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| 放映日時 |
1973'4'1~9'30 |
| Wikipedia |
「当時『ドラえもん』をテレビアニメ化するのは相当な冒険であって、今でこそ国民的な漫画となっているが、当時はまだ原作漫画の単行本も出ておらず、子供でも『ドラえもん』を読んでいたのは小学館の学年誌を買ってもらってる一部の子供だけであり、他の(大手週刊少年)漫画雑誌連載のテレビアニメ化とはわけが違った」この頃の『ドラえもん』の立場を表すなら『藤子不二雄ランド』が刊行される前の『バウバウ大臣』みたいなもので、先輩の『オバQ』『パーマン』『怪物くん』などと比べても明らかにマイナーな存在であることは否めなかった」「常識で考えればそのような作品をアニメ化するのは異例とも言えるが、その少し前に放映されていた『新オバケのQ太郎』のヒットの影響も大きかったのかもしれない。勿論『新オバQ』がヒットしたからといって、同じ作者の別の作品が簡単にアニメ化される程この業界は甘くはないだろうから、社長の新倉雅美さん達の先見の明とその後の努力が実を結んだのであろう」と推察している。
メインスタッフには旧虫プロダクション出身のメンバーが集い、アニメ制作は日本テレビ動画の東京および新潟スタジオと、いくつかのグロス請けスタジオがローテーションを組んでスタートした。グロス請け先は、スタジオジョーク、スタジオ古留美、アド5、トップクラフトなどのローテーションが当初予定されていたが、放送開始前後にスタッフの変更もあったようで、確定とは行かなかった模様である。なお、真佐美が個人的にラッシュフィルムを保管している第21回Bパート「お天気ボックスの巻」は、後に第2作以降の制作を請け負うことになるシンエイ動画の前身であるAプロダクションに外注されていたことが近年判明している。
チーフディレクターは後にスタジオぴえろを創設する上梨満雄であった。上梨を選んだ真佐美は、その理由として「人柄も他人の面倒見も良く、穏やかだが一つ作品に入り込むと妥協を許さない」と述べており、日本テレビ動画で若手を育てようと将来の夢を語ってチーフディレクターに迎え入れたという。また真佐美は「一人の演出家が全体の流れを統一したほうが原作者の意向を反映出来るため。そして全体を任せられて、若手で力のある演出家を選びたかったから」とも語っている。しかし実際には原作者からの注文や要望はほとんどなかったとされ、上梨も最後まで原作者と会うことはなかった。
当初、ドラえもんの声は富田耕生が担当した。現在放送中のアニメ第2作とはイメージが異なるが、当時のスタッフは、ドラえもんというキャラクターに「世話好きなおじさん」というイメージを抱いていたことから、動物役なども多く演じていた富田に初めから配役するよう決めていたという。
本作は日曜の夜7時からの30分番組というゴールデンタイムでの放送だったが、小学生向けの漫画を原作として製作された本作は、対象とする年齢が低かったこともあり、強力な裏番組に押され、当初は視聴率で苦戦したとされる。また半年間という当時としては比較的短期間の放送だったため、「不人気で打ち切り」という噂が一般化していたが、実際には元々2クールの放送契約で、ある程度の視聴率が確保出来たらその後も継続するという契約だった。なお、この時間帯はそれまで日本テレビが視聴率で歴代苦戦を強いられてきた枠でもあり、局側としては「5%も行けばいい方」と視聴率に関しては比較的寛容な姿勢を取っていたという。
その後、1クール終了の間際に制作会議が招集され、日本テレビ側は視聴率が10%を超えれば放送を継続するとした。また『小学五年生』『小学六年生』での連載が4月号から開始されたこともあり、番組の対象年齢の引き上げと「世話好きなおじさん」然としたドラえもんの年齢イメージを下げることを目的に、ドラえもんの声を担当していた富田を降板させ、野沢雅子に交代するなどのテコ入れを図った。放送2クール目に入ると、原作では数回しか登場しなかったアヒル型ロボット「ガチャ子」をレギュラー入りさせるなどスラップスティック要素も強調したという。
2クール終了間際の1973年8月中旬、日本テレビ動画の実質的経営者(社長と自称)だった新倉が突然失踪。その後、経営を引き継いだ同社の会長はアニメ会社の経営に無関心な人物で、「もう止めよう」の一言で会社は解散となった。
会社の解散という混乱の中、同年9月30日放送の「さようならドラえもんの巻」を2週間で作り上げ最終話とし、半年で終了となった。最終回は自転車が漕げなかったのび太が泣きながら自転車を漕ぐ練習をする姿を、未来の世界に帰ったドラえもんがタイムテレビで見守るところで物語が終わる。最終回ラストのエンドカードはあえて「次回もお楽しみに」として終了させており、これは制作主任の真佐美による演出だった。
フィルムは日本テレビでの管理期間終了後、散逸して行方不明になっていたと思われていたが、安藤健二の調査により、本作の現像を担当した東洋現像所(現:IMAGICA
Lab.)が1995年に横浜工場を閉鎖する際の在庫整理で、最終話を含む後半16話分のネガフィルムを発見し、同社が委託している東京湾岸の倉庫に保管されていることが判明した。
当時の漫画界では「アニメが終わったら原作も終わる」というのが常識であり、そのため『ドラえもん』も一時は連載を終わらせ、新キャラクターと入れ替えようという話が小学館から出ていたという。しかし自作『ドラえもん』に愛着のあった藤本は、それを押し切る形で新連載である『みきおとミキオ』との2本立ての形で連載を続行したが、1974年より刊行が始まった『ドラえもん』の単行本が予想外の大ヒットとなったため、『みきおとミキオ』の連載は1年で打ち切られた。
