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メカゴジラの逆襲 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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かつて学会から追放された真船博士は恐竜チタノザウルスを復活させる。しかし、そのコントロールに失敗し、娘を失う。その娘をサイボーグとして復活させ、メカゴジラのコントローラーとして操るブラックホール第3惑星人と結託した真船。孤軍奮闘するゴジラだが、パワーアップしたメカゴジラとチタノザウルスの両面攻撃に窮地に陥る。 前作『ゴジラ対メカゴジラ』(1974)があくまで怪獣同士のどつき合いが主眼であったのに対し、今回はヒューマンドラマを主体に持ってくる。脚本は一般公募によるもので、本作で脚本家デビューを果たした高山由紀子はこの時点ではまだ映画専門学校に通う学生。 怪獣作品(特にゴジラ映画は)人間ドラマと怪獣同士の戦いどちらに主眼を置くか、そのバランスかなり微妙なものがある。本作品はあまりに重点が人間ドラマの方に置かれてしまったので、今ひとつ素直に楽しめなかった部分がある。登場人物が「愛」を語る映画を子供が喜んで観るだろうか?しかし、今になって思うと、この作品の人物描写って本当に優れていたと思う。何より正当派マッドサイエンティスト真船博士(奇しくも日本における最初のマッドサイエンティスト『ゴジラ』の芹沢博士役の平田昭彦)の狂いっぷりは見事なほどで、今思い直すとほれぼれしてしまう。藍とも子の艶っぽさも演出的には優れている。 怪獣の戦いも結構見応えはある。特にゴジラとメカゴジラの戦いで、ゴジラがメカゴジラの首を落とした時点で決まった!と思った瞬間(前作ではこれで勝ったのだ)、無くなった顔の部分から怪光線が出るシーンはかなり驚いた。 初登場のチタノザウルスは普通の恐竜と言う感じで、あまり強そうに見えなかったのが少々残念。 この作品は本多猪四郎監督作品としてのゴジラの最終話。以降9年の沈黙期間を置くことになる。 ちなみにこの特技監督は中野昭慶。怪獣同士のどつき合いにはピッタリの人物。 …レビューを直すたびに評価が上がっていく不思議な作品になってるな。本作は。 |
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ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣 1970 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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アジア開発が計画している南海の孤島セルジオ島の取材のため、週刊誌のカメラマン工藤太郎(久保明)を初めとする調査隊がセルジオ島に上陸した。早速調査を開始するが、彼らはそこで信じられないものを見るのだった。ゲゾラ、ガニメ、ガメーバという怪獣達が次々に現れる。怪獣達の襲撃をかわしつつ、その原因を探る工藤達だったが… 東宝が作り上げた“非ゴジラ”の最後の作品。一番最初に最も素晴らしい作品を作り上げてしまった東宝の苦悩が現れているような気がする。ゴジラを作ればそこそこの作品を作ることが出来るが、既にこの時までにゴジラのパターンは出揃ってしまい、怪獣プロレス路線で固定されてしまった。新しい路線を作り上げることで怪獣映画を新しく作り続けたいという思いがあったものと推測される。事実、名前はともかく、ここでの人間型から離れた怪獣達の生き生きした動きは一見の価値があるし(1/1のゲゾラの脚やゲゾラのハサミなども作られている)、路線も人間を主軸に置いた明るい作風になっている。 ただ、奇をてらわずに作ったお陰で、結局特色のない作品だという事にもなってしまった。それだけに怪獣ブームの低下を押さえる切り札には成り得なかったと言う、悲しい宿命を背負った作品でもあった。画期的要素も感じられず、どこか前に観た作品から色々引っ張ってきて、地味目なまま終わってしまった。既にテレビで「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」が作られていたのだから、映画はもっとぶっ飛んで欲しかったというのが本音。 東宝オールキャストで作られているため、お馴染みのキャラクタが次々登場するのは嬉しいところ。特に今回は土屋嘉男がパワフルな博士役で登場。こいつ絶対学会の異端児なんだろうな。とか思わせるのはさすがに上手い(もしここで宇宙生物に乗っ取られるのが佐原健二の方じゃなくて土屋の方だったら、「宇宙人に乗り移られやすい体質」と大笑いできたのに(笑))。 |
ゴジラ ミニラ ガバラ オール怪獣大進撃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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怪獣大好きの小学生、三木一郎(矢崎知紀)は、留守がちな両親のいない間、発明家の南信平(天本英世)の家に入り浸っていた。南の発明のお手製コンピュータで遊んでいる内に眠ってしまい、夢の中で怪獣島へと行ってしまった。そこで大好きなミニラがガバラに虐められているのを発見した。南に起こされ、現実に戻った一郎はそこで強盗犯人に接触。捕まってしまう。夢と現実の両面で危機を迎える一郎は… 円谷英二が最後に手がけたゴジラ作品となった本作は前作『怪獣総進撃』で支持を受け、その再来を狙って再び本多猪四郎監督を迎えて製作された。しかし、内容は「あれ?」というもので、興行成績は低迷したらしい。なにせ話自体がファンタジックな夢物語で、現実世界には怪獣は一体も出てこないという異色作(実に『大怪獣東京に現る』(1998)まで怪獣が出てこない怪獣映画は本作が唯一だった)。 ほんでもこの作品、あんまり悪く言う気もないんだよなあ。 確かに前作のようなドラマ性はここにはないし、たかだかガキの夢じゃねえか。ってのもある。ついでに言うなら、オープニングの脱力しまくりの歌もそうだけど…だけど、この根底に流れる優しい目が良いじゃないか。作品自体はむしろ2作前の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967)の流れを継承し(正直、この作品って福田純監督とばかり思ってたよ)、人間と怪獣との交流って点に重点が置かれ(ここでもミニラが重宝されている)、それによって子供の成長を描こうって言うのが結構設定的には惹かれる。 成長とは一体なんだろうか? それはとにかく一歩踏み出すこと。今に踏みとどまっていては、それがたとえどれだけ心地よくとも、成長はできないぞ。そんなメッセージを感じ取れる。 考えてみれば、この辺りからなんだよな。親が子供に期待しすぎるようになったのは…勉強し、大学に行って良い会社にはいる。それが唯一の価値観となりかけていた、そんな時代。こども達はその大切な“一歩”を踏み出さなくても良くなってきた。 ラストシーン、少年は決して大人に都合の良い子供にならなかった。むしろ、今まで出来なかった悪ガキの遊びに手を染めてる。これを肯定してるってことは… とにかく一歩踏み出せ。これは本多監督が全てのこどもと、その親に対するメッセージだったのかも(事実本多監督は自身のフィルモグラフィの中では本作はお気に入りだったとか)。 後もう一つ。これは絶対の売り!天本英世がこんなに人好きのするキャラクターを演じた彼の長いフィルムライブラリーでも唯一だろう(ちょっとマッド入ってるけど(笑))。ジュブナイルには必要なんだよ。こういう町内の発明家は。最初その姿を見た時は失礼ながら吹き出したよ。 |
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緯度0大作戦 1969 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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製作はドン・シャープ。 |
ゴジラ映画音楽ヒストリア──1954 ― 2016(書籍) |
怪獣総進撃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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地球上の怪獣が集められ、管理される怪獣ランド。だがある日、突然島は不思議な霧につつまれ、怪獣達が逃げ出してしまう。全世界の主要都市を襲い始める怪獣を何とか止めるべく山辺(久保明)を隊長とする日開発基地のSX3号は調査を開始するが、怪獣を操っていたのはなんと怪獣島のコントロール・センターであることが発覚する。コントロール・センターの職員は既に侵略者キラアク星人の管理下にあり、職員は白衣の美女の姿をしたキアラク星人により、リモート・コントロールされていたのだ…久々にメガフォンを取る本多猪四郎監督による昭和シリーズ第9作。 怪獣ブームが下火となり、東宝が怪獣映画の総決算として投入した作品。だが幸いな事に本作の大ヒットにより路線は継承されることになる。後々まで怪獣島の設定は残され、ゴジラシリーズのメルクマール的な位置づけにある作品で、その後1972年の東宝チャンピオンまつりでは、『ゴジラ電撃大作戦』と改題されたニュープリント改訂版(74分)が上映された。 本作の初見は随分前のこと。見た目からあんまり期待できないと思っていたし、事実初見時点では全然面白いと思えなかった。11大怪獣とか言いつつ、実際に画面に登場するのはその一部だし、人間ドラマと怪獣の戦闘シーンは見事に乖離。キングギドラがいくら強いって言っても、集団リンチのような戦いにも引いた。何よりあまりに話が陽性すぎて正直な話、しばらく本作には最低点を付けていた。 ところが、最近になってこれ観直してみて、評価を一気に上げた。 怪獣と人間のドラマというものについて改めて考えてみたい。 前作『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967)で福田純監督は人間と怪獣との交流について描いていたのだが、本作の人間と怪獣の関わりは恐ろしいほどに希薄だった。人間は完全に管理された怪獣をモニター越しに観ているだけで、人間側は独自にドラマを作っている。これが最初観た時悪い部分だとばかり思っていたのだが、実は全く逆ではないか?と言うのが今の考え。 本多監督は本作において、徹底して人間を描こうとしていたのではないだろうか?怪獣を画面の向こうに押し込め、こちら側ではハードなドラマを展開する。向こう側を子供に分かるように、そしてこちら側では大人が興奮するように。 …これは実は卓見だったのでは?少なくともこの関わり方だと、幅広い世代にアピールができる。元々特撮映画を大人の作品として撮っていた本多監督は、福田純監督の子供向け路線を損なうことなく、立派に大人向け作品として本作を作り上げてくれていた。 確かにその点においてバランスが良かったとは言い難いが、人間側のこの緊迫したストーリーはどうだ。今観ても、地球規模の危機感は充分感じ取れるし、緊張感と熱で汗を流しながら地球を救おうとする人間側の努力は緊迫感溢れるじゃないか(特攻精神もあったし)。人の死というものに対しても正面切ってその重さを演出していた。その辺はやはり本多監督ならではだ。怪獣映画で必要なのは怪獣だけじゃない。人間をきっちり描くことが重要だ。と言うことを暗にほのめかしているようにも思える…考えすぎだろうか? それに本作では、大分コミカルになったとは言え、久々に怪獣が“天災”として描かれてもいたし。 …このレビューを書いていて、ふとデジャヴュに襲われる。このパターンはどこかで… あ、そうだ。これは怪獣版の『妖星ゴラス』なんだ。そう言えばこれも本多監督だったか。 本作で久々登場となったゴロサウルスだが、何故か解説には「バラゴン」となっている。これは破損したバラゴンの着ぐるみの補修が間に合わなかったために、急遽ゴロサウルスの着ぐるみを代用したためとか。 |
