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1980 | ||
1979 | 太陽を盗んだ男 監督・脚本 | |
1978 | ||
1977 | ||
1976 | 青春の殺人者 監督 | |
1975 | アフリカの光 助監督 | |
悪魔のようなあいつ<TV> 脚本 | ||
1974 | 宵待草 脚本 | |
青春の蹉跌 脚本 | ||
赤ちょうちん 助監督 | ||
1973 | 濡れた荒野を走れ 脚本 | |
エロスは甘き香り 助監督 | ||
赤い鳥逃げた? 助監督 | ||
1972 | 性盗ねずみ小僧 脚本 | |
エロスの誘惑 助監督 | ||
夜汽車の女 助監督 | ||
1971 | 八月の濡れた砂 助監督 | |
おくさまは18歳 新婚教室 助監督 | ||
野良猫ロック 暴走集団’71 助監督 | ||
1970 | 土忍記 風の天狗 助監督 | |
にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活 助監督 | ||
1969 | ||
1968 | 神々の深き欲望 制作進行 | |
1967 | ||
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1949 | ||
1948 | ||
1947 | ||
1946 | 1'5 広島県で誕生 |
タイトル | |||||||||||||||||||||||
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太陽を盗んだ男 1979 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1979日本アカデミー助演男優賞(菅原文太) 1979 |
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東海村の原子力発電所からプルトニウムを盗み出した中学校の理科教師城戸誠(沢田研二)は自室を改良した研究室で原爆を作り上げた。しかし、それをどう扱って良いか分からない城戸は警察に対し、テレビのナイターを最後まで放映しろ」とか麻薬問題で入国拒否されたローリングストーンズの日本公演を実現させろと変な要求ばかりをしていく。その渦中に城戸から常に名指しで名前を呼ばれる山下満州男警部(菅原文太)は、謎の犯人との対決姿勢を強めていく… 『青春の殺人者』(1976)に続く長谷川和彦監督第2作。本作でキレぶりと、演出とテンポの良さ、設定の際だたせ方など絶賛された。将来の邦画を背負って立つ監督だと言われていたのだが、本作を最後に監督業から身を引いてしまった。残念な話である。 つい先日私は『タクシードライバー』(1976)のレビューを行ったが、あれは“一歩踏み出した人間”が上手い具合に行った場合の例だと思うのだが、その“一歩”が勘違いしてしまうとこうなってしまう事の例がここには描かれている。実際よく考えると、この二人の動機って結構同じように感じてしまう。どちらも今の世界にもやもやとしたものを感じており、そして自分が行動を起こすことで、この世の“何か”を変えようとする。そして二人とも動機が明確ではない。“何かをしなければならない”と考えてはいるが、“どうすればいいか”という所までには至らず、結果的に行動の方が先に出ている。これが1970年代の鬱屈感というものと言ってしまえばそれまでだが、実際に今この瞬間完全なる自由と力を与えられた時、人間はどんな反応を示すだろう?多分ここでの城戸と似たようなものがあるんじゃ無かろうか? しかし同時に羨ましくもある。どう使って良いか分からないが、とにかく力を手に入れようとするパワーは本物だし、少なくとも鬱屈をPCやTVの画面に封じることなく、行動で出そうと思ったその時代に。そしてそれを正義と信じて行動できる行動力に。PCを前にこれを書いている私自身が、まるで骨を抜かれて昔を回顧しているだけの人間に思えてくる…そしてそれは多分事実だ。 本作は決して完成度が高い映画じゃない。ストーリーは破綻しているし設定は無茶苦茶(あんな方法で原爆を取り返すなんて思いもつかないが、同時にギャグにも思えてしまう)。