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2023 | ゴジラ-1.0 監督・脚本・VFX | ||||||||
2022 | ゴーストブック おばけずかん 監督・脚本・原案・キャラクターデザイン・VFX | ||||||||
2021 | キネマの神様 VFX監修 | ||||||||
2020 | STAND BY ME ドラえもん 2 共同監督 | ||||||||
2019 | ルパン三世 THE FIRST 監督・脚本 | ||||||||
ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 総監督・脚本 | |||||||||
アルキメデスの大戦 監督・脚本・VFX | |||||||||
2018 | |||||||||
2017 | DESTINY 鎌倉ものがたり 監督・脚本・VFX | ||||||||
2016 | 海賊とよばれた男 監督・脚本 | ||||||||
2015 | 世にも奇妙な物語 25周年記念!秋の2週連続SP〜映画監督編〜 監督 | ||||||||
2014 | 寄生獣 完結編 監督・脚本・VFX | ||||||||
BUMP OF CHICKEN "WILLPOLIS 2014" 劇場版 監督 | |||||||||
寄生獣 監督・脚本・VFX | |||||||||
STAND BY ME ドラえもん 共同監督・脚本 | |||||||||
2013 | 永遠の0 監督・脚本・VFX | ||||||||
2012 | |||||||||
2011 | ALWAYS 三丁目の夕日'64 監督・脚本・VFX | ||||||||
friends もののけ島のナキ 監督・脚本 | |||||||||
2010 | SPACE BATTLESHIP ヤマト 監督 | ||||||||
2009 | BALLAD 名もなき恋のうた 監督・脚本・VFX | ||||||||
2008 | K-20(TWENTY) 怪人二十面相・伝 脚本協力・VFX協力 | ||||||||
2007 | ALWAYS 続・三丁目の夕日 監督・脚本・VFX | ||||||||
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2006 | 時代を越える溝口健二 出演 | ||||||||
2005 | ALWAYS 三丁目の夕日 監督・脚本・VFX | ||||||||
2004 | |||||||||
2003 |
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2002 | Returner リターナー 監督・脚本・VFX | ||||||||
2001 | |||||||||
2000 | ジュブナイル 監督・脚本・SFX | ||||||||
1999 | |||||||||
1998 | |||||||||
1997 | |||||||||
1996 | エコエコアザラクII BIRTH OF THE WIZARD SFXアドバイザー | ||||||||
1995 | エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS スペシャル・エフェクト | ||||||||
1994 | |||||||||
1993 | |||||||||
1992 | |||||||||
1991 | |||||||||
1990 | |||||||||
1989 | |||||||||
1988 | |||||||||
1987 | |||||||||
1986 | |||||||||
1985 | |||||||||
1984 | |||||||||
1983 | |||||||||
1982 | |||||||||
1981 | |||||||||
1980 | |||||||||
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1978 | |||||||||
1977 | |||||||||
1976 | |||||||||
1975 | |||||||||
1974 | |||||||||
1973 | |||||||||
1972 | |||||||||
1971 | |||||||||
1970 | |||||||||
1969 | |||||||||
1968 | |||||||||
1967 | |||||||||
1966 | |||||||||
1965 | |||||||||
1964 | 6'12 長野で誕生 |
ゴジラ-1.0 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1945年。特攻隊の敷島浩一(神木隆之介)は、特攻へ向かう途中で零戦が故障したと偽って大戸島の守備隊基地に着陸する。その夜、基地は巨大な恐竜のような生物に襲われ、零戦の機銃を撃てと言われた敷島は、恐ろしさのあまり一歩も動けず、自分と整備兵隊長橘(青木崇高)以外の守備隊の全滅を見守るしかなかった。そして戦後、東京の我が家が空襲で無くなっていることを知った敷島は、そこで機雷の除去作業という危険な仕事をしつつ、新たな生活を始めた。偶然から大石典子(浜辺美波)という女性と、彼女の連れ子を引き取ることとなり、奇妙な同棲生活を始める。そんな折、機雷除去船船長の秋津C治(佐々木蔵之介)は機雷除去ではない変わった仕事を受け、船員の敷島も同行するのだが、そこで彼が見たのは、かつて大戸島を襲った恐竜が巨大化した姿だった。大戸島の伝承から「ゴジラ」と呼ばれるようになったその生物は、東京に向けて進撃していく。 既に世界的なコンテンツとなったゴジラは、現在レジェンダリーによってキングコングと共にシリーズを担う重要キャラになっている。一方、そのゴジラが生まれた日本では、アニメーションで映画『GODZILLA』 シリーズおよびNetflixの「ゴジラSP」があったが、特撮では庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』(2016)以来全く音沙汰がなく、寂しい思いをしていた。 ただ、次に特撮版ゴジラを作るとしたら、前々から第一候補として山崎貴が挙がっており、更に山崎監督にはあまり期待できないというのが特撮ファンの共通認識だった。 確かに山崎監督は日本映画におけるVFXの第一人者だし、実際『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズというヒット作もある。ただ、これまで何作も手がけたアニメーションの実写化作品を観てみる限り、どうしても期待はしぼむ。 とはいえ、何よりゴジラだよ。