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2000 | 12'3 死去 | ||||||||||
1987 | スターダスト・ストーリー 星砂物語 監修 | ||||||||||
1979 | 西遊記II<TV> 監督 | ||||||||||
1978 |
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1977 | 惑星大戦争 THE WAR IN SPACE 監督 | ||||||||||
1974 | 喜劇 だましの仁義 監督・脚本 | ||||||||||
ゴジラ対メカゴジラ 監督・脚本 | |||||||||||
エスパイ 監督 | |||||||||||
日本沈没<TV> 1、25、26話監督 | |||||||||||
1973 | ゴジラ対メガロ 監督 | ||||||||||
狼の紋章 脚本 | |||||||||||
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1972 | 地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン 監督 | ||||||||||
1971 | 西のペテン師 東のサギ師 監督 | ||||||||||
3000キロの罠 監督 | |||||||||||
1970 | 喜劇 ソレが男の生きる道 監督・製作 | ||||||||||
野獣都市 監督・製作 | |||||||||||
1969 | 大日本スリ集団 監督 | ||||||||||
ニュージーランドの若大将 監督 | |||||||||||
フレッシュマン若大将 監督 | |||||||||||
コント55号 俺は忍者の孫の孫 監督 | |||||||||||
コント55号 人類の大弱点 監督 | |||||||||||
コント55号 宇宙大冒険 監督 | |||||||||||
1968 | 100発100中 黄金の眼 監督・脚本 | ||||||||||
怪奇大作戦<TV> 20話監督 10話脚本 | |||||||||||
1967 | 怪獣島の決戦 ゴジラの息子 監督 | ||||||||||
1966 | 怒涛一万浬 監督 | ||||||||||
ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘 監督 | |||||||||||
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1965 | 香港の白い薔薇 監督 | ||||||||||
暗黒街全滅作戦 監督・脚本 | |||||||||||
100発100中 監督 | |||||||||||
1964 | 血とダイヤモンド 監督 | ||||||||||
国際秘密警察 虎の牙 監督 | |||||||||||
1963 | のら犬作戦 監督 | ||||||||||
ハワイの若大将 監督 | |||||||||||
1962 | 暗黒街の牙 監督・脚本 | ||||||||||
日本一の若大将 監督 | |||||||||||
女性自身 監督・脚本 | |||||||||||
吼えろ脱獄囚 監督 | |||||||||||
1961 | 情無用の罠 監督 | ||||||||||
1960 | 電送人間 監督 | ||||||||||
1959 | 恐るべき火遊び 監督 | ||||||||||
1957 | 柳生武芸帳 助監督 | ||||||||||
1956 | 囚人船 助監督 | ||||||||||
決闘巌流島 助監督 | |||||||||||
1955 | 続・宮本武蔵 一乗寺の決闘 助監督 | ||||||||||
1954 | 宮本武蔵 助監督 | ||||||||||
1923 | 2'17 満州で誕生 |
