攻殻機動隊

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GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊2.0 2008

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伊東和典(脚)
田中敦子
大塚明夫
山寺宏一
仲野裕
大木民夫
玄田哲章
生木政壽
山内雅人
小川真司
宮本充
山路和弘
千葉繁
家中宏
松尾銀三
松山鷹志
小高三良
佐藤政道
林田篤子
上田祐司
亀山俊樹
後藤敦
坂本真綾
榊原良子
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 電脳化が進みすっかり世界が狭くなった近未来。アジアと思しき国では電脳によるテロに対するカウンターアタックのため公安9課が設立されていた。そのエキスパートであり、全身サイボーグの草薙素子少佐は、電脳テロの最もユニークと言われる「人形使い」と呼ばれるテロリストを追っていた。だが、その正体を現した人形使いの姿は…
 1995年。アニメ史に残る一つの作品がこの世に生み出された。公開当時、
一部のマニアだけがお祭り騒ぎになったとはいえ、なんの話題にもならず、いわば、その年はこの作品は「失敗作」の烙印を押され、(一部のマニアを除き)この作品は忘れ去られてしまった。
 しかしその状況が変わったのがそれから2年後。この作品がインターナショナル・ヴァージョンとしてアメリカで公開されてから。正確に言えば、アメリカでも単館上映だったため、全然話題にならなかったのだが、それがビデオとなってリリースされてから。
 この年、ほんの僅かな期間であったとはいえ、ビデオビルボードで第1位のセールスを記録し、それが日本のメディアに紹介されてからだった。それまでこの作品に対し
(一部のマニアックな雑誌はともかく)忘れ去り、何の反応もなかったマスコミは、「日本のアニメはこんなにアメリカに受け入れられてるんですよ」と、手の平を返すかのように宣伝し、急に日本でも再評価を受けるようになる。更にその後ウォシャウスキー兄弟作品『マトリックス』で本作と酷似した部分が認められ、しかもウォシャウスキー兄弟は、『攻殻機動隊』のファンであり、確かにそこから流用したと堂々とカミングアウト。『マトリックス』そのものの大ヒットもあって、急に押井守。と言う名前がマスコミに出るようになっていった。そしていつの間にか、押井守という名前は宮崎駿に対抗する日本を代表するアニメ監督とまで言われるようになって今に至ったわけだが、それまで本当に一部のマニアだけの存在が、急に地位が上がったことに一番の戸惑いを覚えているのが、その一部のマニアというやつだったりする(マニアというのはやっかいな存在であり、知られてない内は、一種の優越感を持って、あたかも布教活動するかのように人に勧めるものだが、一旦売れてしまうと戸惑ってしまい、自分の立ち位置さえ見失うことさえある)
 …と、
自虐的な思い出はともかくとして。
 その後、幸いなことに押井監督はコンスタントに作品を作られるようになり、いよいよ新作
『スカイ・クロラ』が公開されることになったわけだが、その公開直前に、突然の発表があった。
 『攻殻機動隊』が、セリフリメイクされるというのだ。勿論『スカイ・クロラ』の宣伝という側面もあるが、1995年に、当時の最高技術を使って作られた作品であっても、既に時代遅れとなり、今の技術を使って、更に新しい作品として作り上げようという意図があったのだろう。少なくとも、こういったリメイクが可能なのは本作しかない。それに、監督自身も試してみたかったんだろうから、それはそれで結構なこと。
 改めて観てみると、やっぱり劇場で観て良かった。もう私の中ではイメージは固定化されてしまってるけど、大画面で観ると、色々な思いがわき上がってくるし、その分新しくなった部分もしっかり分かる。なんだかんだ言っても、やっぱり好きな作品を劇場で観るってのは良いもんだ。