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キングコングの逆襲 1967 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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海底油田の調査を行なっていた国連調査船の原子力潜水艦が南海ので故障を起こし、ネルソン司令官(リーガン)、野村次郎(宝田明)、スーザン(ミラー)の三人は付近のモンド島に上陸した。そこはまさに南海の楽園だったが、彼らの前に突如恐竜ゴロザウルスが現れ、それを追うように巨大な猿が登場。ここはキングコングの生息地だったのだ。驚く三人だったが、ゴロザウルスを倒したコングは意外にも人なつこく、特に身振り手振りを交えたスーザンとは意思の疎通まで出来た。しかし一方、このコングを生け捕りにしようと狙っている一味がいた。ドクター・フー(天本英世)とマダム・ピラニヤ(浜美枝)である。彼らは北極地中に眠るエレメントXを掘るために、コングを使おうと考えていたのだった。首尾良くコングを生け捕りにしたドクター・フーは、コングに命令を下せるスーザンを狙うのだが… 『キングコング対ゴジラ』に続いてのキングコングを前面に押し出した作品となるが、ここに出てくる『逆襲』とはいったい何を示しているんだろう?大きさが違うので、『キングコング対ゴジラ』の続編というわけではないし、単にタイトルだけか?と思ったのだが、ここに出てくる設定やキャストを見ていると、本作は最初から海外向けを念頭に置いて作られた作品だと分かる。この『逆襲』とは、おそらくハリウッド版の『キング・コング』(1933)の正統な続編だというスタッフの気概にあふれて作られたのではないか?とも思える。 実際キャストを見ても、数多い外国人俳優が用いられているし、同年に『007は二度死ぬ』(1967)でボンド・ガールを演じた浜美枝までもが登場する(悪役だけど)。更にラストのメカニがスーザンひっつかんで東京タワーに上るあたり、ほんとに狙ったって感じだ(事実アメリカでのTV放映では本作は好んで使用されたらしく、知名度も高いらしい)。サイズを敢えてゴジラサイズからスケールダウンさせたのも、その辺が狙いなんじゃなかろうか? 本作は特撮を見ても充分見応えのある作品だが(コングであれメカニであれ、尻尾を持たない人間に近い体型だから、二つがぶつかるシーンはプロレス的な面白さもあるし、冒頭のゴロザウルスとキングコングのとっくみあいは、後のウルトラシリーズに継承された気持ちの良さを見せてる)、本作の見所はむしろ人間側の方にあったように思える。 日本映画において数々の作品で印象深いバイ・プレイヤーぶりを見せてくれた天本英世だが、もの凄い数の映画に出ている割に、主役まで演じたのは数少ない。本作はその貴重な一本だろう。やっぱりというか、彼の演じるのは正義の側ではなく、悪の側だが、そこでマッドサイエンティストであるドクター・フーを際だたせていたのも、やっぱり天本英世の怪演あってのこと。あくまで自分のペースを崩さず、訥々と喋る姿が映えてしたし、その言い方に苛つく浜美枝演じるマダム・ピラニヤとのやりとりも楽しい。かなり戯画化されているとはいえ、明確な悪の側に中心を持って行った本作のストーリーは誇ってしかるべきだろう。 日米の特撮作品にあって、かなり重要な位置づけにあると思うのだが、どうだろうか? ちなみに本作は怪獣ブームのまっただ中に製作された作品で、更に併映が『長編怪獣映画 ウルトラマン』(1967)であったため、特に子供に対しては大ヒットを記録する(その辺は円谷の方も意識していたらしく、ゴロザウルスが倒されるシーンでは血を使うことを拒否したという)。 |
お嫁においで | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ 1966 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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真夜中の海で漁船が沈没する。精神錯乱寸前の船員が語ったのは「フランケンシュタイン」。かつて山中に消えたフランケンシュタインの怪物ではないか。との問いに対し、彼の優しさを知っていたステュアート博士と助手の戸川アケミははっきりと否定する。だが、その後羽田に現れ、人間をむさぼり食うのは間違うことないフランケンシュタインだった。そしてついに自衛隊による殲滅作戦「L作戦」が発動し、あわや怪獣を倒す寸前、もう一人のフランケンシュタインの怪獣が現れ、彼を助ける。この怪獣こそがかつて研究所で育った怪物の方だったのだ。心優しき山の怪物はサンダ、海から現れた怪物はサンダの細胞から生まれた怪物ガイラと名付けられる。再び東京に現れたガイラを追うように、山を下りるサンダだが… ベネディクト・プロと東宝の提携により作成された「フランケンシュタイン」シリーズの2作目。最初に大ダコが登場するのは前作『フランケンシュタイン対地底怪獣』のラストシーンで怪物が大ダコに引き込まれたシーンの引きに対応してる(これはインターナショナル版)。そこから冒頭部分で登場した怪物が前作のフランケンシュタインだと思わせるのは巧いやり方。あんなに心優しい怪物が?と言う疑問を呈する事に成功している。そしてそれからの展開が凄い。東宝では基本的に嫌う傾向のある“人を食らう怪獣”を敢えて映し出し、身軽に動き回るフランケンシュタインと、パニックを起こして逃げ回る人の群。 ステュアート博士やアケミの望みとは裏腹に自衛隊により追いつめられるフランケンシュタイン。ここが又凄い。後の東宝の人間側兵器の代名詞ともなるメーサー車の登場。ここでの自衛隊対ガイラのシーンは特撮映画史に残る最高の出来映えで、作戦を遂行する自衛隊の面々の緊迫感。メーサー車の光線によって次々に破壊される立木を縫ってガイラが逃げていくシーンなど、演出面も最高。 そして現れたサンダの雄々しさと優しさ。兄弟の身を案じ、甲斐甲斐しく介護を務めつつ、人を助ける優しさ。そしてガイラを諫めようと木を引っこ抜いて振り上げた際、無防備なガイラに一瞬の躊躇を見せるシーン。言葉こそ交わすことが無くとも、これだけの演出が出せたのは見事だった。この二体ともデザインは成田亨なのだが、見事に造形だけで個性を出してる。 そして最後の戦いで、破壊される町並み。サンダとガイラがとにかく素早く動くもんだから(同年に始まったテレビシリーズの『ウルトラマン』より遙かにスピーディ)、ビル群の破壊がとにかく派手で、これ又見事な出来だった。それで二人の戦いは海へと持ち込まれるが、これまた迫力充分。撮影所内の巨大プールを好きに使える東宝の面目躍如と言ったところ。 ヘリコプターによる爆撃の中、もみ合う二人の怪物の乱闘は最終的に決着が付かず。しかし、これはこれで良かったのではないかな?物悲しい余韻を残してくれた。 前作と較べ、怪獣のもの哀しさと言う点では劣る感じだが、その分、特撮部分の演出は見事。実際GAINAXの面々もこの演出は随分勉強したらしく、『エヴァンゲリオン』であれ、『ガメラ2 レギオン襲来』(1996)であれ(特技監督の樋口真嗣もGAINAXの一員)、同じような演出が多々なされていることも。 |
フランケンシュタイン対地底怪獣 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ドイツの化学者リーゼントロフ博士の手によって保存されていたフランケンシュタインの(怪物の)心臓が潜水艦により日本に運び込まれた。ところが、その研究所は広島の原爆で破壊されてしまう。15年後、原爆研究所で働く女性戸上李子(水野久美)は、不思議な少年を見かける。不審に思い助け出すが、彼は充分な栄養の元、どんどんと成長していく。実は彼はフランケンシュタインの心臓から生まれた怪物であったのである。巨大化を続ける怪物に、人は恐れをなしていく。心ない人間の刺激で怪物は病院を脱走。日本中を逃げ回る。その時、富士山麓に突如現れた地底怪獣。人間を食料とするその地底怪獣にフランケンシュタインの怪物は立ち向かっていく。 ヘンリー・G・サパスタイン率いるベネディクト・プロと東宝が提携を結んで製作された作品で、本作のアウトラインはルーベン・ベルコビッチが書いている。 冒頭、流石怪獣もの!と言う具合にマッド・サイエンティストが登場。これが結構凄まじい性格をしているのが実に良い。特にこの時代どんどん対象年齢が低年齢化するゴジラシリーズに対し、大人が観られる特撮を作ろうという意気込みはビンビンに伝わってくる。怪物を巡る人間側の思惑が実に良い感じ。 そして、流石円谷!特撮技術は最高。この年代にここまでの特撮技術があったことに驚かされる。撮影もよく練り込まれているし、今の何でもCGでやってしまおうと言う風潮の映画家に見せてやりたいくらい質が高いし、伊福部昭の音楽がよくマッチしている。 ストーリーの方も、人間に追われ、やむなく逃げ回る怪人が、人間のために戦うシーンが涙を誘う。敵役として登場した地底怪獣バラゴンの残忍さもよく表されていた(マイナーな怪獣ではあるが、ゴジラに次ぐインパクトがある)。 ちなみにこの作品、日本公開版とインターナショナル版の二種類がある。インターナショナル版は残酷描写を避け、ラストも変化しているのだが、このラストはどうしても首を捻る。バラゴンをやっとの思いで倒したフランケンシュタインの怪物の前に突如、なんの脈絡もなく巨大タコが現れ、湖に引きずり込んでお終い…次回作の『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』の伏線なのだろうが、ちょっとこれはないんじゃない?そもそもなんで湖からタコ? |
