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2020 | |||||||||||
2019 | |||||||||||
2018 | ボヘミアン・ラプソディ 監督 | ||||||||||
2017 |
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2016 | X-MEN:アポカリプス 監督・製作 | ||||||||||
2015 |
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2014 | X-MEN:フューチャー&パスト 監督・製作 | ||||||||||
2013 | ジャックと天空の巨人 監督・製作 | ||||||||||
U Want Me 2 Kill Him/ユー・ウォント・ミー・トゥ・キル・ヒム 製作 | |||||||||||
2012 | |||||||||||
2011 | X-MEN:ファースト・ジェネレーション 製作・原案 | ||||||||||
2010 | |||||||||||
2009 | |||||||||||
2008 | ワルキューレ 監督・製作 | ||||||||||
ブライアン・シンガーの トリック・オア・トリート 製作 | |||||||||||
ダーティ・セクシー・マネー(2nd)<TV> 製作総指揮 | |||||||||||
2007 | ダーティ・セクシー・マネー(1st)<TV> 製作総指揮 | ||||||||||
2006 | スーパーマン リターンズ 監督・製作・原案 | ||||||||||
2005 | バミューダ・トライアングル 製作総指揮・原案 | ||||||||||
2004 |
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2003 | X-MEN2 監督・脚本 | ||||||||||
2002 | ネメシス/S.T.X 出演 | ||||||||||
2001 | |||||||||||
2000 | X-メン 監督・原案 | ||||||||||
1999 | ドキュメント アルフレッド・ヒッチコック〜天才監督の横顔 出演 | ||||||||||
1998 | ゴールデンボーイ 監督・製作 | ||||||||||
1997 | |||||||||||
1996 | |||||||||||
1995 | ユージュアル・サスペクツ 監督・製作 | ||||||||||
ザ・カンヌ・プレイヤー 出演 | |||||||||||
1994 | |||||||||||
1993 | パブリック・アクセス 監督・脚本 | ||||||||||
1992 | |||||||||||
1991 | |||||||||||
1990 | |||||||||||
1989 | |||||||||||
1988 | |||||||||||
1987 | |||||||||||
1986 | |||||||||||
1985 | |||||||||||
1984 | |||||||||||
1983 | |||||||||||
1982 | |||||||||||
1981 | |||||||||||
1980 | |||||||||||
1979 | |||||||||||
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1976 | |||||||||||
1975 | |||||||||||
1974 | |||||||||||
1973 | |||||||||||
1972 | |||||||||||
1971 | |||||||||||
1970 | |||||||||||
1969 | |||||||||||
1968 | |||||||||||
1967 | |||||||||||
1966 | |||||||||||
1965 | 9'17 ニューヨークで誕生 |
ボヘミアン・ラプソディ | |||||||||||||||||||||||||||
2018米アカデミー主演男優賞(マレック)、音響賞、編集賞、作品賞 2018日本アカデミー外国作品賞 2018英アカデミー主演男優賞(マレック)、音響賞、撮影賞、衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアー賞、編集賞、英国作品賞 2018ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(マレック) |