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| 個人的感想 |
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| ジャンル |
コメディ(SF) |
| 原作 |
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| スタッフ |
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| 協力会社 |
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| 放映日時 |
1972'4'23~8'20 |
| Wikipedia |
1972年4月23日から8月20日、および特別編として同年9月24日に不二家の時間(TBS)で放送されたドキュメンタリーとアニメーションを一体化させた番組である。
番組はバレーボール日本代表が、ミュンヘンオリンピック(1972年8月開幕)へ向けて取り組む様をチーム全体、あるいは選手個々のエピソードを交えて取り上げたもので、エピソード部分はアニメーション、また練習の模様などは実写映像を使って放送された。
アニメ部分の監督を務めた吉川惣司は、日本代表監督の松平康隆がチームの知名度向上を目指して広告代理店経由でTBSに企画を持ち込んだもので、実写番組では視聴率を見込めないことから「アニメと組み合わせるしかない」という判断になったと証言している[1]。放送前の記事では、アマチュア選手を出演させると選手規定に抵触することから、アニメーションに実写を挿入する方式を採ったと紹介されている。
原作は小泉志津男の『嵐と太陽』(日本文化出版)および松平康隆の『負けてたまるか!』(柴田書店)。
松平康隆役の声優は小林昭二が担当した。毎回、猫田勝敏、南将之、森田淳悟、横田忠義、大古誠司ら、チーム全員12人を主役としてストーリーを編み、当時の日本バレーボール界をリードした選手が実名で登場している。
1971年にタツノコプロ制作、日本テレビで放映した『アニメンタリー 決断』に次ぐ「アニメによるドキュメンタリー作品」であるが、『決断』が太平洋戦争を題材にした歴史ものだったのに対し、『ミュンヘンへの道』はオリンピックに関連した同時進行ドキュメントであった。日本代表チームが本当に金メダルを取れるのかという視聴者の興味を盛り上げながら、オリンピック前哨戦の試合と連動させることで、メディアミックスともいえる演出効果が見込まれた。通常放送の最終回は、オリンピックでのバレーボール競技が開始される1週間前で、オリンピックでの優勝決定後の9月24日に、優勝を記念する形で総集編的な「特別編」を放映している。
1994年4月22日に放送されたドキュメンタリー『驚きももの木20世紀』(朝日放送制作・テレビ朝日系列)で、ミュンヘンオリンピックにおけるバレーボール日本代表を取り上げた時、本作映像を使用した。
当時の実写フィルム映像は、のちに2013年3月にNHK BS1、2014年3月にNHK総合テレビジョンで放送された「ヒーローたちの名勝負・ミュンヘンの軌跡 男子バレー金メダル」で一部紹介されている。 |
| 個人的感想 |
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| ジャンル |
実話ベース(アニメーション) |
| 原作 |
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| スタッフ |
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| 協力会社 |
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| 放映日時 |
1970'9'28~1971'3'27 |
| Wikipedia |
原作・佐々木守、漫画・水島新司による野球漫画。1970年から1975年まで『週刊少年サンデー』で連載された。1970年から1971年にテレビアニメが放送された。第19回(昭和48年度)小学館漫画賞受賞。
各週、月曜日から土曜日の10分枠で各話の第1回から第6回を放映。26週終了後、同枠で1971年9月まで再放送をし、同時に1966年1月3日開始の『まんがホームラン』以来5年9ヶ月続いた18:35枠帯アニメ路線は、事実上終了した。
近畿を舞台とした物語であり登場人物は関西弁で話しているが、第1話放送後に制作会社である日本テレビの近畿出身の上層部が「声優たちの関西弁があまりにひどく、聞くにたえない。来週から標準語にしろ」と要求したため、第3話は標準語の台詞で収録・放映された。しかし、それに反対した脚本の雪室俊一は「それならタイトルをいっそ『男大バカ後楽園』とでもしろ!」と怒り、脚本を降板。その後、やはり違和感が大きかったため局に抗議が殺到し、第4話から関西弁の台詞に戻された。甲子園を演じた井上真樹夫は後年、このことについて『「それっぽい方言なら良い」と業界全体が考えており何ら違和感がない時代』であり、演出側にも「方言なんて適当でいいよ」と言われ出演を承諾、台本に忠実に演じたと語っている。
ドラマは概ね原作の高校編に準じるが、南波野球部を襲う数々の危機は、丹波グループと神島グループの対立に巻き込まれる形に整理され、全共闘の結成や学校側の八百長陰謀などは割愛されている。甲子園が丹波や神島と和解し南波ナインが結成された後は、春の選抜大会優勝で最終回を迎えている。(夏の全国大会までは描かれていない。)
