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2023 | ||
2022 | ||
2021 | ジャスティス・リーグ:ザック・スナイダーカット 監督 | |
アーミー・オブ・ザ・デッド 監督・製作・脚本・原案 | ||
ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結 製作総指揮 | ||
アーミー・オブ・シーブズ 製作・原案 | ||
2020 | ワンダーウーマン 1984 製作 | |
2019 | ||
2018 | アクアマン 製作総指揮 | |
2017 | ジャスティス・リーグ 監督・原案 | |
ワンダーウーマン 製作・原案 | ||
2016 | バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 監督 | |
スーサイド・スクワッド 製作総指揮 | ||
2015 | ||
2014 | 300 <スリーハンドレッド> 〜帝国の進撃〜 製作・脚本 | |
2013 | マン・オブ・スティール 監督 | |
2011 | エンジェル ウォーズ 監督・製作・原案・脚本 | |
2010 | ガフールの伝説 監督 | |
DCコミック・ヒストリー 〜ヒーロー誕生〜 出演 | ||
2009 | ウォッチメン 監督 | |
2008 | ||
2007 | 300 <スリーハンドレッド> 監督 | |
2006 | ||
2005 | ||
2004 | ドーン・オブ・ザ・デッド 監督 | |
2003 | ||
2002 | ||
2001 | ||
2000 | ||
1999 | ||
1998 | ||
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ||
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | ||
1990 | ||
1989 | ||
1988 | ||
1987 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | ||
1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ||
1973 | ||
1972 | ||
1971 | ||
1970 | ||
1969 | ||
1968 | ||
1967 | ||
1966 | 3'1 ウィスコンシン州グリーンベイで誕生 |
ジャスティス・リーグ:ザック・スナイダーカット Zack Snyder's Justice League |
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ジャスティス・リーグ 2017 | |||||||||||||||||||||||||||
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バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 Tech Manual (GRAFFICA NOVELS)(書籍) |
ジャスティス・リーグ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』から1年。待望の続編が登場! …と言いたいところなのだが、う〜む。これは困った。正直、全然期待できない。 前作『バットマン vs スーパーマン』が殊更酷い作品と言うつもりはないのだが、この作品ならではの特徴に欠け、更に二大ヒーローの対決というのが単純に暗闇で殴り合ってるだけなので盛り上がりに欠ける。更に続編はスナイダーが作ると言うことで、どうせたいしたことないことが分かってしまったのだよ。 ただ、その後に出た『スーサイド・スクワッド』と『ワンダーウーマン』が殊の外面白く、一応抑えておくか?という感覚で視聴となった。 それで出来を言えば、充分な作品だとは思う。 それぞれのキャラをちゃんと描き、強さを演出しつつ、弱点を他のキャラがカバーすることで戦いが出来るし、一人一人が持つ心の闇のような部分もしっかり描く。そのトラウマをそれぞれが乗り越えていくところまでもちゃんと描いていた。 複数ヒーローが登場する物語で言う限り、理想に近い展開を見せてくれているのだ。 …だが、その理想的な展開こそが本作の最大の弱点なのかもしれない。こうなって欲しいという展開が次にやってくる場合、完璧に次の展開が読めてしまうのだ。 物語展開としてだけなら良かったのだが、戦いまでも予測可能になってしまった。