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息子に監督・脚本家の天願大介。 | |||||||||||||||||||||||
今村昌平伝説 今平犯科帳―今村昌平とは何者 今村昌平を読む―母性とカオスの美学 今村昌平の世界 日本映画の展望;総索引 〜講座日本映画 (8) 日本映画の現在 〜講座日本映画 (7) 日本映画の模索 〜講座日本映画 (6) 今村昌平の製作現場 _(書籍) 著作 にっぽん昆虫記―今村昌平作品集 映画は狂気の旅である―私の履歴書 撮る―カンヌからヤミ市へ 遥かなる日本人 村岡伊平治自伝 _(書籍) |
2006 | 5'30 死去 | ||||||||
2002 | 11'09''01 セプテンバー11 共同監督 | ||||||||
2001 | 赤い橋の下のぬるい水 監督・脚本 | ||||||||
ロスト・メモリーズ 出演 | |||||||||
1998 | カンゾー先生 監督・脚色 | ||||||||
1997 | うなぎ 監督・脚色 | ||||||||
1989 | 黒い雨 監督・脚本 | ||||||||
1987 | 女衒 ZEGEN 監督・脚本 | ||||||||
ゆきゆきて、神軍 企画 | |||||||||
1986 | 君は裸足の神を見たか 製作 | ||||||||
1983 | 楢山節考 監督・脚本 | ||||||||
生きてはみたけれど 小津安二郎伝 出演 | |||||||||
1981 | ええじゃないか 監督・原作・脚本 | ||||||||
1979 | 復讐するは我にあり 監督 | ||||||||
1978 |
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1976 | 青春の殺人者 製作 | ||||||||
1970 | にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活 監督・脚本 | ||||||||
1968 | 神々の深き欲望 監督・脚本 | ||||||||
東シナ海 企画・原作・脚本 | |||||||||
"経営学入門"より ネオン太平記 脚本 | |||||||||
1967 | 人間蒸発 監督・企画 | ||||||||
1966 | 「エロ事師たち」より 人類学入門 監督・脚本 | ||||||||
1964 | 赤い殺意 監督・脚本 | ||||||||
1963 | にっぽん昆虫記 監督・脚本 | ||||||||
競輪上人行状記 脚本 | |||||||||
サムライの子 脚本 | |||||||||
1962 | キューポラのある街 脚本 | ||||||||
1961 | 豚と軍艦 監督 | ||||||||
1959 | にあんちゃん 監督・脚本 | ||||||||
地獄の曲り角 脚本 | |||||||||
1958 | 果しなき欲望 監督・脚本 | ||||||||
西銀座駅前 | |||||||||
盗まれた欲情 監督 | |||||||||
1957 | 幕末太陽傳 脚本・助監督 | ||||||||
1956 | 風船 脚本・助監督 | ||||||||
わが町 助監督 | |||||||||
洲崎パラダイス 赤信号 助監督 | |||||||||
1955 | あした来る人 助監督 | ||||||||
愛のお荷物 助監督 | |||||||||
1951 | 麦秋 助監督 | ||||||||
1926 | 9'15 東京で誕生 |
赤い橋の下のぬるい水 2001 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2001日本アカデミー主演男優賞(役所広司) 2001カンヌ国際映画祭パルム・ドール 2001キネマ旬報日本映画第10位 |
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ホームレスの集落を訪れた失業中の笹野陽介(役所広司)は、そこで敬愛するタロウ(北村和夫)の死に直面する。死に際のタロウから「盗んだ金の仏像を、能登半島の日本海に面した赤い橋のたもとの家に隠した」と聞いた陽介は、上尾にある赤い橋のある土地を訪れた。そこで陽介は、たもとの家に住むサエコ(清水美砂)と出会うが、彼女の体には不思議な現象が起きていた。体内に水がたまると悪いことがしたくなり、快感と共に水を放出するというのだ。それ以来、陽介はサエコから水がたまったと知らせが入ると、赤い橋の家に駆けつけるようになった。 今村昌平監督の新作と聞いて、観たくもあったのだが、何か予告で今ひとつの感触を得てしまい、劇場では逃してしまった。