 ところで本作のオリジナル版との違いは、基本的にはCGの挿入によって画質アップを図ったことと、ストーリーをほんの一部だけ変えたことの二つ。これによってほんの少しだけ上映時間が延びることにもなった
(80分→85分)
 CGの使い方に関しては既に『イノセンス』でやっていたこともあり、かなり手慣れたものとなっていて、その部分は確かに見所になってる。だが大半はオリジナルのプリントを用いたため、その部分とのつなぎにはかなり苦労した部分も見える。事実浮いてしまったカットが散見され、かえって昔の方が良かったんじゃ?と思われた部分もいくつか。悪く言えば、増やした部分は、「とってつけた」ような印象を与えてしまった(事実OP部分はほぼ同じ事がTV版の
「攻殻機動隊S.A.C.」でやられてるので、それを無理矢理もう一度やったって感じ)。逆に言えば、直す必要もないほど、前の作りが良かったと言う事でもある。あとエフェクトも微妙に変えられていて、オリジナル版が深い青をイメージしていたのに対し、今度は全体的に赤というか、オレンジっぽい色合いで統一。これは『イノセンス』で使われていたものと同じなので、その統一を図ったのだろうか?オリジナル版の無機質っぽい感じが、すこし柔らかみを持った感じがする。
 そしてもう一つがストーリーの改変だが、これは本当に微妙なところ。変わったのはたった一つで、
人形使いの声が家弓家正から榊原良子に変えられたことで、「彼」が「彼女」になったと言う事だけ。そのためだけに台詞は全部新規録音されているわけだが、これに関しては良いところと悪いところあり。『イノセンス』を受け、バトー役の大塚明夫の声が、妙に疲れた雰囲気に変えられてる。これも『イノセンス』に統一しようと考えたのかとも思うのだが、元のイメージとは随分違ってしまった。もうちょっと溌剌したバトーで良かったんじゃないかね?(「S.A.C.」の時はもっと元気良かったから、これも押井監督の指示かな?)
 最大の違いである人形使いが男から女になったことだが、これは悪いと断定はしないけど、
私はちょっと否定的。そもそもが本作のメインテーマは単なる“ネットと人間の同化”ではなく、“異種間同士の結婚”であったはず。それが女同士になってしまうと、テーマ性が後退してしまうような気がするし、それに榊原良子と田中敦子は声の質が似てるので、同じ調子で会話されると、更に違和感あり。元は女性のボディで男の声というのがやっぱり良かったのかもね?(ちなみにインターナショナル版ではどちらも女性が演じている)。

 最終的に思うのは、
「古さとは、それはそれで悪くない」というところかな?無難すぎる気もするけど。

 

イノセンス 2004

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石川光久
鈴木敏夫
三本隆二
西沢正智(製)
押井守(脚)
大塚明夫
田中敦子
山寺宏一
大木民夫
仲野裕
榊原良子
武藤寿美
竹中直人
★★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 2032年。かつて公安9課に属していた草薙素子が電脳の世界へ旅立った後の世界。人間とサイボーグ、ロボットが共存する世界に残されたサイボーグのバトーは未だ公安9課で、活動を続けていた。そんなある日、暴走した少女型の愛玩用ロボットが所有者を惨殺する事件が発生する。これがテロである可能性を指摘した9課長の荒巻の指令で相棒のトグサと共に捜査に乗り出すバトーだったが…
 
待ちに待った押井守監督の新作。この日を、文字通り指折り数えて待っていた!更なる衝撃を求め、当然公開初日に行ってくる。
 観始めてものの数分で怒濤の映像の波とウンチクにのまれ、冷静に観るのを早々にあきらめ、全てをとにかく頭の中に取り込むことに専念。終わった時には既に疲れ切っていた
(2年以上の歳月と10億を使ったという手間暇はダテじゃない)
 それで観終えた感想だが…まことに申し訳ないが、
「なんだこりゃ?」だった。
 …いや、決してこれはけなしてる訳じゃない
(100点は伊達じゃない)。押井氏の作品を観た時は大概私の場合、この反応になる。予想しているもの、期待しているもの、それらがことごとく外されてしまうのだ。それを“あっけない”と思うか、“押井も落ちたな”と思うかはその時次第だが、大概これが時間が経過すると、じわじわと頭の中を浸食してきやがる。頭の中にとりあえず放り込んでおいた映像がどんどん解凍され、徐々に色々な情報が頭の中に行き渡ってくる。しかもその後普通の生活をしていても、頭のどこかではそれを解釈しようと動き続けているので、大抵観て数時間経つと、軽い頭痛を覚えてくる。本作はその典型的例みたいなもんだ(現在拝見後10時間が経過しようとしているが、大体4時間後くらいから始まった頭痛が、ようやく少し治まってきたところ…書き終えたところで頭痛は去ってくれた)
 最初にこの作品、原作がまずある。士郎正宗による漫画
「攻殻機動隊」第1巻の第6話「ROBOT RONDO」が元ネタ(それ以外に1巻や1.5巻からいくつもの小ネタ)。これは本来素子が人形使いと接触する前の話で、話自体は前作『攻殻機動隊』ほどの盛り上がりは無い作品だった。私が「なんだ?」と思ったのはその点で、あれだけ前作で盛り上げておいて、又えらく渋いのを選択したもんだ。大体、人間と電脳の融合なんてとんでもないものを映像化してしまってから、なんでこんな当たり前(と言っちゃ悪いけど)の話にしたんだ?人間と機械のこれからの世界を見据える作品になることを期待していたのに…そこが難点だった
 確かに映像に関しては満点以上の最高の出来だし、音楽も最高。前作のエンディングテーマがアレンジされ、内容も
“結婚”“夜待ち”に変わっているところがミソだ。特に機械音までするオルゴールの演出には驚かされた。
 ただ、
ストーリー的にぬるく、盛り上げ方が中途半端。数多く存在する伏線も唐突すぎ。後にならないとあれが伏線だとは分からないのが多すぎる。実に単純な物語に色々変なものをくっつけただけのものに思えた。
 テレビやネットに流れる試写会の感想を聞くインタビューを聞いても、ストーリーに言及する人はほぼ皆無。
 正直、その時点で点数付けさせてもらったら、
多分80点程度だったと思う。それでも高すぎると思ったくらい。これをコメントにすると、“下らん作品を「面白いと思いたがっている」だけのもの”になるかも知れない。これは正直怖かった。
 だが、やはりとりあえず放り込んでおいた情報が徐々に浸透するに従って、
来た来た。来たぞ〜!
 以降は久々に
電波受けまくりで暴走させていただこう。不快に思われる方もいると思うので、一応の警告。