戦ってる最中に「あー次にこいつがくるな。それでこいつが助けて…」というレベルで分かってしまうため、安心しきってしまって驚きがない。右から左にすーっと物語が過ぎていったという印象である。 私個人で言わせていただければ、スーパーマンの復活が事前に分かってしまっていたのも残念だった。ネットとかからの情報遮断が出来ないため、どうしてもそれは避けられなかったのだが、「あ、そう。復活するの」だったし、桁違いの攻撃力を持つスーパーマンが登場した途端、戦いの趨勢は全部スーパーマンが持って行ってしまうため、他のヒーローが割食ってしまってこれも大して楽しめない。 更なる続編を目しているならば、今回はスーパーマンの復活と正気に戻るまでに留めておき、次回予告で「今度こそ全員で戦います」の方が良かったんじゃないかな? 作品として決して悪いわけじゃないし、多分とても理想的なヒーロー映画の形なのだが、プラスアルファがなかったお陰で、現代のヒーローものの中では凡作になってしまった。 |
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バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 Batman v Superman: Dawn of Justice |
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ゾッド将軍によるクリプトン星からの侵略を防いだクラーク・ケント(カヴィル)は、正体を隠しつつ、スーパーマンとして世界平和のために働いていた。だがかつてスーパーマンの戦いによって多くの被害を出しているメトロポリスの惨状を目にしたブルース・ウェイン=バットマン(アフレック)は、スーパーマンを野放しにしておくことに危機感を覚え、密かにその力を抑える方法を探していた。そんな時、国のバックアップを受け、クリプトン星の宇宙船を調査していたレックス・ルーサーにより、スーパーマンを無力化するクリプトナイトが発見された。 新生スーパーマンとなった『マン・オブ・スティール』の直接の続編で、DCユニバースを構成するメインキャラのバットマンとの共演を果たした作品。 スーパーマンとバットマンの共演。これはどれだけわくわくすることか…と、言いたい所なんだが、実は放映前に既に食傷気味だった。 既にマーベルによるオーバーラップ作品は『アベンジャーズ』(2012)がある。基本陽性の物語でありつつ、キャラの特性を活かして深いところにまで踏み込む作りは見事で、。何より視聴者が「観たい!」と思わせてくれるものを見せてくれたし、これ以上は望みようがないほどに見事な作品だった。 ただし、これは逆に言えば、どれほど良く作ろうとしても、複合ヒーロー作品はこの程度にしかならない。という限界を感じさせられた。複数ヒーローは登場時に気持ちは熱くなるけど、物語を深めることが出来ないという構造上の根本的な問題を露呈しているのだ。 更にスナイダー監督による前作『マン・オブ・スティール』がこれまでのスーパーマン像を覆す陰性の物語であったことから、バットマンとの共演はお祭り騒ぎにはならない暗い物語になることも分かっていた。 ヒーロー共演の限界をあらかじめ知らされた上で、陰性の物語にしかならない。共演することで心が熱くなることがないと最初から宣言されてる以上、たいして期待ができるわけじゃ無い。 それでもいそいそと観に行ってしまう自分がいるわけだが… で、出来として、「期待以上のものでは無いが、さりとて期待以下のものでも無い」という所に落ち着いたか。 悪いと思われた部分というのは、事前に感じていたことそのものだった。それとラストで共通の敵が出てきて、それを共同して倒すことでオチをつけたという、実にありがちな展開になってしまったこと。そしてこの作品を通して思うのは、バットマンがスーパーマンを憎む理由と、スーパーマンがバットマンを許せないと感じる理由に説得力が薄いと言う事。二人の対決が見所なのに、それに燃える部分がない。更に謎めいた台詞やら、唐突に出てくるキャラとか、ましてやレックス・ルーサーが本当に何をしたかったのか全く分からないように作られていると言うこと。続編のために狙ってやってる気がするんだが、観てる側は完全に置き去りにされる。 それでは逆に良かった部分を考えてみたい。 まず一点。本作はとても暗い雰囲気の作品であるということ。 何故そう感じるのか。それはスーパーマン自身が、人類の平和に手が届かない事を感じているからである。自分のしていることに本当に意味があるのか?そのことを突きつけられながら、それでも出来る事をしようとする。ヒーローの悩みを完全に具現化しているのである。