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他の名義として、新田修介 | |||||||||||||||||||||||
「ガンダム」の家族論(書籍) _(書籍) |
2022 | |||||||||
2021 | 『Gのレコンギスタ III』「宇宙からの遺産」 総監督・原作・脚本 | ||||||||
2020 | 『Gのレコンギスタ II』「ベルリ 撃進」 総監督・原作・脚本 | ||||||||
2019 | 『Gのレコンギスタ I』「行け!コア・ファイター」 監督・原作・脚本 | ||||||||
2018 | |||||||||
2017 | |||||||||
2016 | |||||||||
2015 | |||||||||
2014 | |||||||||
機動戦士ガンダム THE ORIGIN I 青い瞳のキャスバル 原作 | |||||||||
機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)/episode 7 虹の彼方に 原作 | |||||||||
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2013 | 機動戦士ガンダムAGE 〜MEMORY OF EDEN〜 原作 | ||||||||
機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)/episode 6 宇宙と地球と 原作 | |||||||||
ガンダムビルドファイターズ<TV> 原作 | |||||||||
2012 | 機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)/episode 5 黒いユニコーン 原作 | ||||||||
2011 | 機動戦士ガンダムUC episode 4 重力の井戸の底で 原作 | ||||||||
機動戦士ガンダムUC episode 3 ラプラスの亡霊 原作 | |||||||||
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2010 | 機動戦士ガンダム00-A wakening of the Trailblazer- 原作 | ||||||||
機動戦士ガンダムUC episode 2 赤い彗星 原作 | |||||||||
機動戦士ガンダムUC episode 1 ユニコーンの日 原作 | |||||||||
模型戦士ガンプラビルダーズ ビギニングG<OVA> 原作 | |||||||||
SDガンダム三国伝 Brave Battle Warriors 原作 | |||||||||
日本のいちばん長い夏 出演 | |||||||||
2009 | |||||||||
2008 | 機動戦士ガンダム MSイグルー2 重力戦線 原作 | ||||||||
少林少女 出演 | |||||||||
2007 |
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2006 | 機動戦士Zガンダム III -星の鼓動は愛- 総監督・原作・脚本・絵コンテ | ||||||||
リーンの翼 第6話 桜花嵐 総監督・脚本・コンテ | |||||||||
リーンの翼 第5話 東京湾 総監督・脚本・コンテ | |||||||||
リーンの翼 第4話 王の奸計 総監督・脚本・コンテ | |||||||||
リーンの翼 第3話 地上人のオーラ力 総監督・脚本・コンテ | |||||||||
リーンの翼 第2話 ホウジョウの王 総監督・脚本・コンテ | |||||||||
機動戦士ガンダムSEED C.E.73 STARGAZER 原作 | |||||||||
GUNDAM EVOLVE..<OVA> 原作 | |||||||||
日本沈没 出演 | |||||||||
2005 | 機動戦士Zガンダム II -恋人たち- 総監督・原作・脚本・絵コンテ | ||||||||
機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者- 総監督・原作・脚本・絵コンテ | |||||||||
リーンの翼 第1話 招かれざるもの 総監督・脚本・コンテ | |||||||||
機動戦士ガンダム MSイグルー 原作 | |||||||||
2004 |
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2003 | GUNDAM EVOLVE PLUS 原作 | ||||||||
2002 |
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2001 | ∀ガンダム II 月光蝶 総監督・原作 | ||||||||
∀ガンダム I 地球光 総監督・原作 | |||||||||
2000 | |||||||||
1999 |
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1998 | 機動戦士ガンダム 第08MS小隊 ミラーズ・リポート 原作 | ||||||||
新機動戦記ガンダムW Endless Waltz -特別篇- 原作 | |||||||||
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1997 | バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼 其の三「光る翼」 監督・脚本 | ||||||||
新機動戦記ガンダムW Endless Waltz 原作 | |||||||||
1996 | バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼 其の二「敵影」 監督・脚本 | ||||||||
新機動戦記ガンダムW オペレーション・メテオ 原作 | |||||||||
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機動戦士ガンダム 第08MS小隊 原案 | |||||||||
1995 | バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼 其の一「異世界」 監督・脚本 | ||||||||
闇夜の時代劇 正体を見る 演出・脚本 | |||||||||
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1994 |
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1993 |
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1992 | 機動戦士ガンダム0083 ジオンの残光 原作 | ||||||||
1991 | 機動戦士ガンダム F91 監督・原作・脚本 | ||||||||
機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY 原作 | |||||||||
1990 | |||||||||
1989 | 機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争 原作 | ||||||||
機動戦士SDガンダム 原作 | |||||||||
1988 | 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 監督・原作・脚本 | ||||||||
New Story of AURA BATTLER Dunbine 監修・原作 | |||||||||
聖戦士ダンバイン 総集編 総監督・原作 | |||||||||
1987 | |||||||||
1986 | 銀河漂流バイファム 消えた12人 原案 | ||||||||
重戦機エルガイム III フルメタル ソルジャー 原作 | |||||||||
重戦機エルガイム II フェアウェル マイ ラブリー+ペンタゴナ ドールズ 監督・原作 | |||||||||
重戦機エルガイム I ペンタゴナ ウインドゥ+レディ ギャブレー 監督・原作 | |||||||||
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1985 | 銀河漂流バイファム "ケイトの記憶"涙の奪回作戦!! 原案 | ||||||||
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1984 | 銀河漂流バイファム カチュアからの便り 原案 | ||||||||
銀河漂流バイファム 集まった13人 原案 | |||||||||