あの淡々としつつ、内包するメッセージ性が強い監督にしては確かに娯楽性が強い感じを受けてしまったのと、明らかにポルノっぽい雰囲気を持っているので、ちょっと腰が引けてしまった(一時期の邦画は有名女優のヌードでしか売れなかったし、それが大嫌いだったから)。 だけど、実際観てみると、なんだかんだ言って、やっぱり監督らしい作品に仕上がっていた。こう言うのも結構良いじゃないか。 それにしてもこう言った作品にはよほど役所広司は相性が良いらしく、本作でもしっかり主演を張っていて、ますます芸風を広げた感じ。オチも良し。 実際こんな女性がいたら、相当苦労しそうではあるけどね(監督もその点が気になっていたそうだが、映画を観た人から本当にそれがあることを聞かされたとか)。 そうそう。今年のノーベル賞受賞ですっかり有名になったカミオカンデが出てたのは、ポイントかな? |
カンゾー先生 1998 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1998日本アカデミー主演男優賞(柄本明)、助演女優賞(麻生久美子)、新人俳優賞(麻生久美子)、作品賞、助演男優賞(世良公則)、監督賞、脚本賞、音楽賞、撮影賞、照明賞、美術賞、録音賞、編集賞 1998キネマ旬報日本映画第4位 1998毎日映画コンクール日本映画優秀賞、音楽賞 1998報知映画主演男優賞(柄本明)、助演女優賞(麻生久美子) 1998ヨコハマ映画祭最優秀新人賞(麻生久美子) |
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終戦を間近に控えた1945年。岡山の開業医赤城(柄本明)は、無医村の多い瀬戸内を走り回り、患者を診ていた信用の厚い医師だった。だが患者を誰でも"肝臓病"と診断することから人々から"カンゾー先生"と揶揄されていた。そんな赤城の下に看護婦ソノ子(麻生久美子)がやってくる。訳ありの彼女をそのまま看護士として受け入れる赤城だが… 坂口安吾の短編をベースに、医者だった監督の父親をモデルにして作り上げた監督晩年の作品。 今村監督も他の巨匠同様、晩年の作品はかつてのソリッドさがなりを潜め、円熟の境地に至った感がある。 だけど、それは決して悪いことではない。事実今村監督が世界的に評価されるようになったのはこの辺になってからで、作品に込めた批判精神が薄まってくれたお陰で物語が良い具合に引き締まってくれたため。 むしろようやく晩年になって一般向けになったとも言える…かつての作品があまりにきつすぎたんだな。 本作は坂口安吾の短編を映画化したものだが、あの短い作品をよくぞここまで膨らませた。他人の作品をベースにして、完全に自分の作品にしてしまった。 元々今村監督は太平洋戦争時代の日本を描く事に情熱を傾けていた傾向があったが、昔の作品のように厳しさを前面に出すのではなく、むしろ厳しさをくるんだ優しさの方が目立つ。 そこに存在する人々の心の温かさ、人を癒すことを自分の楽しみにして突っ走る医師の一種の狂気をはらんだ優しさ、そんな人々を黙って見つめる自然。全部が融合して柔らかなタッチに結実している。 そしてそんな人々の思いを踏みにじる権力のあり方も正面から描いており、今ではなかなか作りにくくなってる反戦映画としてちゃんと作られているのも好感度高い。 全般的にとてもバランスの良い作品なので広くお薦めできる。 ちなみに本作のオリジナルでは3時間あったそうだが、このくらいの長さに縮めてくれて、ようやく普通と言ったところか。 |
うなぎ 1997 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1997日本アカデミー主演男優賞(役所広司)、助演女優賞(倍賞千恵子)、監督賞、作品賞、主演女優賞(清水美砂)、助演男優賞(柄本明)、脚本賞、音楽賞、撮影賞、照明賞、美術賞、録音賞、編集賞 1997カンヌ国際映画祭パルム・ドール 1997ブルーリボン主演男優賞(役所広司)、助演女優賞(倍賞美津子) 1997日本映画プロフェッショナル大賞第6位 1997キネマ旬報日本映画第1位 1997毎日映画コンクール日本映画優秀賞、監督賞、助演男優賞(田口トモロヲ)、助演女優賞(倍賞美津子) 1997報知映画主演男優賞(役所広司)、助演女優賞(倍賞美津子) |
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うなぎ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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当初タイトルは原作と同じく『闇にひらめく』だったが、製作発表の記者会見で監督が「本当は『うなぎ』がいい」と発言したことで、奥山プロデューサが即決。 初の親子競作(天願大介は脚本)。以降天願大介は今村映画の脚本に常に参加している。役所広司が刑務所から出る時に口ずさむのは「夜霧よ今夜もありがとう」。 |