観ないわけにはいけない。しかもオープニングでとんでもない高評価を得ていた。まさかあの山崎監督が傑作をものにしたのか?と逆に興味が湧き、結構ワクワクしながら観てきた。 まず一つ言えるのは、これまで散々山崎監督のことを馬鹿にしていて済まなかったと言う感情と、素直に頭を下げられる素晴らしい内容だった。ほぼ同じ事を『シン・ゴジラ』(2016)の時もやってるので、我ながら全然成長してない。 本作はある意味ものすごくオーソドックスな作りと、これまでになかった要素を取り入れたことの合わせ技で、新しい価値を作り上げた作品と言うことになる。 ゴジラに限らないが、怪獣映画の問題点は、人間ドラマとの絡みが難しいという点である。怪獣を中心にすると人間ドラマが薄くなり、一方人間のドラマを強調すると、折角怪獣を観に来たのに怪獣が出てこないと叱られる。 結果として、人間のドラマは簡素にして、その代わりに怪獣の戦いをメインにすることが多くなる。それが無難な出来というもので、特にゴジラシリーズはずっとこのパターンで作られてきた。それでも歴代の怪獣映画は人間ドラマと怪獣との戦いの融合を可能な限り何度も試みてきた歴史がある。 しかしそれを全く違うアプローチから作ってみたのが『シン・ゴジラ』(2016)だった。あの作品では人間ドラマを極限まで無くし、その代わりとして、ゴジラと戦う人間の姿を徹底して描いた。ゴジラ自体は登場しなくても、全てゴジラの対策描写で、戦い続ける人間そのものがドラマになっていたのが大きな特徴で、ゴジラの搭乗時間が少ないのに満足度は極めて高かった。 今までに無いアプローチの『シン・ゴジラ』の後を継いで作られたのが本作となるのだが、そうなるとどういう作りになるのか、相当に大変だったと思う。 そして山崎監督の出した答えは、オーソドックスな作りを極限まで突き詰めることだった。人間ドラマをしっかり作り込み、その中にゴジラを入り込ませ、その上で主人公を戦いに行かせる。物語の形式は単純だが、このバランスが難しい。 そこで山崎監督がやったことは、まずゴジラと戦う必然性を主人公に与えることだった。主人公に絶対ゴジラと戦わねばならないというモチベーションを持たせるため、時代設定を戦後に持って行く。主人公を特攻上がりの敗残兵という設定を与えることによって、彼にとって、自分の戦争を終わらせるけじめとしてゴジラを倒さねばならないという覚悟を与えた。このことによってゴジラとの戦いをこれ以上無いシチュエーションに持って行けた。トラウマを克服するストーリーとしてPTSDを使うのは最高の設定となる。しかも特攻に出ることができずに部隊を見捨てた人間が、今度は日本を救うために特攻するというのは設定としては見事な設定だ。 更にもう一点。本作はドラマ部分の作り込みがある。特攻上がりの敷島は自分自身戦後を整理できないまま疑似家族を作っていく。この辺りは『ALWAYS 三丁目の夕日』で培った監督の技量が遺憾なく発揮される。本物の家族ではなくてあくまで擬似的なものというのが特徴的で、血縁に頼らない純粋な善意による人間関係。ままごとのようでもあり、偽善的にも見えるが、逆にそれくらいに極端にすることで、超日常的なゴジラの存在が際立つ。 そしてゴジラという存在は日常を完全に破壊するだけでなく、敷島にとっては乗り越えるべき人生の節目をも意味している。敷島にとっての敗戦は惨めなもので、それをずっと引きずって生きていくが、その惨めさの一部はゴジラこと呉爾羅によって蹂躙されたという思いが強い。そのゴジラを倒すことは、過去の惨めな自分を超えることが出来るものという意識がたかまっている。ゴジラを倒すというモチベーションを持たせることで、ゴジラと戦う意味合いを持たせつつ、人生の困難を乗り越えるという意味合いを持たせることが出来た。 日常生活と非日常がちゃんとつながることで、きちんと人間ドラマを作りつつ、特撮作品としての体裁もしっかり作れたことで本作はしっかりしたバランスの上に作る事が出来たのが大きい。 ここは推測でしか無いのだが、敷島は戦争以来性的に不能状態に陥っていた可能性がある。だから本物の家族を持つ事が出来ず、ままごとのような疑似家族で満足するしか無かったが、最後にそれを乗り越えることで真の意味で脱却したという部分もあったのかもしれない。だからこそ敷島は特攻から生きて帰ってこなければならなかったし、そして敷島を待つ存在として典子は生きていなければならなかった。ラストの邂逅は物語上の必然でもあったのだ。 ゴジラに限ったことでは無いが、怪獣特撮映画での一番の問題点とは、人間ドラマと怪獣との戦いの間にストーリー上の乖離が見られてしまうことだった。特撮がどれだけ良くて怪獣パートが素晴らしくても、所詮は怪獣映画として安っぽく見られる問題点は、まさにそこにある。逆に人間ドラマを中心にしてそれに付け加える形で特撮パートを入れた作品もあるが、それらは話題になりにくい。そのジレンマをストーリー配分のバランスで乗り切れたのが本作の素晴らしいところだ。 更に新怪獣ではなくゴジラが使えたのが大きい。破壊神として、何人にも倒せない神の如き存在としてのゴジラのネームバリューは世界的に高い。それほど強い怪獣に対し、現代では無く過去、しかも敗戦国の日本がどうやって対峙するのか。タイトルにもあるがそのマイナス部分をきちんと描けたことも大きな要素だろう。 そこで終わっても良い。しかし気づかれないように最後に爆弾を仕掛けていたのも、気づく人は気づく悪意で良い感じ。最後に冷水を浴びせるような描写があるが、それでこそゴジラと言うべきなのだろう。 単純に見えるラストシーンが意外に複雑な奥行きがあるラストでもある。 そしてもう一つ言うならば、特撮の良さもあり。着ぐるみゴジラが街を破壊するシーンはこれまで散々観てきた。それはそれで溜飲が下がるし、それを観るために映画館に行くような部分もあるのだが、本作はそれ以上に水上戦が多いのが良い。船でゴジラを迎撃するために色んな知恵を絞り、色んなアイディアで対抗するのも目新しい。それ以上に水中を進むゴジラの姿が本当に恐怖そのもので最高に良い。上から見下ろして巨大な脚を下ろすゴジラも良いが、後ろから巨大な頭部が迫ってくるのは悪夢っぽくて実に良い。 本当に賞賛ばかりになってしまうが、それだけ本作が見事だったという事だ。 個人的なことを言えば、この作品だけは絶対に日比谷で観るんだと、TOHOのIMAXで拝見したのだが、これは大正解。まさしく今、隣をゴジラが歩いているという実感を持って観る事が出来た。“観る”と言うより、“見る”感触と言った感じ。とても素晴らしい時間を持つ事が出来たことも感謝である。 |