後に第1話から第4話を収録したVHSビデオ全2巻がバップから発売された。 |
| 個人的感想 |
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| ジャンル |
野球(スポーツ) |
| 原作 |
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| スタッフ |
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| 協力会社 |
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| 放映日時 |
1970'4'13~1971'4'5 |
| Wikipedia |
原作:梶原一騎・作画:園田光慶・深大路昇介によるサッカーを題材とした日本の漫画作品、およびそれを原作とするテレビアニメ。
テレビ放映に際しては読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)の取材協力を仰いだ[6]。
放送時間(JST)は毎週月曜19:00 - 19:30で、この枠でアニメが放送されるのは本作が初。またそれまで日本テレビの19時枠国産アニメは、継続中の『巨人の星』とその前の『黄金バット』に次いで3作目だが、この2作は系列局のよみうりテレビ制作であるため、日本テレビ制作作品は初となる。なお前週の4月6日には前夜祭番組『赤き血のイレブン前夜祭』を放送、原作者の梶原一騎や、谷啓・はかま満緒・小松政夫・ドンキーカルテットを招いての歌やコントが行われた[32]。
第40話より『サッカー野郎 赤き血のイレブン』に改題され、玉井を中心とした日本ジュニアと、ケン・サントスが率いるブラジル・ジュニアとの対戦を描いたオリジナルストーリーが展開された[1]。この際、一部キャラクターデザインが変更されている。
アニメ化が決定した当時、スタッフの中にサッカーの基本技術やルールを熟知していたものが一人も存在せず[33]、試合の録画フィルムなどを参考に見よう見まねで製作をしていたところ、監修として招いた読売クラブの指導者の柴田宗宏から「こんな動きはありえないだろう」と注意を受けた[6][33]。そのため、元日本代表コーチのデットマール・クラマーが選手を指導する際に用いた教則フィルムを取り寄せ、パスやドリブルやヘディングといった基本技術を参考にした[33]。
主人公のCF玉井が放つ必殺シュートは、漫画版では蹴ったあと後方に半回転し、逆立ちをするというものであったが、「こどもが真似すると危険だ」というクレームが付いたことから、アニメ版では「ワントラップから放たれるドライブシュート」のようなシュート「サブマリンシュート」に変更されている。アニメ放送の影響で「サブマリンシュート」が人気を博すと主人公のモデルとなった永井の下には多数のファンレターが送り届けられたという[2]。
途中から監督を務めた岡迫亘弘は、1980年代には『キャプテン翼』、1990年代には『燃えろ!トップストライカー』といったサッカーを題材としたアニメ作品でキャラクターデザインを担当している。 |
| 個人的感想 |
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| ジャンル |
サッカー(スポーツ) |
| 原作 |
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| スタッフ |
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| 協力会社 |
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| 放映日時 |
1968'930~1969'3'29 |
| Wikipedia |
原作:梶原一騎・画:荘司としおによる日本の漫画作品、およびそれを原作としたテレビアニメ。
漫画版は、『冒険王』(秋田書店)に、作品本編を連載し、『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に、サイドストーリーを掲載する方式を採っていた。 全26話(全156回)。前番組『冒険少年シャダー』と同様に、1週間(6回分)をかけて1つのストーリーが完結する方式となっていた。
このテレビアニメ版では、赤城がキックボクシング部を創設する以前から木曽中に各スポーツ部が存在する、小瀬の父親が存命しているなど、原作漫画とは時系列や状況が異なっている。
本作がビデオソフト化されたことはないが、オープニング映像についてはハミングバード(現:ワーナーミュージック・ジャパン)から発売された『マニア愛蔵版 懐かし〜いTVアニメテーマコレクション』(規格 - VHS・LD)に収録されている。 |
| 個人的感想 |
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| ジャンル |
中学校(学校) |
| 原作 |
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| スタッフ |
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| 協力会社 |
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