ここでのスーパーマンは理想論者ではないし、自分のやってることが世界平和になっているとも思ってない。そんなニヒリズムが漂ってくるような立場に自分を追い込んでいる。本来目を向けなければならなかったことにも関わらず、これまで見ないようにしてきたことを直視してみせた。 一方バットマン側にも葛藤がある。それは自分が独占してきたヒーローの座を圧倒的な力を持つスーパーマンにかっさらわれてしまうからというようなちんけな問題では無く、人がなんでもかんでもスーパーマンに頼り切ってしまうことにより、思考停止に陥ってしまうと言う事である。人の心は弱い。スーパーマン自身がどうあろうと、それは信仰の対象になってしまうから。圧倒的な正義のヒーローは独裁者と同じである。そのような思いがあるからこそ、このままの形でスーパーマンを放置しておいてはいけないという義務感を持つに至った。どんなにくそったれな世の中であろうとも、この世界は人間の世界であって欲しかったのだ。これは、スーパーマンを引きずり落として、その圧倒的な力を誇示して世界を手中に入れるというレックス・ルーサーの考えとは根本的に異なる(やってることはほとんど同じだけど)。 スーパーマンとバットマンの葛藤がぶつかり合いを、「現代の世界」を敷衍して見せたことが本作のユニークな点ではある。 もう一点は、色々文句も言っているが、なんだかんだ言っても、反目し合っているヒーローが協力するってのは、やっぱり燃える。登場が唐突すぎる気はするがワンダーウーマンも加えての大乱戦はやっぱり燃える。それにワンダーウーマン以外のヒーローの存在も見せているし、確かにジャスティスリーグへの伏線ができあがっている感じではある。 だからこそ、これは続編を込みで語るべき作品だろう。劇中、新しいメタヒューマンを含めていくつかの伏線が出ているので、それをどう回収していくのかを楽しみにさせてもらおう。 |
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マン・オブ・スティール Man of Steel |
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2013放送映画批評家協会アクションシーン賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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滅び行くクリプトン星でジョー=エル(クロウ)の最後に生まれた子カル=エルは、ジョー=エルによって地球に送り出された。地球でジョナサンとマーサの夫婦に拾われたその子はクラーク・ケント(カヴィル)と名付けられて成長した。超人的な力を持ったクラークは、地球人とは違った自分の力に悩みつつ、青年時代を迎えた。そんな時、クラークの生存を知ったクリプトン星の生き残り、ゾッド将軍(シャノン)はクラークの体に埋め込まれたクリプトン星の再生をはかるコデックスを狙い、地球へと飛来する… アメリカン・ヒーローの代表スーパーマンの活躍を描く最新作。今年の夏のSF大作ラッシュの一本として公開された。 本作の監督はザック・スナイダー。前に作ったヒーロー作品『ウォッチメン』の出来が素晴らしかったのでかなり注目の監督である。ただ、それだけではまだ足りない。『ウォッチメン』の良さとは原作の良さであり、監督はそれを忠実に映像化したに過ぎないとも言えるから。 そしてかかった予告編。これが文学調でうまくまとまってた。これは期待できる! さて、それで本編だが、作り方そのものは予想以上にヒーロー作品していた。ただし、それは良い意味でも悪い意味でも。 良い意味で言うなら、これはヒーローの誕生話として、ほぼ完璧な構造をもっていること。地球人とは明らかに異なる自分の力に悩む子ども時代を経て、自分の力を受け入れるまで。そして初めての敵に出会い、自分の力全てを使って敵を打ち倒すことと、人間を守る存在として自らのアイデンティティの確立。こう言ったもの全てがバランスよく詰め込まれている。派手な立ち回りシーンや、人間側の努力が話のキーとなってるところも上手い作りだ。特にヒーローの基本スーパーマンだから、これは充分受け入れられる。 一方、悪い面は、上記そのまま。あまりに完璧すぎる教科書的物語のため、全く特徴が感じられないということ。 もし本作が「スーパーマン」の最初の映画化作だったらそれで良かったのだが、既に何作も作られた上でこれか。しかも80年代に作られてたクリストファー・リーヴ主演作は、当時流行りの脱構築の影響をモロに受け、相当にひねくれた作品が作られていたので、それをリアルタイムで見せられた世代としては、この素直過ぎる物語構成には、どうにも居心地の悪さを感じてしまう。 