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ルパン三世 THE FIRST | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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フランスの博物館で開催されたブレッソン回顧展に予告状を送りつけ、まんまとブレッソン・ダイアリーをせしめたルパン三世(栗田貫一)だが、それを警備員に化けた女性レティシア(広瀬すず)に奪い取られてしまい、更にそこに現れた峰不二子に奪われてしまった上に銭形警部に逮捕されてしまった。すぐに脱獄したルパンはレティシアがブレッソンの血縁である事を知り、彼女の行方を追う。 最初のテレビシリーズ放映から既に半世紀近く。今も尚作られ続けている偉大なシリーズ「ルパン三世」。最近は劇場公開ではなくテレビスペシャルの方がメインになっていて、他にもオリジナル作品が時折作られるが、実際に劇場版として作られるのは久しぶりだ。 そしてシリーズとしては初となる3Dで作られること、監督は山崎貴が務めるとのこと。 これを知った時に思ったことは「無難すぎる」だった。最近昔のマンガとかテレビシリーズを映画化することが増えたが、その監督は三池崇史か山崎貴しかいないし、山崎監督が作る場合はそれなりのものを実に無難に作り上げる。 多分この程度の「無難」なものが出来上がるだろうとは思っていたが、思った通りのものが出来上がった。 これはどこからどう見てもルパン三世だし、作品に破綻もない。文句を言う筋合いはない。 文句を言う筋合いはないが、金出して観る価値があるのかどうか?というのが問題だ。 金かけて3Dにしたのは良いんだが、それに見合うだけの物語を用意できなかったことが一番の問題だ。毎年のようにやってるテレビムービーと同程度かそれ以下の脚本でしかないのに、それを見せられても何にも感想が出てこない。 3D描写もたいして印象に残らない。良く言えば自然だが、これも印象が薄い。 「無難」で「薄い」。結局これは「感想がないのが感想」という位の作品だろう。 |
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ドラゴンクエスト ユア・ストーリー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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魔物に奪われた妻を捜し求める英雄パパスの息子リュカ(佐藤健)は、父のような強い英雄になることを目標に、パパスの冒険について行った。だがこの世界に魔王ミルドラースを降臨させようともくろむ魔道士ゲマによって父は殺され、自らも奴隷にされてしまった。それから10年。命がけで脱出したリュカは、父の意志を継ぎ、母マーサを救える天空の勇者を探す旅に出る。 この夏の期待映画から一転。あのデビルマン(2004)にも互されるレベルと散々な評価を受けるに至ったフルCGアニメ作品。 この作品のベースとなったゲームソフト「ドラゴンクエストV」をプレイしたのははるか昔のことだ。丁度大学生の時に持っていたファミコンで「ドラゴンクエストIII」および「IV」をプレイしたが、私は他のゲーム機(具体的にはセガのメガドライブだが)を買っていたため、スーパーファミコンは買わず、スーファミのゲームは友人の家に行ってプレイしたり、場合によってはゲーム機の交換などをしてプレイしていた。 そんな中でプレイした一本が「ドラクエV」。借り物と言うこともあって大急ぎでプレイしたが、これまでの作品と較べて明らかに物語の質は上がっており、特に親子三代にわたる物語はかなり引き込まれたものだ。その後PS2で出た時は少々迷いながら、今度は結婚でフローラを選ぶためだけに購入を決めた。予定通りフローラを選び、いろいろと回り道も楽しみながらゆっくりと楽しめた(次にまたビアンカを次に選んでじっくり遊ぼうと思ったんだが、飽きてしまった)。 さすがに二回もプレイしたゲーム。思い入れもある作品だから、結構楽しめると思っていた。 ただ、この作品最後まで観て、自分自身の思い入れの低さというものを痛感させられた。 本作は特にドラクエVに思い入れのある人のために作られていながら、特にそのような人を狙い撃ちした地雷となっているのが特徴だ。 この夏の最低映画と言われたのは理由がある。それはドラクエ好きの人間が馬鹿にされたような気になると言うことである。 基本的に普通にドラクエVの物語をなぞった作品のように見せておきながら、ラストで大きな裏切りを行う。 それはこの世界がすべてバーチャルなもので、昔ドラクエVを楽しんでプレイした男がVR技術で甦った世界をプログラムに従って追体験していたと言うことであったことが発覚し、しかも何者かによる悪意あるバグによってバーチャル世界そのものが破壊されかかる。 ここまで見せられると、特に思い入れの強い人は大きなショックを受ける。これまで主人公に同化していた自分自身が無理矢理引き剥がされ、「お前のやってたことは無意味だ」と宣言される訳だから。多分思い入れあったらさぞ精神的にきつかろう。 ただ私の場合“多分”と推測でしか語れないのは、私自身が全くショックを受けなかったから。 あのラストの場面転換にしても「なんだよくあるメタフィクションか」だけの感想でしかない。確かに安っぽい方法だ。でも安っぽいだけでショックを受けるほどのことはない。そもそも映画ではこの手の展開は手法として確立されてるので、よくあるパターンだし、技法云々はともかく、見てる人にいかにしてショックを与えるかと考え抜いて作られたものとは理解出来た。 そして「思い入れがある人は相当ショックを受けるだろうな」と、一歩引いた目でしか見られなかった自分にも気づく訳だ。自分が思ってた以上に思い入れが低かったんだな。 だからラストのメタ構造自体は受け入れられる。特に80年代の押井作品を知ってる身としては、むしろ大変懐かしい思いになるくらいだ。「こう来るか」とワクワクしてたくらい。 だがそこで終わってしまったのが問題。本当を言うなら、この構造を取るならば、ここからが本当の物語に入らねばならないはずなのだ。 ところがあっけないほど簡単に解決してしまう。そもそもその解決策が単なるプレイヤーの思い入れで解決するわけだから、これだけ陳腐な話になるとは思いもしなかった。 プログラムが人の思いだけで変えられるなんて90年代のアニメでも「古い」と言われる展開。まさかそれから30年も経過して何にも進歩してなかったとは。脚本の脳味噌に疑問を覚えるレベルだ。2020年になろうとしている今、こんな古くさい設定出されて喜べるか!メタ構造を持つ作品だったら、30年前のものをそのまま使うのでなく、そこからもう一歩進めなければ意味がないのだ。 あともう一つ言うと、声優はプロを使ってくれ。主要キャラの声がみんな上ずった声に聞こえてしまって全く落ち着かない。 |