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黒い雨 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1989日本アカデミー作品賞、主演女優賞(田中好子)、助演女優賞(市原悦子)、監督賞、脚本賞、撮影賞 1989カンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞、パルム・ドール 1989ブルーリボン主演女優賞(田中好子) 1989キネマ旬報日本映画第1位 1989毎日映画コンクール日本映画大賞、女優主演賞(田中好子)、美術賞 1989報知映画主演女優賞(田中好子) 1989ヨコハマ映画祭第10位 1990インディペンデント・スピリット外国映画賞 |
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井伏鱒二原作の映画化で、今村監督は20年温めていた企画という。明確な反戦主張はないが、その姿を見るだけで充分 そもそもこの作品は浦山桐郎監督が映画化したがっていた作品。カラーパートをつなぐように制作したが、監督が気に入らないと言うことで全編モノクロになった。 |
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ええじゃないか | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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幕末の群集心理を凄まじいパワーを描く。国会議員の河野洋平が出演して話題になる。 群衆が放尿するシーンは即興で決めたそうだが、当然役者連中は猛反発。その中で田中裕子だけがそれを了承し、結局他の役者も認めたとか |
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復讐するは我にあり | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1979日本アカデミー作品賞、助演女優賞(小川真由美)、監督賞(今村昌平)、脚本賞、撮影賞 1979ブルーリボン作品賞、助演男優賞(三國連太郎)、助演女優賞(倍賞美津子)、監督賞(今村昌平) 1979キネマ旬報日本映画第1位 1979毎日映画コンクール日本映画優秀賞、脚本賞 1979ヨコハマ映画祭脚本賞、主演男優賞(緒形拳)、第4位 |
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熱心なカトリック信者の家庭に生まれ、自身も神学生だった榎津巌(緒形拳)は戦争を通して父と神に絶望し、次々と凶行を繰り返す凶悪犯になっていた。あたかも警察をあざ笑うかのように堂々とした態度で捜査を混乱させ、東京、静岡、九州へと犯罪行を続けていく。巌の父鎮雄(三國連太郎)と妻加津子(倍賞美津子)は、カトリック信者として巌に罪を償わそうと、積極的に捜査に協力するのだが、巌自身はその二人をこそ、目の敵にしていた… 佐木隆三による直木賞受賞のノンフィクション作の映画化作品。5人を殺害し、日本全国を逃げ回った犯罪者西口彰の半生が描かれるが、実に9年ぶりとなる(フィクション作としては11年ぶりとなる)今村昌平監督の手によって極めて生々しく、怨念まで感じさせられるピカレスク・ロマン作品へと仕上がった。この映画を撮るために今村監督は全ての現場を歩いて調査してから撮影に臨んだ。 凄まじいばかりの男の半生を描いた作品で、主演の緒形拳、助演の三國連太郎の演技の巧さもあって、描写的には文句ない作品に仕上がってる。更に周りを彩る女優人も体当たりの演技。特にキャラに関しては凄いし、ラストのストップモーションを初めとし、ダイナミックな演出も映える。今村監督の追求テーマとも言える、人間の欲望の表現そのものを叩きつけた。 ただ、私に関しては、演技の巧さは認めるし、ダイナミズムも凄いのだが、本作は生理的に受け付けなかった。私は家族崩壊を描く作品が苦手って事もあるんだろうが、多分どこかでボタンが掛け違えられてしまったのだと思う。基本的には高く評価できる今村作品の中でも、本作に関してだけは、どうにも。と言った感じ。そう言う意味では結構残念な作品だったかな? しかし、こんな危険な人間にほいほいついて行く女性がこんなにいるってのは不思議な話だ。危険な男こそ魅力的なんだろうか? 尚、本作は今村昌平監督によって映画化されているが、それに至るまでにはかなり難航したらしい。実は原作者の佐木は映画化の際、今村昌平だけでなく、黒木和雄、藤田敏八、深作欣二の三人にも監督の口約束をしてしまっており、今村監督が映画化するとニュースが流れた時には三人からクレームがついてしまったのだ。佐木は今村プロに映画化権の解約を要請するが断られ、最終的に今村監督作となったという経緯を持つ。 助監督に新城卓。 |