しかもその後、ヒーローものとしてMARVELの、言うなればひねくれたヒーローが映画では全盛時代に入ってる。 この流れで素直な物語作るならば、忠実に地道な物語を作ると言う選択肢はなかったような気はする。昔のようにスーパーマンが精神的に壊れるような話までいかなくても、もう少しひねりを加えて欲しかったってのが本音だ。さもなくば、『パシフィック・リム』(2013)や『スター・トレック イントゥ・ダークネス』(2013)ばりにオタク趣味全開にして、「分かる奴だけ分かれば良い」って開き直るか… そんなもんで、かなりの欲求不満を感じざるをえない。丁寧な完璧な物語を作るより「うおぉぉぉ」と言わせてくれる物語が欲しかった。 この作品の構造として、少し捻るべき部分があったとすれば、それはクラークが自らのアイデンティティを問いかけるところだろうか? この作品でもアイデンティティを問いかけるところはあった。故郷の星からゾッド将軍がやってきた時に、ケントが地球人として生きるか、血を選ぶか?と自らに問いかけるシーンがそれ。ここは実はこの作品を左右するとても重要なシーンのはずであり、クライマックスにすべき部分だった。ただし、これまでの物語展開から、クラークが精神的な意味で追いつめられるところが無かったし、ゾッドは父ジョー=エルを殺した犯人であることもすぐにばれている。ケントにしても、観てる側としても、選択するのは決まってるとしか思えず、案の定人間の味方をあっさりと決めてしまう。この部分が勿体なく、そしてここを描写出来ないのが監督の限界と思える。 キャラに関しては申し分なしだろう。ケント役のカヴィルは、『スーパーマン リターンズ』(2006)のラウスとは違ってワイルドな魅力があるし、父親二人がラッセル・クロウにケヴィン・コスナーだから、とんでもない豪華さだ。 唯一カヴィルに不満なのが、顎の形が個性的過ぎ。いくら眼鏡かけて変装してもこれだけで正体ばれそうだ。 |
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エンジェル・ウォーズ Sucker Punch |
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2011上半期の大コケ映画 2011タイムワースト第2位 2011HIHOはくさい映画賞第2位 2011違法ダウンロードされたハリウッド映画第6位 2011タランティーノワースト 2011タイム予告編ベスト |
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ガフールの伝説 Legend of the Guardians: The Owls of Ga'Hoole |
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ウォッチメン Watchmen |
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もう一つのアメリカの話。この世界では禁酒法時代からヒーローと呼ばれる存在が悪人と戦い続けていたが、自警団を禁止するキーン条例の発効によってヒーローは居場所を失っていた。ある者はひっそりと引退し、ある者は犯罪者の後ろ指を指されつつ、孤独な戦いを続けていた。そしてアメリカとソ連の冷戦は、もはや一触即発の事態へと移っている1985年。一人の男がマンハッタンの高層ビルから転落死する。その男の名はエドワード・ブレイク。かつて“コメディアン”という名のヒーローだった男だった… のっけからネガティブなことを書かせてもらおう。 まず、私はこのザック・スナイダーという監督が嫌いだ。『ドーン・オブ・ザ・デッド』も『300 <スリーハンドレッド>』もはっきりってクズとしか考えてない。物語性云々よりも、見栄えばかりに血道をあげ、とりあえず「どうだ。これを観ろ!」と極めて無個性な作品を出してくる。そんな姿勢はマイケル・ベイの延長でしかないし、生々しさよりもCGを全面に出しただけの碌でもない監督だとしか思えてない。 それなのに本作をわざわざ観に行ったのは、私の好きな映画評論家がこぞって「面白い」と言っていたから。しかも一筋縄じゃない、ひねくれまくった評論家に限って「面白い」と言ってる。それで興味を持って観てみた。正直、実に軽い気持ちだった… …で、その感想はというと… 「打ちのめされた」というのに近い。 映画の出来云々の問題じゃない。最も驚いたのは、こんなコミックが、しかもアメリカにあったのか!という衝撃である。映画じゃなくてコミックとしての出来に驚かされた。はっきり言って、この原作者には激しい嫉妬を覚えるほど。