1958年 カート・ニューマン(監) |
|
高名な科学者アンドレ(ヘディソン)が自殺した。しかもその自殺の方法が、頭部と片手をプレス機で押しつぶすという、あまりに奇妙な方法で。彼の自殺の手助けをした妻を問いつめるアンドレの兄フランシス(プライス)とチャラス警部の問いに対し彼女が語る、アンドレを襲った恐ろしい運命とは… 逆転の発想で、最初のパートが実は最後のパートにつながっていると言う面白い構成(キューブリックの『ロリータ』(1961)でも同様な方法が採られていた)。これは上手い方法で、理由の分からぬショッキングな映像を最初に叩き付け、その後ミッシング・リンクを解いていき、最後に納得させる。ここではそれは実に効果的。何故彼が頭と手をプレスしなければならなかったのか、そんな恐ろしい死を選ぶに至ったその理由とは何?と言う過程に目が離せなくなる。それで最後のあのシーンか。上手い上手い。 この映画は、確かに怖い。しかしその怖さと言うのは、モンスターを対象として見ているのではなく、むしろモンスターとなってしまった人間の悲しみをこそ、正面切って描ききったところにこの映画の本当の恐ろしさがあったと思う。 この怖さの理由を、今になって考えてみた。 人の心には避けようもなく差別する心があるが、それは同時に差別されることを怖れる心と同義なのではないかと思う。だからこそ、人は差別されるよりは差別する方を選ぶのだし、差別されないためにも人と同じであることに汲々とするのだろう。 「私は人と同じだ」と言う思いは安心感を与えてくれるが、それが突然変わってしまったら?ここで受けた怖さ、と言うのはまさしくその点にあったのではないかと、そのように私には思える。アンドレは頭と片手が蝿になると言う、見た目ではっきりと分かるモンスターになってしまった。だが、こんなはっきりしたことでなくても、人は事故等によって、容易に今までの“人を差別する”立場から、“人に差別される”立場にされてしまう。それが私たちの中には根本的な恐怖心となって存在している。その根本的な恐れが浮き彫りにされているからこそ、この映画は恐ろしいと思える。 故にこそ、アンドレが死を選ぶことは当然の帰結。と思えるよう、最初にあのシーンを入れたのかも知れない。あの姿になって、生き続けることを選べないのは最初から分かっていた。 後にクローネンバーグ監督によりリメイク作『ザ・フライ』(1986)が作られるが、あの作品だと徐々に人外のものに変えられていく恐ろしさ、それを必死に受け入れようとしている男の姿、それを共有しようとした妻の姿に涙を覚えたものだ。一方、オリジナルである本作ではその変化はあまりにも突然で、受け入れる余地はなかった。逆にそれがより純粋なる恐ろしさとなって観る者を襲ってくる。 そして、後味の悪いまま迎えようとしているエンディング。そこで微かに聞こえてくる「Help me」の声… クモに襲われている蝿男のアンドレの半身を石で叩きつぶすのは、仕方ないと思いつつ、極めつけの後味の悪さを残してくれた。あれは果たして本当に半身が死んだアンドレに対する思いやりとなったのか?それとも単なる殺人ではなかったのか?あの姿に対する本能的な嫌悪感はお前にはないのか?まるで画面の奥から、観ているこちらに対し、無言のままでそれらの言葉が突き刺さってくるようだ。 全て簡単に答えることの出来ない謎を叩き付けたまま、映画は終了する。 なんたる悪趣味な映画だ。だけどやっぱり最後に思う。これは人の本能に訴える形の、とびっきりの恐怖映画に違いない。 |
アンドレ | → | |||
【あんどれ】 | ||||
|
エレーヌ | → | |||
【えれーぬ】 | ||||
|
チャラス | → | |||
【ちゃらす】 | ||||
|
フランシス | → | |||
【ふらんしす】 | ||||
|
Help me | → | |||
【へるぷ-みー】 | ||||
|
1959年 エドワード・バーンズ(監) |
|