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神々の深き欲望 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1968キネマ旬報日本映画第1位 1968毎日映画コンクール脚本賞、男優助演賞(嵐寛寿郎) |
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南洋にある、古くからの伝統と神話に彩られたクラゲ島。神々を畏れる一見素朴な島民だが、迷信で20数年前の凶事を兵隊から帰った太根吉(三國連太郎)の乱行として、根吉を鎖でつないで延々重労働を課すという事をしていた。その頃、東京から製糖会社の技師刈谷(北村和夫)が、水利工事の下調査に訪れていた。島民の中には、文明を取り入れようという一派と、逆に伝統を守ろうとする一派とが出来上がっていく… 今村昌平監督が元々『禁じられた海』という題で企画を出して流れてしまった脚本を舞台劇『パラジ 神々と豚々』の舞台を経て、更に数々の制作上の難点を超えて作り上げた渾身の作。 近代化と伝統を守る事。相反するこの二つの方向性によって文明は進んできた。因習に囚われることを「前近代的」と断定するのは乱暴にせよ、あまりに進みすぎる近代化も怖いところがある。ようやくそんな事が考えられるようになった時代に本作は製作された。そしてここにはその両極端さがまざまざと演出されているのは確かな話で、日本の社会に根付く原始的な信仰や、日本民族の根源的な性の問題、資本主義社会の矛盾をえぐり出す事に成功した作品。 その事をモティーフにレビューを書いていくつもりだったのだが、なんかそれは、考えれば考えるほどにずれていく気がした。本作には社会的な問題は確かに存在はする。しかし、本当にそれが今村監督の目的だったのだろうか? 少なくとも、今村監督の立場は、近代化礼賛で差別社会の撤廃でも無ければ、近代化によって汚されてしまう文化を擁護する立場にもないと思う。画面に現れるのはその両極端な姿であり、どちらかに荷担しようと言う演出はあまりなされていない。むしろこれを観ている側が勝手に受け取ってくれ。と言う投げ出し的な感覚さえ覚えてしまう。 しかし、そうなると一体何が狙いだったのだろう? そう考えた時にタイトルに気付いた。『神々の深き欲望』… 日本映画の偉大な監督の中で、人間の欲望を描くと言う意味において、今村監督は抜きんでた監督である。監督の作る作品には数多くの欲望をモティーフにしたものがある。しかも、それらの欲望は決して秘められることがない。それが性に対するものであっても、富に対するものであっても、とにかくストレートに、開けっぴろげに描かれていく。 あるいは今村監督、文明や文化というのも「欲望」というくくりで考えているんじゃなかろうか? 性的な意味での欲望を島民の暮らし、就中根吉とトリ子の関係において、そして金銭的な欲望を刈谷を通して文化的な暮らしとして。そしてその二方向の欲望の結果とは…と考えていたのかも知れない。 結果として文明化を押しとどめることは出来ないんだけど、しかし、古き神々の欲望は決して無くなることはない。それが良いか悪いかはともかく。今村監督は多分最初から結論出来るものじゃない。と言うスタンスで作ってきたんじゃないだろうか?古い価値観を描くように見せて、実は本作は現代における共同体を描こうとしたかのようにも思える。 3時間を超える長丁場の後で、あの釈然としないラストシーンには賛否両論あるだろうが、逆に視聴者に考えさせる。と言う意味ではかなりどしっとした感触を与えてくれる作品でもある。 高く評価された本作ではあるが、長期の撮影が祟り、今村プロダクションは借金を抱えることになり、折からの映画産業の斜陽化もあり、今村監督は本作以降しばし潜伏期間をおかざるを得なくなったとされる。 後で知ったが、原作戯曲には東京で生活するクラゲ島出身者が、そこから村のあり方を批判的に観ると言う視点があるそうで、そうすれば文明批判文か批判双方の観方ができるため、大分分かりやすくなったかとも思う。ただ敢えてそれを取らなかったために本作は謎めき、特別な映画となり得たとも言える。 |
