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2008 | ||
2007 | ゴーストライダー 監督・原案・脚本 | |
2005 | エレクトラ 製作総指揮 | |
2003 | デアデビル 監督・脚本 | |
2001 | ジェイ&サイレント・ボブ 帝国への逆襲 出演 | |
1998 | サイモン・バーチ 監督・脚本 | |
ジャック・フロスト 脚本 | ||
1996 | スクール・ウォーズ/もうイジメは懲りごり! 脚本 | |
1995 | ラブリー・オールドメン/釣り大将LOVE LOVE日記 脚本 | |
1993 | ラブリー・オールドメン 脚本 | |
1964 | 10'30 ミネソタ州で誕生 |
ゴーストライダー 2007 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2007ゴールデン・ラズベリー最低主演男優賞(ケイジ) 2008サターンホラー作品賞 |
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サーカスのバイクスタント芸人のジョニー・プレイズは、ガンに冒された父親を治すため、彼の前に現れたメフィストと契約を交わす。そのため父のガンは治ったものの、直後にその父が事故死してしまう。13年後、不死身のバイクスタントとして名を馳せるようになったジョニー(ケイジ)の前に再びメフィストが現れる。そして契約の破棄を条件に、悪魔の力の源泉「サン・ヴェンガンザの書」を探すようにと命じるのだった… 近年ハリウッドではヒーローものの作品が大流行りである。ヒーローものは70年代に結構作られてはいるものの、それらは概ねはTVMであり、日本の特撮の二番煎じと言った趣のものばかり。その後ポツポツと思い出したように80年代から90年代に渡って少しずつ作られていったが、あくまでそれも特撮の範囲内で、限られた人間が楽しむためだけに作られていった感じだった。 それが変わったのがサム・ライミの『スパイダーマン』(2002)の大ヒットによるもの。特撮よりもCGの発達による見栄えのする画面とダイナミズムが大きく受け、その後現在に至るまで多くのヒーロー作品が作られている(作られすぎという気もするんだが、それが受けるんだから仕方のないところか?)。 特にスパイダーマンを擁するMARVELの躍進は目覚ましく、『スパイダーマン』ヒット直後には『デアデビル』(2003)、『パニッシャー』、『ファンタスティック・フォー [超能力ユニット]』(2005)、『ハルク』(2003)そして本作と、次々と投入されていくことになる…まあ、それは基本的に“人柱”と言うべきもので、その後の『X-MEN』や『アイアンマン』のヒットまでは、どれも泣かず飛ばずといった感じだったという事実はともかくとして。 そんな中で雨後の竹の子作品として作られたのが本作だった訳だが、はっきり言ってやっぱり特徴が低い。地獄から蘇った青年がダークヒーローとして悪人をばったばったとなぎ倒すという内容は、設定としてはありきたりだし、物語も予測の範囲内で終わってしまう。せいぜい印象に残るのは、そこそこのメイクで骸骨役ができたニコラス・ケイジの顔力くらいだろうか。まさしく新世紀のクラウス・キンスキーだ…あれ?違ったっけ? 本作のみならず、そういった中期のMARVELヒーロー作品がことごとく失敗したのは、『スパイダーマン』の物語を継承することなく、外面のみを模倣した結果だろう。 『スパイダーマン』が成功したのは、確かに見栄えのする画面構成が大きな要素を持つが、なにより物語の中身だった。その物語の力は、単なるヒーローとしてではなく、むしろ思春期の青年が悩みながらヒーローとして生きることを真剣に考えるという、人間の内面に踏み込んで作ってくれたことだった。しかもそれはポーズではなく、それこそが作品の中核を担っていたことがあの作品の素晴らしい部分であり、それが物語の厚みとなっていたからこそ、大ヒットをしたと言っても良い。 ところがその後に作られた作品のほとんどは純粋なヒーロー作品であり、主人公の悩みは物語のスパイスとしてしか作られてるように見えなかった。これでは“雨後の竹の子”と言われても仕方ないし、実際その程度の物語で終わってしまったとしか思えない。 まあ、ケイジが楽しそうにやってるので、それを観るだけで満足と言われればそれまで。 |