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怪獣大戦争 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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木星の13番目の新衛星・X星の探査に向かった富士(宝田明)とグレン(アダムス)はそこでX星人を名乗る宇宙人と遭遇する。X星統制官(土屋嘉男)は彼等に「我々の脅威であるキングギドラを撃退する為、ゴジラとラドンを借りたい」と申し出る。話し合いは成立し、X星に連れてこられたゴジラとラドンは見事キングギドラを撃退する。だがこれは全てX星人の策略のうちだったのだ。やがて地上にやってくる脅威とは… 本多猪四郎監督が子供向けに徹して作り上げたゴジラ・シリーズの一本。1965年の邦画興行成績も9位と大健闘している(実は本作の企画そのものがベネディクト・プロによるものだったため、アメリカでの配給でもかなり稼いだ)。とにかく陽性で、明るく作られているのが最大特徴と言えるだろうか。これまでもゴジラ映画のために音楽を作ってきた伊福部昭による伊福部マーチも冴え渡る。 本作ではゴジラ映画では初めて宇宙が舞台となっているが、それも前作でキング・ギドラと言う魅力ある敵役を得た事実が大きいだろう。二作続けてのギドラ襲来により、宇宙から敵がやってくる。それから地球を守のは地球を代表する怪獣だ。と言う構図を確立した作品となった。キング・ギドラは二度目の登場(多分敵役としてなら最多登場だろう)であるが、前作のような凶暴さがやや落ちているのが残念と言えば残念(やっぱギドラは操られててはいけない存在なんじゃないかな?)。そしてX星でキング・ギドラを追い払ったゴジラは喜びのあまり、飛び跳ねながら“シェー”のポーズを取る(これは本作をこども向きにすると言う円谷英二自身の判断によると言う)。確かにこのゴジラ、良く動くのだが、怪獣同士の戦いについては特筆すべき事はあまりない、と言うのが正直な印象。特に前作の凶悪なキング・ギドラを知っている身としては。 だけど、ここには非常に魅力的な存在がある。X星人。彼らは地球人を騙し、キング・ギドラを操って地上を征服しようとすると言う、まあある意味ステロタイプな宇宙人ではあるのだが、なんと言っても彼らの宇宙服のデザインは秀逸だし、台詞が格好良い。後年の「ウルトラセブン」に強い影響を与えたのではなかろうか? そしてラストで分かる。この映画の本当の主人公が誰であったかが。ゴジラには敵わないと言う前提の元、作戦を立てて目的を果たそうとするX星人。彼らこそ努力と根性をもって作戦を遂行していたのだった。そして作戦が失敗したとき、彼らは見えない未来に向けて出発したのだ。彼らはあきらめてはいない。自分たちが失敗しても、いつか必ず目的は果たす。まさしくあの台詞はその意思に溢れた言葉だった。 あの言葉が浮かずに素直に受け入れられたのは、高度成長期と言うあの時代ならではだったのかな?そしてよほどX星人の方が等身大のヒーローっぽいのが皮肉っぽくて良い。 ここに登場しているニック・アダムスは知名度はさほどではないが(脇役俳優で『理由無き反抗』や『ピクニック』などに出演)、顔映りが良い役者のため、ベネディクト・プロのヘンリー・G・サパスタインが引っ張ってきたのだとか。 |
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「我々は脱出する!未来へ向かって脱出する!まだ見ぬ、未来へ向かってな」 |
三大怪獣 地球最大の決戦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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地球に異常気象が続く中、黒部峡谷に大隕石が落下する。それと呼応するように金星人を名乗る予言者(若林映子)が現れ、地球滅亡を警告する。阿蘇山からラドンが、太平洋からゴジラが現れ、戦いを始める中、隕石から、5000年前に金星を滅ぼしたと言うキングギドラが現れる。地球の危機に、インファント島からモスラが日本にやって来て、ゴジラとラドンに地球のため、力を合わせようと呼びかけるのだが… ゴジラシリーズでは初めて4体もの怪獣が一堂に介し、壮絶な戦いを繰り広げる作品(じゃなんでタイトルが「三大怪獣」なのかという突っ込みはともかく)。 どちらかというとやや人間ドラマに重点が置かれる作品ではあるが、そちらの方は今ひとつと言った感じ。 一方、怪獣同士の戦い見どころ満載で、むしろそちらに特化して考えるならば、非常に楽しめる作品に仕上がっている。特に本作が初出となり、後々までもゴジラと死闘を繰り広げることになる 宇宙からやって来た怪獣を地球の怪獣が共同してやっつけると言うのは本作から東宝では定番となったストーリー運びで、その方向性を決定づけたという意味でも重要な作品だと言えよう。 あまり見所のない人間ドラマだが、細かい所で結構楽しめる部分もあるぞ。志村喬が精神分析医役で重要な役回りをしているとか(『ゴジラ』(1954) 『ゴジラの逆襲』(1955)では考古学博士役)、ド派手なセルジナ公国の民族衣装を身にまとった天本英世とか(それにしてもこの服装は凄まじくミスマッチで、これだけでも笑えること請け合い)、ザ・ピーナッツがモスラのために新しい歌を披露してるとか(前の方が好きだったけど)… 怪獣映画ファンであれば、是非観ておいて欲しい一本。 |
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モスラ対ゴジラ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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台風に乗って巨大な卵が海岸に流れ着いた。新聞記者の酒井(宝田明)と助手の純子(星百合子)はインファント島から来た小美人(ザ・ピーナッツ)から、それがモスラの卵だと教えられる。だが卵は興行主の熊山(田島義文)らの手に渡って見世物にされようとしており、取り戻そうとする小美人の声も届かない。そんなある日、台風で被害を受けた干拓地からゴジラが出現し街を蹂躙し始め、防衛隊の作戦も失敗に終わる。この危機を救えるのはモスラしかいないが、インファント島の成虫モスラはまもなく寿命を迎えんばかりの状態になっていた…
単独でシリーズを持っていた『ゴジラ』(1954)に『モスラ』(1961)を融合させた作品だが、本作は以降のシリーズの大きな試金石として製作された。これまで東宝怪獣シリーズはあくまで単独で作られ、同一の怪獣が出てきたとしても、それは基本的には別個体という認識がなされてきた。だが本作において、モスラは『モスラ』で登場した同一個体とされ、ゴジラも前作『キングコング対ゴジラ』(1962)で海に転落したゴジラと同一のものとされる。 ストーリーの方は復讐譚として「曾我兄弟」をベースに、人の欲の浅ましさ、原水爆の恐ろしさ、そして善意ある者の誠意が結局勝つのだ。と言う形に持っていく、まあ言うなればゴジラの黄金パターン。いや、そう言うのは当てはまらないな。むしろこの作品がその形を作ったと言った方が良いかも知れない。 物語は兎も角、この作品はゴジラという素材を縦横無尽に使い切った事の方に意味があるだろう。ここでのゴジラは「モスゴジ」などと言われ、「キンゴジ」(『キングコング対ゴジラ』と並び称される程の傑作造形だった。どことなく愛敬のある顔立ちに、凶悪な三白眼を付けることで、素晴らしいバランスの表情を見せていた。土中に埋められたゴジラが這い上がってくる様は人間が中に入っているとは思えないほどに生物感に溢れ(ゴジラアクターの中島春男の名演ぶり)、尻尾の操演は最早名人芸と言っても良い。本当に良く動く。ゴジラ本人よりも尻尾の演技の方に目が行ってしまう程。ただ、その分モスラの方にやや魅力が感じられなかったかな?都合3匹も出てくるしねえ。 後はインファント島の描写は面白かった。明らかに日本人の顔立ちしているのが暗黒舞踊を踊っているのには笑えるし、ザ・ピーナッツの「モスラ〜ぃやっ、モスラ〜」も良い(「ぃやっ」の部分で民謡風に語尾を上げるのがポイント)。今観ても充分鑑賞に足る作品。 ゴジラ造形が素晴らしいことは言ったが、しかしその素晴らしいバランスを取っていたゴジラが次々と受難に遭う。砂だらけになるわ、変な粉をかぶせられるわ、顔が燃えるわ、モスラの粘糸で絡めとめられるわ、挙げ句に海にたたき落とされるわ…余計なお世話だろうが、中に入ってる人はさぞ大変だっただろう。 物語にもバランスが取れていて、結構好きなのだが、ラストの宝田明の台詞に急に醒める。「俺たちが良い世界を創ろうじゃないか」。確かに良い台詞には違いないと思う。だけど、あれだけ悲惨なことになってるインファント島にこれだけ迷惑をかけておいて、あそこには何の援助も必要ないんだ。と言う風にも取れてしまい、結局身勝手なだけじゃないか。としか思えなかったのがなあ。 ちなみにゴジラ映画はこれまでアメリカでは様々な製作会社によって買われたが、本作以降ヘンリー・G・サパスタイン率いるベネディクト・プロによって買われ、一貫してAIPで配給されることとなる。 |
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宇宙大怪獣ドゴラ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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新型TV衛星が宇宙蛍に襲われて破壊された事件が起こった。丁度その時地上では宝石店に五人組の強盗が押しいっていた。まんまと金庫を盗み出すことに成功したが、直後謎のピンク色の固まりが金庫にへばりついて凄い勢いで白熱化し爆発。宝石は空高く舞い上がって見えなくなってしまった。この不可解な事件の捜査に当たる警視庁外事課の駒井刑事(夏木陽介)は、貯炭場を襲った大怪物が、竜巻のような勢いで石炭を吸いあげる光景を目撃した。結晶構造学の権威宗方博士(中村伸郎)と協力して、この怪物が炭素の固まりを必要としている事実を発見した。その頃世界中にこの怪獣は現れ、炭坑を中心に次々に被害は広まっていた… なんと言っても怪獣ものを大得意とする本多猪四郎監督が監督した、不思議な雰囲気を持つ作品。一応本作も怪獣ものではあるけど、豪華な俳優陣を配した無国籍ギャング作品として観た方がぴったりする。全般的にコメディ調ではあるが、人間同士のアクションも結構きちんとまとめられ、怪獣が世界中をパニックに陥れてる下でのドラマが展開している。 ただ、本作は公開当時はあまり評判が良くなかったらしい。確かにおどろおどろしいスチールを見て、ハードな怪獣ものを期待して観に行ったつもりだったら、あまりに怪獣自体がとらえどころが無く、しかもあまり登場しないから消化不良を起こしてしまったかも知れない。後、こう言っては悪いが、ギャング団との攻防もコメディ要素が強すぎて今ひとつ緊迫感のないものになってしまったのも残念なところ。 だが、実はそれこそが本作の目的だったのではないだろうか?これはおそらく東映の“脱ゴジラ”の一環として作られたものと思われる。『ゴジラ』の呪縛は大きく、東宝特撮は怪獣を出すものという先入観にとらわれてしまっていた。しかもネタそのものはパターン化していき、更にどんどん子供向けに変わっていった。しかし円谷が考えていたのはそこで終わるものではなく、エンターテインメントとしてSF的要素を付け加えた大人向きのドラマを模索していたはず。それで変身人間シリーズを作り上げ、ハードな路線をこれまで続けてきたが、ここで一旦それをリセット。SFコメディを作ってみよう!という姿勢で作り上げたのが本作なのだろう。 ここでの主役は怪獣ではないと考えてみると、本作はかなり手堅くまとまっている。007を思わせる、アクションと笑いをふんだんに詰め込んだ作品だし、事実これは前年公開され大ヒットした『007 ロシアより愛をこめて』(1963)からかなりのインスパイアを受けていると思われる節があちこちに見受けられる。 それに本作の存在こそが後に円谷プロがウルトラQ作る上で重要な要素となっていたのは事実だし、SFXやCG技術が進んで、SF的要素が小物として使用出来るようになった現代になってようやくハリウッドもこの水準に達してきたと言うことも出来るだろう。 実に円谷は数十年後の作品をここで作ってしまったとも言えるのだ。 ここでもうちょっとアクション面をハードに作ることが出来れば傑作になり得たんだけどねえ。その水準に達してなかった日本映画の拙さを悔やむしかない。 尚、ここでのドゴラは人間による繰演ではなく、水槽にドゴラの模型を浮かべて水圧で動かしていたとのこと。ついでに言うなら最後の鉢の大群も砕いたコーヒー豆を水槽に入れ、吸引口から水を吸い込ませて群がっていく様子を撮影したのだとか。特撮はやっぱりアイディアだな。 |
