美女と液体人間 |
1958年 本田猪四郎(監) 佐原健二、白川由美、平田昭彦、土屋嘉男、千田是也 |
東京の下町で一人の男が忽然と姿を消した。身につけていた衣服一切を脱ぎ捨てて跡形もなく消え去ったのだ。麻薬密売をしているヤクザものの三崎と言うその男には、キャバレー「ホムラ」の人気歌手で千加子(白川由美)という女がいたことを知った刑事の富永(平田昭彦)は生物学者の政田(佐原健二)と協力し、事件の解明に乗り出すが、そこで彼が目撃したのは恐るべき液体人間の姿だった。太平洋での原爆実験に巻き込まれ、肉体が変容してしまった第二龍神丸の乗組員のなれの果てである彼らは微かに残った本能に従い、生前の知り合いの前に現れるようになったのだ… 東宝が作り上げた変身人間シリーズ第1作(他に『電送人間』(1960)と『ガス人間第一号』(1960)がある)。後のテレビシリーズである『怪奇大作戦』を先取りしたような作品だが(実際『怪奇大作戦』の一エピソード「光る通り魔」はそっくりだ)、これら作品には大きな強みがある。 一つには、ストーリーが非常にハードであること。あっけなく人は死んでいくし、これら全部ラストが怪物に変身した人間の死で終わっている。その虚しさが売り。更に大人向けにストーリーも練られていることも特徴か。 設定においても麻薬がらみのヤクザの攻防や、キャバレーの描写など、確かに大人向きに作られてる。ヒロインの白川由美も、他の清楚な役とは全く違っていて、アダルトな魅力に溢れた役を好演。 残酷な描写も結構あって、動物が液体化するのを説明するために蛙を溶かしてしまうのだが、これが結構描写的に気持ち悪かったりするし、窓から青緑色の液体が入り込んでくる描写はホラーっぽくてなお良し。 描写的には非常に優れたものがある本作だが、ストーリーに関してはやや難があるかな?だって液体人間はほとんど知性がないため目的意識が感じられないし、その分、本来中心となるべき“変えられてしまった人間の哀しみ”ってのが思い切りスポイルされてしまっている。その辺の描写があったら、もっと内容も深まったと思うのだが…変身人間は怪獣じゃないんだよ。 ラストも救いようが無い割にあっさりしすぎって感じ。 実は液体人間こそが、人間の進化した形かも知れない。と言うラストのモノローグは結構良かったな。逆転の発想だね。 |
新井千加子 | ||||
【あらい-ちかこ】 | ||||
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液体人間 | ||||
【えきたい-にんげん】 | ||||
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第二龍神丸 | ||||
【だい-に-りゅうじん-まる】 | ||||
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富永 | ||||
【とみなが】 | ||||
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政田 | ||||
【まさだ】 | ||||
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三崎 | ||||
【みさき】 | ||||
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電送人間 |
1960年 福田純(監) 鶴田浩二、平田昭彦、白川由美、中丸忠雄、川津清三郎 |
都内で起こる連続殺人事件。被害者は全員旧陸軍の関係者だった。その奇妙な殺人方法と被害者の一致に興味を抱いた東都新聞の科学担当記者桐岡勝(鶴田浩二)は、犯人の遺留品の中に小さな針金状の物体を発見する。その物体はクライオトロンで、将来トランジスターにとって代るべき真空管の一種であることが分かり、桐岡はその手がかりから、終戦直後に死んだはずの軍の科学者仁木博士と、そのボディガードである須藤兵長(中丸忠雄)にあたりを付けるのだが…。 東宝の放った変身人間シリーズは良作が多い。特に同じ年に公開された『ガス人間第一号』(1960)と『マタンゴ』(1963)は、私にとって貴重な最高作品(特撮映画で満点くれたのは結構少ない)。 しかしまあ、その中でも、本作はちょっと外したかな? 決して悪いとは思わないし、走査線で表現される電送人間の表現方法や、電送を繰り返すたびに傷が増えていく描写など演出も結構良かったと思うけど、物語があまりにも単純に過ぎた上に、謎解きとかもかなり強引。後で円谷プロによって作られたテレビシリーズの「怪奇大作戦」の一本としてだったら、評価も出来るんだけど… 私なりには変身人間シリーズの特徴として、人間外のものに変えられてしまった人間の哀しさというものが重要だと思うのだが、本作の場合、哀しさと言うよりは復讐の鬼としか描かれてなかった分、それが科学を用いた単純なサスペンスになってしまった感じ。更に科学的な意味合いが強すぎて、人間の感情を排除してしまったのも問題。怒り以外の感情が見あたらない。もっと複雑な感情を表現できたと思うんだよな。 キャラクターは、電送人間役の中丸忠雄が妙に無表情で、何考えてるのか分からないのは結構良かったんだけど、逆に演技が今ひとつ。関係ないところで挿入される白川由美も物語のバランスを崩してる。時間の使い方が少々下手なんじゃなかろうか? |
桐岡勝 | ||||
【きりおか-まさる】 | ||||