 押井氏の映画に貫かれているもの。それはいくつも考えられるが、その一つとして、
“今あなたの目が観ているものは全て本物でなかったら?”と言う疑問から出ている。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)では「終わらないお祭り前日の日常」であり、『機動警察パトレイバー 劇場版』(1989)では、「盤石に見える現実の都市」『御先祖様万々歳』(1990)では「家族という制度」『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』(1993)では「我々が現在享受している平和」というものについて。『Avalon』(2001)では仮想現実であるゲームという素材を用いて、「本当に目で見えている世界そのもの」。それら全てのあやふやさについて描いていた。
 更に前作の『攻殻機動隊』では、ゴーストという言葉を用いることによって、
「ここに存在している私」そのものを疑う。原作にも言及があったのだが、誰も自分の脳みそを見た人間はいない。それなのに、自分が存在するのは、果たして人間としてなのか。アイデンティティそのものがオリジナルなのか?と言うストレートな問いがなされていた。
 そして本作は前作の考えを更に一歩進めている。それは私なりに言わせていただければ、
“存在が曖昧だからこそ、手で触れ、肉に触る、リアルというものをやはり持つべき”と言うことになるだろうか。
 本作の主人公はバトー。彼は全身がサイボーグであり、人間と人形との境目が極めて曖昧な存在として描かれる。彼は前作で素子を愛する存在として描かれていたが、その素子自体が既に電脳の彼方に行っている。言わば、バトーが接触する端末全てが素子の“匂い”を感じさせられるものであったとしても、そこに
“リアルな感触”というものがない。彼の接触する大抵のものは人の匂いがする“人形”でしかない。人間と接していても、その人間自体がほぼ“人形”と化してるのだから。
 そんな彼が
“生”の感触として持っているのは、バセットハウンドのガブリエル。動物は人を裏切らないから…正確に言えば、犬は自分の欲望を満足させるため、そして飼い主を愛するが故にそこにいられる。そこには何のまやかしもない。確かに手間がかかるペットだが、手間がかかるからこそ、“自分は自分として生きている”という感触を強く持つことができる。
 バトーにとって、自分が自分でいられるためには、どうしてもガブリエルが必要だった。これは劇中に描かれる彼の行動様式を見ても明らか。9課の仲間であるイシカワに対しても、決して自宅近くまで一緒に連れて行かない。(多分)何台も所有している自分の車の近くに来させるだけ、しかもそれでさえ隠れるようにして。そんな彼がガブリエルのためには、決まった店でフレッシュタイプのドッグフードを購入する。彼の立場で、いつも決まった場所に立ち寄ると言うのは、あまりにも危険なことなのに、それを敢えてするのは、それが
“彼のアイデンティティ”だから。イシカワが吐き捨てるように「ドライタイプにしろ」と言う言葉も、頭ではそれが分かっているだろう。だが、彼には自分をたとえ危険にさらしても、守らねばならないものがあった。それが“自分が自分である”事だから。
 更にこれを進んで考えてみると、バトーは“死にたくない”という思いを自らに課すため。とも考えられる。前作で
“人形としての自分”を捨てることに成功した素子のように、望みさえすれば自分もそうなれる。それは一種の願望であったかも知れない。そうすれば素子と常に一緒にいられるのだ。だが、それはまだだ。ガブリエルのために、今は殻を脱ぎ捨てる訳にはいかない
 もし劇中にガブリエルが存在しなかったら、物語は成立しない。荒巻が言ったようにバトーはどんどん
「失踪する前の少佐を思い出す」存在へと変貌して行っているのだ。そのバトーを未だ人間としてつなぎ止めているのは、犬を飼ってると言う事実だけ。
 これは又、同時に我々にも問題を突きつけている。
“本当にあなたの見てる世界”は、確実ではない。あなたはそんな不確かな存在でしかない。
 だったら、あなた自身が
“存在する”事を求めなさいと。そう。バトーの劇中の台詞。「自分が生きた証を求めたいなら、その道はゴーストの数だけある」。これは「あなた自身の“存在する”方法を求める方法があるはずだ」。と言うメッセージとして受け止められるはずだ。
 これはおそらく押井氏自身の今のアイデンティティが犬にある。と言うことと無関係では無かろう。彼は『Avalon』撮影において、痛風のためにギブス生活を余儀なくされた時、まず何を求めたかというと、犬、しかもバセットだったという。かつて
虚無を描くことにおいて私のあこがれであった人は、虚無を越えた現実感覚を手にしていた訳だ。私自身がそう言うものを求めねばならない立場に置かれているからこその妄想かも知れないけど、間違いなく、私の指向と本作のメッセージは合致しているように思える。

