滅び行くクリプトン星でジョー=エル(クロウ)の最後に生まれた子カル=エルは、ジョー=エルによって地球に送り出された。地球でジョナサンとマーサの夫婦に拾われたその子はクラーク・ケント(カヴィル)と名付けられて成長した。超人的な力を持ったクラークは、地球人とは違った自分の力に悩みつつ、青年時代を迎えた。そんな時、クラークの生存を知ったクリプトン星の生き残り、ゾッド将軍(シャノン)はクラークの体に埋め込まれたクリプトン星の再生をはかるコデックスを狙い、地球へと飛来する…
アメリカン・ヒーローの代表スーパーマンの活躍を描く最新作。今年の夏のSF大作ラッシュの一本として公開された。
本作の監督はザック・スナイダー。前に作ったヒーロー作品『ウォッチメン』の出来が素晴らしかったのでかなり注目の監督である。ただ、それだけではまだ足りない。『ウォッチメン』の良さとは原作の良さであり、監督はそれを忠実に映像化したに過ぎないとも言えるから。
そしてかかった予告編。これが文学調でうまくまとまってた。これは期待できる!
さて、それで本編だが、作り方そのものは予想以上にヒーロー作品していた。ただし、それは良い意味でも悪い意味でも。
良い意味で言うなら、これはヒーローの誕生話として、ほぼ完璧な構造をもっていること。地球人とは明らかに異なる自分の力に悩む子ども時代を経て、自分の力を受け入れるまで。そして初めての敵に出会い、自分の力全てを使って敵を打ち倒すことと、人間を守る存在として自らのアイデンティティの確立。こう言ったもの全てがバランスよく詰め込まれている。派手な立ち回りシーンや、人間側の努力が話のキーとなってるところも上手い作りだ。特にヒーローの基本スーパーマンだから、これは充分受け入れられる。
一方、悪い面は、上記そのまま。あまりに完璧すぎる教科書的物語のため、全く特徴が感じられないということ。
もし本作が「スーパーマン」の最初の映画化作だったらそれで良かったのだが、既に何作も作られた上でこれか。しかも80年代に作られてたクリストファー・リーヴ主演作は、当時流行りの脱構築の影響をモロに受け、相当にひねくれた作品が作られていたので、それをリアルタイムで見せられた世代としては、この素直過ぎる物語構成には、どうにも居心地の悪さを感じてしまう。
しかもその後、ヒーローものとしてMARVELの、言うなればひねくれたヒーローが映画では全盛時代に入ってる。
この流れで素直な物語作るならば、忠実に地道な物語を作ると言う選択肢はなかったような気はする。昔のようにスーパーマンが精神的に壊れるような話までいかなくても、もう少しひねりを加えて欲しかったってのが本音だ。さもなくば、『パシフィック・リム』(2013)や『スター・トレック イントゥ・ダークネス』(2013)ばりにオタク趣味全開にして、「分かる奴だけ分かれば良い」って開き直るか…
そんなもんで、かなりの欲求不満を感じざるをえない。丁寧な完璧な物語を作るより「うおぉぉぉ」と言わせてくれる物語が欲しかった。
この作品の構造として、少し捻るべき部分があったとすれば、それはクラークが自らのアイデンティティを問いかけるところだろうか?
この作品でもアイデンティティを問いかけるところはあった。故郷の星からゾッド将軍がやってきた時に、ケントが地球人として生きるか、血を選ぶか?と自らに問いかけるシーンがそれ。ここは実はこの作品を左右するとても重要なシーンのはずであり、クライマックスにすべき部分だった。ただし、これまでの物語展開から、クラークが精神的な意味で追いつめられるところが無かったし、ゾッドは父ジョー=エルを殺した犯人であることもすぐにばれている。ケントにしても、観てる側としても、選択するのは決まってるとしか思えず、案の定人間の味方をあっさりと決めてしまう。この部分が勿体なく、そしてここを描写出来ないのが監督の限界と思える。
キャラに関しては申し分なしだろう。ケント役のカヴィルは、『スーパーマン リターンズ』(2006)のラウスとは違ってワイルドな魅力があるし、父親二人がラッセル・クロウにケヴィン・コスナーだから、とんでもない豪華さだ。
唯一カヴィルに不満なのが、顎の形が個性的過ぎ。いくら眼鏡かけて変装してもこれだけで正体ばれそうだ。 |