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マタンゴ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ヨット旅行に出た七人の男女…城東大助教授の村井(久保明)、彼の恋人の相馬明子(八代美紀)、青年実業者笠井雅文(土屋嘉男)、彼の愛人でシャンソン歌手の関口麻美(水野久美)、笠井に雇われたヨットのベテラン作田直之(小泉博)、推理作家吉田悦郎(太刀川寛)、漁師の息子で臨時雇いの小山仙造(佐原健二)は、航海中に暴風雨に襲われ、遭難してしまう。水も食糧もなくなり、七人はやがて濃い霧の中に浮かぶ無人島へと漂着する。キノコに覆われたその島に漂着したとおぼしき難破船にはまだ缶詰が残っており、彼らはそこを拠点として助けを待つことにした。しかし、時が経てば経つほど不気味さを増す島の雰囲気と、食べ物の不足とから、一人一人と彼らは正気を失っていく… 本作の原作はホジソンの「闇の声」という短編。これを日本SF界を引っ張ってきた星新一氏(彼の場合はいくつかのアイディアを出しただけだという話もある)と福島正実氏の翻案により映画化される。 前々から観たい観たいと思っていた作品だったが、この度ようやくDVD化されることとなり、やっと望みが叶った。出来にも大満足。 先ずなんと言っても脚本が秀逸。当初これは生理的不快感を前面に出した、気持ち悪くて怖い作品かと思っていたのだが、そんな事はなかった。むしろこれは人間を主体に置いた、人のエゴを描いた作品だ。 孤立し、食料も少なくなった時に、徐々に人のエゴがむき出しになっていく過程が丁寧に作られていくし、その中で理性的に行動しようと言う側と、パニックに襲われてしまう側との断絶の描き方が際だっている。この時間内で、きっちりと全てを描ききっている点は素晴らしい。パニックものの映画としても充分に鑑賞に足る作品だった。 そして島に豊富に生えているキノコを食べたいという欲求をどんどんふくらませていく描写。これが際だってる。食料は目の前に豊富にあり、それを食べられないのはまるでギリシア神話のタルタロスの話のよう。しかもこっちは死にそうに腹が減ってる時に、目の前で美味そうにキノコにかぶりついてる姿を見せつけられるとあっては…しかもその恍惚とした表情と来たら、ゾクゾクするくらい。中でも、キノコを食べれば食べるほど妖艶に変わっていく水野久美や、最後の最後にキノコを食べ、恍惚とした表情を浮かべつつ、村井にしなだれかかってくる八代美紀の表情は凄まじいほど(キノコを食べて醜く変わっていくことを全く逆転させたのは本多監督のアイディアだそうだが、見事なはまり具合だった)。 又、本作は堕落の快感というものをも示していたように思える。自分がキノコに覆われ、マタンゴになってしまう恐怖感と、このままでは死んでしまうと言う飢餓感。その板挟みにされた人間の心理。生存の欲求をどこまで嫌悪感と言う鎧で押さえつけられるのかと言う、原初的なテーマが封じ込められている。原初の社会から始まった社会は“嫌悪感”というものを作ることによって文明を築き上げてきた。それは殺人に対する嫌悪であったり、フリーセックスに対する嫌悪だったりもするし、勿論食べ物に対する禁忌も重要。文明とは、タブーをどこまで進められるかでその度合いが測れるだろう。だが、人は同時に、動物的な原初の快楽を求めようとするのも確かな話だ。 そして食欲という原初の快楽に向かって一人、又一人と堕ちていく。嫌悪の果てに待っているのはこの世ならぬ快感…あれ?これって凄えエロチックな作品と見ることもできるんだな(笑)。 しかも同時にこれは単なる人間の極限状態を描いただけの作品ではない。言うまでもなくそれはマタンゴという怪物の存在。怪奇ものっぽく、最初はなかなか姿を現さず、徐々に忍び寄ってくる演出が巧い(尚、人間とマタンゴの中間的なキャラクターが登場するが、演じているのは天本英世だそうだ…全然分からねえって)。きちんとタイミングを計って怪物を投入する。これ又巧さだな。 ところで、DVDの特典を観ていたら面白い事が分かった。特撮映画は人間のパートと特撮のパートに分けて撮影されるのだが(特撮映画には監督と特技監督の二人の監督がいるのはそのため)、この映画に関しては、同時撮影のパートが非常に多かったらしく、スチール写真には本多猪四郎監督と円谷英二特技監督が一緒に写っているのが結構多い。お互いに勉強になったというコメントを聞くことも出来た。コメンタリーも興味深いので、DVDはお勧め。 本作により、私の大好きなジャンル、悪夢映画に大切な一本が加わった。ただ正直、この作品で一番「怖い」と思ったのは、最後の八代美紀の「せんせえ、せんせえ」と言う声だったりして(笑)…いや、マジあれ怖えよ。堕落に誘う声。自分が自分でなくなりそうで… |
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海底軍艦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1万2千年前太平洋にに没したとされるムウ大陸。だがムウ人達は地熱を用いた文明を海底に築き上げていた。守護竜マンダを擁し、優れた科学力を持つムウ帝国人は地上を支配すべく宣戦布告をすると同時に、海底軍艦の解体を迫るのだった。地上の誰一人知ることのないその秘密海底軍艦は実は日本海軍が秘密裏に、戦局打開の為に神宮寺大佐(田崎潤)の指揮の下で建造させていた天や海を駆ける超兵器だったのだ。その存在を知る元海軍少将・楠見(上原謙)は世界のために海底軍艦「轟天」を起動すべく神宮寺のもとへ向かうのだが… 監督本多猪四郎、特技監督円谷英二の黄金コンビが放つ海洋冒険大作。 元々東宝は優れた特撮技術を用い、映画界においては特撮映画の雄となっていたが、東宝の目指す傾向は二系統に分かれていた。一つが『ゴジラ』(1954)を初めとする怪獣もので、もう一つは太平洋戦争を題材にした戦記物である。戦前から国策映画として戦争映画を作っていただけに、東宝の作り上げた戦記映画はかなりの数に上り、特に円谷が特技監督をした『ハワイ・マレー沖海戦』(1942)の出来映えはフィルムを接収した連合国から「本物ではないか?」と言われるほどの逸話を持つ。戦争が終わり、円谷は精力的に怪獣作品と戦記作品を並行して作っていった。 そしてその二系統の特撮技術が一つに結びついたのがこの『海底軍艦』だと言って良いだろう。20年前の敗戦の痛手からようやく立ち直り、奇跡の復興を見せた日本と、それに目を瞑り、あくまで国のためを想い、20年という時間を用い轟天号を作り上げる旧日本海軍の軍人達。既に国際社会の一員として自らを位置づけているかつての上官楠見に対し、あくまで日本のためだけに轟天号を使うことを願う神宮寺。劇中盤の緊張感はここからもたらされていて、見事な描写となっている。戦後20年という時間の流れがここには感じられるのが実に良い。 楠見はそんな神宮寺を見て、うらやましさを感じていたのではないだろうか。価値観の多様さを顧慮せず、一つの目的に対し、ひたすら全精力を使い続ける生き方に。だが、一方では神宮寺の娘マコトはそんな事は知らぬ。20年ぶりに再会した父親を単なる分からず屋としてしか見ていない。そして結果的に、正しいのはマコトの立場にある。時は確実に流れていったというわけだ。色々考えさせられるタームではある。 本作品の主題でもあり、何と言っても最大の主役は「轟天号」だろう。先端にドリル。流線型のこの万能潜水艦の姿は当時の模型班には至って不評だったらしい。しかし、画面でのこの勇姿を見よ!あの出撃シーンは他のどんな描写にもまして格好良すぎ。絶妙のカメラ・ワークで巨大さを、そして水が割れて一気に姿を現す轟天号の姿は文句なし。(私の目から見て、「お、ヤマトだ」と思ったくらいだから、宇宙戦艦ヤマト自体が、この映画からずいぶんと影響を受けているのは間違いなかろう)。そして何と言ってもあのドリルよ。ドリル。これをダサいなどと言わないで欲しい。ドリルこそ全ての障害をはねのけ、突き進む象徴なのであり、これをつけた轟天号の姿こそが真なる勇者の姿よ!(一部不穏当な発言と取られるかも知れないが、容赦願いたい) ただ、それだけ轟天号及びそこでの人間が格好良かったのに、対するムウ帝国が残念。東宝お得意の半裸、暗黒舞踊、祭政一致体制と、見事にステロタイプな悪役になってしまった(と言うより、これから始まったという話もあるな)。守護竜マンダは存在感こそあれだけ大きいのに、轟天号の前にひとたまりもなかったし、地上の兵器に対してはあれだけ圧倒的な力を誇ったムウ帝国の誇る最新鋭艦でさえ、轟天号の前には敢え無く撃沈。総じて言えば、ムウ帝国は轟天号に対抗できるほどの存在感がなかった…唯一買えるのは天本英世のイッちゃった演技だけ。 劇後半部分で一番盛り上がるはずの場所において、結局轟天号の強さしか見ることが出来ず、しかも海の底だけに動きが遅い。前半及び中盤であれほど期待させた割にはクライマックスがあっさりしすぎていたのが残念だった(ウルトラセブンにおける傑作「ノンマルトの使者」はこのシークエンスの流用か?)。 ところで轟天号、ムウ帝国がいたからこそ、その存在価値があったのだが、あっさりとムウ帝国が滅んでしまった後はどうなっていくのか…国連にとってはお荷物以外の何者でもないはずのこの海底軍艦は、実はこの約15年後、再び姿を変え、その勇姿を現すことになる…それが『惑星大戦争』(1977)なのだが… |