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複雑な血筋を持つ移民の子としてイギリスで生活していたファルーク・バルサラ(マレック)は当時解散の危機にあった学生バンドの「スマイル」に自分をボーカルとして売り込み、4人の新生バンド「クイーン」をスタートさせた。フレディ・マーキュリーと改名したファルークは、洋装店の店員メアリーとつきあいつつ、順調にバンド活動を続けていく。そして自主制作したアルバムがEMIレコードに認められることになるが… 伝説のバンドと言われるクイーンというか、カリスマヴォーカリストのフレディ・マーキュリーを描いた作品。 80年代。空前のポップスブームがあって、私もその時にどっぷりとはまり込んでいた。その当時では既にクイーンは過去のバンドと言われていたのだが、あの伝説の1985年の「ライブ・エイド」での圧倒的な演奏を聴かされ、以降大ファンになったものだ。お陰で今でも何曲かカラオケで歌うことが出来る。 クイーンはいろいろ物議を醸すことがあったし、メンバーそれぞれに強烈な個性と音楽センスがあるので、一人一人のメンバーに踏み込むことも出来る。しかし本作の場合、ひたすら一つのの描写に絞った。 クイーンそのものではなく、ボーカル兼ピアニストのフレディ・マーキュリーの生き様をピックアップしたのが本作の特徴である。 だから実際の伝記というよりは、フレディという人物像を探るための作品と言って良い。 クイーンの中でも最も派手でニュース沙汰にもなることが多かったフレディ。最も知られているのは髭にタンクトップの姿だが、そこに至るまでも、髪を金髪にしてみたり、かつら姿であったり、女装してみたりと、何かとファッションセンスも常人離れしていたものだ。それを本作ではアイデンティティを探る過程として描いているのも特徴の一つだろう。 格好であれ音楽性であれ言動であれ、何事であれエキセントリックだったフレディは、その中で必死に自分を見つけようとしていた。それは複雑な人種問題だったり、セクシャリティだったり。本作はそこに焦点を当て、フレディの内面を描写する形で展開していく。 時としてそれは実際のものとは異なることもあったり端折ったりすることもあるが、バンドの歴史の流れの中でフレディ自身がどう変わっていったのかを描こうとしたようでもある。 フレディの心は揺れる。その揺れを観ている側も味わいつつ、同じ葛藤を味合わされて精神がぐらぐらと揺らされる。 フレディは安定しない。結婚しても、バンドが売れても、金をどれだけ遣えるようになっても、山ほどの猫に囲まれても。 それではゲイであることをカミングアウトしたらどうか? それでもやはり精神は不安定である。何をしても決して満たされることがない呪いをかけられたかのようなキャラである。 それを見せられるので、観ている側も相当なストレスが溜まっていく。 そこでラストの20分が活きるのだ。 これまでフレディと共に精神的な旅を続け、いろいろなプレッシャーややるせなさを味あわされた末、ライブ・エイドにたどり着き、これまでの葛藤を超えて絶叫するフレディの歌声に同調することでカタルシスを得る。なんたる解放感。この心地よさあってこそ、本作は本当に活きてくる。 この手法自体はありふれたものだが、そこに持って行く演出力が大変優れており、そこでの共感力も高い。 少なくとも演出部分に関しては本作は文句なしの最高作品と言える。 そして本作はやっと性についてエンターテインメントの中でちゃんと捉えることが出来たというのも大きな意味合いを持っている。 ブライアン・シンガー監督はこれまでの作品でもだいぶ評価してきたつもりだが、本作ではっきり最高の監督と言えるようになった。 |
X-MEN:アポカリプス 2016 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ミュータントの力を世界に示した1973年の出来事。それから10年後の1983年。なかなかミュータントのことを理解されない世界の中、チャールズ・エグゼビア(マカヴォイ)は恵まれた子ども達の学園を精力的に拡大していった。そんな中、古代に生きた最初のミュータントと呼ばれるエン・サバ・ンブール(アイザック)がミュータントを崇めるカルト集団によって目覚めた。甦った彼はこの世界が堕落しているとして、一度全てを破壊しようと考える。そのために自らの配下となる四人のミュータントを次々にスカウトする。その中にはエリック・レーンシャー(ファスベンダー)の姿もあった。 新世紀となり、ビッグバジェットのヒーロー作品が次々作られるようになってから、これまでX-MENの名を冠する作品は本作を含め6作が作られた。それ以外にもキャラクターの一人ウルヴァリンを主役とした作品が2作。同じ世界観でのデッドプールを主役としたものが一本。なかなか世界観が広がっている。この六本の作品は、最初の三作が一連のシリーズとして完結しているのだが、新しい三部作は旧作を踏襲しつつも新しい展開を見せるようになった。 特に前作『X-MEN:フューチャー&パスト』は異なってしまった二つの物語の要として、見事なつなぎ方をしてくれていて、奇跡的な出来とすら言えたから、つい本作も期待していた。 だが、期待値が高すぎたのだろう。やや期待外れな出来となってしまった。 