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アルキメデスの大戦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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DESTINY 鎌倉ものがたり | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2017日本アカデミー撮影賞、美術賞、照明賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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海賊とよばれた男 2016 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016日本アカデミーアニメーション主演男優賞(岡田准一)、音楽賞、撮影賞、照明賞、録音賞、編集賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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北九州の小さな石油商人であった国岡鐵造(岡田准一)は、強引な手腕を発揮して瞬く間に国岡商店を民間一の石油貿易商へとのし上げる。だがその強引な手段は時に彼を「海賊」と呼ばわらせる事となり、多くの敵をも作ってしまった。そして第二次大戦後、全てを失った日本。しかも売るべき石油がないと言う状況の中、鐵造はあらゆる手段を用いて商店を維持し、やがて来るべき石油貿易解禁に向けて準備を進めるのだが… 百田尚樹による同名小説の映画化作品で、出光興産社長の出光佐三をモデルにしたもの(ただしかなり実像とは異なるフィクション)。 未読ではあるが、原作は本屋大賞を受賞している位なのだから、恐らくは相当に面白い作品だと思われる。 そしてその映画化作品としての本作はどうか?と言われると、「品良くまとまった普通の作品」としか言いようがないほどに全く個性の感じない作品に仕上がってしまった。 私の想像では、原作版の国岡鐵造という人物は、豪放磊落で周囲を圧倒するような個性を持った人物であろうと思う。プラスにせよマイナスにせよ周囲の人間を巻き込んで多くの敵と多くの味方を作ると言う「憎まれっ子世にはばかる」を体現したような人物であろう。 ただ映画になるとこれは主演の岡田准一の個性で、どうしても真面目そうな人物になってしまった。迫力が足りないというか、人を圧倒するような個性がにじみ出てこない。これは明らかにこれはミスキャスト。前作『永遠の0』のヒットにあやかって連続主演となったんだろうけど、合わない役を無理矢理やってる感が強く、観ていて痛々しく、逆に辛くなる。もうちょっと嫌らしさのある、顔の濃すぎる役者向きの役だよこれ。 それと戦前の物語と戦後の物語をザッピングするという手法によって、主題がかなりずれてしまってるのも問題。戦前の成り上がりの方向性と、戦後に苦労してる方向性がどうにもぶれまくってしまい、観ていて落ち着かない。折角だから二本に分割してしまい、最初を成り上がり編に、次に復興編とでもしたほうが良かったとは思う(出来ないからこう言う作品になったんだろうけど)。 又、過去の物語をちょっとつまんでいくという手法を取ったことによって、盛り上がるはずの物語を強引に盛り上げないようにしているようで、中途半端。 一通り見て感じたのは、NHKの朝ドラの総集編を観ているような気分。 総じて本作は映画としては少々物足りない感じである。落ち着いてバランスの取れたものではなく、強烈でちょっとだけでも印象に残る作風で作って欲しかったかな? |
寄生獣 完結編 2014 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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寄生獣 2014 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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永遠の0 2013 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2014日本アカデミー作品賞、主演男優賞(岡田准一)、監督賞、撮影賞、照明賞、美術賞、録音賞、編集賞、助演男優賞(三浦春馬)、脚本賞、音楽賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ALWAYS 三丁目の夕日'64 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1964年。東京オリンピックを目前に建築ラッシュとなった東京は日々その姿を変えていった。東京の下町、夕日町三丁目に暮らす小説家の茶川竜之介は妻となったヒロミと高校生になった淳之介と楽しい毎日を送っていた。しかしマンガ雑誌に連載中の「銀河少年ミノル」が、謎の新人作家・緑沼アキラに人気を奪われ打ち切りの危機を迎えていた。一方、鈴木オートでは、従業員の六子が青年医師菊池孝太郎に恋心を抱いていた… 『ALWAYS 続・三丁目の夕日』から5年。すっかり成長した三丁目の住民たちがスクリーンに戻ってきた。なんかすっかりおばちゃんと化して、目を細めながら「よく帰ってきたね」とか言いたくなるくらいに懐かしく思ってしまうわけだが、同時に「これが山崎監督の帰ってくる場所なんだな」とも思えてしまう。山崎監督は元々VFXの専門家で、新しい表現を挑戦的に作り続けている人でもあるのだが(興行的には失敗したとはいえ、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』も又挑戦の姿勢がはっきり見えていた)、そんなチャレンジができるのも、シリーズとして本作があるから存分に挑戦ができるとも考えられる。意地の悪い言い方をすれば、安定路線をバックに持つというのは、監督として大きな余裕を持つのだなとも思える。だからこそどんどんこういった安定した作品を作りつつ、飛び抜けたCG作品を作ってほしいものだ(そう言えば前にテレビで宮崎五朗監督との対談があって、その時とても歯切れは悪かったが、「(むにゃむにゃ)が許してくれるか、(むにゃむにゃ)したら、是非原作版『風の谷のナウシカ』(1984)を作らせてほしい」とか言ってたな)。 それで本作だが、ことさら大きな事件が起きるわけでもなく、二つの家庭を中心にして家族の危機が訪れたり、仲直りしたり、新しい家族ができたりしている、いわば当たり前の人間の営みを描いていくことになる。この姿勢が全くぶれてないので安定したおもしろさが提供される。