 
…ちょっと暴走が過ぎたようだ。劇中の具体的なことに戻ろう。
 一回観ただけで何が分かる?と言われればそれまでだが、一回目に与えられるイメージが一番強いから、敢えていくつか言わせていただこう。
 まずバトーがいつも行く店で電脳ハックされたシーン。ここでバトーは右腕ばかりを撃たれている
(予告編で繰り返し流された映像だ)。それで面白いのだが、右腕を撃たれている瞬間に、絶対左手が何をしているのか、描かれていないのだ。電脳ハックされた瞬間、バトーはおそらく片腕だけしか関知していない。もう一方の腕は勝手に動いてる。バトーの右腕を撃ったのは、ハッキングによる幻想ではなく、実は自分の左手で撃ってるんじゃないかな?
 バトーは素子電脳の世界に行った後、普遍化した後でも、自分を観てくれることをよく知っていた。それが彼の言う
「守護天使」なのだが、キムの屋敷での無限ループに陥った瞬間にそれがはっきりとしている。屋敷に踏み込んだ時、トグサには見えてない幻想をバトーだけ観ている。3DCGのなかに、そこだけ浮かんで見える三つの物体。一つはaemethと並べられたカード。二つ目はバセットハウンド。そして三つ目は前作のラストでバトー自らが素子に与えた少女義体。これらは、カードは事の真相をバトーに告げるメッセージとして。バセットはバトーを現実に引き戻すため、そして少女義体は、バトーが守られていることを実感させるために。虚偽の空間の中で、これがバトーに現実を認識させる役目を果たしていることは確実。そしてループの2回目、メッセージに変化がある“aemeth”というカードの内、“a”と“e”がずらされている。“meth”と言うメッセージに変わっている。ここでバトーは事の真相に気付く訳だが(中世ユダヤ教のカバラーの教義でゴーレムというのがあって、と言う説明が加えられてる)、問題は3回目。そのメッセージ自体が変化している“2501”と。これは前作『攻殻機動隊』で、素子が最後にバトーに語った言葉「2501?それ、いつか再開する時の合言葉にしましょう」という台詞に適応している。ここで私も理解したよ。ここに素子が出てくる!完全な伏線になっている訳だ。
 本来素子はバトーの前に姿を現す必要は無かったはずなんだ。この電脳化された世界にあって、半ば神に近い存在となった。それが敢えてバトーの前に姿を現したのは、その約束を果たすためであり、そして“いつもあなたのそばにいるよ”という意味だったのかな?
 単にサービスで登場した訳じゃなかろう。これがバトーにとって、必要だったから。彼女と接触することによって、バトーは逆に現実感という奴をはっきり意識した訳だから。
 そしてラストシーン。トグサは自分の家にバトーを招く。そこでトグサの娘が登場するが(前作では登場こそしてないけど彼女はまだ赤ん坊だったはず。現実に時が流れていることを示しているのかも)、このシーンが実は観た瞬間は嫌だったんだが、改めて考えると、ここがあるからこそ、バトーははっきりと現実への帰還を果たすことが出来たのだろう。

 尚、上記は
全て初見の私の妄想に過ぎない。確信にまで至れるのは、何度も観る事と、これに対する議論を行うことによってなされるだろう。だからこのコメントは直し続けていくことになる。