作品そのものはとてもシンプルなもの。出現した強大な敵を苦労の末に打ち倒すというだけの話。それ以上でもそれ以下でもない。いかにも普通の作品であり、最近のお祭り騒ぎになってる「仮面ライダー」劇場版シリーズとたいして変わりがない程度の物語で、大分不満がたまる。 そんな訳で、この作品の物語についてはほとんど語る事が無い。せいぜい「サイロック格好良い」くらいしか。ほかにはこれまでのシリーズで存在した明確な主人公がいなくなったお陰で凄くまとまりがなくなったとか。 だが、だからと言って本作が凡作であるとは言わない。 本来の歴史と現在の歴史をつなぐ物語全体の設定として考えるならば、結構この物語も面白くなる この新三部作を振り返ってみると、まず一作目はプロフェッサーXとマグニートの誕生話となる。言うなれば、単純にオリジナルシリーズの過去話としてまとめられているのだが、二作目で過去に送られたローガンが歴史を変えてしまったため、方向性は大きく変えられた。 結果としてここで旧作と新作はパラレルワールド化し、全く別物となってしまったのだ。 旧作と本作の違いを少し挙げてみよう。 まず本作の敵アポカリプスが挙げられよう。これほどの強力なミュータントでありながら、旧作では甦ることなく、ずっと眠ったままの存在だった。本作で彼が蘇ったのも1973年の歴史改変の出来事のお陰。あの事件のお陰でミュータントの存在が世界中に知られてしまったのだが、その結果世界中にミュータントを崇めるもしくはミュータントを利用しようとするカルト教団が出来て、彼らの一派が文献を漁ってアポカリプスを目覚めさせてしまったのだ。 そしてマグニートーも違った歴史を歩んでいる。旧作では描かれてはいないのだが、元々の流れでは、政府によって長く閉じ込められて人類への憎悪を醸成した後に脱走。ミスティークを筆頭とする強力なミュータントを集めてミュータントこそが人類を支配すべきであるとする“フレンドシップ”を結成するはずだった。しかし1973年にローガンによって脱走させられた際、ミュータントの力を示そうとして失敗。更に後の禍根を防ぐためにミスティークを殺そうとしたことから、最も頼りとなる仲間を失い完全に孤立してしまった。そして戦う事の虚しさを知ったために隠遁してしまう。本来の歴史ではここは雌伏期間で、ミスティークと共に仲間を探しているはずが、ここでは人間の家族を作って身を潜めている。そういう特徴がある。 そのせいだろうか。妻と娘の死によって人類に対する怒りがわき出すことになるのだが、ここでの怒りはとてもネガティブなものでミュータントの未来なんて全く考えられない。ただ憎悪の塊となって人類を滅ぼす以外のことは考えてないから、アポカリプスの誘いに簡単に乗ってしまう。 それで本来マグニートーとパートナーとなれなかったミスティークの運命も変わる。ミスティークは独自にミュータントのために働こうとしているのだが、彼女は組織をまとめる力がないので、個々のミュータントを助け続けるしか出来ない(これは『X-MEN:フューチャー&パスト』と同じスタンス)。本来の歴史であればマグニートーの元で、思う存分能力を使えていたはずなのだが、孤独な戦いが今も続いている。 プロフェッサーXについては本来の歴史と現在の歴史ではやっていることは変わってないのだが、唯一違っているのは、スクールにいるジーンの存在である。これは本来の歴史である『X-MEN:ファイナル ディシジョン』のオープニングでジーンを引き取る際、プロフェッサーとマグニートーの二人でその家に出かけている描写があったのだが、その時はジーンの記憶を封印して都合の良い記憶を加えていた。それが結果的に大悲劇を引き起こすことになってしまったのだが、ここではマグニートーが隠遁しているため、プロフェッサー一人で会いに出かけていったのだろう。その結果、彼女の記憶に介入することはなくなったが、その代わりにジーンは不安定な能力を抱えたまま、学園でも孤独を託つことになる。 後、物語にはあんまり関係ないけど、『X-MEN:フューチャー&パスト』のラストで捕まってしまったウルヴァリンは今も実験動物として監禁状態である。 …という前提のもので本作は始まったが、ストーリーラインは単純でも、設定的には観るべき部分がある。 その最大のものがミスティークとジーンという二人のミュータントの存在となる。旧作でもこの二人は重要な役割を担っていたのだが、本作を通し、二人は旧作とは違った覚醒の仕方をする。 ミスティークはこれまで実に10数年を通して自分のできる限りミュータントを助けていたのだが、それではやっていけないことを知り、チャールズと本式に手を組むことを決意する。これはチャールズの考えるミュータントと人類の融和に共感したからではなく、又エリックの「ミュータントが人類を支配すべき」という考えでもない。力を持つミュータントこそが真に人類を守れる存在なのだと言う事に気がついたのだ。だから彼女はX−MENの中にいながら、武闘組織としてのX−MENを結成する。