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人間蒸発 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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今村プロ第2回作品。主演の女性については本当に隠し撮りまでしており、試写を観た彼女は「プライバシーの侵害」と雑誌に訴える。最後のどんでん返しは、終わりが見えなくなった今村監督による苦肉の策だったとか 婚約者が失踪した女性の恋人探しの旅で、ドキュメンタリーと思わせておいて、突然それを打ち崩すなど、かなり挑戦的な作品 上映が日活になったのは今村監督の希望による。恋人が蒸発してしまった若い女性の恋人探しを描いたドキュメンタリー・タッチの作品 ATG初作品だが、上映そのものが日活が担当する |
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「エロ事師たち」より 人類学入門 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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赤い殺意 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1964ブルーリボン助演男優賞(西村晃) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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夫の吏一(西村晃)のいない夜、強盗によって乱暴されてしまった貞子(春川ますみ)。吏一に何も言いだせぬまま、死ぬことまで考えていたが、自分を見る吏一の目が何も見ていないことに気づかされる。その時から彼女が見る夫は吝嗇で小心な夫を見る目に変わっていく… 藤原審爾原作小説を今村昌平監督が映画化。前作『にっぽん昆虫記』とは違った意味での女性の強さを描いた作品。女の強さをひたすらに描き続けた今村監督らしい作品だが、それまでに確立していた重喜劇とは一線を画すひたすら重い作品に仕上がっている。 女の強さと言っても様々。男社会の中で自分の才覚を頼りに隙間的産業から身を起こした『にっぽん昆虫記』のとめのような生き方もあるが、叩き潰され続けた普通の主婦が、本当の生き方を見つけていく姿も、やはり強さだろう。本作はイプセンの「人形の家」を思わせるある種のリアリティを感じることが出来る。けっしてそれがプラスの意味での“強さ”ではないにしても… そもそもこれは今村監督が昔から作りたがった作品らしく、その分気合があったのだろう。ただ、気合が入りすぎたか、観ていてきついだけの作品になってしまった感じ。『にっぽん昆虫記』のような、割合あっけらかんとした作品を期待していると、かなり裏切られる。特に不倫ものとかの作品が苦手な私には物語展開がちょっときつすぎた感じ。観終わってどっと疲れた。 この映画を観た藤原は、自分の書いた小説とはあまりにも違っていて驚いたそうだが(舞台は東京だったが、ここでは東北となっている。これは今村監督が田舎に対する憧れから来ているらしい)、逆にこれで新しい小説のインスピレーションが湧いたという。 主人公の春川ますみは元日劇のヌード・ダンサー。監督のごり押しで主役に抜擢される。息子役の日野俊彦は地元の少年だが、本作の出演で舞台に目覚め、後に舞台俳優俳優となる。 |
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にっぽん昆虫記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
1963ブルーリボン作品賞、主演女優賞(左幸子)、監督賞(今村昌平)、脚本賞 1963キネマ旬報第1位 1963毎日映画コンクール監督賞、女優賞(左幸子)、音楽賞 1964ベルリン国際映画祭女優賞(左幸子) |
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農村でふしだらな女性えん(佐々木すみ江)から生まれたとめ(左幸子)は、父親の(色々な意味での)愛を受けて成長した。結婚に破れ、製紙工場に働きに出るも愛人にそそのかされた組合運動のお陰で村にいられなくなってしまう。やがて東京に出たとめは、文字通り体をなげうって生活を始めた…激しい女性の一生を描いた作品。 1963邦画興行成績1位。1963年公開では『天国と地獄』と評価を分け合ったと言う、この時代の邦画を代表する作品。 たまたま上京時に『豚と軍艦』と併映と言うことで拝見。今村昌平監督の作品というのは、何を観てもジャンルが特定できない。コメディあり、淡々と人の生活を描くものあり、エロチック路線あり、そして本作のように激しすぎる人間の生を描くのあり。