スカイ・クロラ

  O-Top


DVD

限定版Blu-ray

Blu-ray
DVD&Blu-ray
スカイ・クロラ書籍(文庫)
書籍(セット)
映画ナビゲート(書籍)
絵コンテ
スカイ・クロラ The Sky Crawlers
2008日本アカデミーアニメーション賞
2008毎日映画コンクールアニメーション賞
2008HIHOはくさい映画特別賞

<amazon>
<楽天>
伊藤ちひろ(脚)
菊地凛子
加瀬亮
栗山千明
谷原章介
竹中直人
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
スカイ・クロラ(書籍)
 現代に似たもう一つの世界。ここでは国際的に平和な時代がやってきていたが、人々は自分たちが平和であることを実感するために、“見せ物”として企業同士の戦争を行っていた。戦いの中心は人為的に作られた歳を取らない人間“キルドレ”であり、企業を代表するキルドレが世界中で戦い続けている。そんな中、ヨーロッパの前線基地兎離洲(ウリス)に配属カンナミ・ユーイチ(加瀬亮)が配属される。この基地に来る前の記憶がなく、同時に何かに突き動かされるような感情もなく、基地で知り合った仲間達と共に淡々と前任者の残していった機体“散香”を駆り、任務を遂行していく。その中で基地司令官で、彼女自身キルドレのクサナギ・スイト(菊地凛子)に惹かれるものを感じていく…
 2004年の『イノセンス』以来実に4年ぶりの押井監督のアニメ作品が登場。
 アナウンスが流れたのが約一年前。それを聞いてすぐさま原作を読んでみたわけだが、物語として結構面白くはあったが、これを映画化するというのは、ちょっと難しくないか?というか、
これで作りたいのは物語としてじゃなくて空戦を単に描きたかっただけじゃないのか?という思いが沸々と…結局シリーズ5冊を全部読んでも、やっぱりこれ映画にするのは難しそうな?空戦シーン以外小説としてなら面白いけど、映像にするのはなあ。
 更に押井監督のインタビューを事ある毎に観る度に「日常の反復」を強調。ますます空戦以外のパートが退屈そうな…でも
「若者に伝えたいことがある」とも言ってるし、それなりにメリハリはあるのかも?
 それで拝見。
 
確かに言うだけのことはある。空の描写はこれまでのどのアニメにも真似できぬとんでもないリアリティ。エッジの利いたメカニックと鮮烈な雲のイメージは妥協無く作り込んまれた結果だ。しかも観ている側は徹底したカメラ目線で。下手なデフォルメはなく、「カメラで映してますよ」という視線が一貫しているので、しっかりと地に足の付いた演出がなされてる(カメラに水滴が付くところまではやり過ぎだけど、これでカメラを印象づけたのだろう)。
 日常パートにおいても、たまたま現在『機動警察パトレイバー2』の演出ノートMETHODを読み返しているが、そこに書かれていることがよく分かるパース付けがなされ、これもレイアウト・システム(映画製作に入る前に、いかにリアリティある絵を作れるのかを徹底的に検討するシステム)のなせる技だろう。
 少なくとも画面にかける演出力は他の追従を許さぬ素晴らしいものに仕上がってるのは確か。だが、一方で言えば演出面以外が問題ということ。
 まず大きな点で言えば、説明がまるでないという問題。説明を最小限にするのがアニメではクールとされているけど、少なくとも『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の成功の一部はしっかり劇中で説明が付いていた事にあると思う。それを敢えて行わなかったため、状況がまるで分からないという問題があり。淡々とした日常を描くんだったら、互いの評価を語らせることも必要だよ。キャラが多い割にその人となりがまるで分からない。最小限度の説明があれば、それだけでかなり物語に締まりが出てきたはずなのに。キャラクタよりも世界観を重要視するのは押井映画の特徴でもあるが、今回はそれが行きすぎてた。
 この説明が無いのは原作も同じだが、小説の場合は説明が少なければ、本を閉じて考える時間を持つ事が出来るが、映像の場合一方的に情報が入り込むので、考えてる暇がないのだから、それがないと分からないまま。世界観に関してはもう少し丁寧な説明があっても良かった。そもそも予告であれだけ流しているんだから、劇中語らせるだけでなく、説明文は一つくらい入れても良かったような…
 更に言わせてもらうと、これまで事ある事に押井氏は「アニメは90分に抑える必要があるんだ」と公言してきて、事実『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』に至っては80分という短い尺で詰めるだけ詰めていたのに、この作品は120分もある。これまでの自分の主張はどうなった?お陰で日常パートがますます間延びしてしまった感があるぞ。もしこれがせめて20分縮められていたら…と思うと惜しい。

