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映画監督 山中貞雄(書籍) _(書籍) |
1963 | 恋と十手と巾着切 原作 | |
1960 | がんばれ!盤嶽 構成 | |
1959 | 戦国群盗伝 脚本 | |
江戸遊民伝 脚本 | ||
1956 | 朱鞘罷り通る 原作 | |
1955 | 旗本やくざ 原作 | |
1939 | その前夜 原案 | |
1938 | 9'17 死去 | |
1937 | 人情紙風船 監督 | |
1936 | 河内山宗俊 監督・原作 | |
1935 | 怪盗白頭巾 監督 | |
丹下左膳餘話 百萬兩の壺 監督 | ||
大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻 応援監督 | ||
1934 | ||
1933 | ||
1932 | 天狗廻状 前篇 監督・脚本 | |
磯の源太 抱寝の長脇差 監督・脚本 | ||
1931 | 鞍馬天狗 解決篇 脚本 | |
1930 | 続・鞍馬天狗 電光篇 脚本 | |
右門六番手柄 仁念寺奇談 脚色 | ||
1929 | 右門一番手柄 南蛮幽霊 脚色 | |
鞍馬天狗 脚本・助監督 | ||
1928 | ||
1927 | ||
1926 | ||
1925 | ||
1924 | ||
1923 | ||
1922 | ||
1921 | ||
1920 | ||
1919 | ||
1918 | ||
1917 | ||
1916 | ||
1915 | ||
1914 | ||
1913 | ||
1912 | ||
1911 | ||
1910 | ||
1909 | 11'7 京都で誕生 |
人情紙風船 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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江戸の下層の庶民の心情を見つめたリアリズム作品 長屋に住むその日暮らしの人間達の日常をペシミスティックに描く |
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河内山宗俊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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河内山宗俊(河原崎長十郎)江戸界隈で腕を鳴らすやくざものだが、今やろくなしのぎもなく、毎日ぶらぶら用心棒のようなことをして過ごしていた。そんな彼に絡んできた足の悪い浪人の金子市之丞(中村翫右衛門)と立ち会ったが、やがてお互いの気っぷの良さを知った二人は仲良く肩を組んで居酒屋へと繰り出すようになる。殺伐とした生活の中でも、二人は甘酒売りの少女お浪(原節子)の清らかな心を愛し、彼女を守ってやろうとするのだが、お浪の弟は放蕩もので、ついには大きな借金をこさえて姉を身売りに出してしまう… 歌舞伎の世界では結構有名な河内山宗俊を主人公とした作品で、現存する山中貞夫の残した3本の作品の内の貴重な一本。 そもそも河内山宗俊とは実在の人物で、一応僧職にあったそうだが、大変な遊び人で知られた人物(劇中でも坊さんに化けるシーンでその設定を少しだけ使っている)。死に方もろくなものではなかったらしいが、こう言うのを粋と感じるのが歌舞伎の定番なので、一種のヒーローとして持ち上げられた。 そんな河内山を題材に取り、それをかなり純粋なヒーローに仕上げたのが本作で、山中作品の中ではあまり評価されることはないが、観てしばらくして、今回改めて考えてみると、大変面白い事に気づいた。 本作は時代劇というか、任侠劇なのだが、物語の枠組みを通してみると、実はとてもそうは見えない。 私が見る限り、本作は侍を描いた作品ではなく、ヨーロッパ中世の騎士物語のように見えてしまう。 実際の騎士と騎士物語の騎士は別物と考える必要はあるのだが(アーサー王の物語に描かれるのを理想の騎士像と仮定して)、騎士の理想とは、愛に殉じること。しかもその愛は決して肉体的なものではなく、精神的なものとしてである。だから、無垢な存在のために命を張る事こそがその理想であり、たとえ自分がどれほど汚れていようと、否、汚れているからこそ、純粋な一個の存在をなんとしても守ろうとする。そのための死に場所は自分で見つけるものだ(多分、それこそが私自身が求める格好良い生き方なんだろうと思う)。 本作の河内山と金子は、確かにやくざもので、碌でもない人生を送ってきたし、爛れたような生活を送っている。そんな彼らの前に、この界隈にはまずいない清らかな乙女として登場するお浪。二人はこの少女を汚そうなどと全く考えない。むしろ彼女を掌中の珠のように、大切に守ろうとしている。ここには色恋が介在せず、ひたすら純粋な思いによって守ろうとしているので、河内山と金子の間にはライバル心はない。彼女を間に挟んで、純粋な男の友情が描かれることになる。 ただし、ここにお浪の弟が絡むことで、話は難しくなる。彼は河内山をよく知っており、彼の生き方を目指している。多分河内山もそんな彼の姿を見て自分自身の昔の姿を照らし合わせて、どこかほほえましく見ている一方、彼がお浪に対する仕打ちには真剣に怒っている…それがたとえ自分自身がかつて通ってきた道だったとしても。 結局河内山はお浪が苦しむのは、自分自身にその責任があることを知ることになるのだ。 だから、どこかでその責任を取らなければならなかった。彼らは遊び人には違いなく、自分自身が立派な人間ではないことを知っている。しかし、死に場所だけは自分で見つけたのだろう。この生き方は端から見れば、単なる馬鹿のようであっても、自分自身を裏切ることなく、自分を貫き通す。これが彼らの生き方だった。 彼らが騎士として剣を預ける清純な存在としてお浪役の原節子がやっぱり凄い。見事な存在感だった。 君主無きところに騎士道精神があり得るか?そんなことを感じさせてくれる。 |
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丹下左膳餘話 百萬兩の壺 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ここの丹下左膳の凄まじさは、その剣術にある。防御を一切取らず、ただひたすらに突っ込んでいく。 これまでは伊藤大輔が丹下左膳を作っていたが、そこでのニヒリズムとは一線を画した作品で、性格が違いすぎると製作側から「餘話」のタイトルが付けられた。 山中貞雄は、それまでカメラ目線というものを大切にする監督とは一線を画し、カメラを意識させないというハリウッド形式を取ったこと。 |
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