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蕎麦の話

蕎麦の話 その1  私は蕎麦が大好物である。大学時代に住んでいた長野で更級のうまい奴を食べているうちにすっかり病みつきになり、最もよく食べていた時期は週に一度蕎麦を食べないと落ち着かない気分になったものだ。更に実家に帰ると、いつの間にかそこは蕎麦の郷になっていた。隣町がラーメンで町おこし大成功したための二匹目のドジョウ…とは知っていても言うべきではないだろう(笑)
 蕎麦通と言うほどでもないが、やはり蕎麦で美味いのは更級の二八蕎麦。それを可能な限り細くしたものが良い。手打ちにしたこいつを盛りでいただく
(ウチの郷里には水蕎麦と言われる、まるで冷や麦のように水の中に蕎麦を泳がせる方法もある。こいつは相当に蕎麦の腰が強くないと、又つなぎがしっかりしてないと出来ない方法なので、かなり高度な部類に入るが、それだけに蕎麦食べるのに相当な緊張感を要し、更にタレが薄くなっていくという根本的な問題があるため、私はさほど好まない)。薬味はちゃんと手で摺り下ろした山葵と、出来るなら辛い大根おろしが欲しい。そこに万能ネギが少量あれば完璧だ。
 蕎麦は風味と歯ごたえがなんと言っても身上。蕎麦特有の青臭さと山葵の鼻に抜ける刺激。溜まりのタレが絡まった蕎麦の風味。これを音を立てて啜る
(これを行儀悪いとは言わないで欲しい)。噛みしめた時、軽く顎が押されるのを感じる程度の腰があれば言う事無い。腰が無く、ぐにゃっとしたのは論外として、冷麺並に歯ごたえがあると、これはこれで風味を感じにくいので、なかなかその絶妙なかみ合わせが難しい。
 何だかんだで色々な地方で食べてきたが、やはり最初の衝撃と言う意味で、長野の蕎麦が一番美味かったと思う。東京の某有名蕎麦屋は美味いが、タレが濃すぎるのと、値段が高い割に量がほんのちょっとしか無いので何か損をした気になる(貧乏性)。
 うっとこ
(わが郷里)の蕎麦は昔は単なる田舎蕎麦って感じだったが、流石「蕎麦の郷」で町おこしをしてるだけに非常に良くなっている。私のよく行った蕎麦屋さんは日によって蕎麦やタレの味が違うので、当たりはずれを感じることがあり、これはこれで楽しい。
 ちなみに現在住んでいる鹿児島の蕎麦やさんは…何とタレまで甘い!不味くはないけど、違和感感じまくり。うどんだと、これはこれで結構美味いのだが。
 …とか言いながら、結構食べに行く辺り、やはり蕎麦好きは止められそうもない。
蕎麦の話 その2  私の蕎麦に対する思い入れは既に書いたが、今回書こうと思っているのは違う蕎麦。ソバと言った方が良いだろうか。出張などで電車に揺られてどこぞの町に着き、待ち合わせまであんまり時間はないけど小腹が空いた。そう言うときに食べるソバ。
 つまり、
立ち食いソバのことである。
 私はこれが大好きで、電車旅行中に駅で食べるのは無論のこと、それがどこの町であれ、立ち食いソバの看板が見えると、ふらふら入りたくなる。盛り蕎麦より先にこっちの方が好きになった位
(押井守がこれが大好物であるという事実はさっ引くとしても(笑))
 何故これが好きか。と言われると…
 普通の日本蕎麦と較べると格段に味は落ちるのは確か。となると、手軽で、しかもどれほどがっついて食べても文句を言われないのが良い。と言うことになろうか。
いやいや、立ち食いソバは立ち食いソバで確かに美味い。ゴミゴミした中を、自分だけの世界に浸り込んで食べると言う、奇妙な孤独感が美味さを倍加しているのかもしれない。
 それに手軽に入れるのもポイントが高いだろう。今でこそファーストフードという無個性な食事配給所(?)が量産されているが、それよりも更に個の世界に没入できる空間。それが立ち食いソバ屋だから。