世の中には私と同じようなことを考え、しかも突き詰めて考えた人がいるもんだ。 いつか私なりにヒーローの定義と言うものを類型を出して説明し、一大論文を展開させてやろうと、前々から…それこそ本サイトで特撮館を作った当時から考え続けていた。それで、そろそろそれをまとめ始めようか?などと考えていた矢先だったのだ。そんな時に本作を観てしまった… マジでショック大きかった。クソったれ。なんでもうそれ作った奴がいる?しかもここまで洗練した思考で?正直この映画、ものすごい情報量が私の中に入ってきたが、こんな提示されたものを受け取るんじゃなく、私に考えさせてくれよ!と言いたいことが多々。映画観てる間、とても幸せな気分であるとともに、ものすごい後悔の嵐に苛まれてしまった。 この映画…ではなく、原作で描かれたのは、ヒーローの定義付けだった。ここに登場するヒーローたちはもちろん「ウォッチメン」という世界観の中でのオリジナルのヒーロー達には違いないが、その向こう側にスーパーマンやバットマンたちの姿が透けて見えてくる。こう言ったシチュエーションの中に置かれたら、彼らは一体どう行動するだろうか?ということを、半ば二次創作的な感覚で作っているのだが、そのシチュエーションが半端なく魅力的だ。 これはヒーローと呼ばれる存在が比較的普通に認知されてる世界だが(MARVELの『X-MEN』っぽいが、『Mr.インクレディブル』や『スカイハイ』のようでもある)、認知されているが故にいくつもの困難に直面することになる。そこでいくつかのマイナスの前提条件をたたきつけ、そのシチュエーションで自らをヒーローとなし続けていくモチベーションはどこにあるのか?と問いかけている。つまり一旦ヒーローと呼ばれる存在を完全に解体し、その上でヒーローたる存在とは何であるのか?そのことを問いかけようとしているのが本作の挑戦だった。 そのためにヒーローを一旦完全に解体した。このマイナス要因となる前提をまず考えてみよう。 まず、キーン条例なるものによって自警団は解散させられた時代であるため、ヒーローは国家のバックアップは受けられないどころか敵になってる。そもそもその国家自体が超がつくタカ派になってしまってるので、国のために働く気にさせられない。さらにここまでの活動経歴で嫌と言うほどこれまでに個人で出来る限界と言うものを見せつけられている。一人が活躍したところで、世界平和には貢献できないし、真の意味で何かを救おうとするならば、見返りに汚さが必要であることも知らされてしまっているのだ。事実、国歌の敵となってしまった元ヒーロー達は、ある者は守るべき市民の手で殺されてしまうし、ある者は心を病む。そんなシチュエーションに放り込まれた、現代のヒーローたちのアイデンティティはどこにあるのか。 彼らは確かに一般人と比べると多少能力は高いかもしれない。暴漢たちと戦ったら、相手が何人いようとぶちのめせるし、火や水の中に入ってもさほどの怪我もなく生還することもできる。だが、そんな能力があるからと言って、だからヒーローになれるはずはない。相対的な時代だから、明確な正義も定義しにくい。要するに、人より正義感があふれていて、人よりちょっと強いというだけではヒーローとはなれないと言うことになる。 それで苦悩した結果、自らの身の置き所をそれぞれ見つけていくことになる。以下一人一人のヒーローの今を考えてみよう。 ナイトオウル(ダン)は、すべてを封印し、一般市民として生きる道を選んだ。 オジマンディアス(エイドリアン)は、ヒーロー時代に培った人脈を最大限使用して、更なる大きな目標、人類の恒久平和を実現しようと、日夜研究を続ける(その研究については後述)。 シルク・スペクター(ローレル)は、立場的にはオウルと同様ながら、マンハッタンとコンビを組むことで世界平和に役立っていると信じたがっている。 ロールシャッハー(ロールシャク:ウォルター)は、法的なバックアップを受けることなく、たとえ犯罪者として警察に追われようとも、自らの信じる正義(多くは犯罪者の撲滅)を貫こうとする。 そしてコメディアン(エドワード)はアメリカと言う国の、指導者のために戦うことによりヒーローであり続けようとした。 以上5人のかつてのヒーローの“今”なのだが、ヒーローであることの存在を止められた際、それぞれがどうアイデンティティを保っているのかがよく分かって興味深い。類型として、このシチュエーションに置かれたらこんな行動するだろう?と思わせるのばかり。 この中で一番面白いのがコメディアンだろう。彼は一番長くヒーローとして活躍していたため、一番矛盾も理解していた。どれほどヒーローとして能力を持っていたとしても、それだけでは何にもならないことを一番よく知っていたし、矛盾にさらされ続けたおかげで正義感もすり減っている(劇中暴徒に催涙弾をぶちかましながら「これがアメリカンドリームだ」と叫んでいたのは、彼なりの苦悩が皮肉になって出たと思われる)。