後半に至ると物語も何もなくほぼ完全な暴走状態で、ラストのオチは唖然。職人芸からはほど遠い、ほとんど情熱だけで作り上げたような作品にしか思えない。だがその情熱こそが時代を超えて「羨ましい」と思わせるものになるのだ。 実際、このレビューを書いている今、「こんな下らない世の中が続くのならば、この地上から人間を消し去ってやりたい」という微かな衝動は確かに私の中にあるのだ。 そして少なくとも自分の心の中に、この衝動がある内はまだ大丈夫。と思える自分もいる。 何というか、本作は人の獣性というか、心に封じて表面に出さないどころか自分でもその存在を忘れている“何か”を表面に出してくれるパワーを持った作品である。というのは確かだろう。 本作助監督に相米慎二と榎戸耕史、制作進行に黒沢清が参加している。 |
青春の殺人者 1976 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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両親に買ってもらったスナックを経営する斉木順(水谷豊)は、スナックの手伝いに来てくれる幼なじみのケイ子(原田美枝子)の事で父(内田良平)と口論になり、かっとした順は衝動的に父を殺してしまう。自首するという順に対し、母(市原悦子)は二人で逃げようと言うのだった。だが錯乱した母は今度は順を殺そうと包丁を持ち出し、もみ合っている内に逆に母を刺してしまう。一体これからどうすればいいのか。呆然とする順はケイ子の元へと帰っていくが… 1969年に千葉で実際に起こった事件を元に中上健次が書いた小説「蛇淫」を俊英の長谷川和彦監督がATGで映画化。 ATG作品は情念がこもったような作品が多く、内容も意味不明なまま終わる事が多いので、観る時はある程度の覚悟が必要。少なくとも一本観終える時にはどどっと疲れてしまうものばかり。 その疲れというのは、「一体これはどういう意味なんだ?」と考えることと、あまりにも生々しい精神的物理的な排泄シーンが出てくるためで(性行為もATGでは一種の排泄行為にされることが多い)、かなり精神的に負荷を強いることになるから。 本作もそう言う意味で言えば、確かにATGらしさは持っているのだが、単なる露悪趣味とは言えないパワーを持っていて、ATGらしさを残しつつも、かなり情緒的な作品に仕上がっているのが特徴だろう。親の愛から逃れ、一人の男として新しい女性を見いだしていくという、思春期独特な成長を観念的に描いた作品と言えばそれまでだが、とにかく観ていて疲れる。 物語は前半と後半に分かれる。 前半は普通の家が、ほんの僅か歯車が狂っただけで家族の殺し合いに発展してしまうことが冷静に描かれているのだが、単なる家庭崩壊が描かれているのでは無かろう。本作で描かれているのは、歪んだ形での家族愛。しかもその家族愛は社会的な意味でのものではない。父親が子供に持つ愛は、社会的な自立であり、他の人間から後ろ指指されないような生き方をしてくれる事。一方母親が子供に持つ愛は、抱え込む愛。対して子供が両親に抱く愛とは、甘えなのだが、父の愛は甘えを許さず、時として殺意へと転換し、母の愛と子の愛が合致してしまうと、それは胎内回帰へと容易に転換してしまう…そう言う意味で前半部分は観るのがもの凄くきつかった。観たくないものを鼻面にぶら下げられてしまった気分。その部分だけでどっと疲れ切った。 対して後半はその殺人が記号になっていき、話はどんどん観念的になっていく。結局ギャーギャー騒いでる内に終わってしまったのだが、何を考えているのか分からない原田美枝子の姿が妙に落ち着かなくさせる。前半の濃すぎる市原悦子の姿に充分対抗していた。 前半後半どちらも苛つかせる描写が目白押しなのだが、前半後半で苛つかせるベクトルがまるで違っているのも凄いが、そんなのがずーっと続くお陰で、本当にどーっと疲れてしまった。 ATGらしいと言えばそれまでだけど、その中でしっかり個性を見せてくれた長谷川監督には拍手を送りたい。 尚、長谷川監督は本作と『太陽を盗んだ男』(1979)で、将来の邦画を担う監督と目されていたが、以降作品は途絶えてしまう。勿体ない話ではある。 |