| 1909'11'7 |
京都市下京区高倉通松原下ル樋之下町で誕生 |
| 1927 |
商業学校5年生で先輩のマキノ正博を通し牧野省三と面談。マキノプロへの入社を約束させる |
| 1928 |
牧野プロから嵐寛寿郎プロダクションに移籍し、「社堂沙汰夫(しゃどうさだお)」というペンネームで脚本家としてデビュー |
| 嵐寛寿郎プロダクション解散 |
| 1929'3 |
嵐寛寿郎に招かれて東亜キネマにシナリオライター兼助監督として入社 |
| 1929'12 |
1年志願の幹部候補生として福知山市の歩兵第20連隊に入隊。この間に複数の映画シナリオを作成している |
| 1931'8 |
嵐寛寿郎プロダクション(第二次寛プロ)立ち上げで移籍する |
| 1932 |
『磯の源太 抱寝の長脇差』で監督デビュー |
| 1932'9 |
伏見深草の歩兵第9連隊へ演習のため2週間入隊 |
| 1932'11 |
寛プロの親会社にあたる新興キネマへ転社 |
| 1932'12 |
日活に移籍する |
| 1933 |
小津安二郎との親交が始まる |
| 1933'6 |
井上金太郎が音頭を取って結成した「監督八人会」の一員に加えられた |
| 1934 |
京都市鳴滝在住の映画人とシナリオ執筆集団「鳴滝組」を結成し、
梶原金八の共同ペンネームで20本近くの時代劇映画のシナリオを執筆した |
| 1936 |
日本映画監督協会を結成し、山中もその発足メンバーに名を連ねた |
| 1937 |
日活を退社。PCL映画製作所で人情紙風船を監督する
日中戦争に召集される |
| 1938 |
同じく招集されていた小津安二郎が来訪する |
| 1938'9'17 |
キャンプ地で病没 |
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