だから彼は自分の能力を最も効果的に使ってくれる場所に身を寄せて、一方の正義に加担することでヒーローでありつづけようとした。その結果、彼の得たものは、決して表に出すことが出来ない数々の勲章と、政治家連中と結びつくことで多少の罪はすべて免除される特権、マンハッタンのコンドミニアムといった、物理的な豊かさだった。一般的な定義で言うなら彼は悪人である。だが、国レベルで考えるなら、彼は正義の体現者でもあるのだ。 彼と見事な対比になっているのがロールシャッハ。彼もまた闇の世界で生きることを選びはしたが、コメディアンとはまったく逆の方法をとった。彼はバットマン的なヒーロー気質の持ち主で、どんな状況におかれても、悪を許すことが出来ない。たとえそれがヒーローとされて人々に称賛されていても、逆に非難の的になったとしても、彼はヒーローであることをやめることは出来ない。ある意味では、だれにも称賛されない、市民によって憎まれる存在であっても心がすでに壊れている彼こそ、本来的なヒーローの姿とも言える。 この二人は形はまったく違えど、これまで自分たちが行ってきたヒーロー的行為を今も尚続けている人物である。 対して、それまでとは形をまったく変え、新しい形のヒーローとなったのがオジマンディアス。彼は自分自身がヒーローであったことを明かし、それを逆に武器にして経済界でのしあがる。これは別に自分のためと言うのではなく、自らが思い描く世界平和への布石のためだった。彼の考える世界平和とは、二つの方向性を持つ。一つはエネルギー問題で、そのため化石燃料を使わぬ無公害且つ安価なエネルギーをマンハッタンと共に作り上げる。そしてもう一つは、世界の国々がイデオロギーを超えて手を携えることだった。そしてそれは実際に成功させてしまう。引退したヒーローが至るべき、本物の理想的な姿がここにはある。 彼らはそれぞれが独自にヒーローとしての活動を続けている。ヒーローのアイデンティティを壊されて尚、ヒーローたるべく模索した結果、自らのあたらしいアイデンティティを確立した。 しかし一方ではそれが出来なかったヒーローも二人いる。ナイトオウルは「私の役割はもう終わったのだ」と自らに言い聞かせながら、不完全燃焼のまま生き続け(『ランボー』や『ディア・ハンター』を髣髴させるシチュエーションだ)、シルクは自分の存在意義は恋人であるマンハッタンの人間性をとどめるためと位置づけているものの、主体が自分ではない上に、マンハッタンがどんどん人間性から離れていくので、やっぱり燃焼不良を感じている。二人は逢えば思い出話をしてうさ晴らしをするしかストレスの解消法がない。傷を舐めあい、ますます傷つきあい続けてる。 後はDr.マンハッタンがいるが、こいつは存在そのものが超人であり、もはや人間性を失ったキャラだけに、“ヒーローで無くなった”というテーゼは成り立たないため、ここでは除外。 強制的にヒーローで無くされた面々のそれぞれの生き方は上記の通り。ではそんな彼らが、一同に介してどんな物語が作られるのか… 結果として出来上がったのは、ヒーロー同士の争いの話だった。 登場するヒーローたちはそれぞれが自分なりの正義を持ち、それを貫こうとするのだが、それは必ずぶつかり合う。そしてそれが結果として敵対という形を取らざるを得なくなってしまう。この作品には明確に悪人というのはいない。正義同士がつぶし合う物語なのだ。 ここではオジマンディアスの考える世界平和というのが話の中心となる。彼の理想は世界的に恒久平和をもたらすこと。その平和のためには、多少の犠牲は仕方ないと割り切ってしまった。彼は無公害のエネルギー開発は成し遂げた。それで残ったのは、大国同士の戦いを止めさせると言うこと。そのために最も効果的な方法をとった。つまり、人類の敵という存在を設定し、それと戦うために人類は皆手を組まねばならない。と思わせようとしたのだ。これは彼なりの“正義”ではあっても、そのために数百万規模の人間を見せしめで殺すこととなり、一般的な意味では彼こそが人類の敵となってしまう。そのため本物の超人であるマンハッタンを敵に仕立て、その事実を察した人間は全員殺すという方法をさえ用いている。彼の目的を知り、同調が出来なければ消すしかない。それで人類が平和になれば良いではないか。もの凄い割り切り方で、最も効率が良い方法ではある。 何度も書くが、ここで問いかけられるのは、「ヒーローとは一体どんな存在であるのか?」という命題である。人類を救うために人を殺すのがヒーローなのか、それとも、どんな人の命をも救うために戦うのがヒーローなのか。最終的にオジマンディアスとロールシャクの二人の考え方の戦いとなっていく。 