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妖星ゴラス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1980年。初の土星探検宇宙船隼号が火星軌道を通過した時、地球から新しい星を調査するように指令が下った。ゴラスと名付けられたこの星は地球の6000倍という超質量を持ち、隼号は重力以上により遭難してしまう。ゴラスの軌道をどうしても変えることが出来ないことが分かった国連は、日本の科学者田沢(池部良)の提案で、地球そのものに推進装置を付け移動させるという「南極計画」を実行に移すのだった。 隕石が地球にやってきて、それをどう回避するか。これは近年になって『アルマゲドン』(1998)やら『ディープ・インパクト』(1998)と言うハリウッド作品になって登場したのだが、なんとその30年以上も前に日本が更に荒唐無稽(良い意味で)かつ素敵な作品として作っていた! 何せ地球そのものを動かしてしまおうという逆転の発想が凄い。まともだったら到底考え付きそうもない内容だ。まずその豪毅さを買いたい。 更に考えさせられるのは、日本の特撮と海外の特撮の姿勢ってやつの違いだった。日本のモンスター特撮映画の場合、表題の怪物が主人公となり、ハリウッド作品だと、それに対抗する人間が主人公となるから。事実『アルマゲドン』であれ、『ディープ・インパクト』であれ、隕石は人間の手で排除されるためだけに存在する。そう、これは脅威の排除であって、そこに敬意というものは存在しなかった。一方、本作においては、ゴラスは圧倒的な力を持ち、脅威であるが、その一方、ゴラスは単なる天災ではなく、そのものにまるで人格を持たせるかのように敬意を持って遇せられている。なんだかんだ言っても、しっかり本作は怪獣映画の定式に則ってる。 ただ、他の怪獣映画とゴラスは大きな違いがある。 ゴラスは地球にやってこなかったのだ。言うなれば、『ゴジラ』(1954)の目撃情報はあって、その脅威は知られていても、実際東京にはやってこなかった。と言うパターンと言っても良い。 これがどういう事かと言えば、本来主人公であるはずの怪獣がいなくなってしまったため、主人公は人間の側に持っていくことになる。極端な脅威に対し、人が出来ること。それはヒーローの存在ではなかった。ここに登場する人間全てが力を合わせることで、力を見せるのだ。ここに登場する人間全てが主人公となっている。無茶苦茶な設定を言う前に、怪獣の定式に則っていながら完全に人間側に主人公を持ってきたという点こそが本作の醍醐味なのでは無かろうか? 全員が主人公なのだから、南極計画で働く一人一人であれ、ゴラスを肴にくだを巻く酒飲みだって、やっぱりれっきとした主人公なんだよ(あれ?この客、天本英世じゃないか)。それがなんと言っても嬉しいところだ。 それに何より、この作品の面白さとは、通常のSFパニック映画に見られるような、逃げまどう人間とか、人間の無力さとかとは無縁だと言うこと。ここの登場人物は皆、無茶苦茶やる気を出してるし、それがどれだけ無茶苦茶であっても、一つの目標に向かってみんな一生懸命頑張ってる姿が泣かせるじゃないか。 …まあ、確かにストーリー的にはいくつも難があるし、特に後半のマグマは意味があるのやら無かったのやら分からない部分があったし、設定的に言っても無理はあるので、やや点数は落とさせてもらうけど、それでもこの圧倒的なドラマには素直に拍手を送りたい。 勿論これも忘れてはいけない。主題歌「おいら宇宙のパイロット」はつい口ずさみたくなる名曲。 正直、『アルマゲドン』のスペースシャトルのクルーになるのは願い下げだが、南極計画で働く人間にはなりたいと思う。本当にやりがいがありそうだ(そりゃ、あんな頭まで筋肉で出来てそうなくせに計画性無しの行き当たりばったりより、ちゃんと計画が明示されていて、自分がなにをやろうとしているのか、自分の使命がはっきりしているほうがはるかにやりがいがある)。 |
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キングコング対ゴジラ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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国連の潜水艦・シーホーク号が北極での異変調査中に行方不明となるが、それは復活したゴジラの仕業であった。同じ頃「巨大なる魔神」の話を聞き付け南方はるかファロ島へと辿り着いた大取材班は、伝説の怪物巨大猿と遭遇する。彼等によって日本へと運ばれるがその途中で脱走、帰巣本能から日本へと南下していたゴジラ目掛けて北上を開始する。かくして、二大怪獣の世紀の決戦の火蓋が切られた! アメリカの製作会社ユニヴァーサルから全面的なバックアップを受けて作られた初のカラーで作られた作品で、アメリカでもかなりゴジラの知名度が上がっていることが分かる。 この作品は初期の並み居るゴジラ作品の中でもかなり特異な位置づけにあるが、しかし、一作目を別にすれば完成度の最も高い映画でもある。なにせアメリカの怪獣の代表キングコングと戦わせようという剛毅さが気に入った!(尤も、劇中ではその辺を配慮したのか、「南海の魔神」とかそう言う言葉で置き換えていたが)更に言わしてもらうと、『ゴジラ』を超え、怪獣映画史上最大の興行成績を記録した作品でもある(1,260万人を動員し、1962年邦画の興行成績では4位)。 このゴジラの良さは何と言っても造形の素晴らしさが挙げられよう。キングコングの出来は本家のようにゴリラ然としていないが、様々な猿の複合体みたいで非常に好感が持てる(よく見ると結構可愛いんだ、これが)。しかもこれがよく動く。ゴジラの造形も出色の出来で、非常に精悍な顔つきをしているし、よくもあそこまで動かした!と思えるほど動きが良い(実は本作からゴジラの繰演にモーターが導入されている)。何と言ってもコングがゴジラの尻尾掴まえてジャイアントスウィングするのは圧倒的迫力! ここでのゴジラはまだ悪役然としていて、どちらかというとコングの方が善玉的役割を果たしているが、ゴジラの方も火炎を吐くことも少なく、とっくみあいに持ち込むなど、なかなか紳士的な一面も持っている(以降のゴジラシリーズの「暴れん坊」という名称はこの辺りから来ているのだろう)。 一応ここには人間による姑息な撃退法が使われているが、逆にそれがゴジラに有利に働く辺り、怪獣映画における人間の役割の弱さを示していて良し。怪獣というのは圧倒的力を持っているからこそ怪獣映画なのだ。この辺りで止めているからこそ、楽しいんだろう。 本作の大ヒットにより、以降怪獣プロレス的な要素を持つゴジラシリーズが製作されるようになるが、そう考えると、本作のゴジラこそが実は以降のゴジラシリーズの最初のゴジラと言うことになる(まだ今回はゴジラはあくまで悪役であり、人類を救うのはキングコングの方だったが)。 又、本作は東宝喜劇映画の常連が続々と出演していることからも分かるが、,かなりの方向転換が図られた作品でもある。特に探検隊隊長の有島一郎のすっとぼけた演技がはまっているが、これも前年の作品である『モスラ』が思わぬ好成績だったからだろうと思われる。 本企画は実は日本人が原案ではないところが味噌。ストップ・モーション・アニメーションの粗にして名作『キング・コング』(1933)を作り上げた技術屋オブライエンが是非作ってみたかったものとして候補に挙げていた『キング・コング対フランケンシュタイン』案を東宝が買って作り上げたもの。フランケンシュタインの方もちゃんと『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965)で使っているので、東宝としてはとても効率の良い買い物だったのでは? |
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モスラ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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暴風雨により、かつて核実験が行われた南洋のインファント島に座礁した第二玄洋丸の乗員は、その島に原住民が生存していることを伝えた。かつてインファント島で核実験を行なったロリシカ国は、日本と共同で実態を調べるため、島に調査隊を派遣する。彼らは、そこで巨大な卵と卵に仕える妖精のような小さな女性“小美人”を発見する。隊長のネルソン(伊東)は小美人を連れ帰り、見せ物にして売り出そうとする。ネルソンの虜となった小美人は、テレパシーで島の守り神、モスラの救けを呼ぶ。その声に応えるように、卵から孵化したモスラは一路日本を目指す。小美人を助けるため… 東宝による初のカラー、そして初のワイドスクリーンで作られた作品。 この作品で改めてはっきり分かった事。 モスラって、大きかったんだなあ(笑) …だってモスラって他の映画だと大体はゴジラと一緒に登場するため、比率的に大きく見えない。他の怪獣と較べ、どうしても小さい存在としか見えないのだが(『モスラ対ゴジラ』なんかの場合は特に)、さすがに単独で出ると、人間との対比になるので、凄く巨大に見える。更に人間より小さい小美人をここに配することで、ますます巨大感を演出出来ている(その巨大感こそが本作の肝になる。そのためにこそ、小美人を出してみたり、あくまで大きさを語らなかったりと、細かい配慮がうかがえる)。そしてその巨大感のクライマックスは東京タワーに繭を作るシーンだろう。出来たばかりの超高層建築物を対比物として使うのも、配慮と言う奴だ(ちなみに『ゴジラ』(1954)でゴジラが倒したのは電波塔)。 モスラが這っていると言うのもポイントかも知れない。徐々に迫ってくる巨大感。足音高く踏みつけてくるゴジラとも、超高速で一瞬のうちに全てをさらうラドンとも違う魅力がモスラにはある。 邦画と洋画のホラー映画の違いを見ても分かるように、徐々に迫ってくる恐ろしさを撮らせたら日本の映画人は兎角上手い。その技法はここでも十分に発揮されていた。 だけど、本作ではむしろそれは恐怖とは違った形だったような気もする。 むしろ観ている側としては、怖いと言うより、歓声を上げたのでは? 少なくとも私は遅々として進まないモスラに、早く来い早く来いと念じていた。あの遅さはタメを作るには充分な時間だった(なるほど。だから他の怪獣映画と較べ、やや上映時間が長くなるんだ(笑))。それだけに街に入ってからのモスラの暴れっぷりは溜飲が下がる。いや、特撮技術という点ではむしろ東宝得意の海での戦いのシーンの方が見事だったけど、やはり街と対比させた時のあの巨大感は凄いものだ。 モスラの造形に関してだが、多分本作だけ、幼虫モスラに脚(節足)がある事がはっきり見えてる。脚、あったのね。 小美人が劇中で言ったように、モスラは善悪を超えた存在。ただ小美人のためにだけ動く。まさにそれは母性そのものだ(この考えが間違ってないのは確かのようだ。モスラの英語名はMOTHRAだが、これはMOTHERと引っかけてるんだそうだ) ストーリーの方は、最初からアメリカでの公開が前提となっていたため、まさしく『キング・コング』(1933)のハッピー・エンド版(新聞記者が学者と共に密林に挑むと言う点で『ロスト・ワールド』(1925)にも共通する)。 ところでここではロリシカと言う大国が登場する。誰がどう見てもこれに該当する国は一つしかないのだが、それを臆面もなく登場させるとは。東宝も相当思い切った事を。ロリシカ国を蹂躙する成虫モスラの勇姿を見つつ、戦争開始から20年、戦後から16年が経過して、7年前に『ゴジラ』まで登場させた東宝が(あるいは本多猪四郎が)問うているのは一体何か。などと柄にもなく考えてしまったよ。 キャスティングも良かったね。明るく、正義感の強いフランキー堺が良い具合に画面を締めてるし、功利主義の権化として描かれるジェリー=伊東も憎々しい役柄を好演していた。 |
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小美人が歌っていたモスラの歌(作詞:由起こうじ氏 作曲:古関裕而氏)。なお、歌詞中のひらがなは臨場感を与えるため(笑) 「モスラ(ぃ)ヤ モスラ(ぁ) ドゥンガン カサ(ぁ)ク(ぃ)ヤン インドゥムゥ ルスト ウィラード(ぅ)ア ハンバ ハンバ(ぁ)ムヤン ランダ バンウンラダン トゥンジュカンラー カ(っ)サクヤーンム 」 これはインドネシア語であり、日本語に訳してみると、「モスラよ。永遠の生命なるモスラよ。悲しきしもべの祈りに応え、今こそ蘇りたまえ。力強き生命を得て、我らを守りたまえ。平和を守りたまえ。平和こそは永遠に続く繁栄の道なり」 |
