイダーマン』ヒット直後には『デアデビル』(2003)、『パニッシャー』、『ファンタスティック・フォー [超能力ユニット]』(2005)、『ハルク』(2003)そして本作と、次々と投入されていくことになる…まあ、それは基本的に“人柱”と言うべきもので、その後の『X-MEN』や『アイアンマン』のヒットまでは、どれも泣かず飛ばずといった感じだったという事実はともかくとして。
そんな中で雨後の竹の子作品として作られたのが本作だった訳だが、はっきり言ってやっぱり特徴が低い。地獄から蘇った青年がダークヒーローとして悪人をばったばったとなぎ倒すという内容は、設定としてはありきたりだし、物語も予測の範囲内で終わってしまう。せいぜい印象に残るのは、そこそこのメイクで骸骨役ができたニコラス・ケイジの顔力くらいだろうか。まさしく新世紀のクラウス・キンスキーだ…あれ?違ったっけ?
本作のみならず、そういった中期のMARVELヒーロー作品がことごとく失敗したのは、『スパイダーマン』の物語を継承することなく、外面のみを模倣した結果だろう。
『スパイダーマン』が成功したのは、確かに見栄えのする画面構成が大きな要素を持つが、なにより物語の中身だった。その持つ物語の力は、単なるヒーローとしてではなく、むしろ思春期の青年が悩みながらヒーローとして生きることを真剣に考えるという、人間の内面に踏み込んで作ってくれたことだった。しかもそれはポーズではなく、それこそが作品の中核を担っていたことがあの作品の素晴らしい部分であり、それが物語の厚みとなっていたからこそ、大ヒットをしたと言っても良い。
ところがその後に作られた作品のほとんどは純粋なヒーロー作品であり、主人公の悩みは物語のスパイスとしてしか作られてるように見えなかった。これでは“雨後の竹の子”と言われても仕方ないし、実際その程度の物語で終わってしまったとしか思えない。
まあ、ケイジが楽しそうにやってるので、それを観るだけで満足と言われればそれまで。 |