特に本作は監督のフィルモグラフィの中では代表作の一本に挙げられるはずだが、それに固執することもない。一言で言ってしまえば、現在に至るもチャレンジャー精神を決して失わない監督であり、その姿勢には頭が下がる。 そう言う訳で本作も説明が難しい。何せ現時点で私には監督の視点が見えないのだ。一人の、欲望に素直な女性を描くことで雑草のように生きる庶民を礼賛しているのか、それともその生き方に嫌悪を覚えているのか…突き放したような視点で描かれる本作は、形は随分違っているとしても、これも和製ヌーヴェル・ヴァーグの一つの形なのかも知れない(事実自分の父親に乳を含ませるシーンは、トリュフォーに多大なショックを与えたと言われている)。少なくともはっきりしているのは、本作は無茶苦茶なパワーを持っていると言うことだけ。 結局私はこのパワーに翻弄されっぱなしで、圧倒されたまま観終えてしまい、今に至るも本作をどう扱って良いのか考えあぐねてる。これはコメディだと言ってしまえるし、風刺とも言える。精神的なホラーとさえ言ってしまえる作品としか…ただ、これだけ性描写が多い割りにはエロチックさは何故か感じなかったな。 敢えて説明を付けるのならば、本作の主人公のとめは、本当に虫の生態そのものってことなのか?彼女はただ生きようとしていた。人間にとって最も根源的な欲求を満たすために。 その生きようとするパワーは一人だけの世界なんだな。娘に対しての態度は最初から一人の他人に対する態度のようだったし、彼女ほど、生まれ落ちた瞬間から、人間は一人で生きていくものだと言うことを認識していた人間はいなかっただろう。そう言う育ち方をしたために娘の方が極端な生き方に走ったのは皮肉になってる。 そう言えば今村監督の作品にはやたらエロが多いんだけど、何を観てもイヤらしさというのはあんまり感じない。性というものに対し、人間の営みの一つとして突き放した立場に立っているからだろうか? このレビューを書いて後、今村監督の筆による「映画は狂気の旅である」を読む機会を持ち、ようやくこの作品における監督の視点が理解できた。本作は今村監督の実験作品の一本で、本人の言によれば、「事実だけ、結末だけが何のつながりもなくただ並んでいるようなのっぺらぼうなシナリオを作ってみたら面白い」と考えたからだそうだ…視点が分からないも道理だよ。視点そのものが無いように作ってるんだから。あと、この本は作品の苦労話なども書いてあって面白いのだが、この撮影時左幸子は身ごもっており、寒村での撮影中、とうとう倒れてしまい、村の保健婦さんを呼んできたところ、「この村の嫁はこのくらいで仕事は休まない」と言われ、そのまま撮影を続行したとか…鬼の今平らしいエピソードだ。 |
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豚と軍艦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1960キネマ旬報日本映画第7位 1961ブルーリボン作品賞 |
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戦後の混乱期の横浜。水兵相手の売春宿でぼろ儲けしていたものの、警察の取締強化ですっかり弱ってしまった日森一家は新しい金づるをアメリカの海軍基地からただ同然で払い下げられた残飯を使って豚を育てようと考える。それででっち上げた“日米畜産協会”の責任者に選ばれたちんぴらの欣太(長門裕之)は恋人の春子(吉村実子)に格好良い所見せようと、いっぱしの実業家気取りで舞い上がったていたが、春子はそれよりもこんな町を出ようと欣太に訴えかけ続ける欣太の。兄貴分で日森一家の鉄次(丹波哲郎)もやる気を起こしていたが、胃病を病んでしまい、すっかり気弱になってこれまでの悪行の数々を反省するようになっていった… 芸術的作品から下世話な作品、艶物までと幅広い作風を持つ今村昌平監督によるコメディ調作品(興行的にはあまり奮わず、監督は3年間干されることになるのだが)。そもそも先の『にあんちゃん』で芸術祭賞を受賞し、それを恥じたために制作したというが、本当にぶっ飛んだ内容で、たたみかけるようなパワーを持った作品に仕上がってくれた。とにかく無茶苦茶笑えた。こう言うのを劇場で観られるのは本当に幸せな気分にさせてくれる。 内容で言うなら、本作はいくらでも暗く仕上げることが出来るはずの素材を使っている。ヤクザ同士の抗争と、それによって先細りとなって、その流れを止めることが出来ない組織。体を売って生活していかねばならない売春婦達の哀しみ。利用されるだけ利用されたら、簡単に捨てられる下っ端の悲惨さ。こう言った題材を使っていながら、しっかりこれらをコメディに仕上げることが出来る今村監督の技量には驚かされるばかり。 