ガス人間第1号 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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頻発する銀行強盗事件。それを追っていた岡本警部補(三橋達也)は、犯人は日本舞踊の家元・藤千代(八千草薫)と関係がある人間だと疑いを持つ。やがて、奪われた紙幣を使用した為に逮捕される藤千代。だがある日警視庁に水野(土屋嘉男)という人物が現れ、「真犯人は自分だ」と告げ、警察官達の前で身体をガス化させてしまう!科学実験の失敗でこんな体質にされた水野は、それを利用して自らの生きがいである藤千代への思いを成し遂げようとしていた。やがて彼女の新作舞踊発表会が行われることになるのだが… 監督本多猪四郎&特技監督円谷英二の黄金コンビが放ったSF大作。これは一連の「変身人間シリーズ」と呼ばれる作品の内の一作だが、その中でも他の作品と雰囲気が随分異なり、最高作品の呼び声が高い。その通りで、これ程の完成度を持つ作品がこの時代に作られたと言うことは特筆に値するだろう。 古来SFには超人間に関する小説が数多く書かれていた。ヴォークトの「スラン」やハインラインの「メトセラの子ら」などがその代表。「人間の形をしていて、どこかで人間を凌駕する特別な生物」と言うのはイメージをかき立てられるのだろう。ところが小説ではそう言う特別な力を彼らはむしろ嫌悪しているように描かれることの方が多い。その力を持っているため、人間社会にとけ込むことが出来ず、何とか普通の生活を送ることが成功したかのように見えても、誰かが彼の力を狙ってきて、そして又逃げ回らねばならなくなる。いずれ悲しい存在である(ハリウッドの映画は不思議とこの手の作品は多いが、日本の映画ではほとんど見られないのはお国柄なのだろうか?)。 ここに登場するガス人間の水野は、ある種のスーパーマンで、物理的法則を無視できる。どのような場所でも隙間さえあれば入っていけるし、人を殺すのもお手の物。しかも先ず殺されることはない。と言う具合に。しかも彼をガス人間に変えてしまった博士を殺すことによって自分に次ぐガス人間は誕生しなくなった。彼こそが唯一無二の超人間となったのだ。 殺されることも、傷つけられることもないのだから、彼にはなんでもできる。モラルに縛られる必要は全くない。だが、彼が表舞台に出るのはずいぶんと後になってからのことである。 これは彼の孤独。その点を考える必要があるのではないか。人に紛れて生活は出来るが、回り中の人間と彼は根本的に違うのである。それを自覚するが故に、彼は苦悩する。人としての生活を続けていきたい。だが、人を見下す自分を止めることが出来ない。 そんな彼が出会ったのが藤千代だった。日本舞踊の家元として、素晴らしい素質を持っているのに回り中の人は彼女から離れていく。だが彼女の孤高な魂は屈辱的に人に頭を下げさせることが出来ない。彼女も又、特別な人間だったのだ。 そんな彼女に自分と同じ魂を発見した水野が、彼女に惹かれたのは、ある意味自然なこと。そして彼女に認められるために彼女のパトロンとなった。彼の力をもってすれば、どれほどの金もたやすく手に入れることが出来るのだから。ここで初めて彼は人間として、ではなく、彼女のためにガス人間として生きる道を選んだ。 だからこそ、藤千代が捕まえられたとき、彼は堂々と名乗りを上げる。水野はもう孤独ではなかった。同じ魂を有する(と彼が信じる)藤千代がいるのだから。人は人を超える存在を認められない。それを一番知っていたはずの水野が敢えて社会に顔を出すのは、藤千代に対する想いがどれ程深かったかを瞥見させて、見事なストーリー運びを感じさせる。勿論これによって更に藤千代は迷惑を被ることになるが、水野にとってはそれは構わなかっただろう。彼にとってこの世界は二人だけのものだったのだから。藤千代は好きなだけ舞っていればいい。彼女を自分は守ってやる。だからこそ、最後の彼女の発表会では、彼は一人で彼女を観ていることに、何の問題も感じていない。 二人の世界はそれで良かっただろう。だが、社会はそれを許さない。一応の主人公岡本警部補が語るように、彼の存在そのものが社会に与えた不安は計り知れない。何せ殺人者が大手を振って社会に出ているのだ。更に全てを彼の責任にしてしまえば、どのような犯罪もまかり通るという理解が普通の人間の中に芽生えてしまう。これこそが超人間を扱った作品の醍醐味とも言えるが、それをしっかり撮った構成は見事。 ここまでは水野の立場で考えたレビューだが、この作品は決してそれで終わるのではない。水野同様、魅力がある人物が登場するのである。それが藤千代だ。彼女の美しさ、そして鬼気迫る彼女の舞の凄まじさがこの映画の素晴らしさとなっているのは間違いがない。 彼女が最初の舞で被っていたのは般若の面。なんと言っても般若は女性の情念そのものを示す。誰一人おらず、日本舞踊の家元としては屈辱的な立場に置かれている藤千代にとっては、その内面がそこに込められているようだった。そしてそこから現れる現世の人間の顔。これが又実に美しく撮られている。見事な対比だった。心の劫火に焼かれ、鬼となった女性の顔を内面に持つ美女。これを僅かな時間に演出したのは凄い。更に、無罪であることが分かっているのに、女性専用の牢に入れられた彼女の孤高な姿。水野という男に知り合ったこと、彼の気持ちを知ってしまった事。全てを沈黙の内に閉じこめ、毅然として座り続ける。彼女も又、同じ牢に入れられた女性達と同じく叫びたかっただろう。水野により解放された時、逃げたかっただろう。だが、それをも内に閉じこめる。この時、水野と自分の関係のラストシーンを既に予見していたのではないか?そして最後、誰も観ていない舞台の中央で独り「情鬼」を舞う時の変化。一人の女がどのように鬼女に変わっていくのか。その過程を克明に魅せている。冒頭で“般若→女”でその内面を窺わせた彼女が今度は“女→般若”を演じることで、見事に対比を作り上げていた。舞台の上で鬼女を演じ、自分の顔に戻って水野に抱かれる時、一筋の涙を見せながらライターを取り出すシーン。鳥肌が立つほどに素晴らしかった。 劫火に包まれる結婚式を挙げた水野は満足だったのだろうか?せめてこの悲しい物語の結末は、藤千代と水野は満足して逝ったと思いたい。 一応蛇足ながら、この後、『フランケンシュタイン対ガス人間』が作られなかったことを東宝スタッフに対して感謝したい(『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965)参照)。 |
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宇宙大戦争 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1965年。衛星軌道上に打ち上げられた宇宙ステーションが破壊され、地球上では原因不明の怪事件が起きていた。日本に設置された国際宇宙科学センターは対策に奔走するが、実はメンバーには宇宙人のスパイが紛れ込んでいたのだった。それが地球侵略を企てる宇宙人ナタール人の仕業と知った国際宇宙科学センターは国際チームを組み、最新鋭宇宙船スピップ号を建造。彼らの前線基地の月へと向かう。だが、その乗組員の岩村幸一(土屋嘉男)は既にナタール星人によってロボット化されていた。地球の命運は果たして? 『地球防衛軍』(1957)の正統な続編で、キャストこそ違えど、同名キャラクターが登場する。かつてのミステリアンによる地球の危機を経験に結成された国際宇宙科学センターが今度は大活躍すると言う設定になっている。 東宝による初めての宇宙を舞台とした作品なのだが、これが又実に好感の持てる作品に仕上がっている。初めての宇宙描写と言うことでかなりの気合いが感じられる。当時の特撮の常でどうしてもチャチさは出てくるのだが、科学的考察は以外にもしっかりしているので、巧く言葉でフォローすることを忘れてない。例えば宇宙に出たスピップ号が平行飛行する際、ロケット噴射は止められる。これを「慣性飛行に移る」と一言で説明しきっていたり(地上で作られると、炎はどうしても上に向かってしまうため、あそこでもし火を噴いていたら、とても不自然に映ってしまう。それを避けるためだろうと思うが、ちゃんとその説明があるのが嬉しい)。月面上で地球と同じような重力があるのは、「重力調整装置を働かせろ」と言う説明が付けられる。良いねえ。特撮技術水準を超えて、描写不可能ならば、そうやって言葉で説明してくれるととても嬉しい。しかもこれが実にさりげなく語られるのがポイント高し。 本作品は“宇宙人対地球人”と言う壮大なテーマなため、人間ドラマの方が脇に押しやられがちなのだが、その中で岩村役の土屋嘉男の役割は非常に格好良い。ナタール人によってロボット化され、彼らの命令に従ってスピップ号の一台を破壊してしまった彼は、自ら責任を取って残った仲間を逃がすため、一人月に残り、ナタール人との戦いで命を落とす。こういう特攻的な演出、私はとても好きだ。 それにその後のナタール人対人類の壮大な宇宙での戦い。これ程伊福部マーチが見事に合っていた演出はなかなか無い。もう格好良すぎ。なんでもあの円盤を飛ばすためには東宝のお家芸である吊りだけでなく、ゴムで飛ばしたり、手で投げたり(笑)したそうだが、その甲斐あって、スピード感溢れる演出がなされていた。 ナタール人の演出が前作『地球防衛軍』のミステリアンほど魅力的でなかった事(出てくるのもほんの僅かで、あっという間に全員殺されてしまう)、それに彼らが意外に弱かった事はちょっといただけなかったけど、ラストの、地球に侵入したナタール人を撃退した時の、被害を出してしまって残念そうな長官の顔に免じてOKを入れよう。あの表情をラストで出させるとは。よく分かってらっしゃる。 一言。ナタール人は弱い上に馬鹿だ。月基地が破壊された後、アメリカ、ソ連、日本が突出した軍備を持った時を狙って襲ってくるなんて。あと十年位放っておけば地球人は勝手に自分たちで殺し合ってただろうに。それ以前に、人間をロボット化できるんだったらアメリカの大統領とソ連の書記長をロボットにすればそれで全ては終わっていただろうに。 |
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美女と液体人間 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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東京の下町で一人の男が忽然と姿を消した。身につけていた衣服一切を脱ぎ捨てて跡形もなく消え去ったのだ。麻薬密売をしているヤクザものの三崎と言うその男には、キャバレー「ホムラ」の人気歌手で千加子(白川由美)という女がいたことを知った刑事の富永(平田昭彦)は生物学者の政田(佐原健二)と協力し、事件の解明に乗り出すが、そこで彼が目撃したのは恐るべき液体人間の姿だった。太平洋での原爆実験に巻き込まれ、肉体が変容してしまった第二龍神丸の乗組員のなれの果てである彼らは微かに残った本能に従い、生前の知り合いの前に現れるようになったのだ… 東宝が作り上げた変身人間シリーズ第1作。後のテレビシリーズである『怪奇大作戦』を先取りしたような作品だが(実際本作は『怪奇大作戦』の第8話「光る通り魔」はそっくりだ)、これら作品には大きな強みがある。 一つには、ストーリーが非常にハードであること。あっけなく人は死んでいくし、これら全部ラストが怪物に変身した人間の死で終わっている。その虚しさが売り。更に大人向けにストーリーも練られていることも特徴か。 設定においても麻薬がらみのヤクザの攻防や、キャバレーの描写など、確かに大人向きに作られてる。ヒロインの白川由美も、他の清楚な役とは全く違っていて、アダルトな魅力に溢れた役を好演。 残酷な描写も結構あって、動物が液体化するのを説明するために蛙を溶かしてしまうのだが、これが結構描写的に気持ち悪かったりするし、窓から青緑色の液体が入り込んでくる描写はホラーっぽくてなお良し。 描写的には非常に優れたものがある本作だが、ストーリーに関してはやや難があるかな?だって液体人間はほとんど知性がないため目的意識が感じられないし、その分、本来中心となるべき“変えられてしまった人間の哀しみ”ってのが思い切りスポイルされてしまっている。その辺の描写があったら、もっと内容も深まったと思うのだが…変身人間は怪獣じゃないんだよ。 ラストも救いようが無い割にあっさりしすぎって感じ。 実は液体人間こそが、人間の進化した形かも知れない。と言うラストのモノローグは結構良かったな。逆転の発想だね。 |
