
Wikipediaより |
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たさか ともたか。日本の映画監督。広島県出身。女優の瀧花久子は妻、弟に同じく映画監督の田坂勝彦がいる。 ペンネームとして高重屋四郎。
助監督時代は徳永フランク、三村源治郎、村田実、溝口健二、鈴木謙作らにつく。
『五人の斥候兵』が第6回ヴェネツィア国際映画祭でイタリア民衆文化大臣賞を受賞し、外国で賞を獲得した最初の日本映画で、日本映画界初の世界三大映画祭受賞作となった。
同世代の内田吐夢とはつねに並べて考えられ、論じられた。吐夢の豪気に対して、田坂は誠実一筋、生涯のライバルであった。
友情に厚く、初期の脚本・山本嘉次郎や撮影・伊佐山三郎など限られた仲間と深い繋がりを持った。山田洋次が映画作家を志すきっかけとなった映画として、奉天の小学校時代に見た田坂の『路傍の石』を挙げている。
「原爆のすごさは語っても分かってもらえない」と、ほとんど原爆体験について話すことはなかった。
日本では凡庸と見られた主題とスタイルの多くが、インドでは強くアピールする現実性を持っていたともいわれる。田坂が亡くなった時、そのニュースがニューデリーで開催中のインド映画祭の会場に届けられると、インドの映画人たちは『雪割草』の思い出のために田坂の霊に黙祷を捧げた。 |
| Wikipediaより引用 |
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| 経歴 |
| 1902'4'14 |
広島県豊田郡沼田東村(現在の三原市沼田東町)で誕生 |
| 1924 |
新聞記者を経て日活大将軍撮影所へ入社 |
| 1927 |
監督デビュー |
| 1932 |
日活太秦撮影所の争議で内田吐夢、伊藤大輔、村田実らと「七人組」を結成し日活から独立、新映画社を興す |
| 新興キネマを経て日活多摩川撮影所に復帰 |
| 1938 |
『五人の斥候兵』がヴェネチア国際映画祭文化大臣賞受賞 |
| 1939 |
『土と兵隊』が第7回ヴェネツィア国際映画祭で日本映画総合賞を受賞 |
| 1942 |
戦時統合により日活が映画製作から一旦撤退したため、松竹へ移籍する |
| 1945 |
召集され、郷里の広島で入隊 |
| 広島で原爆に遭い、原爆症を発症し、戦後は長い闘病生活を送る |
| 1949 |
大映東京撮影所に監督として復帰する |
| 1952 |
原爆を描いた『長崎の歌は忘れじ』を監督の後、 |
| 1958 |
陽のあたる坂道がブルーリボン監督賞受賞 |
| 1962 |
東映に移籍する |
| 1968 |
スクラップ集団を監督後、引退する |
| 1974'10'17 |
死去 |
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