ガートルード
Gertrud |
1965ヴェネツィア国際映画祭イタリア批評家賞、新鋭評論家賞 |
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カール・テオドール・ドライエル(脚)
ニーナ・ペンス・ローデ
ベント・ローテ
エッベ・ローデ
バール・オーウェ |
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★★★☆ |
物語 |
人物 |
演出 |
設定 |
思い入れ |
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次期大臣が内定しているグスタフ(ローテ)の妻ガートルード(ローゼ)は、愛のない結婚生活を終わらせることを決意し、現在の若い音楽家の恋人エアラン(オーベ)の元へと走るが、やがてエアランのほうにその気がないことを知ってしまう…
本作はドライエル監督の遺作となった作品で、スウェーデンの劇作家ヒャルマール・セデルベリの作品を脚色したもの。監督にとっては最も現代的な内容となった。
物語そのものは実はよくある不倫劇。愛の無くなった夫婦生活に決別を付けた妻が、本当の愛を求めて彷徨う。と言った具合。表面上に見えている愛というのが、どんどん薄っぺらくなっていき、その中で本当の愛を探すと言う、題材的にはよくあるパターンではあるが、流石というか、一筋縄には行かないのがドライエルの作風。
ドライエル作品に登場する男は、揃いも揃って自分の所有物に対して極端なまで所有欲を宣言する。自分の思ったとおりにならないと怒るし、見苦しいまでに固執するのだが、自分の力ではどうにもならないとなると、捨て台詞を残し、後は完全無視。誰しもある感情かも知れないけど、その部分が極端にまで誇張されているのが特徴と言えようか。本作の場合、男の持つ“愛”とは、結局所有欲に他ならず、それに気付いた主人公が本物の愛とは?と言う事を探していくことになる。
ガートルードが探し求めた愛とは、当初それは狂おしいまでの肉感的な愛であったはずだが、それは結局幻想であることが発覚。その後愛を探して遍歴する。そして最後、愛を追い求めた結果、彼女に残された愛は何だったのか。自己愛だったのか。博愛だったのか。不思議な余韻を残して物語は唐突に終了。かなり投げっぱなしに近いのだが、それ故に考えさせられる。
ただ、本作の場合はそう言うストーリー云々よりも徹底的にシンプル化させたカメラの技術を観るべき作品だとも言える。2時間近い作品なのだが、使われているのは僅か90ショット以下。ほとんどが固定カメラの前での演技となる。しかも二人とも座っての演技が多いため、結果として身振り手振りではなく、表情のみで物語を形作っていくことになる。贅肉を全てそぎ落とし、人間対人間の会話を極端に突き詰めた作品と言えるかも知れない。
…ただ、やっぱり私にはキツイ作品だったけど。 |
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