 そして、ここまで我慢してつきあって下さった方のために、言葉を贈ろう。
 
「二度観る必要があるんだ」(by『トーキング・ヘッド』(1992)。一度目は映像の波を素直に楽しんだ後、再見した時に、考えながら観て欲しい。膨大なウンチクに惑わされることなく、しかしそのたたみかけを心地良く感じて欲しい。

 

GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊 1995
1995ヨコハマ映画祭脚本賞

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伊藤和典(脚)
田中敦子
大塚明夫
山寺宏一
仲野裕
大木民夫
玄田哲章
生木政壽
山内雅人
小川真司
宮本充
山路和弘
千葉繁
家中宏
松尾銀三
松山鷹志
小高三良
佐藤政道
林田篤子
上田祐司
亀山俊樹
後藤敦
坂本真綾
家弓家正
★★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
攻殻機動隊1(書籍)士郎正宗
攻殻機動隊2(書籍)
アップルシード
特捜戦車隊ドミニオン1巻 2巻
 電脳化が進みすっかり世界が狭くなった近未来。アジアと思しき国では電脳によるテロに対するカウンターアタックのため公安9課が設立されていた。そのエキスパートであり、全身サイボーグの草薙素子少佐は、電脳テロの最もユニークと言われる「人形使い」と呼ばれるテロリストを追っていた。だが、その正体を現した人形使いの姿は…
 これは漫画家士郎正宗の同名漫画の映画化作品。
 士郎正宗というと、その骨太なストーリー展開と膨大な設定量。そして巧妙なストーリー展開が受け、彼の漫画の大部分は映像化されるに至っている。GAINAX制作の
「アップルシード」、オリジナルストーリーとなった「ドミニオン」、そして原作者自身が監修した「ブラックマジック」…それらの作品は大体鳴り物入りでアニメ化されたのだが、全て「失敗作」の烙印を押されている(ファンもいるが)。
 彼の作品は一見アニメ向きに見えつつ、実はこれほどアニメ化しにくい作品も珍しい。ある意味、彼の作品は時代の先を行き過ぎていたと言えよう。
 一応原作者のファンで、映像化の度に何度も裏切られてきた私としては、この映画化の話を立ち読みの映画誌で見かけたとき、さほど気にかけなかった。どうせ又失敗だろう。そうとしか思ってなかった。
 ところが、何気なくその監督の名前を見た瞬間、立ち読みの姿勢で凍り付いた。本当にその格好のまま、しばらく動けなかった。
 オシイマモル…へっ?オシイマモルって…あのオシイ…
 何ぃ、押井守だぁ?
 又何で押井氏が原作付きを、いや又何でよりによって士郎正宗?
 我に返るとすぐにその雑誌を購入し、家に帰ってからその短い記事を繰り返し読みふけった。
 押井守の新作。しかも士郎正宗原作。もう
『攻殻機動隊』の名前は私にとって期待度100%を超す作品に変わっていた

 それで出来は…
 月並みだが、
あの映像にはびびった。今までも押井監督は数々の実験的映像を自らの作品に挿入していたが、ここでその部分を一気に前面に押し出した感じ。本当に見事な映像だった。
 アニメーションはハード的にかなりの制約があった
(日本においては予算と人員もその中に入るだろう)。それが新生ディズニーによってコンピュータが導入されることで、今までの制約がどんどん取り払われていった。それが実用に足るものであることをここで見せ付けてくれた。こいつは凄いぞ。少なくともこの作品、単なる良質作品を越え、日本アニメ界におけるエポック・メイキングの役割を果たすに至った。
 一方、映画としてこの作品を考えると、
押井守らしさと言うものが随分後退していることに気付く。押井守と言えば、膨大な量のウンチクと言葉の羅列。そしてそれに伴う哲学的な視点が特徴だが、その辺がかなり落ち着いているというか、抜けている感じがする。
 自己の主張を作品そのものの持つメッセージ性に託し、オリジナルの本質を最重要視した結果だろう。原作の多くの部分をばっさりと切り、キャラクターの性格まで変えて、漫画の本当のメッセージを出してくれた。よくここまで自分を抑えられたものだとかなり感心する。
 そう言う意味では極めてすっきりした内容となっているので、原作が難解で分かりづらいと言う人は是非この映画を観てから再度漫画を読んで欲しい。随分理解出来るはずだ。
 でも、私なりに言わせてもらえれば、演出を押さえすぎた結果押井節が無くなってしまったのは悲しいな。あれが好きなんだけど…その不満は
結局『イノセンス』(2004)で解消されるに到る。

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