 立ち食いソバ屋におけるコミュニケーションは注文して金を払うとき、そして丼を受け取るときと言うたった一回ずつの往復だけである(「ごっそさん」と言うのはコミュニケーションに入らないと思う)。客は現実の中に生まれ、肥大した幻想を瞬間的に店の親父に提示し、それに対して親父は冷徹な事実を以て応える。一太刀ずつのせめぎ合いがそこにはある。
 そして提示された現実に幻想のかけらをまといつかせるか、それともあくまで現実としてのみ捉え得るか。それは客の内面世界の話であり、親父は無関心に次の幻想を相手にする。そこにはコミュニケーションを極力廃し、ただ一人一人の内面を見つめる作業を仲立ちする場として提供され得る空間がある。
 と、ややこしいことを書いたが、要するに
手軽に、しかも食事に没頭できるのが良いんじゃないだろうか。と言うこと(笑)
蕎麦の話 その3  さて、今回は立ち食い蕎麦の食べ方。について話してみたい。何もそんなこと聞く必要はない。と言わずに少々おつき合いを。
 立ち食いソバの食べ方だが、これは出来るだけ素早く啜り込むのが求められる。本当に速い人だと一分以内に食べ終わってしまうほど。(ちなみに私は先日試してみたが、すっかりそのスピードも遅くなってしまっており、愕然とした。現在一分では食べられないのである。情けない)。
 その一分のドラマをどう演出するか。立ち食い蕎麦の醍醐味はそこにかかるだろう。まず薬味として、一味(場合によってはネギ)をどれだけかけるか。思い切り辛くするか、それとも食欲が増す程度に抑えるか。全くかけないか、はたまた味の変化を楽しむため、途中で入れると言う選択肢もある。かけであってもそれだけの選択肢があるが、月見の場合になると、更にそのギョクをどうするか。と言う選択肢が生じる。黄身を崩すか、飲み込むか。それをするならどのタイミングで行うかと言う選択肢も生まれる(冷麺のごとく最初っからぐりぐりかき回してから食す方法もあるが、これではドラマは生まれにくい)。丁度半分を食べ終わり、汁も多少啜ってから崩す。とかして味の変化を楽しむのも良いし、啜り込む場合も、白身と黄身を分けて飲むか、そのままつるんと黄身を飲み込んでしまうか、だし汁とソバと共に啜りこみ、口腔内で混ぜ合わせて飲み込むか。色々な選択肢がある。天ぷらに関しても食し方は結構多い。クリスピー感を楽しむため、出来るだけ早く食べてしまうか、ソバのおかずのようにして均等に食すか、それとも完全にソバと混ぜ合わせてドロドロした奴をソバと共に啜り込むか。これ又選択肢は自由。それぞれの好みに合わせて良いだろう。又、どの程度汁を残すか。これも結構問題がある。ソバそのもののみを楽しむのか、汁とソバとのハーモニーを楽しむのか。又、月見で黄身を崩す選択をした場合、たまごの栄養素が汁の中に紛れ込んでいるため、それをどうするかと言う問題もある。一分弱の中に、それらの選択肢を全てクリアーするのか、一瞬で判断して掻き込むのが醍醐味である。
 無論その場合の食し方も自由だが、行儀は悪いが、意地汚く
ふうふうずるずると音を立てて食べるのが美味いような気がする。尤も、上品に食べて一分以内に食べられる人間はそうはいないだろうけど(笑)
 まあ、一応何であれ、「通」と言うものが存在する。そう言う食べ方をするなら、一分以内に食すと言うのは基本として、
一味唐辛子は多めに振りかける。極力混ぜない。更に食べ残しはせず、ほんのちょっと汁を丼の中に残す程度にする。仮にそれが月見だったら、絶対に黄身を崩さない。この辺りが基本となるかも知れない。
 尤も、立ち食いソバ屋の良いところは相手の丼を見るようなことはしないので、どのような食べ方をしても構わないと言うところにある。気楽に、そして没頭していただくことをお勧めする。
 僅か一分のドラマ。それに没頭できるほどの
心の隙間がある人にはお勧めする。