彼女の決意が、これからのX−MENの新しい歴史を作っていくことになる。これから出るであろう続編は彼女の作り出したX−MENの物語となっていくはず(多分X−FORCEの誕生となるのだろう)。 一方、あらゆる思考を実現してしまうという特種な能力を持つジーンは、旧作最終話の『X-MEN:ファイナル ディシジョン』ではその能力の暴走を引き起こしてミュータントの大粛正という悲惨な結果を引き起こすのだが、それは自分の能力をプロフェッサーによって押さえ込まれ続けた反動だった。一方本作で強力な敵アポカリプスと戦う事によって、制御不能かと思っていた自分の能力の限界を知って、コントロールの術を知るようになる。これによって悲惨な未来は回避できたと言う事になる。 この二人が同じチームにいることによって、これからのX−MENは真の意味での、本来の道へと入り込んでいくことになるのだ。 このお陰でストーリーラインがもっと単純化された続編は充分可能になった。そしてそれが本来のX−MENらしさになっていくだろう。 それは一面の寂しさでもある。このシリーズは単純な活劇だけではなく、マイノリティがどう生きていくべきなのかを提示し続けていた物語のはずだったのだから。 あと、ちょっと看過できないのが、劇中『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』(1983)を観たジーンが「三作目って最低よね」と言っていたが、あの作品を最高と思う人だっているのだ。 |
X-MEN:フューチャー&パスト | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2014米アカデミー視覚効果賞 2014英アカデミー特殊視覚効果賞 2015MTVムービー・アワード悪役賞(ディンクレイジ) |
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プロフェッサーX(スチュワート)とマグニートー(マッケラン)から、人類の作りだした対ミュータント用ロボットのセンチネルによってミュータントが滅亡の危機にあることを聞かされたローガン(ジャックマン)は、キティというミュータントの能力によって精神を1973年に飛ばし、そこでセンチネル計画を阻止することとなった。そこで若き日のプロフェッサーX(マカヴォイ)と出会うが、その当時の彼は全てに絶望し、自らの能力を封印していた。マグニートー(ファスベンダー)との協力が必要と訴えるローガンだったが… X-MENシリーズ最新作。正直な話を言えば、その前に当たる『ウルヴァリン:SAMURAI』(2013)が見事な駄目作品だったので、あんまり期待は出来ないだろうと思いつつ、それでもこのシリーズ好きなので、やっぱり劇場に足を運んだ。 結果、大満足して劇場を出ることになった。こんなに楽しい思いをさせてくれた作品が出来たことを素直に賞賛したい。 このシリーズは結構枝葉が伸びていて、オリジナル版は『X-MEN:ファイナル ディシジョン』(2006)で一応の完結。その後、外伝として生まれから記憶を失うまでのウルヴァリンを描いた『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』(2009)があり、更に前史を描く『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』(2011)がある。つまり、都合で3つの枝葉があった(ちなみに『ウルヴァリン:SAMURAI』は『X-MEN:ファイナル ディシジョン』の後の話になるため、正史の続編となると言うややこしい話にもなってる)。それで本作は正史の続編という位置づけであるのは確かにせよ、その枝葉である『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』および『ファースト・ジェネレーション』の続編にもなっている。都合三つのシリーズ全ての続編となる。正直、これまでのシリーズを全部包含出来るとは思ってなかった。ほとんど曲芸とも言えるが、こんなことをやってくれたことに惜しみなく称賛したい。シリーズを再びシンガー監督へと戻したのは大正解と言えよう。 なにより、その点だけでも本作は素晴らしい。スチュワート&マッケランのコンビだけでなく、マカヴォイ&ファスベンダーのプロフェッサーXとマグニートの姿が観られたことも嬉しいし、この二人が自らの信念に従って、時に協力、時に敵対という姿勢を取り続けていたことも分かったし、『ファースト・ジェネレーション』と正史の間にあるミュータント達の断絶の理由も明らかにされた。結局あれだけいたミュータントの大部分は、1970年代にみんな殺されてしまったことが分かる(ちなみに『X-MEN2』に登場したナイトクロウラーはミスティークとアザゼルの間の子なので、その存在の証は続いている)。 プロフェッサーXもマグニートーも、ミュータントを愛し、彼らを守ろうとする姿勢は一致しているのだが、そこからの姿勢が違う。