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大怪獣バラン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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東北の山奥に婆羅陀魏山神という神をまつる村があった。植生調査に訪れた調査隊はそこで生ける神・バラダキに遭遇し、消息を絶つ。調査員新庄の妹で新聞記者の由利子(園田あゆみ)は生物学者の魚崎(野村浩三)と共に村を訪れ、そこでバラダキ、実は中生代の恐竜・バランと遭遇する。急遽出動した自衛隊の攻撃を逃れ、バランは空へと舞い上がる。やがて姿を現したバランは、浦賀水道から東京上陸を狙う。機関砲さえ跳ね返すバランに対し、自衛隊はダイナマイトの20倍もの威力を誇る特殊火薬をもって対抗するが… 東宝が造り出したゴジラ、アンギラス、ラドンに続いての4体目の(実はその間に『獣人雪男』があるが)怪獣、バランを主題に取った作品。元々は本作はアメリカのTV映画として作られた作品だけに、原タイトルは『東洋の怪物・大怪獣バラン』 となっていた(ちなみにその企画はボツとなり純国産の劇場用作品として公開された経緯がある)。 怪獣ものとしての本作は地味な存在として見られることが多いが、このバランという怪獣はいくつかエポック・メイキングな部分も持つ。一つはここで初めて怪獣を“神”となし、祈る姿が描かれたこと。後々東宝特撮で多用される暗黒舞踏のルーツはここだろう。 そしてもう一つ。怪獣を完全に闇の存在として描いたこと。 今まではゴジラであれ、ラドンであれ、その存在は“災厄”を表していたのに対し、ここでは東北のまだ文明が行き届いていない小さな村で祀られていた荒ぶる神だった。これは劇中で「迷信だ」と一言で断定され、現れると、今度はあっという間に恐竜にされてしまう。闇は科学の光によって照らされねばならない。それによって謎は明らかにされねばならない。と言う意思がそこにはあるように思える。だが、実はそれこそが以降の怪獣映画を呪縛し続ける結果となる。 怪獣はあくまでネガティブな存在であり、ポジティブな存在(つまり人間側の勝手な理屈)により、消されねばならない存在となってしまった。 実際、本作では湖の中に封じ込め続けていればさほどの問題が無かったのを、科学の力で消し去らねばならないと考えた人間側の理屈でバランは勝手に目を覚まさせられ、自分の身を守ろうとして逃げると、執拗に追いかけてその存在を抹消しようとする。考えてみればこれ程勝手な事もあるまいに。以降、その考えは完全に浸透したようで、闇から生まれ出る怪獣は悪であり、それは殺さねばならない。と言う感じで話は固定化されてしまったような気がする。 それが時代の流れだったんだ。 重要なキー・ポイントとなった作品なのだが、やっぱり地味なんだよな。まあ、実際こういう思いを持たせたのは前半部分だけで、後半はひたすらバランに向けて爆発が起こるだけの単調な展開になってたし。存在感もゴジラと較べるとあまりにも薄い。今だったらエコロジーの観点から全く違った存在として描かれることも可能だろうが、やっぱり地味すぎて本作そのもののリメイクは望めそうもない(『大巨獣ガッパ』(1967)でやったと言えなくもないか)。 ちなみにこのバラン、金子修介によってアンギラス、バラゴンと共に復活させられる予定だった。その為の造形まで作られていたのに、東宝サイドでボツを出し、結果バランとアンギラスはモスラとキングギドラとなり、『大怪獣総攻撃』(2001)が作られることになった。ちょっと勿体なかったな。日の目の当たらないこのバランも目立てたものを…バランの復活を願っている。 |
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地球防衛軍 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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突如地球侵略を始めた宇宙人ミステリアン。彼らは富士の裾野に巨大なドーム基地を作り上げ、地球人女性との結婚とドーム周辺3キロの居住権を宣言した。防衛軍のミステリアン対策委員会は、地球の科学力を結集、自衛のためミステリアンに総攻撃をかけるのだった… 続編の『宇宙大戦争』よりも結果として観るのが遅くなってしまった本作。出来そのものはちょっと期待はずれっぽかったけど、特撮技術、伊福部マーチや、様々な兵器のデザイン、非常に優れたミステリアンのスーツ等、見所も確かに多い。 多くの良い部分を、しかしそれを生かし切れたかと言えば、少々疑問。 ややコミカルなデザインを持つモゲラは(実は日本映画史上初の巨大ロボットでもある)最初何の対抗手段を持たない人間に対し、圧倒的な強さを持っていたのに、一旦撃退されてからと言うもの、ほとんど出番は無し(マーカライトファープを壊すために地中から現れてる描写はあるんだけど、相打ちで終わった)。 それと、当初ミステリアンの提出した“ささやかな”要求をあっという間に蹴ってしまう防衛軍の描写も残念。交渉をするなり、それについてどう受けいれるかを相談するなりするシーンがあったら良かったと思う。どうせなら、ミステリアンの願いを妥当なものとして一旦申し出を受けて、それで後になって実はミステリアンの狙いは地球征服であったと後で気付き、闘志を燃やす。と言う描写にすればもっと映えたんだろうけど(かえってありきたり?)。エイリアンは全部インベーダーであり、撃退するしかない。と言う直情的なストーリーが受けいれられるような世相だったのかな? 後半のマーカライトファープとドームとの熱線の応酬は見栄えがするけど、それだって単調に延々と光線の応酬をしてるだけで、もう少し展開に彩りが欲しかった(当時の技術的には確かに素晴らしいんだけど)。 これは過渡期の作品なんだ。と言うのが正直な感想。この作品に登場した魅力的な部分は確かに活かされてはいなかったが、これで培った技術が『宇宙大戦争』に繋がったのだし、以降の特撮技術の進歩へと繋がっていったと考えるべきだろう。 ところで、ミステリアンのリーダー役は土屋嘉男が演じているのだが、彼は続編の『宇宙大戦争』において、壮絶な殉死を遂げた岩村を演じている…と、するなら、あるいはミステリアンは実は滅んでいたわけではなく、ヘルメットを脱ぎ、地球人と同化していたのかも知れない。あるいはその専門知識を小出しにする事によって防衛軍の中核をなしていたとか…そう言うストーリーを考えてみるとなかなか楽しいものがある。 |
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空の大怪獣ラドン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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阿蘇山の炭坑で、殺人事件が発生する。事件を調査する会社の調査課河村(佐原健二)は、それが人間によるものではない事を知り、坑道の奥に巨大ヤゴ、メガヌロンを発見する。だが、落盤が起こり、彼はその怪物を餌としてついばむ巨大な怪鳥の姿を目撃する。それはプテラノドンが水爆を受けて巨大化した怪鳥だった。ラドンと名付けられたこの怪獣の音速を超える飛翔速度はソニックブームを起こし、街はまたたくまに壊滅していく… 『ゴジラ』(1954)のヒットによって連作された怪獣映画の一本で、東宝怪獣映画史上初となるカラー作品。 長い事観られず、今頃になってようやくレンタルで観ることが出来た。 先ず言っておく。これは良い作品だ。 どうしても怪獣映画だと『ゴジラ』(1954)が一番最初に出るが、この当時の東宝怪獣作品は、次々に投入する怪獣映画に明確な方向性を持たせている事が本当によく分かる。 ゴジラがまさしく圧倒的な天災というテーマを前面に出していたように、本作もやはりきちんとしたテーマが感じられる。 本作の魅力をつれづれなるままに書いていこう。 1.サスペンス仕立てである事:最初に坑員の喧嘩があった後、喧嘩した当人が殺されるシーンが出てくる。死体を見せるというのは東宝怪獣映画では珍しい事なのだが、それが特殊な感じを受けさせる。そして犯人は誰だ。と言う具合に持っていき、調査隊が水に引き込まれたりして、恐怖を演出する。そして出てくる怪獣!ホラー映画では定番の演出だが、この時代はまだ明確にホラー映画というジャンルは確立されていなかった事もあり、卓越した演出方法だった。 2.順を追って事態を大きくしていく事:殺人事件→メガヌロンの登場。これにより、個人的怨嗟から事態は炭坑そのものへと拡大する。→落盤。人間に対し圧倒的な力を持つメガヌロンを封じ込めたのは人間の手によるものではなく、自然現象だった。だが、これで事態は更に大きく、阿蘇山そのものを巻き込んでいく。→謎の飛行物体登場。ここで舞台は日本の空へ。→外電を登場させる事により、世界的規模に拡大させる。更に河村の証言により、人間に退治する事が出来なかったメガヌロンは実はラドンの餌に過ぎないという事が分かり、ラドンの強さの演出も忘れてない。 3.ラドンは飛べるという事:あまりに高速で飛行するため、最初は確認出来ないほどだが、これによってゴジラには無かったスピード感を演出する事が出来た。ラドンを負う戦闘機が橋の下をくぐると言う、特撮技術としては最高の演出も為されている事にも注目。博多に現れ破壊の限りを尽くす描写は東宝特撮陣の名人芸。吹き飛ぶ看板や屋根瓦(個人的に古いカルピスのマークが好きなので、それが出たのは嬉しい)の描写には感嘆の声を上げてしまった。 4.ラドンは徹底した破壊者であり続けたこと:ラドンは自分の身を守るためにだけ行動する。ゴジラのように明確に文明に対し悪意を持っている訳ではないが、生きることを最優先した結果、立ちふさがるものは容赦なく叩きつぶすし、それが餌になるのであれば何でも食らう。人間的な思考が入る余地がない。それこそが怪獣が怪獣たり得る存在意義なのだ。 5.ラドンは科学的に解明され、人間の手で退治された事:これにはやや残念なところもあるけど、圧倒的な火器力の前に、苦悶のまま息絶えていこうとするラドンの哀れさの演出は見事だった(最後に落ちるラドンの演出は過熱したピアノ線が切れた事による偶然の演出と言われている) 私が思いつくだけでこれだけあるけど、何より私が評価したいのは、この映画は「見えない」という点を非常に強調しているという事。最初にまず殺人者が消えてしまう。一体どのような方法で喧嘩相手を殺し、どこに消えたか。と言うのが最初の物語の意味となる。その後、水に引き込まれてしまう調査隊は、水の中にいるメガヌロンが見えないからこそ、あの演出ができる。そして何より、ラドンは登場していて、画面上に存在しているというのに、見えない。あまりに飛翔速度が速すぎるのだ。 メガヌロンであれ、ラドンであれ、登場人物達の目の前にいるのだ。それなのに全く別な方法で「見えない」事を演出している。恐怖映画の演出で一番大切なのはそこだ!そして怪獣を恐ろしく見せる方法としても有効な方法であった事をこの映画はしっかり示してくれた。 ゴジラは、人にその姿を見せ付ける事で圧倒的存在感を演出していたが、ラドンは全くベクトルが逆。ラドンは人に姿を見せないからこそ、存在感を演出出来たのだ。 前半から中盤にかけての演出は本当に素晴らしかった。 ただ、ここまで褒めまくっているけど、一つだけ残念な点があった。 惜しむらくは、ラドンは二体いた!と言う事をもう少し強くアピール出来ていれば。二体目がいたという意外性とか、その存在意義をもう少し強く演出する方法はいくつもあっただろうに。それが出来ていれば、本当に最高の作品と言えたのだが。 |