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1983 | ザブングル グラフィティ 監督・原作 | ||||||||
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1982 | 伝説巨神イデオン 発動篇 総監督・原作 | ||||||||
伝説巨神イデオン 接触篇 総監督・原作 | |||||||||
機動戦士ガンダム III めぐりあい宇宙編 総監督・原作 | |||||||||
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1981 | 機動戦士ガンダム II 哀・戦士編 総監督・原作 | ||||||||
機動戦士ガンダム 総監督・原作 | |||||||||
1980 |
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1979 | 海のトリトン 演出 | ||||||||
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1971 | 昆虫物語 みなしごハッチ 忘れな草に願いをこめて 演出 | ||||||||
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1970 |
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1944 | |||||||||
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1941 | 11'5 神奈川県で誕生 |
『Gのレコンギスタ III』「宇宙からの遺産」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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アメリアとキャピタル・ガードは話し合いの結果、月の裏側に存在するスペースコロニー国家トワサンガに対して共同声明を発表するために宇宙へと向かう。ところが当のトワサンガは、地球帰還作戦“レコンギスタ”を開始すると宣言し、地球降下作戦に向けて準備を始める。トワサンガが作ったG−セルフがトワサンガの鍵である事を知ったアイーダとベルリはコロニーの中枢へと向かっていく。 テレビシリーズ「ガンダム Gのレコンギスタ」のダイジェストとして作られた劇場版第三作。物語は核心へと移っていき、舞台もこれまでの地上から宇宙へと移っていく。 これまでの物語は、一応キャピタル・ガードとアメリアという二つの陣営の物語として描かれていた。ただ、それぞれに独立した機関があり、アメリア軍の中でも遊撃隊であるメガファウナと、同じ組織内部でもキャピタル・ガードに対抗する軍組織としてキャピタル・アーミーが存在した。この四つの組織は時に協力したり、あるいは敵対したりしながら拮抗した力で存続していたが、ここに更に宇宙にあるトワサンガという組織が更に入ってくる。しかもトワサンガも一枚板ではなく、微妙に六つプラスアルファの組織が入り乱れてしまうことになる。流石にここまで複雑になると、見てる側は相当混乱してしまう。 一応それでも抑えるべき所ははっきりさせておくと、本筋は見失わない。 この話で中心となるのはベルリとアイーダ。この二人が暫定的に属しているのがメガファウナという一隻の戦艦のみの軍隊。そんな二人は実は姉弟であり、トワサンガの本当の王族であると言う点。ここが分かっていれば、だいたいは良し。二人は行動を共にしているのでその辺の混乱はないし、更に二人は最も小さな組織を渡り歩いていると考えると、概ね二人の成長物語として捉えていける。 1作目、2作目を経て自分探しを続けてきたベルリとアイーダはここでやっと自分自身でも気づかなかった、求めているものを見つけ出すことが出来た。これによって彼らは自分が本当に何者かという立場に立つ事が出来たが、これはゴールではない。自分の居場所を見つけたならば、そこからどう自分自身を処していくかということが問われるようになった。 トワサンガの王女であり王子である二人は、これまで自分たちを育ててくれた仲間達と共に、本来自分たちがいるべき場所を目指すようになっていく。 この部分を押さえておけば、複雑な物語もなるほど納得できるようになる。 この3巻時点で言うのならば、貴種流離譚の物語へとシフトしていったのだ。あくまで現時点ではだが。 そして4巻以降が富野監督の真骨頂へと移っていくことになる。 |
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『Gのレコンギスタ II』「ベルリ 撃進」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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海賊メガファウナに連れ去られてしまったベルリ・ゼナム(石井マーク)を救うという口実を得たキャピタル・アーミーは秘密部隊のベールを脱ぎ去りついに公然とメガファイナに攻撃をかける。しかし当のベルリはメガファウナでGセルフのテストパイロットのようなことをしており、逆にメガファウナ側でキャピタル・アーミーと戦う事になってしまう。混乱の中、ベルリの母ウィルミット・ゼナムは身を張って交渉の場に立とうとメガファウナへと単身やってくる。 一作目『行け!コア・ファイター』に続いて投入された「ガンダム Gのレコンギスタ」のテレビシリーズの映画化二作目。一作目と較べるとかなりすっきりした感じがするが、これは主人公のベルリとGセルフの戦いのシーンが中心になっているからだろう。 ただ、ここで重要なのは、ベルリの行動となる。一作目の後半からベルリは海賊であるメガファウナ側として戦っている。それはつまり、これまで仲間だったキャピタル・ガードとも戦わなければならないということであり、実際にベルリは学校で教官をしていたデレンセンを手に掛けてしまう。 ベルリにとってそれは確かにショックで涙も流しているのだが、ところがそれは全く尾を引かない。仲間達との語り合いと、連続した戦闘経験によってあっという間に感情は元に戻る。 ベルリの感情はとても豊かで、仲間との交流もそつなくこなすし、物怖じせずに誰にも自分の思いをぶつけている。このような人物は、普通もっと人の感情を知っても良いはずだが、それを完全に無視してるかのようにさえ見える。常人とは違った精神を持つ故に人の死をそのまま受け入れられる精神構造はかなりぶっ飛んでるのだが、これをベルリの心の冷たさ、若しくはサイコパスぶりと解釈することもできる。 しかし本作は別段主人公がサイコパスだということを描こうとしているのではない。彼は単純に自分の居場所を探して、最大限自分の出来ることをしようとした結果、こう言う不幸が起こることがあると言うことである。それが良い訳になるかどうかはともかくとして、戦争の中でやれることをやるとは、人を殺すという現実に直面させられているという事実を出しているだけだ。そもそも戦争を描く作品では、ほぼ間違いなく主人公は人を殺害する。それが知り合いでなければ良くて、知り合いだったら悪いという感覚ではなく、目の前に敵意を持った人物がいるならば、生き残るためには相手を殺すしか無いという現実に直面していることを強調するためだろう。 これまで目を背けていた事実に、ここでは敢えて踏み込んだ描写と言う事になる。監督は改めて自分の中で戦争というものを解釈しようとしていたのだろう。 この第二作の見所は間違いなくここだ。 主人公のベルリは比較的考えなしに戦いに参加しているようにも見えるが、実は周りも実際は同じレベルである。この時点ではメガファウナとキャピタル・アーミーとの戦いがメインだが、その両勢力とも、組織として自分たちを世間に認めて欲しいという思いで戦争している。それもこれも宇宙から物資を送り込んでくる組織トワサンガが何者か分かってないから、そのトワサンガに対してどう対処して良いのかが分からないと言う状況にある。ベルリが元々属しているキャピタル・テリトリィは、軌道エレベーターを守護する立場のため、トワサンガに対して服従している。一方、軌道エレベーターからの物資が全てキャピタル・テリトリィ次第であるため、他の国々は反発を覚えている。メガファウナの属するアメリアも反発組でキャピタル・テリトリィを排除しようとしているものの、それ以降どうするかは決めていない。キャピタル・テリトリィでも、キャピタル・ガードとキャピタル・アーミーの間に反発があるということで、戦況はとにかく流動的。その中で自分自身の立場を探すためにみんな一生懸命なのだ。キャラ全員が自分捜しをしてるような状況。 テレビシリーズだとそれが分からないため、とても落ち着かなかったけど、そこが分かった上で観てると、大変面白く見えてくる。 でも一番凄いのはこんな真っ直ぐな自分探しをさせるなんて、監督の富野由悠季がここまでの若々しい感性を持っているという事実だろう。 |