 最後に一つ。食い散らかすのは仕方ないとしても、なるだけ感謝を持って食べること。食べ終わった後、その辺に箸やら丼やらを放り出すのではなく、「ごっそさん」と(心の中で)言って、ちゃんと親父が取りやすい場所に、丼の上に箸を揃えて出しておくことが望ましい。
蕎麦の話 その4  鹿児島の不満点の一つに、「この町には立ち食いソバがない!」と言う事実がある。普通の蕎麦屋は結構あるのだが、何故か立ち食いがない。ハンバーガーの店をこれだけ作るくらいなら、一軒くらいあっても良かろうに。
 そして蕎麦屋の蕎麦だが、何故かタレが甘い。鹿児島は料理の味付けが大概甘い。その味付けは気に入っているのだが、殊蕎麦に関してはこれは当てはまらない。食べると何か違和感が残る。
 先日天文館に立ち食いうどんの店ができたと言うので行ってみたら、何でも夜だけの営業だそうで、昼間行った私は食べることが出来なかった。いつか食べてやろう。
 そうそう。立ち食いソバ屋やっているところがあった。
 鹿児島と桜島を結ぶフェリーの上。「かけ」と言うと、ものも言わずにうどんの方を作ってくれる店である。なかなか桜島には行く機会がないが、そこでソバを頼むのが一つの楽しみでもあったりする
(先日ご当地映画「ホタル」で桜島フェリーが登場し、ひょっとして?とか思ったが、残念ながら出なかった)