ミュータントと人類は共存できるとを主張するプロフェッサーX。対してミュータントこそが人類を指導する立場にあるのだとするマグニートーの立場。この二人の主張のぶつかり合いが本作の物語そのものを引っ張っていく。 そこで重要なキーパーソンとなるのがミスティーク。彼女の遺伝子情報がセンチネル計画の肝となり、彼女が人類に捕まってしまったら、その時点で未来は終わってしまう。それに対し、本来敵対する立場にあるプロフェッサーXの方が彼女を保護しようとしているのに対し、ミスティークの上司であるマグニートーが、もっと手軽に、彼女を殺してすべてを終わらせようとしているところが描かれるのだが、これが二人の主張のぶつかり合いを視覚化したものとして捉えるべき部分だ。 ミュータントの未来の為に、彼女には死んでもらわねばならないとするマグニートー。それは彼にとっても苦渋の選択だっただろう。自身の片腕とも言えるミスティークがいなければ、マグニートーの考えるミュータントの独立は遠くなる。だが、彼女が生きている限りは人類に狙われ続け、一回でも人類に彼女が囚われてしまった場合、全ては灰燼に帰す。だからこそ、彼女には死んでもらわねばならないと考えた。一方プロフェッサーXの場合、人類との共存が可能であれば、人類は対ミュータント用のセンチネルを作らないで済むはずだと考えているため、敢えて敵であるミスティークをも助けられると考えた。 実はこの二人の主張のぶつかり合いこそが、本作の最大の見所となる。そしてその二人の思いを受け、ミスティークが下した判断が、ミュータントの未来を作り出していくことになった。 その結果が、あのラストシーン。これまでの戦いで死んだ筈のX-MENメンバーたちが全員生き残り、ミュータントにもちゃんと未来は用意されていた。マグニートーやミスティークは決して単なる悪の存在ではないし、単に本作が「的の敵は味方」を描いただけのものではないことがここで分かる。形はいろいろ違っていたとしても、ウルヴァリンはX-MENのメンバーになり、ミスティークの変化によってジーンは覚醒することなく、故にスコットも生き残る。最後に憎まれ口を叩くスコットを見ているウルヴァリンのシーンはとても印象深い。 …あれ?そうなると、ウルヴァリンの存在はどうなる?彼の存在とは、未来の危機を警告するためだけでしかない。狂言回しのような存在。結局最後は宿敵ストライカーに発見されてしまい、同じ運命を辿ることになるわけだし…人類を救うために命がけで過去に行ったのは良いけど、本編に全然絡まないって、なんだかとても気の毒。 以下余談。 本作では、人類とミュータントは時に協力もするが、基本は敵対しているということがはっきりしているわけだが、この部分が丁寧に描かれていることが大きな強みとなっている。シンガー監督が作り上げたX-MENサーガの根幹部分は、特殊能力を持ってしまったミュータントと人類との確執にこそあるのだから。 これは、マイノリティとして生きざるを得ない人間が、そのアイデンティティを勝ち得る物語となる。この前提があってこそ、本作はしっかり地に足が付いたものとなるのだ(実際にアメリカで起った公民権運動と歩調を合わせているところもある)。 本作でもそれはさり気なくいくつも登場している。 例えば、マグニートーはケネディ大統領暗殺の罪を被されているが、実はマグニートー自身はケネディを救おうとしたと本人が言っている。これはケネディが公民権運動を受け入れようとしていたことにも絡んでいて、多分この世界のケネディは(ミュータントを含めて)公民権を認めようとしていたがために殺され、そのスケープゴートとして、皮肉なことにケネディを救おうとしたマグニートーに罪を被せたということになる。マグニートーが捕まっているという事実だけでも、ちゃんと深いところで絡みがある(誰が本当にケネディを殺したのかは推測以外はできないけど)。 そして1973年というのはヴェトナム戦争の停戦協定であるパリ和平協定が結ばれた年で、本作はその当日を舞台にしているのだが、ここで和平協定の文言が「人類は新たなる敵に対して手を結ぶ」と宣言されていた。これはすなわち「これからは人類ではない存在に対して戦っていこう」という宣言となっているわけで、「人類は手を組んでマイノリティであるミュータントを撲滅していく」。人類を統合するために新しい敵を作り出すという宣言になるわけだ。 マイノリティを扱うというのは、ミュータントに限ってのことではない。様々な部分でマイノリティは存在するのだから、そういう存在が、国家によって弾かれ、敵とされていく過程をちゃんと見せようとしている。 「X-MEN」という作品自体がアメリカで受け入れられてきた素地として、このマイノリティに対する視点があるからなのだろうし、だからこそ映画になってもきちんと映える作り方になっている。 以下、更に余談。 …ってなことを、少しだけTwitterに書いていたら、ジェームズ・マカヴォイ本人からリツィートされた(5分後には取り消されてたから、なんかの間違いだろうが)。なんか嬉しかったもんで、つい長々としたレビュー書かせていただいた。 |