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クライオトロン | ||||
【くらいおとろん】 | ||||
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小林 | ||||
【こばやし】 | ||||
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電送人間 | クライオトロン | |||
【でんそう-にんげん】 | ||||
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東都新聞 | ||||
【とうと-しんぶん】 | ||||
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中本伍郎 | 電送人間 | |||
【なかもと-ごろう】 | ||||
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仁木博士 | ||||
【にき-はかせ】 | ||||
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物体電送機 | 電送人間 | |||
【ぶったい-でんそう-き】 | ||||
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頻発する銀行強盗事件。それを追っていた岡本警部補(三橋達也)は、犯人は日本舞踊の家元・藤千代(八千草薫)と関係がある人間だと疑いを持つ。やがて、奪われた紙幣を使用した為に逮捕される藤千代。だがある日警視庁に水野(土屋嘉男)という人物が現れ、「真犯人は自分だ」と告げ、警察官達の前で身体をガス化させてしまう!科学実験の失敗でこんな体質にされた水野は、それを利用して自らの生きがいである藤千代への思いを成し遂げようとしていた。やがて彼女の新作舞踊発表会が行われることになるのだが… 監督本多猪四郎&特技監督円谷英二の黄金コンビが放ったSF大作。これは一連の「変身人間シリーズ」と呼ばれる作品の内の一作だが、その中でも他の作品と雰囲気が随分異なり、最高作品の呼び声が高い。その通りで、これ程の完成度を持つ作品がこの時代に作られたと言うことは特筆に値するだろう。 古来SFには超人間に関する小説が数多く書かれていた。ヴォークトの「スラン」やハインラインの「メトセラの子ら」などがその代表。「人間の形をしていて、どこかで人間を凌駕する特別な生物」と言うのはイメージをかき立てられるのだろう。ところが小説ではそう言う特別な力を彼らはむしろ嫌悪しているように描かれることの方が多い。その力を持っているため、人間社会にとけ込むことが出来ず、何とか普通の生活を送ることが成功したかのように見えても、誰かが彼の力を狙ってきて、そして又逃げ回らねばならなくなる。いずれ悲しい存在である(ハリウッドの映画は不思議とこの手の作品は多いが、日本の映画ではほとんど見られないのはお国柄なのだろうか?)。 ここに登場するガス人間の水野は、ある種のスーパーマンで、物理的法則を無視できる。どのような場所でも隙間さえあれば入っていけるし、人を殺すのもお手の物。しかも先ず殺されることはない。と言う具合に。しかも彼をガス人間に変えてしまった博士を殺すことによって自分に次ぐガス人間は誕生しなくなった。彼こそが唯一無二の超人間となったのだ。 殺されることも、傷つけられることもないのだから、彼にはなんでもできる。モラルに縛られる必要は全くない。だが、彼が表舞台に出るのはずいぶんと後になってからのことである。 これは彼の孤独。その点を考える必要があるのではないか。人に紛れて生活は出来るが、回り中の人間と彼は根本的に違うのである。それを自覚するが故に、彼は苦悩する。人としての生活を続けていきたい。だが、人を見下す自分を止めることが出来ない。 そんな彼が出会ったのが藤千代だった。日本舞踊の家元として、素晴らしい素質を持っているのに回り中の人は彼女から離れていく。だが彼女の孤高な魂は屈辱的に人に頭を下げさせることが出来ない。彼女も又、特別な人間だったのだ。 そんな彼女に自分と同じ魂を発見した水野が、彼女に惹かれたのは、ある意味自然なこと。そして彼女に認められるために彼女のパトロンとなった。彼の力をもってすれば、どれほどの金もたやすく手に入れることが出来るのだから。ここで初めて彼は人間として、ではなく、彼女のためにガス人間として生きる道を選んだ。 だからこそ、藤千代が捕まえられたとき、彼は堂々と名乗りを上げる。水野はもう孤独ではなかった。同じ魂を有する(と彼が信じる)藤千代がいるのだから。人は人を超える存在を認められない。それを一番知っていたはずの水野が敢えて社会に顔を出すのは、藤千代に対する想いがどれ程深かったかを瞥見させて、見事なストーリー運びを感じさせる。勿論これによって更に藤千代は迷惑を被ることになるが、水野にとってはそれは構わなかっただろう。彼にとってこの世界は二人だけのものだったのだから。藤千代は好きなだけ舞っていればいい。彼女を自分は守ってやる。だからこそ、最後の彼女の発表会では、彼は一人で彼女を観ていることに、何の問題も感じていない。 二人の世界はそれで良かっただろう。だが、社会はそれを許さない。一応の主人公岡本警部補が語るように、彼の存在そのものが社会に与えた不安は計り知れない。何せ殺人者が大手を振って社会に出ているのだ。更に全てを彼の責任にしてしまえば、どのような犯罪もまかり通るという理解が普通の人間の中に芽生えてしまう。