 立ち食いソバ。同じかけと言っても、日本全国様々な味がある
。関東はなんと言っても鰹出汁の濃〜いスープ(これが一番食べ慣れてる)、名古屋も一応鰹出汁で、更に麺の上にたっぷりと鰹節がかかる(駅の立ち食い蕎麦だと、「うどん」と言うメニューが無く、ソバかきしめんになる)。関西になると、透き通った昆布出汁。単純に味だけで言えば、関東より関西の方が上だろう(ちなみに関東で揚げが乗っている蕎麦を「きつねそば」と言うが、関西では「たぬきそば」になるのも面白いところ)
 それで鹿児島は炒り粉出汁である。特に鹿児島のはスープも透き通って、やはりどこか甘みを感じさせる。立ち食い蕎麦に関してはなかなか良い。
 東京時代には本当に良くお世話になった立ち食いソバ屋だが、それだけに味の善し悪しも結構あるのが分かる。ソバ屋毎にタレの濃いの薄いの、揚げたての天麩羅乗せてくれるの、異様にでっかいアゲを乗せてくれるの、色々とある。そういう店を回って、おいしいところを見付けるのが楽しかった。私流のB級グルメと言うべきか。
蕎麦の話 その5  今日は蕎麦そのものの話をしよう。蕎麦というのは言うまでもなく蕎麦の実を挽いて作ったそば粉を原料として作られた麺、いわゆる手打ち蕎麦のことを指す。現代においてこの認識は正しいのだが、実はこの手打ちが作られ始めたのは江戸時代になってから。意外に歴史は浅い。
 実は元々
「蕎麦」と言うのはそば粉を指すものだった。これを色々加工して食べる形に持っていったのだが、その一形態である麺がメジャーになったため、いつしかそれが「蕎麦」と呼ばれるようになったと言うことである。
 蕎麦と言う植物は痩せた土地でも栽培でき、且つ栄養があるため非常に重宝される栽培植物ではある。ただし、米や稗、粟、小麦と言ったものと違って炊く訳にもいかず、大麦のように炒って食べることも難しい。結局臼で挽いて粉にしてから食べなければならないのだが、特に日本において粉を食べる方法はあまりヴァリエーションがない。
 かつてはそば粉をお湯で溶いてよーくかき混ぜてから食べる方法が中心だった。これがいわゆる
蕎麦掻きである。この食べ方は、食べるまでにやや時間がかかると言う難点があるが、蕎麦の持つ栄養素全てを調理することが出来ると言う利点もある。
 一方の手打ち蕎麦だが、この利点はなんと言っても食べ易さ。それにたれを付けて食する方法は、味も良くなる。非常に利点が多いため、すっかりこちらがメインになっていった。
 手打ち蕎麦の難点は、茹でると言う過程を取るため、蕎麦の持つ本来の栄養素の幾分かは抜け落ちると言うこと。手打ち蕎麦で必要な栄養を取ることは難しい。
 それで抜けた栄養素はどこに行くかと言うと、蕎麦を湯がいた湯の中に残っていく。
 それが蕎麦湯となる。もりとかを食べた後はやはりこの蕎麦湯をたれの残りに入れて飲むのは、本来摂るべき蕎麦の栄養素を摂取するためにも効果的。