物質的な豊かさが上がることによって、特に若い人間はまっすぐに金とそれに付随する富を求めるようになり、あるいは流行に心奪われるようになって、親よりもそちらを優先するようになっていく。前作前々作はそれがまだ高見に達していない微妙な時代だったのに、本作は本来の日本の風景に近くなってきたって事だろう。この辺りから徐々に日本はバブル経済へと入っていくことになり、世界中で起こる紛争を尻目にどんどん経済大国になっていくことになるのだから。 ただ、こういう作りは現在の邦画では単純な人情話が大変少なくなっているので、かなり貴重な作品になっているのは確か。かつて男はつらいよシリーズはリアルタイムでそう言った懐かしい風景を使えたものだが、今やCGをフル活用してようやくそのレベルに至ると考えるのはやや寂しいものはあるが、数年に一度で良いからこういう作品が作られていけば良いとも思える。 本作では今から40年前ほど前になってるので、丁度私の世代辺りになると、懐かしいと言うよりも「こういう事もあったよな」という気分にさせられるし、当時の漫画雑誌の事なども見えたりして、それはそれで興味深いものもあり。 |
SPACE BATTLESHIP ヤマト 2010 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2010映画芸術ワースト第8位 2010映画.comワースト第3位 2010HIHOはくさい映画賞第1位 |
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5年前。正体不明の敵の放つ遊星爆弾によって地球は放射能で汚染された星に変わってしまった。以降何度も地球側からの攻撃が行われてきたが、その度ごとに強くなる敵“ガミラス”によって叩きつぶされ、地球の残存勢力は最早ほとんど残されてなかった。残された地球政府は、かつて沖縄沖海戦で沈没した戦艦大和を、地球に落ちてきた未知のテクノロジーによって復活させられた“宇宙戦艦ヤマト”に全てを賭け、放射能除去装置を受け取りに行く旅に送り出した。その中には兄を艦長に殺されたと思っている古代進(木村拓哉)もいた… 昨年『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』(2009)なるアニメ作品があって、律儀に劇場に観に行った折、実写版を作ってるという特報が流れていた。まあ『復活篇』の出来が何だったし、何もキムタク観に行くことも無かろう。とか思ってたもんだが、不思議なことに公開時期が近づいてくると、心が妙にわくわくしてきた。これは観ないといけない。という思し召しだろう。ということで拝見してきた。 それで感想だが…(最初は純粋な意味で) 本作がいろいろなところで酷評を受けてるのはわかってるし、それらは一々頷けるのだが、“思ったほど悪くなかった”というのが正直な思い。少なくともオリジナルの「ヤマト」にちゃんと敬意を払いつつ、2000年代作品っぽくは作られてるし、時間もこの長さにきっちりまとめてくれてた。 何より作品をSFっぽくしようとかなり努力してるのも分かったのが大きい…そう。私が何より心配してたのは、本作が“特撮”としてどれだけ痛々しいものになっているか?と言う一点だったのだから。しかし良くも悪くも本作は“特撮”ではなく“SF”にしようという努力がちゃんと見られたし、CGのお陰で、そこそこちゃんと見られるものにはなっていた。この辺がちょっと私の複雑なところだが、特撮観に行ったつもりで、違うものを見せられたので、寂しいようなほっとしたような気分を味わった。たぶんそのほっとした気持ちが強いために、本作を素直に観ることが出来たんだろう。推測するに、山崎監督は本物の特撮ファンだからこそ、その辺の機微を分かった上で作っているんだろうと思う。特撮ファンでなければ分からない心の動きまで把握しているとは、監督侮り難し(嘘)。 物語はメインストーリーは出来るだけ変えないようにしながら、設定の方を色々変えてなるだけコンパクトにまとめ、後はキムタクを中心としたヒロイックな物語にまとめてるけど、これはこれで正解。オリジナル版にあった群像劇っぽさは映画には不要。焦点を絞って後は切り捨てた方がなんぼかましなものが出来る。あくまで一つの側面だけで見た「ヤマト」なのだから、それで良い。 配役では結構首を傾げる部分もあったけど、それは呑めた。古代進役はもうちょっと若い役者に演らせた方がよかった気もするんだが、客寄せにはこうするのがベストだったのだろう。それに古代や森ユキなんてステレオタイプの役は私にとってはどうでも良い役に過ぎない。私にとって重要事項は、かつての理想の大人、真田役にあったから。そしてその真田役やったギバちゃんは見事なくらいにはまってた。ちゃんと(『さらば宇宙戦艦ヤマト』にあったやつだが)特攻シーンもやってくれた。これだけで充分だ(不満があるとしたら、出番が少なかったことと、肉体がサイボーグと言う設定を消してしまった事かな?)。後はアナライザーだろうな。大幅に設定が変わってしまったが、あの姿がちゃんと拝めたのは結構すっきり(声がオリジナルの緒形賢一と言うのも泣かせる。緒形直人が出てるよりこっちの方が嬉しい)。 設定上ほぼ「ギャラクティカ」の丸パクリってのはややマイナスとは言え(監督がファンだからと言う理由がもっとも大きいらしい。他にも『スターウォーズ』や「スタートレック」のパクリも多い)、イスカンダルやガミラスをああやってばっさり人外のものにしてしまったのは、物語を単純化させるには一役買った。これもすっきりしていて良いんじゃないかな?ちゃんと伊武雅刀の出番もあったし。 …ここまで書いて分かった。なんで私がこの作品を肯定的に見られるのか。それは主人公のことを全く考えてなかったからだった。やっぱり観たかったのは、真田士郎であり、デスラーであり、そして特攻だったのだから。そしてそれらは全てちゃんと出ていたのだから悪く言える訳無い。 そりゃ、色々アラを言えばいくらでも言える。特にキムタクの悩んだふりの演技の嘘くささはひどいもんで、悩んだ結果やってることが全部特攻という、身も蓋もない結論は、呆れを通して感動を覚えるほどだ。結論が最初から分かってるなら悩むな。悩むんだったらほかに選択肢を用意しておけ。他にも宇宙空間が舞台なのに、全部平面的な作戦ばかりとか言うのもある。 でも、充分楽しめた。結局はただそれだけで良いだろう。 |