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『Gのレコンギスタ I』「行け!コア・ファイター」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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宇宙世紀終焉後から1000年以上が経過したリギルド・センチュリー(R.C.)と呼ばれる時代。宇宙へ出た人類と地球にいる人類はキャピタル・タワーと呼ばれる軌道エレベーターで結ばれていた。そのキャピタル・タワーが何者かに襲撃され、タワーを守護するキャピタル・ガードが出撃した。候補生でたまたまその時宇宙で訓練中だったベルリ・ゼナム(石井マーク)はその戦いに巻き込まれてしまい、結果として高性能モビルスーツ“G-セルフ”の捕獲に協力することになった。搭乗していた少女アイーダ(嶋村侑)はこのGセルフは自分以外に起動が出来ないと言っていたにもかかわらず、ベルリがコクピットに座ると、何故か起動してしまう。やがてアイーダとGセルフを取り戻すために新たな軍隊が宇宙からやってくる。 2013年のことだと思うが、突然ネットを観ていたら、富野由悠季が新作ガンダムを作るというニュースが流れた。2013年と言えば、ガンダムは福井晴敏原作のオリジナルアニメ「ガンダムUC」が制作中で、テレビシリーズでもガンプラを用いたオリジナルシリーズ「ガンダムビルドファイターズ」が作られ、何度目かの盛り上がりを見せていた時期でもあり、そこで新しいガンダム。しかも富野監督自らが作るということで、大変驚きを持って受け入れられていた。 私に関しても、「∀ガンダム」以来の富野ガンダムは勿論楽しみではあったが、期待はあんまりしてなかった。流石にもうお歳だし、まあ変なものは作らず、ファーストガンダムを焼き直した懐古趣味みたいなものを作るんじゃないかと思ってたし、まあそれでも構わないだろうとは思っていた。他でもない富野アニメは我々古参が支えていかねばという思いもあった。 今にして思うと、なんと私は上から目線で見ていたことやら。 はっきり言うと、このテレビシリーズ、思っていたものとは全く違っていた。簡単に言うと、「理解不能」としか言いようがなかった。 本当に分からないのだ。そもそも前提からして誰が敵で誰が味方なのかが一切分からない。とりあえず主人公ベルリとG-セルフがいるところが主人公サイドであることは確かだが、ベルリ自身が立場を次々に変え、色んな組織を渡り歩くので、状況が見えてこない。更に訳の分からない単語がなんの説明も無しに出てくる。そもそもベルリの考えてることが理解出来ないと、何もかもが混乱してしまう。 …すまん。私は富野由悠季という人物を全く理解してなかった。こんな若々しいというか、とんでもないものを作るパワーを持っていたとは。 という事で、観ながらウィキペディアを引いたりして少しずつ理解を深めながら観ていった訳だが、それでもやっぱりよく分からない。そもそも話があまりに飛びすぎてるから、前回どんな話だったのか覚えていられないという体たらくで、毎回分からないまま最後まで終わってしまった感じだった。 ただ一つだけはっきり分かった事はある。これまでの富野作品にもある程度共通しているが、物語の方向の正しさというのは、主人公の行動によって変わるということ。特に本作は主人公のベルリは無軌道な行動を取る。それは本人がほとんど何も考えず、感情のままに行うことなのだが、正しさはその後からついてくる。結果としてベルリがすることが正しいことになると考えてしまうと、どんな無軌道な行動を取っても許せる気になるし、観ていて落ち着くことが分かった。 後半になってそれを理解し、それを前提にしてもう一度観てみようと思ってたんだが、他に観るものがたくさんあるのですっかりそのことを忘れてしまい、まあ機会があったらと思っていたが、思いもせずにこう言う機会を得る事が出来た。 まず本作を観る前に、あらかじめ用語や国の状況などをウィキペディアでおさらいし、更にベリルの行動が正しいという前提で観ていたのだが、そうしたらものすごくよく頭に入ってきた。なんだこれ?こんな面白かったの? 驚くほどすっきり理解出来てしまったことが大変に不思議だが、一気に面白いと感じてしまった。確かに主人公補正は強力で、ベルリが行うことが結果として正しいと考えると、驚くほどすとんと腑に落ちる。 |
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リーンの翼 第6話 桜花嵐 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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リーンの翼 第5話 東京湾 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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リーンの翼 第4話 王の奸計 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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リーンの翼 第3話 地上人のオーラ力 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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リーンの翼 第2話 ホウジョウの王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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リーンの翼 第1話 招かれざるもの | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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機動戦士ZガンダムIII 星の鼓動は愛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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宇宙世紀0087年。宇宙圏を巡り、反地球連邦組織エゥーゴと連邦軍のエリート組織ティターンズは激しい攻防戦を展開していた。さらに、ティターンズを我がものにしようとする木星輸送船ジュピトリスの指揮官パプテマス=シロッコ、そして旧ジオン軍残党アクシズの指導者ハマーン・カーンがこの激戦に絡み合う。互いに主導権を得ようと絡み合う政治的駆け引きと、それに伴い戦いも複雑さを増してくる…エゥーゴに属し、Zガンダムを駆るカミーユ達の運命も変遷していく… 2005年から始まった“新訳Zガンダム”の第3部にして最終作。 Zガンダムという名前は80年代、特に「ガンダム世代」と呼ばれるオタク世代にとっては特別な思いを抱かせる名称だ。 「機動戦士ガンダム」によって、ヤマト世代と区別し、第2世代と呼ばれるオタク世代が登場した。ガンダムは一種の社会現象ともなり、その結果、一気にアニメファンが増えたのだが、そのブームは数年を経ずして沈静化していった。現代のようなメディアミックス戦略も稚拙な頃だったし、予想を超えるヒットに一番戸惑ったのが作り手の側だったため、それを伸ばす戦略が無かったから無理もない。 このブームを何とか伸ばそうとする場合、二つの方法があった。一つはヒットした作品をブランド化し、その関連商品をどんどん出すこと。これはバンダイが一番儲かった(版権をバンダイに売ってしまったブルマアクが一番の損だった)。しかしそれ以外ではせいぜいアニメ誌を賑わせたり、食玩を多少売ったりする程度で終わった。もう一つの方法は、それを超えるヒットを目指して新しいアニメを次々投入する方法で、むしろ当時はこちらの方に力を入れていた。ただし、さすがにそれには限界があった。ガンダムの亜流をどんどん作るだけに過ぎないと分かった視聴者が次々と去っていってしまったのだ(もちろんそれぞれにいろいろ違いがあり、それぞれに固有のファンを作ってはきたし、今に至るも『聖戦士ダンバイン』から「リーンの翼」が、『重戦機エルガイム』から「ファイブスター物語」が生まれたように、今も展開中の話だってあるが)。結果として、『ガンダム』によって始まったロボットアニメブームは最終的に世間的な認知を受けることなく、先細りとなってしまう。それに伴い、雨後のタケノコのように出版されたアニメ誌も次々に廃刊となっていく。 土曜日の午後5時は半アニメファンにとっては「聖域」とまで言われたものだが、結果的にそれはコアなファンを振るい残すだけの役割しか果たさなかった訳だ…言うまでもないが、私はその振るいで残った側だが。 