 
以降書き直し

 二度目鑑賞。
 一度観ている分、今度は原作を意識せず、奥を覗いてみる気で鑑賞してみたが、これやっぱり二回目に観た方が面白い。私の中にはどこか原作至上主義が隠れているのかもしれんが、少なくとも
(敢えて言えば)押井至上主義者として、原作で予習などしてはいけなかった作品だった。
 それで遅まきながらようやく納得。これは押井の最高作品ではないにせよ、
間違いなく良作だ
 ただ、本作にはどこか座りの悪さを感じてしまい、それが私の理解を妨げてもいる。物語が悪いわけでは決してない。むしろようやく押井らしさというものを観ることが出来たのだが、改めて考えてみると、その座りの悪さとは一種のもどかしさであることに気づいた。
 これまで押井はアニメーション作家としては宮崎と共に世界のトップクリエイターとして紹介されていて、古くからのファンとしてもそれは大いに喜ぶべきことだったのだが、一方ではそれが少々不満でもあった。
 古くからのファンは、押井が映像作家として大変優れていることは認めるが、一方それはあくまで半面に過ぎないことを知っている。我々が真に楽しんでいたのは彼の
あくの強い主張に他ならない。それ以前の一見不条理劇に見える作品の中にも、物語内に込められた遊び心と、強烈な主張を楽しんでいたのだ。
 
「こいつを世間にこれを叩きつけてやる!」あるいは「不完全だろうがなんだろうが構わねえ。これを見ろ!」とばかりにほとばしらんばかりの思いが、少なくとも『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』(1993)以前のかつての諸作こには感じられた。
 正直受け止めるこちら側も、言ってることがなんだか分からない。
だけどそれを理解したい。あるいは理解したと思い込みたい。そう思わせる何かが確かに存在していたのだ。
 ただ、その半面の方を強烈に楽しめたのは多分
『P2』の時までだろう。この作品に関しては文句の言いようがない。映像クリエイターとしての主張と「見せてやる」という思いが絶妙にマッチングしてかつてない高水準の作品を作り上げて見せたのだ。
 押井自身は
『P2』を「負け犬の遠吠え」と称していたが、考えてみたら、これまでのすべての作品で押井は吠えていたのではなかったか。そして最後に言いたいことを一通り語ることで吠えることに一段落おいた。
 この時点で押井の心が分からないファンは何も分かってなかった。これだけのもを作ってくれたのだから押井はまだ吠え続けてくれるだろうことと、もっとすばらしい映像を見せてくれることを両方を望んだ。まだまだ若いクリエイターなのだから、十分その可能性を考えていたし、わくわくもしていた。
 しかし、それから押井の遠吠えを聞くことは
以降の作品では無くなってしまう
 吠えることをやめ、次の段階に進むこととなった押井は二つの方向性どちらかを選ぶことが出来ただろう。吠えるだけ吠えたのだから、後はそこから人々に対し、理を持って話し掛ける語り部になる方向性と、後は自分にとって楽しいことをやっていこうと言う方向性。ここでシフトする際、どちらも選ぶ方向性だってあったはずなのだが、前者を選ぶには気恥ずかしさもあったのだろうか。押井は後者を選んだ。
 その結果として登場した『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』は、観終えた時、これまでの押井作品にあった焦燥感がなかったのでファンには首を傾げる節もあったのだが、
皮肉なことにその転身は成功し、一気に世界的クリエイターとして脚光を浴びてしまった。旧来のファンはそれでもこれまでの日陰者が一気に日の光に照らされたことを知り、歓迎をもって迎えることとなる。
 旧来のファンの歓迎と、一気に新来ファン層の獲得という幸運に恵まれた『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』は見た目、大きな進歩に見えたのだが…
 以降の作品は、ある程度の新規ファンを獲得しつつ、それでも難解さを残していくことで押井の特異性を際立たせることになるのだが、旧来のファンにとっては実ははなはだ不本意なものが続く。難解さに昔からの主張が見えず、新しい作品が出来る毎に
「どうした押井」の声がこっそり囁かれる。だが表立ってはそれが言えず、むしろその点を攻撃する人に対し、過剰と呼べるまでの擁護主張をしていく。ファンとしても、形はどうあれ押井作品がコンスタントに作られていくことは喜ばしかったので、敢えて目を瞑る方を選んだのだ。
 その中で、はなはだ評判は悪いのだが、『イノセンス』は条件付きではあるがは良い意味で昔のファンを喜ばせた。映像とかなんとかよりも、押井が再び語りだそうともがいている姿がそこには見えたのだ。新来ファンに対し、旧来ファンが久々に優位に立てた。という自尊心をくすぐる作りだったのだ。少なくとも押井は再び吠えようとしている。それを知るだけでも満足していた。