ジャックと天空の巨人 Jack the Giant Slayer |
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ワルキューレ 2008 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2009サターン作品賞/アクション、アドベンチャー、サスペンス、主演男優賞(クルーズ)、助演男優賞(ナイ)、助演女優賞(ハウテン)、監督賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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スーパーマンリターンズ 2006 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2006米アカデミー視覚効果賞 2006英アカデミー視覚効果賞 2006ゴールデン・ラズベリー最低助演女優賞(ボスワース) 2006サターンファンタジー映画賞、主演男優賞(ラウス)、監督賞、脚本賞、音楽賞、主演女優賞(ボスワース)、助演男優賞(マースデン)、助演女優賞(ポージー)、特殊効果賞 2006全米BoxOffice第7位 |
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クリプトン星の3悪人との戦いに勝利したスーパーマン=クラーク・ケント(ラウス)は、祖国クリプトン星がまだ存在していると言うことを聞き、恋人のロイス・レイン(ボスワーズ)に別れも告げずに星の彼方へと去っていった。それから5年。ロイスはケントの事を忘れようとしており、リチャード(マースデン)という恋人と、一人息子ジェイソンに囲まれ、忙しい日々を送っていた。彼女の仕事ぶりは評価され、なんと「スーパーマンは必要ないか?」という新聞記事はピューリッツァ賞まで取っていた。そんな時にケントは帰ってきた。折しも、刑務所を出た宿敵レックス=ルーサー(スペイシー)も又、新たなる野望のため、行動を開始していた… クリストファー・リーブ主演による一連のシリーズ以降、劇場ではなりを潜めていたスーパーマンが帰ってきた!流石にリーブのイメージが強すぎてスーパーマンのキャスティングには苦労しただろうが、ブランドン・ラウスという、まさにスーパーマンそのものの俳優を手に入れたのは大きい。動くまでは結構不安だったのだが、あの筋肉の付き具合と言い、古めかしいアメリカンスタイルの顔つきと言い、割れた顎と言い(笑)、まさにリーブ以来のコミック版スーパーマンの姿がそこにあった。これだけでも嬉しい。 このスーパーマンの大きな特徴と言えば、やはり“ストレートさ”というのに尽きるのでは無かろうか?物語も『スーパーマンII 冒険編』(1981)からの素直な続編になっているし、近年かなりの数のアメコミヒーローが作られているが、その多くは心に闇を持っていたり、コンプレックスの固まりだったりして、ストレートなヒーロー像とはちょっと違った位置づけを与えられていた。例えばマーベルの『スパイダーマン』(2002)はまさに思春期の青年そのものの悩みだし、同じDCコミックの『バットマン・ビギンズ』(2005)では心の奥底にある闇を直視してきた。 それに対し、シンガー監督が投入したのは、本当にまっすぐな作品だった。そりゃ確かにここでのスーパーマンも悩むし、嫉妬を覚えることもある。時としてただの人間にいたぶられる描写だってある。だが、それらは全て“ヒーローの宿命”として描かれている感じ。それ以上のものが感じられないのだ。言ってしまえば、王道。且つ、無難。 で、それが悪いか?と言えば、「とんでもない」である。“スーパーな人”を描くのだから、そのスーパーぶりを最大限に描くことこそが本作に与えられた命題だったし、このストレートさは、まさにそのまま観客が観たかったスーパーマンの姿だったはずだ。 ヒーローが悩むのは良い。苦悩するのも良い。しかしスーパーマンについては、度を超してはいけないのだ。その辺シンガー監督はよく分かってらっしゃる。 しかもこの演出は素晴らしい。『X-メン』(2000)の時も感じたが、シンガー監督、長い作品をダレ場なしに描くことにかけては名人級だ。2時間半を超える作品で、全然飽きさせてくれなかった。こんな当たり前の物語を作っておきながら、最後までほどよい緊張感を持ったまま観られるのだ。これだけでも評価すべきだろう。相変わらずアメリカばかりを舞台にしているのも、らしくって良い(笑)。それに次回作につながるいくつかの伏線もちゃんと残しておいた。 復帰作一発目としては、これは成功だろう。独自路線を行くのは続編以降でも良い。 配役に関しては、主役二人は言うまでもない。新人ながら、この人を待っていた!と言うべきラウスの存在感は素晴らしいし、敵役ルーサー役も、ハックマンの跡を継ぐならこの人しかいないだろう。