そんな中で投入されたのが『機動戦士Zガンダム』だったのだ。これは徐々に落ちていくアニメに対するテコ入れのためのサンライズの賭けとも、最終的に原点である『ガンダム』に頼るしか無かったとも言える。かつてブームに乗っていた人を呼び戻そうという意味も含まれていたと思われる(もう一つ某プラモデルメーカーの横槍もあるが、これは触れない)。 だが、これには大きな問題があった。 一つには、原点に戻らねばならない状況に追い込まれたという事は、アニメーションにこれまでに発展がみられなかったということに他ならず、ガンダム以上のものを生めなかった事に対する総括となってしまった事。実は本作こそが80年代アニメの鎮魂歌になってしまったのだ。 そしてもう一つの問題として、ガンダムを生み出した張本人富野悠由季がすっかりやる気を失ってしまっていたという点がある。確かに富野監督はガンダムを生み出してはいたが、それに対する思い入れは低かった。事実小説版「機動戦士ガンダム」では主人公アムロを殺してさえいる。つまり、既にやる気を失っていたのだ。その富野監督を引っ張り出さねばならなかった状況が最大の問題となった。 流石長年アニメの第一戦で働いていたプロだけに、仕事はきっちりと受けはしたのだが、富野監督はこの作品に相当の悪意をぶつけた。主人公カミーユに当時の現代青年のバイタリティを持たせ、精神的に徹底的に追い込む事でどんどん心を壊していった。今回の劇場版にあたるテレビシリーズでは、近親者を目の前で殺されまくり、更に恋人を手にかけるに至り、精神は崩壊していき、後半に到るとカミーユはほとんど戦闘マシーンと化していった(強かったのは確かだから)。ラスト近くになると身近な人の死にも「関係ない」と背を向けるような描写がされていた。富野監督の主張によると、「アニメばっかり観ていると、いつかこんな風になってしまうよ」と言うことをということだったらしい。つまり、監督の頭では、これは売るつもりはなかった。むしろこれを否定してほしい。と言う願いがあったのだろう。 で、ここまで監督から見放された作品ながら、それで私はどうだったか?といわれると… どっぷりと当時のアニメブームに漬かっていた身として、これを否定すること自体念頭になかった。大前提として「これは良い作品」というのがあって、それを覆そうなど考えもしなかったのだ。“元”ガンダムファンが次々と脱落する中、この物語のどこが良いのか、必死になって周囲の友人に説明していたものだ。無茶苦茶で複雑な物語を頭の中で再構成し、どこかに褒めるべき部分を探りだしてそれを主張する。これはこれで楽しかったなあ…今から思うと、私の映画評とはこの時代に培われていたのかもしれないな。 それで本作終了と共に、多分私はアニメを観るという行為そのものに疲れ切ってしまった。『Zガンダム』以降はアニメを集中して観ようという気力失ってしまったように思える。あれだけ一生懸命観ていた本作を、その後全部否定し、アニメそのものを積極的に観るのも止めてしまった。私にとって、本作は一つの時代を終わらせた作品でもあったのだ。 本作の映画化の話は実はかなり前から、それこそTV版放映時代から語られていた。はまっていた私は数少なくなったアニメ好きの友人と、これをどうやったら面白くできるかを話し合ったのみならず、実はバンダイにシナリオプロットを同封した手紙を送ったりもしいたのである(なんでサンライズでなくバンダイだったかは、単に手元に住所があったからというだけの理由)。恥ずかしい私の過去である…これを馬鹿らしいと思えたからこそアニメを止める機になったのだろう。 それが実に20年を経てついに映画化。喜ぶよりも戸惑いの方が大きい話だった。肯定側から一旦否定側に戻ってしまった私としては当初全く観る気が起きなかったものだが、いざ観てしまうと、もう駄目。自分の心にあった押さえつけられた記憶が湧き上がってきて、画面そっちのけでそちらを抑えるだけで精いっぱい。一作目の時などは、叫びだしてしまうのではないか?と思ったくらいだ。私の中にこんなものが眠っていたのかよ。ほとんどパンドラの壺状態。 でも、この三部作を観て、ようやくその感情が整理できた。それだけでも本作には感謝すべきかもしれない。 思い出はともかく、改めて本作1〜3作について考えてみよう。 本作は「新訳」と銘打って製作されただけに、富野監督お得意のコラージュを用い(かつて富野監督はほとんどジャンクフィルムだけで30分番組を何本か仕上げた実績がある)、つなぎに新作カットを用いる事で新しい物語に仕上げていることが特徴といえる。実際、ストーリーはほぼTV版に沿っていながら、質感は結構変えられている。 特にそれは主人公カミーユの性格描写によく現れている。TVでは些細な事で苛つき、周囲の人間に毒を吐きかけ、傷つけられると自分の殻に閉じこもるどうしようもないキャラだったが、本作では3部を通し、水みずしさを“ある程度”は保持できていたし、傷つけられても、それを超える力を持たせていた(これには恋人であるフォウやロザミアを本人が殺したという描写を抜いたことが大きいと思われる)。情緒的に不安定さのあるニュータイプの兵器ではなく、傷つきやすくはあっても、人間として生きていけるキャラになっていた。単的にそれを示していたのはラストシーンで、TV版だと、あそこまで極端に兵器化し、精神が崩壊している状態では、元の状態に戻す事は出来ずに壊れるしかなかった。一方本作では、その描写を取らず、ファの元にきちんと戻っている。これを可能とさせる事を求めて作っていたのではないだろうか?ラストの改変はほんの些細でも、そこに至る過程が重要だったのだ(確かに、TV版に即した『恋人たち』とか観る限り、相当エキセントリックには違いないけど)。人間として欠陥のある人間が兵器になっていく話にしてはならない。と言う監督の意思力の賜物だ。そこに至るにはTV版と多少齟齬が生じるが、だからこそ、その齟齬をごまかすためにも”新訳”の言葉が必要だったとも… その他の人間に関しても、あれだけの数を少なくとも用いられただけでも良いか。エマとレコアに存分に語らせたのも良し。エマとヘンケンの関係が微妙な笑いに仕上げられもしてる(実際、本作を観直す機会があったら、カミーユ、エマ、レコア、それにサラとカツに注目してほしい。この5人がほぼ全編を通して中心となっていることが分かるだろう)。ただし、物語の中心にいながら、同時に政治的な存在であるクワトロやハマーンは描写が複雑なためか、脇に追いやられているし、ライバルかなんだか分からないうちに死んでしまったジェリドや1部から登場していながら存在そのものを消されてしまったロザミアのような可哀想な存在もある(一応登場してるけど、霊体としてのみ。サイコガンダムMKIIでおお暴れする姿は観たかったね)。一応メインヒロインのはずのファの存在感も低かった。 確かに不満だらけとはいえ、元が悪かっただけに、キャラクタ描写はこれが限界だったか? 政治的駆け引きに関しては、はっきり言って完璧な「一見さんお断り」で、四つの組織がくんずれほずれつ。同盟を結んでは破棄を繰り返し、もうぐちゃぐちゃ。オリジナルではこれを解きほぐしていく作業が好きだったんだけど、映画では乗り遅れないようにするので手いっぱい。それぞれが背中にナイフ隠したまま握手を繰り返していて、他人を信用してしまった者から退場していく事だけ分かっていれば充分。 そして本作の肝とも言えるMS戦の描写は…これだけは間違いなく良質。ほとんどすべてのMSをきれいに描写していた。これはデジタルのおかげだな。あまりに複雑なデザイン故にオリジナルでは活躍の機会のなかったレコアのパラスアテネが暴れまわっていたのが嬉しい(当時プラモデルも出ていたが、出来が悪く、徹底的に改造しまくったもんだ)。シロッコのジ・オの隠し腕もちゃんと活躍していたし、あの永野護がデザインしたハンブラビとキュベレイの見せ場が多かったのも個人的には嬉しい。 …こう書いてみると、本当にいくらでも書けてしまう自分に驚かされる。はっきり言ってまだまだ書くべき事はいくらでも湧いて出るぞ。 これだけ自分の中に思いが詰まっていたのが驚き。お陰で無茶苦茶オタクっぽいレビューになってしまったが、悪しからず。 |