BALLAD 名もなき恋のうた 2009 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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現代の地方都市春日市に住む小学生川上真一(武井証)は、その町の名物大椚の根本から不思議な巻物を発見する。その途端、真一は天正二年の春日の国へとタイムスリップしてしまう。そこで、何も知らない真一は偶然から一人の武将の命を救うのだが、それは“鬼の井尻”と恐れられる武将井尻又兵衛(草なぎ剛)だった。それが縁で春日城主康綱(中村敦夫)の命令で、未来に帰る手立てが見つかるまで又兵衛の家にやっかいになることとなってしまう。実は又兵衛は城主の娘廉姫(稲垣結衣)に密かに懸想しており、そのために未だ独り身であることを真一は知ってしまう。そんなある日、廉姫に結婚話が持ち上がる。相手は大国の大名、大倉井高虎(大沢たかお)。小国の春日にとって願ってもない申し出だったが… 世界的に高い評価を受けている日本のアニメーション。その劇場作品では間違いなくトップクラスの出来の良さを誇る『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』を、実写リメイクした作品。 劇場版クレヨンしんちゃんシリーズでは『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』が世間的には最も評価が高いが、本作のオリジナルである『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』は、こども向きとは到底思えないほどのハードな脚本のと、その中で大暴れする現代からやってきた野原一家の噛み合いが本当に見事な作品で、私的にはシリーズ中では一番評価している作品で、日本におけるアニメーションの傑作の一本だと思っている。 そんな作品が実写リメイク…これはかなり微妙な思いを持たせてくれるものだが、とりあえず観てから評価しよう。という思いで拝見。監督も山崎貴だし、多分観て損はなかろう。 うん。脚本的には上手く仕上げてるし、人物描写も良し。単体の映画としてはかなり評価を上げたい作品にはなってる。もしアニメなしにこれ観たら泣けてたかもしれん。 ただ、その泣ける要素が全部アニメからの引用部分だというのが問題点。結局ほとんど話を膨らませること無し、手堅く仕上げました。と言う感じだった。それが悪いという訳ではなく、むしろこう作らねば怒りたくなるのだろうが、それでもあんまりにもオリジナルを変えないと物足りなさを覚えてしまう。 一応それはそれとして、ここでは「アニメなら許せるけど実写だとどうだ?」と言う事でちょっとまとめてみよう。 例えば500年以上も経過してる紙なのに、思いっきり素手で触り、それでも全く崩れない手紙の材質とか、「きれいな湖」と称されるのが膝までしかない沼に過ぎないとか(きれいな沼ってのはイメージが悪いけど、水が澄んだ沼ってのはあり得なくない?)、廉姫演じる稲垣優衣の耳にはピアスの穴があるとか、戦場に窓全開にして車で突っ込むとか(普通槍とか投げられない?)、何より着物のまま馬にまたがる廉姫の姿には萎える(女性の着物は構造上それ不可能だから…できるけど、腰巻きを取り外さないといけないので下半身丸見えになる。女性は馬にまたがるのではなく、足を揃えて箱乗り状態でないとおかしい)。これらは「クレヨンしんちゃん」というアニメだからこそ、全てクリアできたものだが、実写に置き換えると全部ツッコミ所になってしまう。その辺は目を瞑らせるよりも、説得力ある説明でフォローして欲しかった。 それと、時間にしてオリジナルのアニメよりも40分も長くしている割に、付加要素がどうでも良いことばかりだったのも寂しい。主人公が真一ではなく又兵衛になっているとは言え、それだけ時間があるなら川上家の家族愛部分をもう少ししっかり描いて欲しかったし(最後の狙撃シーンで両親が真一を真っ先に助けに行って、体を盾にするシーンくらいはあっても良いんじゃない?あのシーンは又兵衛の方に行かせちゃいけないところだよ)、根本的に「誰が又兵衛を狙撃したのか」が一切抜けてるのも気になる。新しい部下を作る話なんてどうでも良いから、もうちょっと力入れる部分を変えて欲しかったところ(そりゃまあ、部下になるのが『仮面ライダーZX』の菅田俊と『幻星神ジャスティライザー』の浪岡一喜だから、特撮好きとしては嬉しいのは嬉しいのだが)。オリジナル版がある以上、本作はそこから一歩踏み出すことが求められてなかっただろうか? とは言え、「流石実写」と思わせる部分もいくつかはある。例えばアニメでは難しい(特にノッペラした表情が売りの「クレヨンしんちゃん」では)表情で演技させるのは実写ならではだし、又兵衛の切ない思いもストレートでない分切なさが伝わる。みんなで食べる食事シーンなんかは素で旨そうに見えるので、やっぱり食べ物描写はアニメだとまだまだ難しい事を思わせる。 何より流石山崎監督。CGの使い方が実に良い。特に最後の合戦のシーンは、一見人海戦術のように見せつつ、相当にCGを駆使しているのが分かり、それらが自然に実写と融合してるのは名人芸とさえ思わせる。ここまで高いクォリティを低予算でやれるのは世界的に見ても山崎監督しかおらんだろう。 オリジナルの良さを崩さずに頑張ってくれてるので、これはこれで良しとすべきなのだろう。それと、アニメを知らずに本作で感動した人だったら、是非『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』は観て欲しい。 ところで本作の撮影終了後、主演の草なぎ剛は泥酔して猥褻物陳列罪で捕まってしまったが、それで公開自体がお蔵入りしなかった事はとりあえず喜ぶべきか。 |
ALWAYS 続・三丁目の夕日 2007 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2007日本アカデミー主演男優賞(吉岡秀隆)、録音賞、作品賞、助演男優賞(堤真一)、助演女優賞(堀北真希、薬師丸ひろ子)、監督賞、脚本賞、音楽賞、撮影賞、照明賞、美術賞、編集賞 2007日本映画批評家大賞審査員特別演技賞(須賀健太、小清水一揮、小池彩夢) 2008アジア映画視覚効果賞 |
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1959年の東京下町三丁目。鈴木オートでは親戚の女の子である美加(小池彩夢)を預かることになった。突然のことに反発を覚える一平(小清水一揮)。しかも美加は何かと金持ちであることをひけらかし、ますます一平はへそを曲げてしまう。一方、茶川竜之介(吉岡秀隆)はヒロミ(小雪)からあずかった淳之介(須賀健太)をめぐって実父の川渕(小日向文世)と何度もやり合っていた。淳之介を立派に育てられると証明しようとする茶川だが、ことごとく上手くいかない。ついに茶川は、次の芥川賞を取れるかどうかで、乾坤一擲の賭を行うことを心に決めるのだった。 昭和30年代を描き大ヒットを記録した『ALWAYS 三丁目の夕日』の続編。前作は細かい小ネタをちりばめつつ、緩やかに話が展開していく形式を取っていたが、今回の話はむしろ大きな物語を主軸に取って、それを敷衍する形で小ネタを使っているのが特徴だろう。その分まとまりが出てきたけど、ノスタルジックさよりは単なる駄目人間の恋愛話を延々とやってるような作りになってしまった。