<amazon> <楽天> |
|
||||||||
米国大統領ジョージ・W・ブッシュの従兄弟 | |||||||||
|
2008 | ||
2007 | ジャンプ・イン! 製作 | |
2006 | カウベルズ パパのビジネスを救え! 製作 | |
2005 | ||
2004 | トナカイはキューピッド!? 製作 | |
LOVEルールズ 製作 | ||
2003 | ||
2002 | ||
2001 | ||
2000 | ||
1999 | ||
1998 | ||
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ||
1994 | ||
1993 | クリントンを大統領にした男 撮影 | |
1992 | ||
1991 | ||
1990 | ||
1989 | ロジャー&ミー 撮影 | |
1988 | ||
1987 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | ||
1982 | アトミック・カフェ 監督・製作 | |
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ||
1973 | ||
1972 | ||
1971 | ||
1970 | ||
1969 | ||
1968 | ||
1967 | ||
1966 | ||
1965 | ||
1964 | ||
1963 | ||
1962 | ||
1961 | ||
1960 | ||
1959 | ||
1958 | ||
1957 | ||
1956 | ||
1955 | ||
1954 | ||
1953 | ||
1952 | ||
1951 | ||
1950 | ||
1949 | ||
1948 | ニューヨークで誕生 |
アトミック・カフェ 1982 | |||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||
40年代後半から50年代に、アメリカ政府が国民用に製作した数多くの原爆PRフィルムやニュースフィルムを再編集したドキュメンタリー作品。 上記の通り。そのまんまの作品。本当に何の解説も加えず、当時の政府公報PR番組を再編集して垂れ流しただけの作品である。更にコメントさえも全く付けていない。 それに何の意味があるのか? 勿論もの凄い意味がある。これが作られた1982年という状況がその意味づけをしっかり果たしている。 本作は確かにPR集であり、政府がこういうニュースを実際に流していたのだが、後世、原爆の恐ろしさを知った目で観ると、政府とはなんと無茶苦茶なことをやっていたのだ。と呆れるばかり。結果的に、ただかつてのPRを流すだけでもの凄い政府批判になり、とびきりの悪意を感じることも出来る。その意味では凄い作品だ。 この宣伝を観る限り、アメリカは故意に原爆はそれほど危険がないことをアピールしているかのように見えるし、それを生のまま見せているのだが、そこにかぶせる暴力的なロックンロールの音楽で、凄い告発映画となっている。 原爆投下の時、トルーマンが「原爆が神の道に従って使われますよう祈ります」と言っていたり、原爆を投下したビーハン大尉が「最大のスリルだった」と語っているシーンもあり。更に教室で子供達に原爆の対処方法をやっていて、「光を見たら何をする?」「伏せて隠れます」という答えがあったり… もはや冗談としか思えない。こんな呆れた事を本当にやっていたと言う事自体がブラックジョークに近い。 ちなみに本作の監督ラファティは、ブッシュ大統領のいとこなのだとか。よくもこんなもん作れたもんだな… ところで、映画作りには二つの技術が必要とされると言われる。一つは素材としてそのままの画面作り。これはキャラの演技や、背景のリアルさ、カメラワークの良さや構図の良さなどがそれにあたる。これは勿論とても大切。 もう一つは、編集技術。撮った作品はあくまで素材に過ぎず、それを編集することで一本の映画が出来上がるわけだ。 結果としてこの二つの技術を上手く組み合わせることで映画というのが作られるのだが、時折前者の素材がどうしようもないのに、編集の巧さだけで見事な映画作りが出来たりもするし、逆に素材がとても良いのに編集失敗によりクズのような作品が出来てしまうこともある。。この辺が映画の面白さというところだろう。 この辺の折り合いを付けるために映画人は頭を捻る。前者の場合金が必要で、後者の場合時間が必要になる。そのどちらも潤沢にあれば問題ないが、どちらかが欠けることがほとんどなので、結果として映画は編集が良い場合と、素材が良い場合の二つに分かれることになる。そのバランスが取れた作品と言うのはなかなかお目にかかれないものだ。この二つのバランスが突出して良いのは黒澤映画ということになろうか。アニメになるが、押井守が独自のレイアウトシステムというのを作ったのも、この二つの組み合わせをいかにバランスよく仕上げるかの努力の形であろう。 そんななか、時折素材を重要視せず、編集のみで見せてしまおうという監督が時折登場する。一番有名なのは、エイゼンシュテインで、彼の映画作りは大部分が素人によるごちゃごちゃしたモブシーン。それを編集だけできちんと物語にしてしまうのだが、本作の構成もそれに負けてない。本作の場合、オリジナルのPRフィルムに一切手を入れてない。しかし、それが見事なモンタージュになっているのが面白い。一種この作品が近年の最高のモンタージュ映画と言ってしまっても良いのかもしれない。 |