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機動戦士ZガンダムII 恋人たち | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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反地球連邦組織エゥーゴと連邦軍エリート組織ティターンズの内戦は激化の一途を辿っていた。アムロやシャアと言った歴戦の勇者が次々と戦いに身を投じる中、地球に降下したカミーユは香港で不思議な女性フォウと出会った。ほぼ一目惚れに近い状態で、二人は抱擁を交わし合うのだが、実はフォウはティターンズにより養成された強化人間。二人は戦場で戦わねばならなくなる。その後宇宙へと戻ったカミーユは、サラという少女と出会う。彼女も又ティターンズに属する強化人間なのだが、ティターンズの意思とは別に動いていることを知るのだが… TV版『Zガンダム』の中盤を映画化した作品。 観終わって、最初の感想は「なんじゃこりゃ?」だった。本作はロボットアニメだったはずだが、ロボットについてはほとんど描かれておらず…いや、描かれてはいるものの、重要度が低く、エキセントリックな人間が騒いでるという印象しかなかった。特に後半のサラの話なんて、TV版のエピソードとしても重要度は低いし、特にそれまで談笑しながらソフトクリーム食べてたカミーユが突然相手のサラに襲いかかって暴言は吐くわ、腹殴って気絶させるわで、凄まじいものに仕上がっていたから。 で、これが失敗したか?と言われると、ちょっと違うと思う。確かに物語としては破綻してるんだけど(!)、富野監督には明確な狙いがあって、その点については外してなかったと思う。 ところでTVサイズの作品を劇場化するにあたって、それをリサイズするのにいくつかの方法がある。例えばとりあえずストーリーさえ掴ませればいい。と言う観点の元で、物語を追うことを主軸とする方法。これは最も無難且つ最も面白くないものに仕上がる。古くて恐縮だが、『ドキュメント 太陽の牙ダグラム』(1983)なんかはそれで、見事に面白くない作品になっていた。 一方、一旦TVものを完全に見限り、「完全新作」と銘打って劇場版を作ってしまう方法もある。最近のはこう言うのが多いが、TV版を再編集して、カットの大部分は流用しつつも、物語を変えてしまった『ラーゼフォン 多元変奏曲』(2003)という例もある。 そしてもう一つの方法として、あくまでTV版をベースとしているが、物語の俯瞰ではなく、テーマを選び取って、それを強調すると言う方法がある。ひょっとしたらこれが一番難しい方法かもしれないが、敢えてこれを選んだのが本作だったと言えよう。少なくとも『機動戦士ガンダム』の劇場版でこの方法を使って素晴らしい作品を作った実績があるだけに、富野監督はこれを得意としている。 本作の副題は『恋人たち』だった。そう。この作品の主題は恋人同士の関係を描き続け、その合間に物語を進行させようとしていたことが分かる。富野監督は明確な意思を持って救いようのない“恋人たち”を描こうとしていたのだろう。 そう考えると、今回クワトロやレコアの出番が少ないのは、この人達には明確な恋人がいないからという理屈が成り立つ。その代わり、物語上そんなに重要でないはずのヘンケン艦長が妙に出張っているのも分かろうというもの。 これだけ年数が経っているアニメーションを再び作り上げようとするなら、そのくらいの意志があって良い。その漢気には拍手を送ろう。たとえ物語が本当にどうしようもなくとも。 …ところで、フォウだけど、やっぱり声優の交代は違和感あるな。この人、TV版ではこの後カミーユに殺されることになるが、折角だからこのまま終わらせた方がまだ救いがあるのではないだろうか?(それと、幾度と無く登場しながら、何の存在感も出してないロザミアも)いずれにせよ、3本目で監督の真価が問われる。それまでは本当のレビューは保留と言うことにしておく。 |
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機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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かつてスペースノイドによる独立を掲げて地球に宣戦布告したジオンとの一年戦争から8年後。地球にも宇宙にも平和は訪れていたはずだったが、地球連邦軍エリート部隊「ティターンズ」と、地球連邦の専横的支配に対する抵抗組織「エゥーゴ」との軋轢が高まっていた。ティターンズの拠点となったスペースコロニーに住む高校生のカミーユは、軍人に対する反発心から、偵察に来たエゥーゴのクワトロ=バジーナに従って新型モビル・スーツ“ガンダムMk-2”を奪って、エゥーゴに身を投じる。 私の世代はいわゆるガンダム世代と言われることがある。 狭義には、小学校、中学校の時にガンダムブームにぶつかってしまい、そのままアニメファンになってしまった人間の事だが、一過性のブームが去っても、結構な数のファンは残っていた。かくいう私も確実にその中に入っているわけだが(むしろ私の場合『ガンダム』よりは『うる星やつら』の方により影響を受けているが)、原体験にガンダムを持っていると、今でも身構えてしまう、いわばトラウマ的作品というのが存在する。 『機動戦士ガンダム』の正式な続編にして、いわゆる“ガンダム・サーガ”を開始することになった本作がそれ。 『ガンダム』のヒット以来、土曜日の夕方はサンライズアニメの時間になってしまったわけだが、流石にブームも去ってしまうと、視聴率もどんどん落ち込んでいく。そのテコ入れのため、続編が作られることになった。 しかし、本作の放映時はファンからも極めて不評。何せ小説家でもある富野監督自身、自らの小説でアムロを殺してしまっていたし、本人もかなりやる気が失せていたのじゃないかと思われる。実際、この作品を機にアニメから離れていった人も多い。 特にTV版および映画版『ガンダム』の最後でニュータイプの希望を持たせる形で終わらせていたのにもかかわらず、本作ではニュータイプはほとんど殺し合いの兵器と化しており、次々に重要人物が死んでいく。ラストも救いがない。と、どう考えても当時受け入れられるような内容ではなかった。 ところが本作は、一方で大きな功績をももたらすことになった。主人公を変え、ガンダムと名の付く機体を主人公が使っていれば、それはガンダムの歴史を形作ることとなり、やがてそれは“ガンダム・サーガ”と呼ばれるようになっていった。更に年代が進み、様々な形のアニメが作られるようになっていき、受け手側も色々な意味で耐性が出来ていった。 それで、当時「単に暗いだけ」と呼ばれた本作も、再評価を受けることになり、やがてそれを受けた形でスポンサーもその気を起こしたらしく、ついに映画化となった(何でも富野監督はやりたい作品があって、それを作るための条件として本作の映画化となったとか聞いたけど)。 それで本作はかなりの新作カットを入れた上での公開となったが… はっきり言って、これは「一見様お断り」の看板を出しておくべき作品だったんじゃ無かろうか?TV版を忠実に映画化しているため、そうでなくてもかなり複雑な話が、更に説明不足で展開している。これはある程度ガンダムの歴史やTV版を知ってないと、話が飛びすぎて何だか訳分からない(と思う)ぞ。 新作カットの大部分はモビルスーツ戦になるが、そこで評価できるのは、動きの自由度。当時はあそこまで動かすことが出来なかったし、ロボットにあんな軟体動物みたいな動きをさせるのは、当時では考えも付かなかっただろう。ハード面ソフト面両面も歴史が下った進歩のお陰とも言える。 しかし、それ以外何か売りがあったか?と尋ねられると… TV版のダイジェストで、ファーストガンダムの登場人物が多数出てきたと言う以外は、これと言って売りと呼べるものがない。 昔の思いが蘇るか?とか言う期待もちょっとはあったけど、それもなし。終始突き放した気分で観続けてしまった。ただ、ほとんど全ての登場人物およびモビルスーツの名前が瞬時に頭に浮かんだ事くらいで、20年経っても記憶ってのは凄いなあ。と思ったことくらいか? 後に色々ご指摘を受けたので、改めて物語を考えてみると、やっぱり違いはあるようだ。その中で大きいのは主人公カミーユの性格描写で、原作の無分別でキレ易い少年が、むしろ分別を持って自分の主張を通すため無茶をすると言う具合に変えられているし、人の言うことも割合素直に聞き入れるようにキャラが微妙に変化させられている…と言っても、元が元だけあって、どうしてもキツイところが残ってしまうのは仕方ないとしても(笑) その辺がこれからどう変わっていくのか、以降の作品に期待させていただこう。 |