デアデビル 2003 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2003MTVムービー・アワード ブレイクスルー演技賞(ガーナー)、キス・シーン賞(アフレック&ガーナー)、悪役賞(ファレル) 2003ゴールデン・ラズベリー最低主演男優賞(アフレック) |
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ボクサー崩れの父と二人暮らしのマット・マードックは、子供の頃事故によって視力を失ってしまう。だが、その代わりに他の感覚が飛躍的に増している事に気付いた。マットの事故に責任を感じた父は正統派ボクサーとして復帰するが、八百長を拒否したため、組織に殺されてしまう。それをきっかけにマットは悪を懲らしめることを心に誓った。成長したマットは昼は弁護士として活躍し、夜になるとデアデビルのコスチュームに身を包み、法では裁けない悪者に対して正義の裁きを加えていく。そんなある日、マットは街でエレクトラという女性と出会う。互いに惹かれ合っていく二人だったが… 品行方正なヒーローしか登場しなかったアメコミに、ダークヒーローを初登場させたと言うことでアメコミに風穴を開けた作品として有名なフランク・ミラーによる「デアデビル」の映画化作。 アメコミが好きで、予告編がとても格好良かった。それにベン・アフレックは結構好きな役者(まあ、嫌いな映画もあるけど)。これは私に観に行け。と言ってるようなものだ。 結構勇んで映画館に脚を運んだのだが… うー…決して安くない金を出して観た劇場で、これだけ「大外れ」というぶちあたったのは久方ぶりだ。これはもう見事と言うしかないほどの完璧な外れだった。 大体、オープニング部分。本来つかみとして最も重要な部分が、まるで意味が感じられない。未来からの映像を映すのはありふれた方法だったし、大体その後でビルから落ちるシーンなんて、完全な無意味。格好良いからと言うだけの理由でしかない(いや、それも一つの価値観か)。 最初の5分で暗雲がたれ込めてきた。 主人公マットは視力を失っているというのは面白い着眼点だったし、それをビジュアル化しようという試みは認めるんだけど、この程度では“目新しい”という程の描写じゃなかった。 更にCG&ワイヤーアクションも、見慣れてしまった目には全く目新しさがなく、単に鬱陶しいだけで、肝心なアクション自体が単調で退屈。正直、ラストのアクションはあくびが出てしまった。 見た目、非常に目を惹くキャラ達も、描写が浅く、格好は兎も角キャラそのものに魅力が感じられない。小物も同じで、色々面白いアイテムが出てくるんだけど、それが全然活かされてない。 一番重要なのは主人公の目的意識の無さだろう。悪を憎むってのは良いんだけど、行き当たりばったりに悪に出会ってぶちのめす(殺したりもする)なんて、単なる殺人鬼じゃないの?大体、自分が裁判に負けたから被告を殺すなんてのは、腹いせのためとしか思えない(しかもレイプ犯を懲らしめるために、そこに居合わせた全員を殺すなんて、あんまりじゃない?)。父を殺した犯人を憎んでるはずなんだけど、それを探そうともしてないので、目的意識自体がまるで感じられない。それにあの自宅の部屋。ヌンチャクがいくつも壁に掛かってるなんて、ヒーローの部屋というよりはむしろブルース=リーオタクの部屋だ。 エレクトラは綺麗で格好良かった。でも、それだけ。たまたま主人公が一目惚れした女性がたまたま大金持ちの娘で、しかもたまたま拳法の達人、合って程なくしてその父親が殺され、たまたまそれを守ろうとしたマットが犯人にされてしまい、エレクトラ自身が彼を殺そうとする(しかもエレクトラの父がマットの父の敵でもあると言うおまけ付き)。更にデアデビルがマットだと分かった途端、手の平を返すように優しくなるエレクトラ…ここまでくるとリアリティなど薬にしたくてもないし、脚本が完全に開き直ってるので、この脚本を書いた人間の正気をさえ疑いたくなった。 