この二人の考え方の戦いは、実は決着が付かない。この物語では最も無個性でヒーロー願望だけが高いナイトオウルが主人公的な役割を担うことになるのだが、彼の役割は、結果として“観る”だけの存在となる。彼はそれぞれの正義を認めながら、そのどれも選択することが出来ないままに終わってしまうのだ。 ナイトオウルは一応はロールシャクに同調してはいるが、既にそれが遅かったことを知らされた後では、オジマンディアスの考え方に同調せざるを得ない。それでも自分の正義を貫こうとして半ば自殺のように殺されたロールシャクのようには生きる事が出来ず、世界の秘密を知ってしまった彼は、後はそれを悔やみながら生き続けるしかない。正義とは一体何なのか、その事を問いかけつつ… そう言う意味で極めて後味の悪い終わり方をするのだが、それによって全面核戦争の危機は去り、全ての国はマンハッタンの攻撃に怯えつつ、手をつないで平和が訪れる。 …ところで、一見あまり意味の無いようなラストの付け加えだが、あれは実はとんでもない問題をはらんでるような気がする。あそこでもしロールシャッハの手記が全てをばらしてしまうのなら、オジマンディアスの考えは全て無駄になり、世界平和は永遠に訪れないという事になりかねないのだが?あるいはあれは単なるゴシップで、「忘れてない人がいるぞ」という警告に過ぎないのか?ちょっと判断が付かない。 後に原作の方を読んでみたが、映画は本当に忠実に原作をトレースしているが、所々異なった点もある。ラストシーンで世界中に現れて爆発するのは、原作では軟体動物を思わせる(宇宙生物と思わせたがった)生物兵器だったが、映画ではそれをマンハッタンのコピーにしている。これは正しい方法だろう。一方、原作ではどれほどコメディアンがまともだったかを幾度も語っているが、映画ではその部分が抜け落ちていることなどがあるだろうか。ただ、ラストシーンでは、あの直後、血に染まった終末時計が12時を指している印象的なシーンがあったが、あれはやはり、核戦争は不可避だったと言う事を示したシーンだったのか? 尚、本作はかなり映画化まで難航したようで、本作の最初の映画企画は1990年の20世紀FOX。それをラルゴ・インターナショナルに売却したが、そのラルゴが1994年に廃業してしまい、それから長く封印されてしまった。そしてワーナーが本作を作ることになったのだが、実はFOXがラルゴに売却した際、配給権を手放してなかったため、ここで裁判沙汰となり、その調停のために公開がとても遅れてしまったとのこと。 |
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300 スリーハンドレッド 300 |
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2007MTVムービー・アワード格闘シーン賞(ジェラルド・バトラーvs"The Uber
Immortal")、作品賞、演技賞(バトラー)、ブレイクスルー演技賞(ヘディ)、悪役賞(サントロ) 2007allcinemaONLINEユーザー投票第17位 2008エンパイア映画男優賞(バトラー)、SF/ファンタジー作品賞 2008サターンアクション/アドベンチャー/サスペンス作品賞、監督賞、主演男優賞(バトラー)、助演男優賞(ウェンハム)、助演女優賞(ヘディ)、脚本賞、音楽賞、衣装デザイン賞、メイクアップ賞、特殊効果賞 |
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BC480年。中東を支配する巨大帝国ペルシアがギリシア支配へと乗り出してきた。降伏を勧告するペルシア王クセルクス1世(サントロ)の遣いに対し、スパルタ王レオニダス(バトラー)は徹底抗戦を選択する。戦ってはいけないという託宣により、行動を制限されたレオニダスは自らを含めた精鋭300人を従え、テルモピュライにて100万というペルシア軍を迎え撃つ。 歴史家ヘロドトスの「歴史」によれば、BC480年に行われたというテルモピュライ会戦を題材に取った戦いを描いた作品。ヘロドトスによれば、ギリシア連合軍5,200人対ペルシア軍21万人の戦いとされるが、ここではきりが良いためか、スパルタ軍300人対ペルシア軍100万人とされている。スパルタの勇猛さは、後に「スパルタ式」と呼ばれるほどに厳しかったそうだが、一旦戦場に向かおうものなら、死ぬまで戦い続けたと言うことでも知られる。有名なスパルタのことわざに「楯を持ちて凱旋せよ。しからずんば楯に乗りて帰れ」というものがある。勝たねば死んで帰ってこい。というもの。テルモピュライ会戦とは、そのスパルタを印象づける出来事であったとも言えよう。 