惑星大戦争 THE WAR OF SPACE 1977 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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西暦1988年。突如太陽系から2万2千光年離れたメシエ13と呼ばれる球状星団・恒星ヨミの第三惑星人の侵略を受ける地球。人類の存亡をかけ、南海の秘密基地で建造されていた国連宇宙防衛艦・轟天は彼らの前線基地金星へと発進した。敵ヘルファイターとの激しい戦闘をくり返し、金星に向かう轟天。しかし、その前に敵の巨大戦艦・大魔艦が立ちふさがる。更に轟天艦長滝川(池部良)の娘ジュン(浅野ゆう子)がさらわれてしまう。金星を舞台に轟天と大魔艦との激突。そしてジュンを救うべく行動する三好(森田健作)と室井(沖雅也)の活躍を描く。 『スター・ウォーズ』(1977)公開と共に、映画界はこぞってSF作品を出すようになった。その便乗企画のような形で日本では東映から『宇宙からのメッセージ』(1978)、そして東宝から本作が僅かな撮影期間を経て投入された。本作の撮影にかかった時間は僅かに3ヶ月だそうだ。 これは特撮好きとしてはかなり評価に困る作品だ。ノリとテンポ、そして格好良さだけで見て、馬鹿だけど可愛い作品として暖かく見守ってやる事も出来る。 …出来るんだけど。 それはあの『海底軍艦』(1963)の“轟天”の名前を冠してさえいなければの話。 同じ名前を冠していながら、このギャップはどうだ。その悲しみの方が先走ってしまった。 確かに巨大艦同士の激突や主人公達の行動を“格好良く”魅せる事は出来ている(まだ若い浅野ゆう子のSMチックな衣装も含めて)。だけど肝心のストーリーがご都合主義の上に薄っぺらすぎるし、所々操線が見える特撮も丁寧さに欠く。轟天や大魔艦のギミックには『宇宙戦艦ヤマト』(1977)からのパクリも所々…(『スター・ウォーズ』の轟天号の姿は後の『宇宙戦艦ヤマト』に取り入れられていたが、それを逆輸入してるよ) 地球上で地球軍が手も足も出せなかったヘルファイターを豪快に薙ぎ倒し、圧倒的な強さを見せる轟天。ローマ船を思わせる大魔艦(劇中で「ローマ艦」と言っていたから敢えてそう書くけど、ローマではあんな派手な船は数えるほどしかない。むしろ「エジプト船」と言うべきだろうに)のギミックの面白は買う。轟天、大魔艦共に重力さえ無視するかのような(?)派手な巨艦同士の激突とか、互いに「奥の手」を隠し持っているのも心をくすぐられる。“爆発職人”中野昭慶の手による派手な爆発も良し。 しかし、『スター・ウォーズ』のご時世に先端にドリルくっつけた宇宙船が宇宙に行くと言うのは何ともはや。地上なら兎も角宇宙戦艦にドリルが必要か?(劇中ではちゃんと意味はあるんだけど、宇宙を壊すほどの爆弾を一番攻撃の受けやすいところに剥き出しで置くというのは狂気の沙汰としか思えない)。轟天船腹のリボルバー式カタパルトは見てくれは良いけど、戦闘機がカタパルトに収納されてないんだから、全く意味を持たない上に、出撃した戦闘機をどうやって収納するのかが謎(一機も還ってこなかったから、そのギミックは明らかにされてないが、ひょっとして乗り捨て?)。航行士が攻撃機に乗ったり戦闘員になったり、あまつさえ人命救助までするほど轟天は人手不足。宇宙戦艦の癖に空気の取り込み口がある大魔艦と言った設定上のアラ。捕虜の前で堂々とコンピュータを操作している総統ヘルのお間抜けさ。アトラクション用の着ぐるみとしか見えないチューバッカを意識したような獣人。宇宙はエーテルに満たされていると言う古くさい設定など、どう考えても馬鹿にしてるとしか思えないようなものばかり。 極めつけはエーテル爆弾の存在。宇宙をさえ破壊してしまう可能性を秘めた爆弾に苦悩する滝川はまるで『ゴジラ』(1954)の芹沢博士(と言うより、パクリだろう)みたいだけど、どうせ最後に使って金星を爆破するんだったら、最初から使えば問題なかったんじゃ… |
ゴジラ映画音楽ヒストリア──1954 ― 2016(書籍) |