好みという点では一作目よりは落ちるのだが、他人の夢を自分の夢に置き換えて全員で応援する下町情緒の描き方は良かったと思う。人情を前面に出す辺り、前作の取り残しを丁寧に処理したって感じだろうか?劇中で「現実は厳しい」とか言っていたが、あくまで物語は甘々で。それで良いんだろう。 相変わらず高い演出の良さにも目が惹かれる。本当に細かいところだらけなのだが、昭和30年代を演出するのに、ふんだんなCGを嫌味なく使う豪華さは素直に感心できる。 …が、しかし、否応なく本作の評価を高めてくれたのは、私にとってはOP以外の何者でもない。いきなりの昔懐かしい「TOHO SCOPE」の画面をそのまま使うところも良いけど、何よりその直後伊福部マーチと共に現れる大怪獣!白目ゴジラの偉容には、ただ涙。しかしほんとにゴジラはこの時代だからこそ、本当に大怪獣たり得るのだな。そもそもゴジラは単独での異様さこそが本来の持ち味。他に同じ大きさ、あるいはゴジラよりも大きい存在が出てしまっては魅力は一気に薄れる。たとえ物語が同じであったとしても、『ゴジラ』(1984)の悪さは、その対象物の設定にこそあった。それで本作を見よ!ゴジラに対する対象物は全てゴジラの膝以下。ゴジラよりも大きな東京タワーも放射能火炎一発でへし折れる。これこそゴジラ!これこそが雄志だよ。この時代こそがゴジラを映えさせていると言うことに改めて感じ入った次第。初代ゴジラは時代が作った作品だったのだな。 強いて悪いところを言えば、ゴジラが着ぐるみではなくCGだったため、生物的すぎるところくらいか。折角東宝なんだ。ここはちょっと奮発して着ぐるみを使わせてやっても良かったじゃないか。しかし山崎監督、前々から思っていた通り特撮には並々ならぬ思い入れがある事が分かった。これだけのものが作れるのなら、このようなネタとして短いのではなく、是非ちゃんとストーリーの付いた長いのを。しかも時代設定を昭和30年代にして作って欲しい。切実にそう思う。 とにかく、本作という物語を通して観て、一つだけ言えることは、「私はゴジラが大好きだ」と言うことだ。改めてそのことを感じさせてくれただけでも本作を観た価値があるってもの。 …ちなみに、本編レビューよりもゴジラネタの方を長くしたのはわざと。だって私にとってはこっちの方が重要だったんだから。 |
ALWAYS 三丁目の夕日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2005日本アカデミー作品賞、主演男優賞(吉岡秀隆)、助演男優賞(堤真一)、助演女優賞(薬師丸ひろ子)、監督賞、脚本賞、音楽賞、撮影賞、照明賞、美術賞、録音賞、編集賞、新人俳優賞(堀北真希)、主演女優賞(小雪) 2005ブルーリボン助演男優賞(堤真一)、助演女優賞(薬師丸ひろ子) 2005キネマ旬報日本映画第2位 2005毎日映画コンクール撮影賞、美術賞、技術賞、TSUTAYAファン賞 2005報知映画作品賞、助演男優賞(堤真一)、助演女優賞(薬師丸ひろ子) 2005ヨコハマ映画祭技術賞、助演女優賞(薬師丸ひろ子)、新人俳優賞(堀北真希)、第3位 |
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1958年。東京タワーの竣工が急ピッチで進められている時代。東京下町の夕日町三丁目で向かい合った二つの店、鈴木則文(堤真一)が経営する自動車修理工場・鈴木オートと自称文学者でSF小説書きの茶川竜之介(吉岡秀隆)が経営する茶川駄菓子店に事件が起こる。鈴木オートでは集団就職で青森から星野六子(堀北真希)という少女が就職してきたこと。そして茶川はバーのマダム石崎ヒロミ(小雪)から身寄りのない少年淳之介(須賀健太)を押しつけられたこと…。遠くで東京タワーが着々と完成していく下町で、二つの家を中心とした、東京下町の人情喜劇。 長期連載を続けている西岸良平の漫画を映画化した作品。原作は私が小学校の頃に連載を始めたから、既に30年以上も連載を続けている漫画で、私も結構読んでいる。 大分前にテレビアニメ化もされたような記憶もあったが、あまり話題にもならなかったから、流石にこれは受けないだろうと先入観を抱いていた。 しかし、一見して、考えを大きく改めた。これは上手い作品だよ。 最初キャラには違和感がつきまとった。茶川竜之介は原作では初老だったし、鈴木則文は気の弱い人物。何より六さんは男だ。対して映画版では茶川役に未だ青年っぽさを残す吉岡秀隆。鈴木役にキレやすい頑固役の堤真一。六さん役に堀北真希…これで違和感を感じないと言ったら嘘だ。 しかし、これだけキャラに改変を行っていながら、全く原作を損なわず、むしろ新しい魅力をそれぞれのキャラから引き出すことに成功していた。最初感じた違和感も、ストーリーが進むに連れ、「なるほどなるほど」に変わっていく。原作をしっかり解釈した上で、山崎監督らしい改変を行っていた事が分かる。茶川が淳之介を受け入れるためには、ちょっとした助平心が必要だったんだし、六さんを受け入れることにドラマ性を持たせようとするなら、やっぱりあの頑固な性格が必要だった。そして最後の青森への帰還を劇的に演出するためには六さんは女性であった方が良かったと言うこと。作り方には非常に感心できる。脇を固めるキャラもしっかり存在感を出していた。キャラクタの描写がとにかく丁寧に作られているので、ほのぼのした良さを感じさせてくれる。 そして驚かされるのが演出の巧みさ。 CGの使用により、映画は格段に表現の幅を広げたが、そもそもCGの使い方として最も難しく、そして最も効果的なのは、風景描写にこそある。本作は基本的にセットで物語が展開していくが、場面場面に挿入される当時の雰囲気。さりげなく演出されていながら、これほど効果的に使われるとは…昔から使用されているブルーバック撮影とCGとの融合が見事に出来ている。これは技術的に大変高度だよ(それでも“さりげない”場面であっても、「どうだ!」と自己主張するかのようなCGの使われ方をしている所なんかは心憎い演出なんだが)。東京タワーが徐々に出来上がっていく風景で季節の流れを作っていく。その演出が心憎いんだよね。主軸の物語二つを明確にしつつ、さりげなく原作のショートストーリーを絡めていくやり方も良し。ミニストーリーだけど、佐久間医師の話はモロにツボにはまった。 そして間口の広さも良い。子供中心にせず、さりとて大人のドロドロした部分はかなり中和されて物語が進んでいくため、誰にでもお勧めできる。それこそ子供でも、大人でも、はたまた老人でも楽しめる(事実映画館には年配の方がかなりたくさんいた)。これだけの間口の広さを持つ映画は貴重だよ。 『ジュブナイル』(2000)で山崎監督を「上手い監督だ!」と思ったのは、間違ってなかったようだ。こういう作品を作り続けてくれるならば、間違いなくファンになってしまうだろう。 最後に一つ。キャラクタに関してはそのほとんどは拍手を贈りたいほどだったが、ただ一人、鈴木の妻役の薬師丸ひろ子だけはちょっと起用失敗だったんじゃないか?恐るべき事に未だにオーラ出しまくってるため、艶っぽすぎて、画面に出るだけで彼女の方に目が行ってしまう。もっとさりげない人物を使うか、あるいは彼女のミニストーリーを一本入れて欲しかった。 |