私は歴史を題材とした映画は大好きで、これも相当な期待を持っていた訳だが、はっきり言えばそれは間違っていた。歴史ものの作品を観ようと思って本作を観ると、かなりの幻滅感を覚えてしまう。 ただ一方、まるで劇画を読んでるような、汗臭い男たちの戦いの物語と割り切って観るならば、充分過ぎるほどの迫力がある。特に画面の演出及びその処理画面の端々にまで「派手に見せよう」という執念のようなものが見えてくる。特にこの、画面そのものを素材としてコンピュータ処理する技法は、押井守が提唱していた「すべての映画はアニメになる」が、しっかり根付いていることを感じられて、押井ファンとしてはなんか嬉しくなってしまった。戦いのシーンはスローモーション多用で魅せるべき部分はしっかり見せようと言う心意気に溢れ、残酷描写も極めつけ。首やら足やらの切断面まで見えるほどだし、普通の画面に至ってもスピードの緩急をずらす演出がふんだんに用いられ、本当にアニメ的。 少なくとも画面演出については申し分ないし、作り手もその辺割り切って作っているのだろうからまったく問題なし。 ただ、ひねくれたものの見方をすれば、それだけですまないものも同時に感じてしまう。 私の妄想と言われればそれまでだけど、本作には気持ち悪いほどの右傾的傾向を感じてしまうのだ。しかもかなり現在のブッシュ政権寄りの。 それで少なくとも二つ。かなり首をひねる部分あり。 一つ目として、何故今テルモピュライ会戦なんだ?と言う点。たまたまそう言うコミックだから。と言われればそれまでなんだけど、何故今ペルシアを敵にしなければならないのか。そこに作為的なものがないだろうか?…補足で説明すると、中東の国の民族はその大部分はセム系民族なのだが、一国だけペルシア系の国がある。他でもない、ブッシュが「悪の枢軸」と呼んでいたイランそのもの。中近東の国々の中でもイランが特別視されることが多いのはこれが原因。彼らも自分たちが誇り高いペルシアの末裔であることを誇りにしているため、他の国とは仲が良くない。 アメリカはかつてイラクに言いがかりつけて攻撃したが、次はイランと言われてる今の世相で、いくら過去の事実とはいえ、モロにイランとの戦いを出すのは、世相的に勘ぐり入れてしまう。 そしてもう一点。バトラー演じるレオニダス王が「これは民主主義を守るための戦い」を連呼していた点。 確かに民主主義は古代ギリシアが発祥。アテナイやスパルタはそれを実践してた国家だが、それは現代で言うところの民主主義とは大きく違う。それは具体的には市民権と生存権の違いと見ることが出来るだろう。近代民主主義では、市民権の範囲はとても広い上に、そこに住んでいれば、法的な限界の限りで保護される。たとえば、日本に住む日本国籍を持たない人でも彼らの主張も最大限聞くように行政指導されている。これが近代民主主義の生存権と言うもの。一方、ギリシアの民主主義と言うのは、適用されるのは市民と認められた人のみで、それ以外は基本的に法は適用されない(常時他国と戦闘中にあるのだから、当たり前と言えば当たり前だが)。映画冒頭で体に傷を持った子供は廃棄されてしまっていた描写があったが、事実殊にスパルタの市民権と言うのは、本当に厳しかったらしい。スパルタの場合、単にそこに生まれていれば市民権が得られたわけではないのだ。国家に奉仕できる人間 (ここでは戦える人間とされる)だけが市民と認められるという社会なのである。 確かにこれも民主主義なんだけど、意味合いが大きく違う言葉を、まるでそれが絶対的な価値観みたいに連呼されると萎える。「スパルタの市民のため」あるいは「ギリシアのため」と叫んでるなら充分なんだけど、「民主主義のために」は作り手の主張が入っているような気がして、はっきり言って「アメリカ的民主主義」という意味合いが読み取れて気持ち悪い。 この二つを合わせて考えると、ほどない未来に。『フルメタル・ジャケット』(1987)のハートマン軍曹みたいな人が新人海兵隊員に向かってこの映画を見せながら、「いいかお前らは民主主義を守るためにこそ野蛮なイラン人と戦うんだ」とアジってる光景が目に浮かんでしまって… これが私の考えすぎならそれでよし。ただ、とても気持ちが悪かったとだけは言っておく。 |
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ドーン・オブ・ザ・デッド | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2005ホラー大賞男優賞(フォリー) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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