これこそが超人間を扱った作品の醍醐味とも言えるが、それをしっかり撮った構成は見事。 ここまでは水野の立場で考えたレビューだが、この作品は決してそれで終わるのではない。水野同様、魅力がある人物が登場するのである。それが藤千代だ。彼女の美しさ、そして鬼気迫る彼女の舞の凄まじさがこの映画の素晴らしさとなっているのは間違いがない。 彼女が最初の舞で被っていたのは般若の面。なんと言っても般若は女性の情念そのものを示す。誰一人おらず、日本舞踊の家元としては屈辱的な立場に置かれている藤千代にとっては、その内面がそこに込められているようだった。そしてそこから現れる現世の人間の顔。これが又実に美しく撮られている。見事な対比だった。心の劫火に焼かれ、鬼となった女性の顔を内面に持つ美女。これを僅かな時間に演出したのは凄い。更に、無罪であることが分かっているのに、女性専用の牢に入れられた彼女の孤高な姿。水野という男に知り合ったこと、彼の気持ちを知ってしまった事。全てを沈黙の内に閉じこめ、毅然として座り続ける。彼女も又、同じ牢に入れられた女性達と同じく叫びたかっただろう。水野により解放された時、逃げたかっただろう。だが、それをも内に閉じこめる。この時、水野と自分の関係のラストシーンを既に予見していたのではないか?そして最後、誰も観ていない舞台の中央で独り「情鬼」を舞う時の変化。一人の女がどのように鬼女に変わっていくのか。その過程を克明に魅せている。冒頭で“般若→女”でその内面を窺わせた彼女が今度は“女→般若”を演じることで、見事に対比を作り上げていた。舞台の上で鬼女を演じ、自分の顔に戻って水野に抱かれる時、一筋の涙を見せながらライターを取り出すシーン。鳥肌が立つほどに素晴らしかった。 劫火に包まれる結婚式を挙げた水野は満足だったのだろうか?せめてこの悲しい物語の結末は、藤千代と水野は満足して逝ったと思いたい。 一応蛇足ながら、この後、『フランケンシュタイン対ガス人間』が作られなかったことを東宝スタッフに対して感謝したい(『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965)参照)。 |
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稲尾 | → | |||
【いなお】 | ||||
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岡本賢治 | → | |||
【おかもと-けんじ】 | ||||
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春日藤千代 | → | |||
【かすが-ふじちよ】 | ||||
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ガス人間 | → |
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【がす-にんげん】 | ||||||
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甲野京子 | → | |||
【こうの-きょうこ】 | ||||
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佐野 | → | |||
【さの】 | ||||
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情鬼 | → | |||
【じょう-き】 | ||||
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田端 | → | |||
【たばた】 | ||||
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田宮 | → | |||
【たみや】 | ||||
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水野 | → | |||
【みずの】 | ||||
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UMガス | → | |||
【ゆー-えむ-がす】 | ||||
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マタンゴ |
1963年 本田猪四郎(監) 久保明、土屋嘉男、小泉博、太刀川寛、佐原健二、水野久美、八代美紀、天本英世 |