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Returner リターナー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2002日本アカデミー新人俳優賞(鈴木杏)、助演男優賞(岸谷五朗)、助演女優賞(樹木希林)、編集賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ジュブナイル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2000年夏。キャンプに来ていた木下岬(鈴木杏)、坂本裕介(遠藤雄弥)、松岡俊也(YUKI)、大野秀隆(清水京太郎)の4人は森にまぶしい光が落ちるのを目撃する。光を追って森の中に入った4人は、そこで奇妙なロボット・テトラと出会った。こっそり持ち帰ったテトラを裕介の部屋で飼うことにした4人は、近所に住む発明家・神崎宗一郎(香取慎吾)のところでテトラの謎を解明しようとする。時を同じくして、太平洋上に現れた不思議な物体はテトラに興味を持ち… “ジュブナイル”。何というノスタルジックな響きだろう。その言葉を聞くだけであっという間に心は少年時代に戻る。 小学校時代、特に高学年は私はいつもジュブナイルと共にあった。それは眉村卓の「ねじれた町」であり、「謎の転校生」であり、筒井康隆の「緑魔の町」であり、「時をかける少女」であり、石川秀輔の「ポンコツタイムマシン」であり、豊田有恒の「時間砲計画」であり、小松左京の「宇宙人のしゅくだい」であり…これじゃきりない。いくらでも出てきてしまう…小学校から中学校の最初にかけて一体何冊そしてどれほど繰り返してジュブナイルと呼べるものを読んだだろう。勿論NHKの少年ドラマシリーズも忘れられない世代だ。いくつかは主題歌まで覚えてる。 私がSF好きになったのも、元はと言えば小学校時代にジュブナイルをむさぼり読んだから。田舎の図書館に何故か沢山置いてあったのが幸いした。大人になったらSF小説家になりたいと思っていたのもその時代だ。 登下校のたんぼのあぜ道に、私のためだけに存在するロボットが潜んで、私と接触する機会をうかがっているのではないか?あそこにある廃屋は、実はマッド・サイエンティストが創り上げた研究所の入り口なんじゃないか?神社の境内の裏にはタイム・トンネルがあるのでは?…もちろん本気にしていたわけではないけど、そう考えるのがとても楽しかった時代。 その時代、その思いを今、映画にすることは可能だろうか? それが怖かったから劇場に行けなかった。裏切られたくなかったから。 これまでにもジュブナイル作品だったら『ねらわれた学園』(1981)とか『時をかける少女』(1983)が劇場公開されていたが、大林宣彦によってソフィスティケイトされすぎ。それにどっちも“こどものため”の作品ではなくなっていた。 …とは言え、観ないでは話にならない。 結局レンタルビデオと言う姑息な手段を用いて鑑賞に踏み切った。 脚本ではなく、山崎貴監督は、多分私と似た思いを以て少年時代を過ごしたのではないか?そんな風に思った。特にオープニング部分とか、設定とかに絶妙なこだわりが見られる。微妙な違和感が自分たちの町の中で起こっている。小汚い電気屋に住むお兄さんが実は発明狂で(この電気屋が木造でトタン張り。その中でハイテク器具に囲まれているというのが、それだけで泣ける設定じゃないか!)、世界を揺るがすであろう大発明を個人レベルでやってる。大事件が起ころうとしているが、それを少年の仲間だけで未然に防がねばならない。ジュブナイルの王道であり、小説の中で書かれていたことが実際に映画になっていた。それはとても嬉しい体験だった。 だが、である。当然の話だが、時代は既に'70年代ではなくなっている。この話の舞台は2000年なのだ。 土と草に埋もれた赤茶けた鉄骨、廃屋のコンクリートからあたかも骨のように伸びる鉄棒、溶けかかったコールタールに覆われた道路、土管や廃タイヤの置いてある空き地などは、既に無く、冷えたスイカと麦茶、そして時々買い食いする駄菓子屋の味のキツイお菓子が最高のおやつだった時代でもなくなっていた。同じ部屋で寝起きしている親の目をどうこっそり盗んで友達に会いに行くか知恵を絞り、女の子と仲間であると言うことがたまらなく恥ずかしかった時代でもない。 この映画の主人公の少年達は個室を持ち、当然部屋にはテレビもゲームもあり、家の中は冷房で冷やされ、腹が減ったら近所のコンビニで数百円レベルの健康的な食品を買い食いできる程度には金を持っていて、親の目を盗むと言っても、夜中友達と会う位ならコソコソしなくても良い世代だ。時代は確実に移っている。 当然彼らの冒険も、汗や泥にまみれつつ行うものではなくなっていた。彼らの冒険は部屋の中でゲーム機でシミュレーションを行った、CG感溢れるロボットを操縦するものであり、戦う相手もスケールのでかいもので、既に大人に見える形で現れていたし、その戦いは何人もの大人が見守る中で行われる。手っ取り早く言えば、感覚的にシミュレーションがずーっと続いているような、そんな戦いなのだ。 …まあ、仕方あるまい。いや、そうでなければならないのだろう。ジュブナイルとは、少年に読ませるものであり、そしてその時代の少年の心を掴むためには、その時代に合ったものでなければならないのだから(本当に合っているかどうか、その辺の判断は難しいところだけど)。 ラストは見え見えで、ちょっといただけなかった気もするが、かつて口コミで広まった『ドラえもん』最終回を作りたかった。と言うのが脚本の狙いだったとしたら、これも仕方なしか。 これは懐かしく、そして一抹の悲しみを覚える作品だ。出来ることなら、もっともっとこういう作品が映画化されれば良い。ゲームでも良い。こども達にSFの楽しさを覚えてもらうためにも。そしてこれから“良質のSF”を私に読ませてくれる作家が育つのを願う。 ところでここに登場した鈴木杏は私はこれから一番注目すべき役者だと思っている。『ヒマラヤ杉に降る雪』(1999)での、あの神秘的とさえ言って良い姿が未だに鮮烈な印象を持っているし、この作品でも、確かに一番輝いていたのは彼女だった。今度は是非宇宙人役か予言者のような、非人間性を強調した姿で画面に登場して欲しい。その方が絶対彼女の魅力を引き出せると思う。願わくば、今度は是非怪獣映画で…(笑) |
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