ゴジラ対メカゴジラ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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富士山麓出現したゴジラは仲間であるはずのアンギラスを倒して進撃を開始する。破壊活動を続けるゴジラの前に何ともう一匹のゴジラが…実は最初に出現した方は偽者で、その正体はブラックホール第3惑星人が開発した侵略兵器「メカゴジラ」だったのだ。圧倒的破壊力を誇るメカゴジラに、ゴジラでさえ敗退を余儀なくされた。人類の危機を救う鍵を求め、沖縄に伝わる予言にあった。 全般的にこの作品は怪獣同士の戦いがメインなのだが、それら一つ一つに華(見所)があるために飽きさせない(冒頭部分のアンギラスの口を裂くゴジラ、ゴジラの放射能火炎によりメタリックボディを露わにするメカゴジラ、メカゴジラのビームをはじき返すキングシーサー、兵器庫メカゴジラ、そしてメカゴジラの最後)。それら一つ一つがちゃんと瞼に浮かんでくる)、ゴジラシリーズの他の諸作品とは違って下で行われている人間ドラマも結構しっかり作られている。予言の辺りは眉唾な感じがするが、キングシーサーを呼ぶ時の緊張感は子供心に手に汗を握る出来だった。(今から考えると、あの唇のアップは妙に艶めかしかったぞ) 何と言っても本作品の売り。メカゴジラは圧倒的な強さを持ち、まさに兵器庫と言った風情。そこにふてぶてしい表情とも相まって非常に格好良い。何せゴジラの武器は口から吐く火炎だけ、対してメカゴジラは目から口から手から腹から足から武器が飛んでくる。華々しく登場したキングシーサーでさえ最後は手も足も出ずで、一体どうすれば勝てるんだ〜。とか心の中で念じていた(ミサイルが身体に内蔵されているのは良いとして、一体あんな太い指がどこから出てくるのかは謎だ)。 ちなみに本作が私が観た最初のゴジラ作品となる。そのお陰ですっかりゴジラにはまってしまったが、この作品を基準に他の作品を観るようになってしまった。私にとっては初代『ゴジラ』(1954)に次いで好きな作品である。 |
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エスパイ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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地球を守る使命を帯び、どこの組織にも属さずに世界の裏で活躍している組織があった。“エスパイ”それは世界各地から集められた超能力を持った者たちであり、厳しい訓練の末、自らの能力を駆使して超常的な活躍をする者達のことだった。そんなエスパイを狙った犯罪が多発していた。エスパイのニューヨーク本部では、事件の背後には宿敵、逆エスパイがいることを突き止める。その頃、エスパイ日本支部では、エスパイの一員田村良夫(藤岡弘、)とマリア(由美かおり)にバルトニア首相の身辺警護にあたるよう指令が下っていた。だが調査の結果、バルトニア首相は二人いることが分かる… 小松左京原作のSF小説の映画化作。小松左京は小説の出来映えも素晴らしいものだが、カメラ受けするその個性も相まって、当時日本のSF界を牽引していた人だった。当時の日本のSF小説はかなり肩身が狭く、特に子供向きとしか考えられてなかったSFをいかに大人の読み物と出来るか。と言う事で頑張っていた。その結果書き上げた「日本沈没」は大ベストセラーとなり、前年に公開された映画版も大ヒット(TV版も当時放映中で、福田監督も関わっている)。その余勢を駆って、豪華キャストと更に超能力を使ったより娯楽作を作り上げた。興行成績も1974年邦画興行成績2位と好調。 原作の「エスパイ」は実は私が初めて読んだ大人向きのSFだったりする。丁度小学生の頃、町の図書館に行ってはジュブナイルを読みあさっていたが、小さな図書館だけにあっという間に読み尽くしてしまい、それで他に何か無いか?と探していたときに文庫本に見知った著者の名前があったので、借りて読んだのがこの作品だった。当時、非常にアダルティな描写に結構どきどきしながら読み進めた記憶がある。 それが映画化されていたことは先に知っていたが、なかなか観る機会が得られず、DVDのレンタルが始まってようやく観ることが叶った。 一応好意的に観る限り、本作は「早すぎた作品」であるとは言える。CGもない時代になんとか特撮で超能力を表そうという努力は認めるけど、描写がちょっといい加減すぎる感じで、藤岡弘、が主役と言うこともあって、悪い意味で変身しない仮面ライダーを観てる気分にさせられる。なにせ、国際的な犯罪シンジケートとの戦いというのに、全く世界に出かけてる気分にさせられず、あたかも箱庭の活劇と言った感じ。特撮の部分も申し訳程度で、結局戦いも銃撃戦がメイン。