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∀ガンダム II 月光蝶 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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月の女王ディアナが地球に来ている間、月では不穏な空気が流れていた。今まで彼女が何とか抑えてきた武闘派貴族が立ち上がってきたのだ。その事を案じたディアナは地球で発掘された宇宙船に乗り、一旦月へと帰ることを決意した。彼女を奉じ、様々な思惑により彼女と行動を共にする地球の面々。ガンダムと呼ばれるホワイトドールに搭乗するロランも皆と共に宇宙へ行くことになるが…現れる兄弟機の「ターンX」。そしてガンダムに秘められた本当の機能とは… これまでに数多くのテレビ版『ガンダム』が作られてきたが、ガンダムの生みの親である富野由悠季監督が手がけたテレビシリーズでは一つ面白い傾向がある。 物語は二重構造を取り、宇宙と地上で物語は展開していくのだが、主人公が最初に宇宙にいるか地上にいるかで物語の方向性は逆転していく。宇宙にいる場合、間に必ず地上の話が入って、最後は宇宙で再び物語が締めくくられ、逆に最初に地上が舞台だった場合、主人公は一旦宇宙に出ていくが、又地上に帰って物語を締めくくる。必ずそれまで住んでいた場所が最後の決戦場になっていくわけだ。 これは勝手な想像だが、還るべき場所、本来いるべき場所。と言うことを監督が強く意識しているからではないかと思っている。 大体、成り行きでガンダムに乗ることになった少年が、流されるまま戦っていくうちに、自分が今までいた場所とは全く異なった所で否応なく戦わされ、その中で責任感を培っていく。そして本来いるべき場所を守るために戦うようになっていく。と言う課程を取るのではないか?などと勝手に考えている。 本作のテレビシリーズでもそれは継承されており、前半は地上で、後半は宇宙に出て、そしてクライマックスは再び地上での戦いがメインとなる。テレビシリーズにおいては前半に良く出ていた緊張感が程良くほぐれ、普通のロボット・アニメっぽくなっていたが、後半で派手さを増すためにはこれも仕方がないのだろう。 その分モビルスーツ同士の戦いは派手さを増し、メインのターンA対ターンXの戦いのみならずそれに付随する戦いや人間の駆け引きやターンAの秘密など、見応えはあった。 ただ、これは劇場の前半にも言えることだけど、本作品の魅力はモビルスーツよりも人間の描き方の方にあったわけだし、それにテレビでは軽く触れるだけに留めてしまった∀の秘密についても、もう少しつっこんで欲しかったと思う。 それでも前半ほどの文句は無し。ガンダムが格好良く描けていたし、特にラストの菅野よう子の不思議なヴォーカルに包まれた長目の、それぞれのキャラクター達の、その後の生活にちゃんと時間取ってくれた。最終回のあのシーンはとても好きだったから、それがフルで入っていただけで許せる。それにしても菅野よう子のあの歌はもの凄い。歌詞がよく分からないくせにやたら耳に付くし、不意に頭に響いてくる(単純にファンだと言うことも理由なんだが)。 テレビシリーズのDVDを買うかどうかかなり迷っていたのだが(全部定価で買ったら10万近くするんだよ)、やっとそれが落ち着いたと思ったんだが、又欲しくなってきたよ。 |
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∀ガンダム I 地球光 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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西暦2343年。かつての宇宙戦争による災厄を経て、地球は生活に必要なものを除き、機械から脱却していた。再生を始めた文明は今は産業革命中だった。一方、かつて地球をすて、月に移住した機械文明を保持する人々もおり、その彼等が女王ディアナを奉じて地球帰還計画を開始した。月からの先行隊として2年前に地球にやってきていた少年ロランは地球での生活に満ち足りた生活をしていたが、帰還作戦が始まると共に否応なく戦いに巻き込まれていく。戦闘の中、彼が発見したホワイト・ドールに乗り、地球側に立って参戦するが… 今を遡ること20年前、社会現象まで引き起こした『機動戦士ガンダム』を作り上げた富野由悠季監督は、その続編を徹底的に否定した。「ガンダムはもう作らない」と事ある毎に吹聴し、更に自ら描いた小説版「機動戦士ガンダム」では主人公のアムロを殺しさえもした。 それから時が過ぎ、何故か監督はこれまでに二本のテレビシリーズ、そして二本の劇場版『ガンダム』を作り上げていたりする(笑)…出来そのものはとりあえず置いておくとして、時代の要望を受けざるを得ないクリエーターの姿がそこにはあったわけだ。 そして本作のテレビシリーズは監督自らが「完結編」と銘打って作り上げた、(恐らく)監督による最後のガンダムとなった(と、思う)。なんせこれはどんなガンダムが出ても、これが最終話です。と言えばそれで終わるのだから。 それだけにテレビシリーズの監督の気合いの入り方は半端じゃなく、「今まで公開された全てのガンダムを含めて終わらせる」と燃えていた。モビルスーツのデザインも一新され、『ブレードランナー』(1982)の世界観を作り上げたシド=ミードデザインによる全く新しいガンダムの姿を見せていた(ヒゲのガンダムの姿をデザイン画で最初に見た時はちょっとクラッと来たのは確かだが)。 ガンダムの成功以来、ここに至るまで監督の描くガンダムの世界観は随分形を変えてきた。これは時代に合わせて、と言うのではなく、監督の考えがまとまってきた課程だったのではないかと思う。 近年の監督作品を見ると、「責任感」というキー・ワードで言い表せると思う。人に対する、正義に対する、そして自分の地位に対する責任感がどんどん明確になってきており、本作はその最高峰に位置する。 ここに登場するのは主人公のガンダム乗りのロランではなく、月の女王であるディアナ。彼女はカリスマとしての存在であり、その存在自体が象徴となる。そして彼女は自らその重みに耐えることを自分の人生として選択していた。 それに対し、彼女にそっくりな地球の市井の娘キエルは遊び半分でディアナと服を取り替えてみたところ、ディアナと勘違いされて月の女王の役を担わねばならなくなる。月と地球の関係において、もの凄い重責ながら、持ち前のバランス感覚を駆使し、市民としての地球の言い分と月から移住を希望するその言い分を見事に調和させていく。恐らく自分でも信じられない事だったのだろうが、責任感が彼女を変えていく。 そしてキエルの身代わりになったディアナは否応なく市井に埋もれるが、ここで彼女は一般の人間の責任というものを知ることになる。押さえつけられた義務としての責任ではなく、自ら進んで役を担うという意味での責任を。 テレビ・シリーズでのこの辺りの話はとても好き。と言うか、「何でこんなの考えられる?」とか、「うわー、うわーっ」とか(笑)、感心しっぱなしだった。ファーストを別格とすれば、多くのガンダムシリーズ中、最高の完成度を持った作品だと私は主張したい。 だから、この劇場版は後半よりむしろ前半のこちら側を期待していたのだが… どうした?これがあんたの主張なのか? ディアナとキエルとの身代わりの話はほんの僅かしかなく、ホワイトドール(ガンダム)の話だけが細切れで長々と続く。唯一まとまりのあった話は核爆弾の話だけ。これは確かに重要な話なのかも知れないけど、もっと大切な、書くべき部分があっただろうに。 ガンダムの魅力を出すつもりなら、それは後半で充分出せる。だからこそ前半は人間の方を中心に作って欲しかったなあ。 本来作品が持っていた一番の魅力の部分をわざと回避するなんて本当に勿体ない。作品の出来は良いんだ。もっと焦点を絞って欲しかった。 |
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バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼 其の三「光る翼」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼 其の二「敵影」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼 其の一「異世界」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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機動戦士ガンダム F91 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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人類が宇宙に進出して長い年月が過ぎた。クロスボーン・バンガードに占拠されたフロンティIVから脱出を試みた高校生シーブック・アノーと仲間達は、そこでサナリイで製作された最新鋭モビル・スーツF91ガンダムを発見するのだった。 この当時はさすがにガンダムに食傷し(アニメそのものから完全に離れていた)、劇場で観る気は更々なく、随分経ってからビデオで観たのだが、富野監督、少し変わったかな?と言う印象を受けた。 ファースト・ガンダムの焼き直しっぽい部分は確かにあるものの、何となく「選ばれた者」と言う所にスポットが当てられている感じがある(この作品から貴族の概念が出てきて、以降のガンダムでは積極的に用いられているし、主人公はロボットに乗り込むと言うよりロボットに選ばれていると言う風が強くなっている)。そういう意味では監督の変質中の過渡期的作品と言っても良いのでは?あとニュー・タイプと言う概念が希薄になったことも特徴かな? 「今度のガンダムは口に特徴がある」。と言っていた割には殆ど何がなんだか分からなかったのはちょっといただけない(人殺すためだけに火を吹くだけなんだけど)。 |