 尚、ヨーロッパでも蕎麦粉でクレープなども作られるが、これはあんまり甘くないため、ハムやらチーズやらを挟んで食べる。食事用のクレープだな。これは結構美味い。
蕎麦の話 その6  前回手打ち蕎麦が「蕎麦」と言われるようになったことに言及した。江戸時代になって発生した手打ち蕎麦はやがて庶民の味として定着するようになる。
 ただ一口に蕎麦と言っても多種ある。元々蕎麦の全粒を用いてつなぎを全く入れない、いわゆる十割蕎麦が主流だったが、これはぼそぼそしている上、切れやすいので「啜る」と言うよりは「食べる」と言うのに近い。それを食べやすくするため、つなぎが用いられるようになった。
 つなぎと言っても様々で、山芋や卵を用いる事もあるが、最もよく使われるのは薄力粉を使う方法である。小麦粉2割の蕎麦8割。「二八」と言われるこの配合が一番メジャーだ。
(ちなみに最近では小麦粉を入れない蕎麦を「十割蕎麦」と言うのが主流らしく、卵や山芋をつなぎに使っていても小麦粉さえ入っていなければ「十割蕎麦」と呼ばれるらしいけど)
 又、蕎麦の実自身も殻ごとすりつぶして粉にしてしまう方法からやがて外側の甘殻を削って実のみを粉にする、いわゆる更級が主流となっていった。これを使うと真っ白な蕎麦ができあがる。見た目が綺麗だし、固い殻の部分が無いので啜り込みやすい。ただ、見た目でどれほどつなぎが用いられているのか分かりづらいと言う難点もある。実は小麦粉の配分を多くするほど喉の通りが良くなるため、結構うまい蕎麦だ。とか思っていたら、蕎麦4割小麦粉6割の「四六」、若しくは蕎麦2割小麦粉8割の「逆二八」だったという笑い話もある。
 実はこの小麦粉というのが厄介。小麦粉を入れれば入れるほど味が良くなる上に長く保つ。うどん屋とは違う蕎麦屋の苦悩の選択の場である。
蕎麦の話 その7  蕎麦のおいしさとはなんだろう?
 よく言われるのは
蕎麦の風味と喉ごし、そして噛みごこち。つまり腰が大切だという。かくいう私自身も腰のある蕎麦が大好き。噛むと歯に強い抵抗の生じる位に腰があると、これはおいしいと思う。
 ところが。である。
 これは実は本来の蕎麦から離れたものだ、と言うことを先日知った。

 蕎麦。特にもり蕎麦と言うのは極めて短時間に食べられるように作られた食品である。客が店に入ってから出るまで3分半。と言うのが一つの目安なんだそうだ。
 そこで食べる蕎麦は基本的に種物(具を乗せたもの)ではないシンプルなもので、しかも急いで食べるために冷たいもり蕎麦が主流。
 そこで重要なのはいかに早く食べてもらえるか。と言う事になる。
 そのためにいくつかの要素がある。
 
1.蕎麦の長さ。箸でつまんでたれに付けて啜り込むに丁度良い長さが必要となる(「吾輩は猫である」で妙に長い蕎麦を食べるシーンがあったが、あれは本来のもり蕎麦の良さとは異なる)。さらに丁度箸でつまむ分をひとまとめに置いてあることも重要(これを専門用語で「ちょぼ」と言う)。もり蕎麦を頼むと蕎麦が波打っているかのように置いてあるのはそのため。丁度波の一山が一口分になる。
 
2.蕎麦の水気。啜り込むためには水分が必要とされるが、蕎麦そのものよりも蕎麦の表面に水気があるのが大切となる(言うまでもないが、蕎麦が水を吸った状態は「のびた」状態だから)。理想を言えば蕎麦はきりりとしまり、表面はぬめったように光っているのが良い。
 