というケヴィン・スペイシー。これだけで充分(実際の話、前に『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』(2002)観た時、ルーサー役はこの人しかない!と確信してたもので)。ただ、他のキャラがあんまり印象に残らないのが残念と言えば残念か。むしろ周囲の人間が存在感無かったから、すっきりしていたのかもしれないけど。 <恒例のツッコミをちょっとだけ。 『スーパーマンIII 電子の要塞』(1983)以降、電話ボックスが無くなってしまったので、変身には苦労するケントだったが、今回は開き直って人混みでいきなり変身。高速で変身すれば無問題ってのは分かるものの、どうやって人から隠れて変身するか。がスーパーマンの味だったのに、それを無くしするのはちょっと問題。それにいくら何でも、携帯電話がこれだけ普及している現代が舞台なら、すぐに正体ばれる。 最大の見所であるジャンボジェットキャッチのシーンだが、ジェット機の主翼二枚は見事に落下してるんだよね。しかもアメリカ国内で。はてさて、これの被害状況はどの程度のものだろうね?親しい人を救うためなら、他の大部分の人間がどうなろうと知った事じゃないというスーパーマンらしいエピソードでもあるけど(笑)> |
X−MEN2 2003 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2003全米年間興行収入第6位 2003全世界年間興行収入第8位 2004MTVムービー・アワード ブレイクスルー演技賞(アシュモア)、作品賞、キス・シーン賞(パキン&アシュモア)、格闘シーン賞(ジャックマン&フー) 2004サターンSF作品賞、監督賞 |
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ミュータントと人間との共存を提唱するプロフェッサーX(スチュワート)率いる“X−MEN”は、かつてのプロフェッサーXの同志で、人類全てをミュータントに変えてやろうとする急進派のマグニートーとの戦いに勝利し、マグニートーを牢獄に幽閉することに成功した。しかし、人類のミュータントに対する偏見や嫌悪はやがてX−MENたちにも向けられていった。人間でありながらミュータントを従える司令官ストライカー(コックス)は、大統領が謎のミュータントに襲われた事を機に、ミュータント達を次々と捕獲していく。自らの過去を探す旅を続ける“ウルヴァリン”ローガンは、他のミュータント達を守るために、何人かの同志と共に否応なしに戦いに巻き込まれていく。その中には、ストライカーの命令で大統領を襲ったナイト・クロウラー(カミング)や、刑務所を脱出したマグニートの姿もあった…。 前作『X-メン』のヒットを受け、前作に続きシンガー監督が作り上げた正統的続編。 シンガー監督は結構私のお気に入りなのだが、前作の際のインタビューで「これは私の本当にやりたかったことではなかった」という記述を読んだ。 確かに前作は描写は良かったけど、設定や物語では割合月並みな作品だった。それでもあれだけ出てくるキャラクターにしっかり見せ場を用意し、バランスは非常に良かったし、そのX−メン達の中心のストーリーを他のメジャーなキャラクターではなく吸い取り女(下品失礼!)のローグ(パキン)に持ってきたのも卓見だと思う(これも監督のインタビューだが、やりたいことが出来なかったから、パキンをどう可愛く撮るかに心血を注いだとか)。普通の作品としては充分に面白かった。それを「本当にやりたかったことではなかった」など、よく言ったものだ。 今回この続編を大変楽しみにしていたのは、実はそのインタビューあってのこと。一体この監督は何を本当は撮りたかったのだ?と言う疑問がどうしても頭から離れなかったから。 それではっきり分かったのは、これは決して単なる続編で終わるものではない。と言うこと。これ又本作の監督の言葉だが、「これはX−メンサーガの一編だ」…確かに。少なくともオスカー女優のハル・ベリーをこの程度の使い方しかしないってだけで、壮大な物語に思えるぞ(笑) 前作でキャラクターは固定されているので、その魅力を十二分に活かしつつ、違った側面から作品を構築している。アメリカン・コミックでは割合あるパターンだけど、敵対する二大勢力が、更に大きな脅威の前に協力して戦うと言うパターンを踏襲しているが、アメリカン・ヒーローものとしてはこの話が一番燃える設定。ちゃんとその辺を顧慮しているんだろう。 前作と較べると、アクション部分は少々抑えめだが、その分マイノリティとしてのミュータントの哀しさや、余計な能力を背負い込んでしまったが故の重みというものがよく表現できていたと思う。マイノリティとして生きねばならないが故に、自らのアイデンティティを過去に求めるウルヴァリンや、明るく振る舞っているが、家族の拒絶と出会うアイスマン、自らの力を自分のために使って何故悪いと葛藤するパイロ。