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機動戦士ガンダム 逆襲のシャア | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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地球に住むことをあくまで固執する人類に対し、シャアはついに立った。かつての大戦で戦いの舞台ともなった小惑星アクシズを地球に落とし、地球を人の住めない場所にしてしまおうと試みるのだ。それに対して及び腰の地球連邦の中で唯一シャアに対し抵抗運動を続けているロンドベル隊。ここにはかつてのホワイト・ベースのクルー、ブライトとアムロがいた。互いに最新鋭のMSを用い、戦うアムロとシャアの勝負の行方は? 富野監督お得意の親族殺し、愛するものを自分の手で殺める、と言う図式は今回も全開。物語自体がとにかく暗く、エキセントリックな人間がどしどし出てくるのが特徴。更にアムロであれ、シャアであれ、様々な女性に手を着けているくせに、結局ララァの事が忘れられず、その延長線上で戦うものだから、暗いと言うより、もういい加減にしてくれ。と言いたいほど。地球の命運が痴話喧嘩で決まるんだったら、死んでいった人は浮かばれまい。 この二人の対決を主軸に、親を殺して平然としているクエス、激情のあまり味方殺しまでしてしまうハサウェイと言った面々が脇を固めているので、もうこれは情念の坩堝。少なくとも濃密な人間関係をアニメで味わうことが出来ると言う意味ではたいした作品だと言えるだろう。 |
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聖戦士ダンバイン 総集編 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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重戦機エルガイム II フェアウェル マイ ラブリー+ペンタゴナ ドールズ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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重戦機エルガイム I ペンタゴナ ウインドゥ+レディ ギャブレー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ザブングルグラフィティ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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未来世界。荒廃した地球環境は人間には過酷なものとなり、イノセントと呼ばれるようになった人類はカプセル内の生活を余儀なくされていた。そしてイノセントは環境に適応したシビリアンという環境に耐えうる新しい人類を作り出し、自分たちの僕として使役していた。倫理観念の低いシビリアンはその関係に疑問を抱くことなく長い間、その関係を保っていたのだが、その関係にも徐々に変化が訪れていった。ジロン・アモスとその仲間達は自分たちの置かれた状況を変えようとしていく。彼らの戦いを描く… TVアニメ「戦闘メカ ザブングル」のダイジェスト作品で、一時間弱に全てのストーリーをぶち込んでみた。と言う感じのごった煮的作品。 TV版は西部劇をベースとして、ハードな設定に、訳の分からない妙なギャグをぶち込んだ、一種不思議な作品で、私の大変好きな作品だった。いわば「無敵鋼人ダイターン3」と「機動戦士ガンダム」を経て、新しい境地に至った富野由悠季という人物の作家性を前面に押し出した作品に仕上がっていた(特に後半になって脚本が暴走し、かなりのメタ的描写が多くなっていく。劇中、登場人物に「これはアニメだから何でも出来る」なんて事まで言わせていた)。 本作は一応そのストーリーフローに沿ってはいるものの、富野監督本人が好き放題につなげて作ったのが本作で、TV版観てないと全く訳が分からないのみならず、TV版観ていた人間だったら、最後のオチには唖然とすること請け合いという、とんでもない作品に仕上がってしまった。 それが悪かったかというと、まるで逆で、これほど作家性を出せる作家だった?と、改めて監督の偉大さに感じ入った次第。 「機動戦士ガンダム」に隠れてしまってるけど、実は富野監督の新しい一面が出たかなり楽しい作品でもある。 |
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伝説巨神イデオン 発動篇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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呪われた無限力を秘める巨人イデオンとソロ・シップ。地球とバッフクラン双方に追われる彼らの中にはバッフクラン人でありながら地球人の子を宿したカララが乗っていた。彼女の父でバッフクラン総軍司令ドバは、ついに無限力の封印のため全軍による殲滅を命令する。戦いのなかでソロシップの少年たちは、純粋な生の欲求が突き動かすという「イデ」の力に翻弄されるように、一人、またひとり倒れてゆく… この作品を世に送り出したことにより、富野喜幸監督はファンから愛情を持って(?)「皆殺しの富野」あるいは「ジェノサイド富野」というありがたい異名を得ることになる。本当に良く殺した。 画面に出てくるだけでなく、地球とバッフクランの地球双方まで流星の飛来によりぶち壊れてしまう。と言うことがあっけなく露呈されるのだが、そうすると、双方合わせて100億以上の人間が殺されたことになる。結局誰も生き残ることが無く、精神だけがイデによって新しい地球に転生すると言う強烈なラストもさりながら、誰一人として生かすまいと言う、イデに込めた監督の意志の恐ろしさが垣間見えるようだ。 描写もなかなか凄く、もはや逃げることも降伏することも出来ない主人公達の絶望的な戦い。更に泣き叫ぶ子供達の声が一瞬に断ち切られる瞬間…こんな所にゾクゾクした快感を感じる私はやっぱり異常なのだろう、と再認識した(笑)。特に後半、泣きながらふらふら歩く子供の上半身が消滅する所なんか…ここまで描くか?おい! こんな監督が、私は大好きです(爆) |
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伝説巨神イデオン 接触篇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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外宇宙に移民団が進出する遠未来、地球人はかつて文明が存在したことが確認されるソロ星の開発に着手していた。だが、そこは異星人バッフクランの「無限力伝説」を秘めた惑星でもあった。バッフクランの高級武人の娘カララが好奇心から地球人に接近したことが、地球人攻撃の引き金となり、移民団の少年コスモらが持ち出した先住民の遺物たるロボット「イデオン」の覚醒を呼ぶ。バッフクランの重機動メカを瞬時に葬るイデオンは、まさに彼らにとって「無限力」の体現者であった。逃げるソロ・シップと、それを追うバッフクランと地球…絶望的なふたつの文明の衝突のなかで人間の業を描くTVアニメのダイジェスト。 これは本来『機動戦士ガンダム』(1981)で大ヒットを飛ばした富野喜幸によるテレビシリーズだが、あまりにも監督の趣味が出過ぎたためか(?)、クライマックス目前にして打ちきりになってしまった悲劇のシリーズ。それが劇場版となってこの『接触篇』『発動篇』となって帰ってきた!当時このアニメにはまっていたので、劇場版は凄く楽しみだったのだが、そこが田舎の悲しさで、劇場で観ることは出来なかった。結局レンタルビデオで観ることになった。 ただこの『接触篇』、これは続く『発動篇』のプロローグみたいなものだが、テレビシリーズを知っている者にとっては鬱陶しいだけの代物。逆に知らない人がこれを観ても、説明不足でやっぱりよく分からないんじゃないかな?。かなり中途半端な作品(ある意味悲しい作品と言うべきかも)。 富野監督はテレビであっけなく散ったキッチ・キッチンという少女にえらく惚れ込んでいたため、彼女のエピソードに妙に力が入っているのが特徴と言えば特徴。テレビでもよくこれだけ殺したもんだと思っていたのだが、それは続く『発動篇』でこそ真価を発揮する。 |