これを可能としているのは、今村監督は雑然とした群衆を描くことが抜群に上手いと言うことが挙げられよう。どんな底辺にあろうとも、否、底辺にあるからこそどんなことをやっても生き抜いてやろう!という意気込みに溢れた人間達が織りなすドラマは圧倒されるほど。特に売春宿の女性達の力強さと、健康な肉体美は何とも(苦笑) こんな世界だからこそ、気弱になった人間はあっという間に落ちぶれてしまう。攻めを続けている内は羽振りが良くても、一旦守りに入ってしまうと叩かれっぱなしになり、更に自分の人生に疑問を持ってしまうと、滑稽な程に情けなくなってしまう。それを端的に示したのが丹波哲郎演じる鉄次の描写。これは本編とは基本的に関わりなく展開していくサブストーリーなのだが、雑多な力強さが全編を覆っているからこそ、その描写が映える。下手すればカニバル描写にまで陥ってしまうネタを笑いにしてしまう力業も素晴らしい。 キャラ描写に関しては完全に丹波に喰われてしまった感があるものの、何の能力もないのにテンションだけは無茶苦茶高い長門裕之と、彼を愛してはいるものの、それを醒めた目で見ている吉村実子の対比も見事…とは言え、改めて考えてみると、やっぱり丹波なんだよなあ。後年そのアクの強さを逆手に取られてコメディ役者としても認められるに到るが、この時点では渋さで売ってたはずのキャラにあそこまで情けない役を演らせるとは。しかもそれらがことごとくはまってる。「業が強すぎてとても死にきれねえ」と叫ぶのは、それだけで「うんうん」と頷いてしまえるほど(2006年丹波哲郎が永眠した時、思い出したのがこの台詞だった)。 ちなみに本作でデビューを飾った吉村実子は当時女優デビューしていた芳村真理の妹だが、それとは全く別に、活発な素人を探していた今村監督が偶然見つけ出したとか。 ところで本作には面白い思い出がある。 本作を観たのは都内で、たまたま上京時に、折角来たんだから何か面白いリバイバル上映してるところないか?と探して見つけた映画館でだった。 で、たとえ映画館であっても、笑える所は思いっきり笑うのが私のスタンス。げはげはと大笑いし、周囲の人達に多大な迷惑をかけただろうと思われるのだが、「ああ、楽しかった」と席を立った瞬間、隣の席から「甘崎さん?」と声をかけられた。同じ映画館の、しかも隣席に知り合いが座っていたとは…この偶然。全く気づかなかったのが笑える。 |
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「野郎。頭の方から食いやがったな」 |
にあんちゃん | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1959ブルーリボン主演男優賞(長門裕之)、助演男優賞(小沢昭一) 1959キネマ旬報日本映画第3位 1959毎日映画コンクール女優助演賞(吉行和子)、録音賞 |
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果しなき欲望 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1958ブルーリボン助演女優賞(渡辺美佐子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1955年8月15日にある町に集まった5人の男女。薬剤師の中田(西村晃)、大阪の中華料理店を経営する大沼(殿山泰司)、ヤクザものの山本(加藤武)、中学校教師の沢井(小沢昭一)。彼らは終戦の日に軍医橋本中尉が埋めたという時価6000万円にも上るモルヒネを掘出すことだった。そこに橋本中尉の妻と称する志麻(渡辺美佐子)が加わり、5人はかつて病院のあった場所に向かうが、そこには既に肉屋が建っていた。地下にあるというモルヒネを掘り出すため、彼らは不動産屋名義で近くの家を借り受け、トンネルを掘ることにする。ところが家主の一人息子の悟(長門裕之)はその家に集まった男女がなにやらおかしいと感づくのだが… この年に監督デビューを果たし、立て続けに作品を投入していった今村監督だが、僅かな期間で自分の作風を完全に確立させた。本作はまさに今村監督だけにしか作れない重喜劇をしっかり演出している。 本作欲に目が眩んだ男女の欲望そのものを描いた作品で、強烈な風刺性を持ったブラックジョーク作品に仕上げられる。欲望むき出しの人間はどれだけ一生懸命になっても、否、一生懸命になればなるほど滑稽になるというのはまさに今村監督お得意の素材かと思われるが、実際には監督の“重喜劇”と呼ばれる一連の作品は本作から始まるのであり、この作品から今村監督のペースが作られていったのだという…ついでに言うなら、汚水垂れ流しの川に何度も渡辺美佐子を突き落とすため、「鬼の今平」のニックネームが付けられるようになったのも本作から。 