ヨット旅行に出た七人の男女…城東大助教授の村井(久保明)、彼の恋人の相馬明子(八代美紀)、青年実業者笠井雅文(土屋嘉男)、彼の愛人でシャンソン歌手の関口麻美(水野久美)、笠井に雇われたヨットのベテラン作田直之(小泉博)、推理作家吉田悦郎(太刀川寛)、漁師の息子で臨時雇いの小山仙造(佐原健二)は、航海中に暴風雨に襲われ、遭難してしまう。水も食糧もなくなり、七人はやがて濃い霧の中に浮かぶ無人島へと漂着する。キノコに覆われたその島に漂着したとおぼしき難破船にはまだ缶詰が残っており、彼らはそこを拠点として助けを待つことにした。しかし、時が経てば経つほど不気味さを増す島の雰囲気と、食べ物の不足とから、一人一人と彼らは正気を失っていく…東宝変身シリーズの第4作。 本作の原作はホジソンの「闇の声」という短編。これを日本SF界を引っ張ってきた星新一氏(彼の場合はいくつかのアイディアを出しただけだという話もある)と福島正実氏の翻案により映画化される。 前々から観たい観たいと思っていた作品だったが、この度ようやくDVD化されることとなり、やっと望みが叶った。出来にも大満足。 先ずなんと言っても脚本が秀逸。孤立し、食料も少なくなった時に、徐々に人のエゴがむき出しになっていく過程が丁寧に作られていくし、その中で理性的に行動しようと言う側と、パニックに襲われてしまう側との断絶の描き方が際だっている。この時間内で、きっちりと全てを描ききっている点は素晴らしい。パニックものの映画としても充分に鑑賞に足る作品だった。 そして島に豊富に生えているキノコを食べたいという欲求をどんどんふくらませていく描写。これが際だってる。食料は目の前に豊富にあり、それを食べられないのはまるでギリシア神話のタルタロスの話のよう。しかもこっちは死にそうに腹が減ってる時に、目の前で美味そうにキノコにかぶりついてる姿を見せつけられるとあっては…しかもその恍惚とした表情と来たら、ゾクゾクするくらい。中でも、キノコを食べれば食べるほど妖艶に変わっていく水野久美や、最後の最後にキノコを食べ、恍惚とした表情を浮かべつつ、村井にしなだれかかってくる八代美紀の表情は凄まじいほど(キノコを食べて醜く変わっていくことを全く逆転させたのは本多監督のアイディアだそうだが、見事なはまり具合だった)。 又、本作は堕落の快感というものをも示していたように思える。自分がキノコに覆われ、マタンゴになってしまう恐怖感と、このままでは死んでしまうと言う飢餓感。その板挟みにされた人間の心理。生存の欲求をどこまで嫌悪感と言う鎧で押さえつけられるのかと言う、原初的なテーマが封じ込められている。原初の社会から始まった社会は“嫌悪感”というものを作ることによって文明を築き上げてきた。それは殺人に対する嫌悪であったり、フリーセックスに対する嫌悪だったりもするし、勿論食べ物に対する禁忌も重要。文明とは、タブーをどこまで進められるかでその度合いが測れるだろう。だが、人は同時に、動物的な原初の快楽を求めようとするのも確かな話だ。 そして食欲という原初の快楽に向かって一人、又一人と堕ちていく。嫌悪の果てに待っているのはこの世ならぬ快感…あれ?これって凄えエロチックな作品と見ることもできるんだな(笑)。 しかも同時にこれは単なる人間の極限状態を描いただけの作品ではない。言うまでもなくそれはマタンゴという怪物の存在。怪奇ものっぽく、最初はなかなか姿を現さず、徐々に忍び寄ってくる演出が巧い(尚、人間とマタンゴの中間的なキャラクターが登場するが、演じているのは天本英世だそうだ…全然分からねえって)。きちんとタイミングを計って怪物を投入する。これ又巧さだな。 ところで、DVDの特典を観ていたら面白い事が分かった。特撮映画は人間のパートと特撮のパートに分けて撮影されるのだが(特撮映画には監督と特技監督の二人の監督がいるのはそのため)、この映画に関しては、同時撮影のパートが非常に多かったらしく、スチール写真には本多猪四郎監督と円谷英二特技監督が一緒に写っているのが結構多い。お互いに勉強になったというコメントを聞くことも出来た。コメンタリーも興味深いので、DVDはお勧め。 本作により、私の大好きなジャンル、悪夢映画に大切な一本が加わった。ただ正直、この作品で一番「怖い」と思ったのは、最後の八代美紀の「せんせえ、せんせえ」と言う声だったりして(笑)…いや、マジあれ怖えよ。堕落に誘う声。自分が自分でなくなりそうで… |
おいしいわよお | → | |||
【おいしいわよお】 | ||||
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笠井雅文 | ||||
【かさい-まさふみ】 | ||||
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小山仙造 | ||||
【こやま-せんぞう】 | ||||
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作田直之 | ||||
【さくだ-なおゆき】 | ||||
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関口麻美 | ||||
【せきぐち-あさみ】 | ||||
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せんせえ、せんせえ | ||||
【せんせえ-せんせえ】 | ||||
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相馬明子 | ||||
【そうま-あきこ】 | ||||
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マタンゴ | ||||
【またんご】 | ||||
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村井研二 | ||||
【むらい-けんじ】 | ||||
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吉田悦郎 | ||||
【よしだ-えつろう】 | ||||
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