3.つけ汁の濃さ。江戸風の蕎麦の食べ方だとほんのちょっと蕎麦の先をたれに付けて、素早く啜り込むため、濃い方が良いと思われがちだが、実はそうでもない。何せ最初に口に放り込むのが蕎麦だけで、最後の最後にたれが口腔に入るため、あまり濃いと後味が悪くなってしまう(尤も東京の老舗「藪」は例外のようだが)。もり蕎麦用のつゆは瞬間舌の先に濃い味を残しつつ、すっと後味が消えていくようなものが良い。
 
4.噛みごたえの無さ。←書き間違いではない。実はもり蕎麦は、噛みごたえがあってはいけない。と言うより、基本的にほとんど噛んではならない。本当に飲み込んでしまうのだ。咀嚼するのはせいぜい奥歯で一回程度。ここで噛んですぐ喉に送り込むためにも、喉の通りを良くするためにも、蕎麦に噛みごこちがあると何かとやっかいなのだ。

 これが庶民の食べ物としての蕎麦の大切なところである。
 
噛みごこちの良い蕎麦と言うのが出てきたのは実はほんの最近で、製粉技術が上がり、更に粉の質が良くなったことから。しっかり噛めると蕎麦特有の風味もきちんと感じることが出来るし、これは実に美味いのだが、食べるのにはやはりちょっと時間がかかってしまう。そういう意味で、本来の食べ方とはやや矛盾を生じるものらしい。
蕎麦の話 その8  みなさんは普通の冷やした蕎麦には二つのお品書きがあるのをご存じだろうか。
 
「もり」(せいろ)「ざる」である。
 この二つ、見た目あまり区別が付かない。せいぜい
「もり」には上に何も乗っておらず、「ざる」には海苔が乗っていると言う程度の区別でしかない。尤も今は蕎麦屋でもこの二つのお品書きが併記されているところも少なくなったから、その違い自体知らない人もいるだろう。
 細かな違いというのはいくつかあるが、何故この二つは区別されなければならないか。その事についてちょっと雑学を。
 前回でもり蕎麦についてちょっと書いたが、もり蕎麦の最大特徴は
「急いで食べることが出来る」これに尽きる。いかにして早く啜り込めるかを主眼として作られた蕎麦なので、当然何かそこに乗っていると食べるのに邪魔になる。
 海苔程度が邪魔か?と思われるかも知れないが、海苔というのはこれは結構やっかいな代物で、口に入れると口の中の水分を吸ってしまって上顎にくっついたりして結構食べにくいものだ。この食べにくさが「もり」と「ざる」を分ける最大の特徴となる。
 つまり、「もり」は速く食べるために、「ざる」はゆっくりと、蕎麦の味を楽しんで食べるために作られている訳だ。
 「もり」は食べやすさを主眼としているため、啜り込みやすいように蕎麦の回りには多量の水がかけられている。放っておくと蕎麦が水を吸ってしまい、のびた状態になるが、蕎麦がのびる前に全部食べてしまうのが「もり」の醍醐味だ。一方、食べにくい海苔を上にかけた「ざる」の場合、そうはいかない。時間をかけて食べてもらう以上、きちんと水切りをしなければならない。
 ところが「ざる」であれ、「もり」であれ、蕎麦を茹で上げる製法そのものは全く変わりがないのだから、水を切ったばかりの蕎麦はかなり濡れている。それを乾かすのは器に盛ってから。と言うことになる。
 そのために用いられたのがまず笊(ざる)。
笊の上に一口分(ちょぼ)ずつきちんと乗せられると、蕎麦に付いた水は笊を通して下に落ちていく。それで適度に乾かすことが出来るというわけ。実は上に乗った海苔も同じ意味合いで用いられる。あれは味付けよりむしろ蕎麦を乾かすために乗せるもの。「ざる蕎麦」は伊達に「ざる」と言う名前が付いているのではない。笊に乗ってこそ、「ざる蕎麦」だ。「もり」が蒸籠に盛ってあるのとは理由がちょっと違う。更にこの笊。普通用いる時とは逆に、山になるように置いておくのが特徴。こうすると水のきれが更に良くなる。
 もう一つ大切なのがつけ汁。これも前に書いたが、もり蕎麦だと汁はさほど濃くしない。ところがざる蕎麦の場合、蕎麦にちゃんとたれの味を沁ませてから食べることになるため、心持ち味を濃くする必要がある。もり蕎麦用に作られたつゆは
「辛汁(からじる)」と呼ばれるが、それに醤油とみりんを混ぜて寝かせておいた「生かえし」をちょっと入れたものがざる蕎麦用に出される。
 「もり」と「ざる」がお品書きに併記されているような店に入ったらちゃんと値段も確認してみると良い。
100円程度は「ざる」の方が高くなっているはず。これは海苔で100円取っているわけではない。それだけの手間と技術が詰まっているのだ。そう思って注文すべし。
蕎麦の話 その9  もし引っ越しをしたりして、新しい蕎麦屋を開拓したい。若しくはこの蕎麦屋が良い店かどうか確かめるにはどんなものを頼めばいいか。
 シンプルな盛り蕎麦を選び、その味で決める。と言う人がおられたら、それも良し。本当の蕎麦通とおっしゃる方は是非そうすべきだろう。
 しかし、もしあまり蕎麦の味の区別が付かず、とりあえず試してみたい。と言う方がおられたら、お薦めの蕎麦がある。
 それが卵とじ蕎麦。
 要するに
溶き卵が温かい蕎麦の上にかかっているシンプルメニュー。ところがシンプル故に実はこれほど蕎麦屋泣かせの注文はない。
 月見とどこが違うかと言われると、
月見は生卵をそのまま蕎麦の上に落としているのに対し、こちらは卵を一旦かき混ぜてから蕎麦の上に落としていると言う違いでしか無いのだが、それだけの違いで、大分技術的に違いがある。
 実はその溶き卵を蕎麦の器に入れる事自体、極めて難しいのである。本当に上手い蕎麦屋で頼んだ卵とじ蕎麦に乗せられた卵はあたかも糸のように細く、それが真ん中に折り重なるように畳まれている。溶き卵をいかに細く線のように垂らし、しかもそれを蕎麦汁
(専門用語では「甘汁」)の熱で固めてからかき混ぜると言う絶妙のタイミングと技術が必要とされる。卵とじはあくまで「綴じる」のであり、汁の味を卵に移すことはあっても卵の味を汁に混ぜてしまってはいけない。極めて難しい技術を必要とする。
 そのためか、これだけシンプルなメニューであるにも関わらず、お品書きの値段は妙に高いのが普通。無いところも結構ある。
 馴染みの蕎麦屋さんの技術を知るためにも、一度頼んでみると良い。
蕎麦の話 その10  ちょっと面白い蕎麦の事を思い出した。
 水蕎麦というのをご存じだろうか?
 