地下に安置されているお宝を得るためにトンネルを掘るというのは、それこそ古典的シチュエーションで(でも本作の場合はトンネル掘りの傑作『大脱走』(1963)作られる前だが)、今でこそ使い古された感があるが、このシチュエーションの醍醐味は、遅々として進まない穴掘りの前に、どんどん人間関係が変化していくという所にある。そこに事情を知らない人間が感化されて、だんだんみんなおかしくなっていく。話自体は極めてシンプルながら、男女それぞれが欲望をむき出しにしてぶつかっていくので、話は一筋縄ではいかない。そこで登場するのが第三者であるはずの悟なのだが、それが若さか、すっかり周囲に感化されてしまい、明確な対象のないまま欲望だけを剥き出しにしていくようになる。 本来視聴者の立ち位置であるはずの悟までがおかしくなった結果、物語は暴走し、もの凄いパワーを持ったまま疾走していく。裏切りは当たり前。あっけなく仲間は殺されていくわ、たとえ人殺しをしても大儲けの考えの前にそんなものはあっけなく霧散していくわ…映画そのものの持つパワーに圧倒されっぱなしだった。 カメラワークも実験的な手法が多用されていたが(画面の上下分割は監督のアイディアを名カメラマン姫田真佐久が受けてによるもの)、これが画面の不安定感を増し、暴走感を増している。 当時の今村監督作品の常連である長門裕之が爽やか(?)ぶりを披露しているが、本作は渡辺美佐子の怪演ぶりを特筆すべきだろう。他の作品では見ることの出来ない妖艶ぶりは、今村監督の鬼の如き指導の賜物だとも言える。 正直、これだったら最高点をあげても良い作品なのだが、ただいただけないのがラスト。全て水に流しておしまい。では盛り上がった気分に収まりがつかない。同じ終わらせ方をするにしても、もうちょっと工夫してくれれば良かったのだけど、締めの部分で尻つぼみになったのは残念。3年後の『豚と軍艦』はその辺が上手くできていたから、監督も成長していたって事かも知れない。 |
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盗まれた欲情 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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地方のドサ回り山村民之助(滝沢修)の一座。一座の演出家国田信吉(長門裕之)は芝居に打ち込んでついには大学を中退したという情熱家で、自分の新解釈により演し物を上演しようと夢みていた。だが、地方巡業の現実を思い知らされ、その低俗さに嫌気を覚え始めてもいた。一方、そんな彼に民之助の娘千鳥(南田洋子)と、その姉で看板スター山村栄三郎(柳沢真一)の妻千草(喜多道枝)は二人で思いを寄せており、ある晩、千鳥は信吉に抱かれる。だが、それを知った千草は… 今東光の「テント劇場」を、鈴木敏郎名義で山内久が脚色したもので(山内は当時松竹に籍があったため、日活作品を書く場合変名を使っている)、今村昌平監督の第一回作品。そもそも学生演劇出身の今村監督だけに、色々な自分自身の体験も入っているのだとか。 話自体は通俗なメロドラマで、こういうドロドロした作品は本来好きじゃないのだが、何故か今村昌平監督の描く場合、逆にそういった部分が妙にはまる。 何でだろう?と考えてみたのだが、今思いついたのは、今村監督の描く男女関係には、見栄が無い。と言うことだからかもしれない。確かに色々な下心を持った人間は登場するし、女も男も性を武器のように使っていたりもする。しかし、それを変に隠すことなく、極めてストレートに出している。そこには駆け引きもなければ、立派なお題目もない。ただ、私はこうしたいからする。受ける方も、その思いを真っ向から受け止める。そこには見栄や装飾を全てとっぱらった男と女の関係がそこにはある。変におしゃれにしてしまうと、そのやりとりは虫ずが走り、同時に生々しすぎるとやっぱり引く。その辺のさじ加減を絶妙に捉えているのが今村監督なのではないだろうか?更にそれをコメディタッチにくるむことで軽快さと深刻さという両極端部分を上手く融合させている。やっぱり凄いと思う。 そのバランス感覚が全編に渡って展開していくためにこそ、どんなに生々しくても、楽しく観ることが出来る。私は先に『豚と軍艦』の方を観ていたが、そのでのパワーは既にデビュー作から作られていたのだと思うと興味深い。 私が知っている時代の長門裕之はすっかり脂が抜けきっていたと思うのだが、ここでのパワーは凄いなあ。同じ映画で真剣さとコミカルさと艶っぽさとを全て兼ね揃えていた希有な存在だったんだな。それを引き出した今村監督も改めて凄い。 |
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