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機動戦士ガンダムV めぐりあい宇宙編 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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地球からのジオン軍撤退により部隊は宇宙へ。徹底的な抵抗を試みるジオン軍への侵攻の先鋒には常にホワイト・ベースがあった。アムロは中立コロニーの中で出会った少女ララアと出会う。戦いの中、心がつながるアムロとララアだが、無情にも自らの手で愛するララアを葬ってしまう。そして最後のア・バオ・ア・クーでの決戦が始まる。宿敵シャアとアムロとの戦いの行方は、そしてアムロの還る処とは… 1982年邦画興行成績4位。アニメーションが邦画の一翼を担っていることを印象づけた作品。 ラストとなる本作は、前2作では押さえ気味に作られていた戦闘シーンがこれでもか。と言うほど詰め込まれている。更にララアとアムロ、シャアの三角関係(?)も出てきて、全編目が離せない。 あれ程までに無敵を誇ったガンダムがあっけないほどに簡単に壊されていくシーンとか、ラストでのアムロの台詞とか、とにかく心に残る名シーンが続発する。台詞も暗唱するほどに良かった。テレビ版でストーリーは分かっていたのにそれでも感動できる作品。最後の歌も良し。 ラストシーンでのガキンチョ三人組の行動で、「ああ、そうか。人類は進化していくんだな」と感慨深げに思ったものだ。続編でそれをぶちこわさなければもっと良かった。 |
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機動戦士ガンダムU 哀・戦士編 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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地球に降下したホワイト・ベースだが、執拗なシャアの追撃のため、まるで見当違いの場所に出てしまった。連邦軍基地のあるジャブローへたどり着くためにジオンの領土内を突っ切るホワイト・ベース。しかし肝心のガンダムパイロットであるアムロは戦いを放棄し、自らの殻の中に入り込んでしまう。 一作目『機動戦士ガンダム』では良いところで終わってしまったが、その続編で、ランバ・ラルとの戦いからジャブロー戦。つまり地上でのガンダムの活躍を一気に描く事になった。実はこの部分の物語はTV版「機動戦士ガンダム」の中期の盛り上がりの部分。 ガンダムが佳作たり得たのは壮大なストーリーやリアルな戦術ではなく、むしろ緻密なヒューマン・ドラマの方にこそあったと思う。この映画はそれを端的に良く示していただろう。少なくとも鬱に入り込んで戦いを放棄した主人公など、それまで殆どいなかったのだから。問題はこの後で、ウジウジした主人公が量産される結果にもなったが… 軍の規律と、それに抵抗する若しくは負けない人間の感情。これは富野喜幸監督のテーマの一つのようだが、ここではギリギリのバランスでそれが上手く描けていた。1作目と3作目の丁度過渡期にある、一般人であることと、軍人であることのバランスが取れていないアムロの感情表現は巧みだ。 そして最後のジャブロー戦でのカタルシスは、「哀・戦士」の歌声が響く中、今まで押さえ気味だった戦闘シーンが一気に吹き出たかのような力強さ。これは興奮した。 |
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機動戦士ガンダム | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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宇宙世紀0079。スペース・コロニーのサイド3は「ジオン公国」を名乗り、地球連邦に宣戦布告した。圧倒的な国力の差を人型機動兵器モビル・スーツによってねじ伏せたジオンは次々と他のコロニーを攻撃していった。その内の一つ、サイド6に住む少年アムロは、開発途中の連邦軍モビル・スーツ、ガンダムに乗り込んで戦う羽目に陥る。 これは説明の必要もないが、少年と戦争と言う壮大なテーマをアニメでやってしまったと言う画期的な作品だった。それまでのアニメというと主人公はヒーローであり、次々にやってくる敵を粉砕することだけが目的だったのに、ここではあくまで戦争の一局面と言うのが画期的だった。設定のリアルさのお陰でアニメは子供のものだけでなく、大人が見て楽しめるものにしたと言うことで映像界における貢献も高い。時代が産んだアニメだとも言えよう。 本作はTVシリーズ中最も最初の部分だけをリメイクした作品作りのため、盛り上がりに欠けるという致命的な欠陥がありながら、大ヒットした。高々映画のために徹夜組まで出たと言うのはこれが一番最初だろう。私は当時中学生。ガンダムにはまりきってはいたが、映画そのものを観ることが出来なかったのが残念。 作品自体TVを観ていれば分かることばかりだが、地球の雷をジオンの最新兵器だと思いこむ描写はリアルで、そこが好き。 ラストがヒキで終わったのは構造上仕方がないとしても、ちょっとあざとい感じがするが。 |
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海のトリトン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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日本の小さな魚村で一平爺さんに拾われて育てられたトリトンはある日海で物言う白いイルカのルカに出会い、そこで自分がトリトン族の最後の生き残りであることを知らされる。かつて広大な海を平和共存していたトリトン族とポセイドン族だったが、トリトンの一人に民族が滅ぼされてしまうという予言を恐れたポセイドン族により、トリトン族は滅ぼされてしまったと言うのだ。トリトンはポセイドンの手から逃れつつ、トリトン族の生き残りを探す旅が始まった… 1972年にTV放映されたシリーズを再編集して映画化。元々二部構成で前後編として製作されたが、公開されたのは前編のみ(多分前編でストレス溜まりすぎる描写が連発したお陰だろう)。後編も後にビデオ化された。 ところでオリジナルのTV版が放映されたのは、私が幼稚園の時だった。勿論物語の大半はほとんど忘却の彼方にあったけど、印象的な部分とかは結構まだ覚えていたりして驚いた。 改めて観てみると、何ともしっかりした物語だと分かる。トリトンは最初から強いのではなく、様々な試練を経、仲間やオリハルコンを得ることによって、どんどん強くなっていくという構成になっており、しっかりスポ根的要素を取り入れつつ、しかも根底に流れるのが、無様だろうが何だろうが、根源的に「生きる」と言うこと。今観ても驚くばかりである。最初は自分が何者かも分からずただ追われるから逃げるとだけ。そして中盤は大きすぎる目的に反発する生き方が描かれている。 何せ、ものが生き残りを賭けた戦いであるだけに、トリトンは生きていれば勝ち。いや、死ぬことは許されないので、どんな不様でも生き残らねばならない。それだけに前半部分のポセイドン族との戦いは屈辱の連続だった。逃げ回るか、あるいは何かを犠牲にしなければ生きることが出来ない。ひたすらストレスがたまりまくる。しかし、そんな無茶苦茶ストレス溜まる話をそれでもちゃんと見せてるんだから富野監督の技量とは流石だと思わされる。 で、後半にはいると、今度はトリトンがオリハルコンの力を振るえるようになるため、極端に強くなる。前半部分で逃げるしかなかった相手をほとんど歯牙にもかけず、雑魚と共になぎ払ってしまうほど。しかしそれで溜飲が下がるかというと、そうでもない。目的が大きくなりすぎるため、戦うことは過程でしかなくなってしまったからという点もあるにせよ、演出的に殊更ヒロイック性を抑えようとした結果だろう。 強くなるキャラクタを敢えて抑えるのは富野監督がよくやる手法。ただし本作の場合は、このカタルシスのない戦いはラストへの伏線にもなっている。 そして最後に明かされるオリハルコンの秘密。 これまで培ってきたもの総てを一瞬で崩してしまうという恐るべきオリハルコンの力! ここにおいて、トリトンは決してヒーローなんかじゃない事が分かってしまう。見方にもよるけど、結果だけだとポセイドン以上の極悪人であることが分かってしまうのだ。 しかもトリトンの最後の台詞は「違う!悪いのはポセイドンだ!」。なんと主人公が自分の責任全てを投げ出してしまった。この台詞は、アニメ史上最高の名台詞であると共に、一種の私自身のトラウマとなっていたことが分かった。主人公にこれを言わせるとは、やはりただ者じゃない。 後のジェノサイド富野は既にここで確立していたのだ。 改めて考えてみると、凄いアニメだよな。 はっきり言ってこれは是非TVシリーズで観て欲しい作品だ。特にラストの衝撃は全編通して観た者だけが味わえる特権。 ところで流石にあのラストには原作者の手塚治虫も激怒したらしく、ちゃっかり単行本のあとがきで「アニメは別物です!」と断言していた。事実全くの別物なんだけど、アニメはアニメで凄く良い作品。 ちなみに本作が劇場公開されたのは、富野監督の代表作「機動戦士ガンダム」が放映された年でもある。まさしく当たり年と言えるだろう。 |
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