水蕎麦。これは本当に特殊な食べ方には違いない。普通蕎麦というのは盛りにするか、暖かくして食べるものなのだが、それ以外にも実は食べ方がある。
 茹で上がった蕎麦をすぐさま水の中に放り込んでそのまま食す方法だ。
 冷や麦のように思われるかも知れないが、この場合、水はなるだけ綺麗なものを使い
(清水か、あるいは井戸水が望ましい)、タレには付けずにそのまま食べる。
 こうすると蕎麦そのものの味が楽しめ、しかもいくらでも入る。
笊一杯に湯がいた蕎麦を残さず食べた事もある。
 ただ、これはそう簡単には出来ない。
 先ず蕎麦というのはうどんと異なり、冷水に長い事冷やすと、すぐにボロボロに崩れてしまうから、本当に腰が強くないとこれは出来ないし、蕎麦そのものの味を楽しむため、新蕎麦でないと全然美味しくない。要するに食べられる時期と場所が極めて限られてしまう。それ故に普通滅多に食べられるものじゃないのだが、実は私の田舎では
割合普通の食べ方だったりする。タレに付けたり、あるいは大根おろしを載せて食べる場合もあるのだが、私は子供の頃は蕎麦というのはこんなものだと思っていた。更に言えば、味が単調すぎるので子供の頃、この蕎麦が嫌いだったのが…
 それなりに蕎麦を食べていると、こう言う食べ方をするところがほとんど無い事が分かった(私の記憶する限り、私の田舎以外でこんな食べ方をした事はない)。それだけ特殊だと言う事だ。
 何か久々に田舎に帰りたくなってきた(笑)
蕎麦の話 その11  えらく時間が経ってからで恐縮だが、その6からの続き。
 蕎麦好きなら二八という言葉は知っているだろう。私たちがいつも食べている蕎麦の多くはこの二八蕎麦と呼ばれるもの。純粋のそば粉のみで作られているのではなく、幾分か小麦粉が入っているものである。
 この二八と言う言葉の語源には二つの説がある。
 一つは
江戸時代の夜泣き蕎麦の値段が通常16文だったので、2×8=16という語呂合わせという説。もう一つは蕎麦8割に対し、小麦粉2割が入っているからと言う説。
 語源はいずれにせよ、現代で二八と言えば、後者の方を意味している。
 これが作られるようになったのは江戸時代。享保年間
(1716〜1935年。8代将軍吉宗の時代)と言われる。結構この切り蕎麦というのは新しい食べ物なのだ。
 私たちが食べている蕎麦の多くは蕎麦粉だけで出来ているのではない。
 蕎麦粉と小麦粉の結婚。これが実は現代の蕎麦好きにとってはありがたい、幸せなものとなった。
 理由は簡単で、蕎麦粉だけだと切り蕎麦(麺状の蕎麦)にはなりにくいから。しっかりした蕎麦屋さんには時折十割蕎麦というメニューがあるが、食べてみると分かるが、とにかくもさもさして食べにくいことおびただしい。それに麺状になってくれず、ぶつ切り状態となってしまう。
 蕎麦というのはそもそもグルテン部分
(小麦の粘り成分で、小麦蛋白と言われる)が極端に少ない穀物(というか、小麦以外の穀物は大抵少ない)のため、いくら揉もうとくっついてくれないのだ。だから蕎麦だけで麺を切ろうとしてもボロボロになってしまうし、ましてそれを茹で上げるとなると、麺の形状さえ保てなくなる。
 そもそも蕎麦粉というのは、日本では他の穀類に混ぜて雑穀として食べるか、蕎麦掻きにして食べるくらいしか使えなかった穀物なのだ。
 それが現在のような蕎麦切りの形で麺となれたのは、つなぎとして小麦を入れたからに他ならない。
 小麦ほどつなぎに適した穀物はない。小麦粉はそれだけではさらさらの粉だが、水分を加えてやると容易に固まりになるし、加熱してやればその結びつきは強固になる。しかもこの強力さは小麦粉同士だけに限らない。しかも粉で用いられるので、応用が利く。それ自身の味も良い。
 実際米とならんで世界の主食が小麦で占められるのはこの強みによるものだ
(生育期間が小麦の半分で済み、しかも季節を問わない大麦でさえ、主食とならないのは、どれだけ小麦が優れた食品かと言うことを示しているだろう)
 この小麦粉を蕎麦に混入することで、蕎麦は蕎麦切りとして生まれ変わることが出来た。これは日本の食物歴史において画期的事件なのだ。
 それで、蕎麦の味を損なうことなく、なめらかに、強力に結びつける配合が丁度小麦粉2割。と言うことになる。確かに小麦の量を増やせばそれだけ喉ごしも良くなるが、蕎麦としての味が無くなってしまう。言うまでもなくうどんと蕎麦は違うから、良心的な蕎麦屋さんだときちんとそれを守って作ってくれる。
 ただ、小麦と蕎麦の単価は随分差があるため
(蕎麦の方が生育が容易で場所を選ばないが、前述の理由から、栽培量で言ったらまるで違うため。それに蕎麦は国産を用いることが多いのも大きな理由の一つ)、どうしても安い蕎麦だと小麦粉の含有量が増える傾向にある。立ち食い蕎麦あたりだと大体6割程度蕎麦が入っていれば良い方だろう。五割蕎麦、逆二八(蕎麦2割に小麦粉8割)などもちゃんと「蕎麦」として売られてる。
 蕎麦屋に行く時、「二八」と書いてあるなら、店主はそれを良く知っていると思って良かろう
(最近では観光地以外ではあまり書かれてないようだけど)
 尤も、それを知るというのはなかなか難しいことで、蕎麦の中の蕎麦粉の含有量を知るのに一番の目安は自分の舌と言うことになる。まずは色々食べてみること。これに尽きる。