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怪獣王ゴジラ Godzilla, King of the Monsters! |
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日本を恐怖のるつぼに叩き込み、東京を壊滅させた怪獣ゴジラ。その息詰まる攻防の中、その場に居合わせたアメリカ人記者スティーヴン(バー)の目から見た、“もう一つのゴジラ” 本作は日本映画『ゴジラ』(1954)を購入したトランスワールド・リリーシングによって投入されたアメリカ版。 本作を観る前まで、単なる“英語版『ゴジラ』”だろ?と思ってたのだが、たまたま見つけたレンタルで、パッケージを見て、わざわざアメリカで作り直した作品であることが分かり、早速レンタルしてきた。 それで拝見。 東京を襲うゴジラのシーンは、やっぱり凄い。今観ても鳥肌が立つくらいに素晴らしかった…そりゃ元ネタだし当然か。 しかし、その他の演出はどうだ? バラバラにされてしまった物語と強引に挿入された、いかにも“アメリカで撮り直しました”的な映像に気持ちが萎える萎える。出てくるキャラクターは後ろ姿か決まった人間ばかり(しかも全員日本語がカタコト)。日本語と英語が全く合ってない。 何より、恵美子を巡る芹沢と尾形の微妙な関係に余計な人間が絡んでしまったため、本来物語が持っていた叙情性がまるで無くなってしまったのが一番の問題。怪獣さえ出しておけばいいだろう?みたいな考えは絶対許せん! アメリカでの公開のために時間を短くする必要があったんだろうけど、どう見てもオリジナルをダメにしただけ。 でも、本編そのものが良いから…点数はとりあえず付けないでおこう。それに本作のお陰でゴジラの知名度がアメリカで高まったことも合わせて考えるべきだろうし。 尚、本作は長らくDVD化はされずじまいだったが、ゴジラの全ボックス化が果たされた時、ようやくDVD化されるに至る。 |
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ゴジラ映画音楽ヒストリア──1954 ― 2016(書籍) |
獣人雪男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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日本アルプスの冬山登山に挑んだK大山岳部だが、遭難者を出してしまう。その捜索のために再び日本アルプスを訪れた飯島高志(宝田明)や武野道子(河内桃子)らだが、その山には雪男がいると言う伝説があり、その捜索のため動物ブローカーの大場という男が彼らの前に立ちふさがる… 香山滋の原作を元に、東宝が『ゴジラ』の後継として満を持して発表した作品。 本作は公開後色々と横やりが入ってしまった作品としても知られている。端的に言えば、部落差別問題を前面に出した作りによって、人権問題に発展してしまったからと言われている。それで今に至るもソフト化は実現されていない。 実はあるルートでビデオが流れているという話は聞いたことがあるのだが、残念ながらそれを観ることは出来ず、残念な思いをしていたが、たまたま名画座で応永さている事を知り、何はともあれ行かねば!と言うことで拝見。 なるほどこれがビデオ発売が無理ってのはよく分かった。実際この山奥の部落に住む人達は身体障害者が多く、骨格に異常がある住人がかなり画面に出てくるのは確か。わざわざここまで描く必要があったのか?と疑問を持つような描写だった(原作にも多少その描写はあったものの、ここまで描く必要性には疑問)。 しかし、物語はそれが決してメインではなく、人間によって化け物とされている存在が、実は人間以上に親子の情愛を持っているという話で、後年『大巨獣ガッパ』(1967)で使われた設定を先取りしたような内容となっている。更に『大怪獣バラン』もここから発展したんだろうと思わせてくれる。 ただ、設定がこなれているとは決して言えず、更に特撮以外の演出が、当時の映画水準に較べても明らかに落ちているのがなんとも。あの本田猪四郎が『ゴジラ』の後にこれを撮ったというのが残念だな。 滅多に観ることが出来ない作品。というフィルターがあってようやく水準という感じだろうかな?色々な意味で食い足り無さを感じてしまう。 |
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さらばラバウル 1954 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ゴジラ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1996MTVムービー・アワード功労賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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日本近海で原因不明の船舶の遭難事故が頻発した。さらに伊豆諸島・大戸島を嵐が襲うが、ただの自然災害とは思えない被害が確認される。派遣された調査団の目の前に、謎の巨大生物が姿を現わす。海底の奥深く眠っていた古代生物が、原水爆の影響で怪獣と化したのだ。大戸島の伝説の龍“呉爾羅”から「ゴジラ」と命名されたその怪獣は、やがて日本を恐怖のどん底に陥れる…全シリーズ第1作にして最高傑作。 この年、東宝は大きな賭けに出、極端に金のかかる2作品を投入した。一作目は『七人の侍』(1954)であり、そしてもう一つが本作だった。スタッフに円谷英二という、後に“特撮の神様”を冠する特技監督を入れ、更に人間ドラマ部分は美術に中古智、撮影玉井正夫、照明石井町四郎という成瀬組という最強布陣で臨んだ(実際はインドネシアと合作で作るはずだった大プロジェクト『栄光のかげに』が駄目になり、その穴埋め企画として考えられたらしい。しかも当時の邦画2本分の予算とはいえ、前年の『原子怪獣現わる』(1953)の予算の3/4程度)。日本怪獣映画の原点となった作品。勿論初めての試みのため、製作側は公開まで相当やきもきしたらしいが、一旦公開されてしまうと、大ヒット。日本の興行成績でも8位と健闘した。 こいつを語る前に一言だけ、重要な事を言わねばならない。 こいつを最高!と言えなくてどこが怪獣映画ファンか! これが日本における怪獣映画第1号なのだが、1作目にしてこの完成度。後に追従するどの怪獣映画もこれには及ばないだろう。よくぞこれを一作目に作ってくれた。と声を大にして言いたい。、ゴジラの巨大さ、悪魔の如き強力ぶり、恐怖の対象としての巨大生物の恐ろしさを実によく表していた。更にその文字通り足下で起こっている人間ドラマも凝縮され、感動を呼ぶ。 この作品を俯瞰してみると、今の怪獣映画の基本的要素が見事に入っていることに気付かされる。最初の破壊の惨さと忽然と消え去った生物の姿。その民間伝承。徐々に集められる怪獣の情報。ついに現れた怪獣の山さえも越える巨大さ。近づいてくる怪獣に対する恐怖と人間の側の対策。そしてついに最重要地点への怪獣の上陸。カタストロフ。いや〜、もう思い起こすだけで身体が熱くなってくるみたいな気がする。更にそれを盛り上げる伊福部マーチ。すっかりおなじみとなったこの音楽も、第一作で用いられているものが一番良かったな。 ここまでは褒めっぱなしだが、実はいくつか不満点もある。なんといっても科学考証が問題となる。300万年前に恐竜がいたとか無茶苦茶なことを学者が言っているとか…まあ、これは良しとする。完全にマッド・サイエンティストの芹沢博士が常識ぶっているところが笑える。悪魔の兵器オキシジェン・デストロイヤーを手に「私はこれを平和利用に使いたい」とか抜かす偽善者ぶりとかも(どっちも笑えるから息抜きには良いけど)。 ちなみにこのオキシジェン・デストロイヤーは後にゴジラVSデストロイア(1995)で再登場するのだが… 本作は勿論円谷英二によって企画されたものだが、円谷は個人用にフィルムを持っていたと言うほどのキング・コング(1933)のファンで、何とかしてこれを日本向きに製作できる機会を窺っていたが、丁度前年に原子怪獣現わる(1953)が公開され、それに触発されて恐竜をベースに怪獣を作ろうと考えたらしい(そもそも本作の題名は『海底二万哩から来た大怪獣』であり、これは『原子怪獣現わる』の原題“The Beast From 20,000 Fathoms”のほぼ直訳だった)。 下手すればキワモノ映画になってしまう可能性も持った本作には東宝もかなりの力を入れていたらしく、撮影玉井正夫、照明石井長四郎、美術中古智という、成瀬巳喜男監督のスタッフが丸ごと投入されていた。事実この撮影の直後に、彼らは『浮雲』(1955)を作り上げている。 押井守作品にも何本かで引用がされていたりして、その傾倒ぶりが伺わせられる(機動警察パトレイバーOAV一期4億5千万年の罠(1988)はゴジラのパロディだし、うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー(1984)では屋外映画で放映していて、それを観てメガネが涙流してたりする)。 |
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太平洋の鷲 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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後にゴジラのスーツアクターとなる中島春雄が全身火だるまになる役を演じ、戦後初のスタントマンと言われるようになった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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