前作で蝿男になってしまった科学者アンドレの息子フィリップ(ハルゼイ)は、父の研究を嫌悪していた母の死後、父の研究を続行しようと決意。伯父フランソワ(プライス)と親友ロナルド=ホルム(フランカム)の協力を得て別荘の地下室で物質転送機の開発を行う。だが実験が大詰めを迎えた時、親友が研究の横取りを企んでいる事が発覚。格闘の末、気絶させられたフィリップは転送機に入れられてしまうが、そこには一匹の蝿が…。 『蝿男の恐怖』(1958)のヒットによって製作された続編。好評を博した前作の設定を活かし、今度は白黒作品として、より蝿男をグロテスクにして作られているのが特徴。 白黒にしたのは、よりおどろおどろしさを演出するためらしく、フィリップが蝿と合体した姿はより気持ち悪くなって、強烈なインパクトを与えてくれている。あの顔は一度本当に夢に出た。 …けど、言っちゃなんだけど、前作の良い部分を全部こそぎ落として派手にしただけじゃない?続編の宿命と言えばそれまでとは言え… そして最後は悪人を殺してハッピー・エンドか…なんか『ザ・フライ』(1986)と『ザ・フライ2』(1989)の関係に似てない?。ひょっとして確信犯的に『ザ・フライ2』は作られたのか?駄作をもとにしたからこそ、駄作になったと言うことか。 |
フィリップ | → | |||
【ふぃりっぷ】 | ||||
|
フランシス | → | |||
【ふらんしす】 | ||||
|
ロナルド | → | |||
【ろなるど】 | ||||
|
1965年 ドン・シャープ(監) |
|
物質転送装置の失敗によって蝿男となってしまったアンドレ=ドランブルの息子アンリ(ドンレヴィ)は、二人の息子と共に父の遺した研究を続けており、ついに実用に耐える転送装置を完成させた。息子の一人マーティンはカナダのモントリオールで装置を完成させ、ロンドンにいる父をカナダに転送させる。そしてマーティンは父に実はこのモントリオールで一人の女性と出会い、そこで結婚をした事を告白するのだった。パトリシアというその女性を紹介され、家族が出来たと喜ぶアンリだったが、マーティンと二人きりになると、彼を詰問するのだった。そして新生活が始まるが、パトリシアは居間で醜い姿をした女性がピアノを弾いているのを目にしてしまう。それを隠そうとする家人に不審の念を覚えたパトリシアは、入ってはいけないと言われた庭の片隅へと足を向けるのだが…。 一連の蝿男シリーズの“一応の”最終作(一応というのは、この後随分経ってからクローネンバーグにより『ザ・フライ』(1986)が作られたから)。ちなみに題字こそ『蝿男』の名前が出るものの、蝿男の姿はスチール写真一枚のみで、実際に本作には登場しない。だからこそ「呪い」なんだろう。 ここに登場するのアンリは2作目『蝿男の逆襲』(1959)のフィリップの息子と言うことになる。もう既にずいぶんな年齢になってるようだから、一作目から一体何十年経過したんだろう?(フィリップは一旦蝿男になった後で彼をこさえたので、ハエの遺伝子が彼の中にはあるそうな)尤も、本作ではむしろ主人公はその子のマーティン。なんと親子四代に渡っての研究という訳か。このマーティンという人間の描写が結構無茶苦茶。当初割とまともな人間と思わせておいて、ストーリーが進むに連れ、徐々に狂気描写が進んでいき、最後は青髭を地でやる役になってしまう。その辺の逆転の発想は面白いのだが、何せ本作はストーリーに無理がありすぎ。突拍子もないことがどんどん出てくるし、最後は唖然とする展開を見せることになる。一話目にあった叙情性は最早かけらも存在せず、完全なB級ホラーになってしまっている。監督がハマーで手腕を振るったシャープだけに、それに準じたと言うことだろうか? まあ、ストーリーはともかく、描写に関してはなかなか面白くできている…というか、無茶苦茶気持ちが悪い。蝿男自身は出てこないものの、転送失敗してフリークスと化した人間が続々登場するし、電送シーンは観てるだけで緊張感というか、後の展開を予想して気持ち悪くなってしまうよ。 総評として言えば、「良く作ったもんだ」。これに尽きる。少なくとも、前々から観たい観たいと思っていたので、観られただけで充分。 |
アンドリュー | → | |||
【あんどりゅー】 | ||||
|
アンリ | → | |||
【あんり】 | ||||
|
ジュディス | → | |||
【じゅでぃす】 | ||||
|
パトリシア | → | |||
【ぱとりしあ】 | ||||
|
マーティン | → | |||
【まーてぃん-どらんぶる】 | ||||
|