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2011 | ||
2010 | ||
2009 | ||
2008 | ||
2007 | アルゼンチンババア 監督・脚本 | |
2006 | ||
2005 | 10minutes diary 監督 | |
2004 | ||
2003 | ||
2002 | さゞなみ 監督・脚本・編集 | |
2001 | ||
2000 | ||
1999 | ||
1998 | ||
1997 | 鉄塔武蔵野線 監督・製作・脚色・編集 | |
1996 | ||
1995 | ||
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | 東京の休日 監督・脚本 | |
1990 | ||
1989 | ||
1988 | ||
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1955 | 8'3 東京で誕生 |
タイトル | |||||||||||||||||||||||
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アルゼンチンババア | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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涌井家は母の良子(手塚理美)を中心とし、墓石彫り職人の父悟(役所広司)と高校生のみつこ(堀北真希)の三人家族。だがその中心だった母が長い闘病生活の末に息を引き取った。そして母の死を受け入れられない悟はその日から突然姿を消してしまった。それから半年。たった一人でアルバイトしながら通学しているみつこの耳に、町はずれの古ぼけた小さなビルで暮らしているユリ(鈴木京香)通称“アルゼンチンババア”の所に悟がいるという連絡が入る。みつこは父に会うため、アルゼンチンババアの屋敷を訪ねるが… よしもとばななの同名小説を映画化。著者らしいファンタジックな、それでどこかちょっと世間からずれた家族関係が描かれる。原作は未読ながら、なるほど。と思わされる内容に仕上がっていた。著者の作品には独特の暖かさがあるが、それらは“癒し”の過程を丁寧に描いているからであろう。心が傷つけられた人間同士が寄り添っている内に、徐々にお互いに癒しを与えあっていることに気付くという過程が良い。その過程は特に教科書的という訳ではないのだが、人が癒しを与えられるというのも、それこそ人それぞれというやつだから、一律に描く必要はない。その辺の心地よさに浸りたくて、時折著者の作品をめくったりもする。 本作の場合は悟の癒しが中心だが、主人公はそれを横で見ている娘のみつこの方で、彼女自身も色々傷つけられながら、どんどんたくましく育っていく、思春期から脱しようとしている青春真っ盛りの状態。二人して現実を受け入れるまでの過程が描かれている。そしてこの二人の仲に突然現れた異物と言って良いアルゼンチンババア。超然としているように見える彼女も又、精神的に成長していく。 人間の成長というのは、“あきらめ”が付きもの。本作でも色々なものが中途半端なまま残るのだが、それらを「昔のことだ」にしてしまうこと。これが実は成長の大きな過程であるといえよう。だから曼荼羅は結局完成しないし、みつこの恋も成就しない。だけど、それらを通して又新しい目標が与えられるし、何よりそれを通して、自分が生きてきた、あるいは生きていると言うことに実感が与えられていく。 そう言う意味では原作をちゃんと咀嚼しているのは確かで心地よさを感じることが出来る。 ただ、なんか本作の場合、妙なちぐはぐさを感じさせるところがあるのは確か。 それは演出の失敗にある。 言うまでもないが、アルゼンチンババアを鈴木京香が演じたのはどう見ても違和感の固まり。こう言っちゃ何だけど、もっと色気のない、お母さんタイプの人にやらせて然りだったのでは?勿論彼女の演技力が悪いとは言えないし、彼女なりの良さというのもある。だけど、人から嫌われる人間にはどうにも見えないのはやっぱり致命的なのでは?上手さとは別に合わない役というのがやっぱりあるのだ。 それに全体的に黄色がかった演出はアルゼンチンを意識してのことだったのかも知れないけど、話自体が妙に軽めに見えてしまう。それに臭いについても、全てが綺麗すぎて臭さを感じなかったのもちょっと気にかかる。全体的に明るすぎて綺麗すぎたのだな。それがかえってマイナスに働いてしまった。 この作品の場合、無名の新人に演じさせた方がむしろリアリティがあった気がしてならない。 |
鉄塔武蔵野線 1997 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1997日本プロフェッショナル大賞10位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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両親の離婚で長崎へ引越す前の最後の夏休み。小学6年生の見晴(伊藤淳史)は近所の鉄塔に付けられた「武蔵野線71」と書かれたプレートを見つける。鉄塔を逆に辿ったら一体どこに行き着くのか。そんな疑問を持った見晴は友達で2歳年下の少年アキラ(内山眞人)を誘って武蔵野線を逆に辿ってみることにする…ひとつ夏の少年達の冒険とその顛末を描く。 先日「鉄塔マニア」を自称する友人と久々に会ったのだが、その時に私に「是非観てくれ」と言われてオリジナルの小説と共に借りた作品。最初は小説版の方から読んだのだが、これは驚いた。これがファンタジーノベル?と言う定義はさておき、凄く楽しかったし、確かにこれはジュブナイルとは異なった形でのファンタジーがそこには描かれていた(その辺の思い入れは『ジュブナイル』(2000)で細かく述べさせてもらった)。特に私の田舎には「かつて東洋一」と称された鉄橋があり、そこでの遊びは楽しかった。川で魚取ったり、石のゴロゴロした川辺で三角ベースをやったり、時に鉄橋を見上げて、あそこを足で渡ってみたい(あるいは誰々が渡ったことがあるという噂)に花を咲かせたもんだ。身近にそう言う巨大なオブジェがあるというのは、一種の異空間に私(達)を誘いこんでくれるものだが、鉄塔とは思いつかなかった。確かにこれも巨大なオブジェであり、そう言う意味では凄く楽しいものだ。しかし、殆どこれまで意識したこともなかった。小説版のお陰で鉄塔に「男性型」と「女性型」なるものがあることを知ったし、蘊蓄も楽しかった。妙にこれから意識しそう。 子供の見るそう言う特殊な建造物は探索の対象であると共に畏怖の対象でもあった。そんな思いが本当に溢れた作品だった。小説版の主役は、やはり鉄塔だったのだ。 その後で本作を鑑賞。 確かに物語は原作に沿ってるし、子役の伊藤淳史(元チビノリダーだとか)と内山眞人のコンビもノスタルジックな感じ。昔懐かしいクソガキっぽくてなかなかよろしい。 でも、観てる内になんとなく違和感が…なんだろう? 観終えて気が付いた。小説版は「鉄塔を追う」話だったのだが、映画版は「鉄塔を追う子供を追う」話に変わっていたのだ。画面には鉄塔の巨大感はなく、むしろ二人の少年の目標として存在するオブジェになってた。「夏の一日の子供の姿を描く」ことでは成功してるが、「鉄塔を描く」演出はもうちょっと。と言ったところ。 出来るはずだったんだよな。単にオブジェとしてではなく、本当に威圧感を持って覆い被さる、あたかも宗教的な存在である鉄塔を目標とするような、そんな姿を描くことができたような気がする。 尤も、物語としては良かったし、それになんだかご都合主義的な小説版の終わり方を、こんな風に持ってきたのは大正解。後に残る余韻がとても心地良い作品となった。 出来ることなら、こちらを観てから小説版を読みたかった。もっと素直に楽しめただろうと思える。 |