自分の能力の故に人と触れあうことを極端に恐れるローグ。悪魔の如き容貌を持っているのに敬虔な心を持つナイト・クロウラー、プロフェッサーXの助手で、自らの能力がどんどん高まっていくことに恐れを覚えるジーンなど、特に心理面での魅力は前作の比じゃない(その分リーダー格のサイクロップスとかストームは割喰ってたんだけど)。その辺を超越し、淡々と任務を果たそうとするミスティークやマグニートーも、主人公達の対極にあって上手い撮り方。本来原作コミックの持つ味はここにあったのだから。 ストーリー面で言うのなら、ウルヴァリンの過去探しと人間対ミュータントの戦いに主軸がおかれ、なかなかハードなものに仕上がっている。マグニートーの牢からの脱出方法もなかなか捻りが効いてて良し。ただ、意外だったのはまさかジーンがああなってしまうとは…原作コミックではジーンとサイクロップスの間にはケーブルという息子ができるはずなんだけどなあ…悪い言い方だが、前作と較べジーン役のヤンセンがすっかりおばさんっぽくなってしまったので(本当に失礼です。ごめんなさい)、続編を考えるなら、英断だったのかな? 一つ難を言わせてもらうと、私の大好きなアラン・カミングをもうちょっと魅力的に撮って欲しかったってところかな?もし続編が出たときは彼の魅力を全開にして欲しい。 |
X−メン 2000 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2001MTVムービー・アワード作品賞、ブレイクスルー演技賞(ジャックマン)、チーム賞(ベリー&マースデン&パキン) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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人間の種としての進化は人類の突然変異化(ミュータント)を促していた。未だ少数派であるミュータントであるが、人類と共存するか力ずくで支配するかを巡って壮絶な攻防が繰り広げられていた。この争いに一匹狼のウルヴァリン/ローガン(ジャックマン)やローグも巻き込まれる。人類に更なる進化をもたらし、ミュータントによる支配を確実なものにしようと画策するマグニート(マッケラン)の野望に対し立ち上がるプロフェッサーX(スチュワート)率いるX−メンの活躍を描く…。 アメコミの代表作とも言える作品の映画化。コミック版は多少知っていると言う程度の認識に過ぎないが(このマニアはもの凄いんで、私程度ぞに語る資格はない)、それでも随分設定には違いがあるのが分かる。具体的にはX−メン1期シリーズと2期シリーズの双方が入り乱れ、その生い立ちや性格も随分違っている。これは映画化のためにシンプル化させたためと思われるが、原作ファンにとっては少々物足りなく思えたことだろう。原作では凶悪な強さを持つアウトローとして描かれるウルヴァリンが弱体化したのも、仕方ないとしてもそれなりに不満。性格もやや軟弱っぽくなった。後、出来れば個人的に好きなビーストやアイスマンを出して欲しかった。ただ、こういったストレートさはかえって好感を持てる。 見せ場は結構派手なので、それなりに楽しめるし、結構ストーリーにも緩急があるのであまり深く考えなければ楽しい作品。強いて言うならミュータントの哀しさと言うものをもう少し出してくれれば良かったとは思うけど。 そもそも原作そのものは人間に恐れられ、排斥されるミュータントの立ち位置を巡ってのプロフェッサーXとマグニートの主張の違いからの戦いが描かれていたし、主人公達も更に濃いキャラだったのだが、それをソフトに、勧善懲悪にしたのは痛し痒し。これくらいソフトにしたお陰で受けも良くなったのだが、本質的な重さが表現出来てなかった。その辺がちょっと複雑な思いをさせる。 一箇所。X−メンの制服のことで文句を言うウルヴァリンに対し、サイクロプスが一言「それじゃ黄色のタイツが良かったか?」。これで笑えたなら、それなりのX−メンファン。 |
ゴールデンボーイ 1998 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1998東京国際映画祭最優秀男優賞(レンフロ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ユージュアル・サスペクツ 1993 | |||||||||||||||||||||||||||
1995米アカデミー助演男優賞(スペイシー)、脚本賞 1995英アカデミー作品賞、オリジナル脚本賞、編集賞 1995NY批評家協会助演男優賞(スペイシー) 1995ゴールデン・グローブ助演男優賞(スペイシー) 1995インディペンデント・スピリット助演男優賞(デル・トロ)、脚本賞、撮影賞 |
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ユージュアル・サスペクツとは、「常連容疑者」のこと。凝った脚本とラストのどんでん返しが話題になる |