アメコミヒーローだと『バットマン』(1989)とか『スパイダーマン』(2002)、『スーパーマン』(1978)なんてのがあるけど、スーパーマンほど自分の存在意義を求める事がなく、バットマンほど明確に悪を憎むと言う姿勢がなく、スパイダーマンほど目的意識がない。恐ろしく中途半端なヒーロー。それがデアデビルだ! 設定的な難を言わせてもらうと、デアデビルは感覚過敏のくせに、至近距離で発射された拳銃の衝撃にはびくともしないとか、匂いにも過敏なはずなのに、マスタードをコーヒーにべちゃべちゃ入れるとか(笑いを入れようとしたのは分かるけど、刺激物を鼻先に置いておいて、全く動じないってのはちょっと引いた)、日常生活における神経過敏の部分があまりにもお粗末。更にあんな特殊な武器を使っているのに警察は武器の特定を全くしようとしてない間抜けさとか… 掲示板にこの映画について書き込んでもらって、一体この映画、何が悪いのかにはっと気付いた。この作品、監督の思い入れが全然感じられないのだ。大ヒットを飛ばした『スパイダーマン』と較べてみてもそれはあきらかで、「俺はこいつを絶対こう撮りたいんだ」というフィルムの後ろにいる監督の強烈な想いがない。ヒーローものにとって、一番大切なのは監督自らの想いであるという事に改めて気付かされる。 それと、ベン・アフレックには、こんな単純なマッチョヒーローより、もっと複雑な神経を持つ役を演って欲しい。彼にはそれができると期待してる。 |
サイモン・バーチ 1998 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
1998放送映画批評家協会子役賞(スミス) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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1954年。メイン州の小さな町で一人の男の子が生まれた。サイモン(スミス)と名付けられたその子は、モルキオ症候群のためあまりにも体が小さく、医師の診断ではすぐに死んでしまうということだった。だがサイモンは体が小さいまますくすくと成長していく。親からは疎まれてはいたが、この小さな体には何か意味がある。と常に考え続けているサイモンだが、私生児でいつも周囲に苛められているジョー(マッゼロ)と仲良くなり、いつも二人で過ごすようになっていった。だがある日野球でサイモンが打ったホームランボールがジョーの母レベッカ(ジャッド)を直撃してしまう。 現代アメリカ文学を代表するアーヴィングの「オウエンのために祈りを」の映画化作。一応話は原作に沿ってはいるが、超自然的な感覚部分はなるだけ出さないようにして、少年同士の友情に焦点を当てた作品に仕上げていた。ちなみに原作ではちゃんとこれからもサイモンは生き続け、“神の計画”をしっかりこなしていくことになっているが、話をまとめるため、ここではサイモンは最後に死んだことになってる。 主題は面白いし、きちんと少年の友情と、意志の強さによって困難を乗り越える姿など、見所は大変多い。客観的に言ってもかなり気に入った作品ではある。 良い映画であることは確かに認める。ただ、ちょっとはまりきれなかった部分もあり。いくつものショートストーリーを同時並行して描くことで焦点がぼけてしまい、やや物語にまとまりを欠いてしまったことが第一だろうが、本作の最も重要な部分。ノスタルジック部分を私が受け止められなかったことだろう。 田舎での少年時代。これはアメリカ人にとってはとても懐かしい思い出であり、それを刺激されると、評価はぐんっと上がるだろう。それこそ同じメイン州を舞台にした『スタンド・バイ・ミー』(1986)はその最も端的な例。本作の最重要の肝はそこにあったと思われるのだが、残念ながら、アメリカ人でない身としては、それは“単に綺麗な”作品から出ることが無く、その部分でちょっと悔しさを感じさせてしまう。画面にはまり込めないと言うことはすなわち物語上のあざとさって奴が見えてしまう訳でもあり。私自身の資質として合わなかったというところで。 …とは言え、最後の怒濤の展開では泣いてしまった自分がいるわけだが。 |