 そして本作なのだが、これは特に旧来のファンにとっては、大変歓迎されるべき作品となった。古くからの作り方とはやや異なり、語りかけると言った感じではあったが、
確かにここには押井の主張があったし、それこそが押井節の進化形であることを感じさせてもくれたのだ。先ほどの言葉をもう一度言わせていただければ、ここで押井はようやくここで語り部になる決心をつけたのだ
 語り部たる主張は確かに薄かったし、果たしてこれが伝わるのか?という疑問は多少残るものの、これまでにはなかった上の視点から伝えようとしていることはしっかり伝わってくる。
 ここでの主人公ユーイチは、いわば二重の生活を送っている。空を飛んでいて、一瞬の緊張感で敵をほふるエースパイロットとしての自分と、一方では地上で新しく生まれた自分を際確認する作業に明け暮れる。自分は自分のことを何も知らない。それどころか自分の記憶さえも時間が経てば忘れていく。ただ自分を自分と認識できるのは数字の中と他者とのかかわりの中でしかない。その積み重ねの中、少しずつユーイチは様々人の人生を自分も受け持っていることに気づいていく。中でも何故か気に入られ、いちいち同行してくるクサナギの存在は、当初なんの意味も持たなかったが、二人でいる時間が彼にとって大きな意味を持ち始めていく。ここにいる自分はオリジナルではないこと、これまで何度も彼女と出会っていることを少しずつ思い出していく。一方、空を奪われ、オリジナルのまま徐々に壊れていくクサナギに対し彼は、「生きろ」と伝え、自分自身は彼女の代わりとなって散っていくことになる。その前に自分はクサナギによって殺されたと言うが、今度はお互いに傷つけあって殺しあうのではない。ユーイチはクサナギとの関わりの中で確かに自分を次に残そう。次につながる新しい可能性を残そうとしていく。原作とここはやや物語の結末が異なり、ユーイチはクサナギを撃つことなく、ただ「生きろ」という。多分ここに彼の思いが込められているし、迷走し続けていた押井なりの問いかけがここにはあったのだろう。そう考えると、本作の主題はまっとうすぎるくらいにまっとうだ。現状から脱却するためには、敢えてかなわぬ存在に挑んでいくことと、人との関わりの中で、命を残していくこと。
 結果として
実にまっとうなストレートなテーマを扱ったことになるが、ある意味まっとうすぎたことが、やや理解を削いでしまった感はあり。理解不足をそしられれば甘んじて受けるが、「終わりなき日常を生きる」これは10年ほど前に宮台真司が語っていたテーゼじゃなかったのか?宮台自身その思想を(言葉を弄し巧みにすり変えつつ)過去のものとして封印してしまっているし、今の時代にはあまりにそれはそぐわないものでは?
 ここで思うのは、これがもし10年前に、それこそ『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の時に語られるべきことだったのではないか。と言うこと。何故今?10年前にできなかったことを今やろうとでも言うのか?ではこの10年、押井は一体何をやっていたのだ?という思いに包まれる。
 ただし、10年の間隙をぬって作られた本作は、少なくともこれからの押井にとっての良き試金石であったのは確かだろう。まだ遅くはない。少なくともまだ何作も作れるだけの時間が残されているのだ。以降の押井の動向は、最も注目すべき事項になったのは確か。今はまずそのことを喜ぼうではないか。
カウントダウン・オブ・スカイクロラ

ページトップ