超能力で味付けされたアクション映画というのが一番分かりやすいかもしれない。 日本映画界が誇る濃〜い面々が画面狭しと暴れ回ってるのはそれなりに見栄えはするのだが、ギリギリのところで真面目さが仇になって、みんな馬鹿に見えてしまうのが一番の問題点かも。大体この作品の最大の見所って由美かおるが胸をほりだすだけしか印象に残らない。原作をこれっぽっちも理解してると思えない脚本も難点。 もうちょっと割り切ってエログロを強調するか、あるいはコメディ調に仕上げるかしないと、当時でも受け入れられなかったんじゃないかな?福田純監督じゃなくて石井輝男あたりに撮らせたら、ある意味伝説の作品になれていたかもしれないんだけど。 ただ、これを悪く言いたくないのもやっぱり特撮ファンの心理ではあり。出来れば今CGを駆使してリメイクしてもらいたいものだ。作りようによっては『X-メン』(2000)ばりのアクション作には出来るんだから。 |
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ゴジラ対メガロ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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300万年前に水没したレムリア大陸の生き残り、海底王国シートピアは地上で繰り返される核実験に怒り、守護怪獣メガロを地上へ送り込んだ。さらに彼等は人類の作り出したロボット、ジェット・ジャガーを奪い侵略の手先とするが、製作者達の手によってジャガーは奪還され、メガロに対抗するため怪獣島に向かう。しかもジャガーは自我を持ち始めており、ついに巨大化してメガロに戦いを挑む! 怪獣映画もこの時代になるとテレビに押され、すでに気息奄々。その中で、なんとか子供たちに親しみを持って劇場に足を運んで欲しい。という思いがあったのは認める。 …認めるんだけど、ここまでやると開いた口が塞がらないと言うか、もうどうとでもしてくれ的内容。設定のアラは枚挙に暇がないほどだし、怪獣の造形も駄目すぎ。大体主人公であるはずのジェット・ジャガーが悪役にしか見えないのは致命的。敵だって、別に海底人の必然性が全く無い。敵役が宇宙人であろうと、マッド・サイエンティストであろうと、場合によってはイーブル・スピリットだってもストーリーに全く変化はないだろう。 あと、正義の味方のはずのゴジラが極めて性格悪いのもな〜、ジェット・ジャガーを人質(?)に取るガイガンに対して躊躇無く放射能火炎浴びせかけるし(当然もの凄い量の放射線を受けて、しかも身体中に放射性物質を多量にくっつけているジェット・ジャガーだから、あの後の化学者一行は高度被曝して全員死亡だろう)、周りに逃げ道が無くなった時は当然のごとく瀕死のジャガーにぶら下がって空を飛ばさせるし、ガイガンが逃げた後はジャガーと一緒になってメガロをどつき回してるし。これではジャガー君受難物語じゃないか。 それでも敢えて良いところを挙げてみよう。 この作品、中野昭慶が特撮監督作品中最も彼の魅力が発揮された作品とも言える。あれだけ容赦なしに爆発シーン撮れたら、さぞかし気持ちが良かっただろう。無意味な爆発シーンに情熱を傾ける彼の業をこそ、この作品では讃えたい。 |
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地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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建設中の「世界子供ランド」は、謎の宇宙人が地球侵略のために建造していた要塞だった。彼等はサイボーグ怪獣ガイガンと宇宙怪獣キングギドラを率いて破壊活動を開始するが、それを察知したゴジラとアンギラスが怪獣島からやって来る。だが宇宙人はキングギドラのみならず、新たな破壊怪獣を呼び寄せていた… 徹底してこども向きに作られた作品で、本作は1972年邦画興行成績で5位を取っている。 第一期ゴジラシリーズの中盤のノリの特徴は兎に角子供向けに徹底していること。本作品がその最たるものではないか?こう言うのをいい大人がまじめな顔してやっているのを見ると、背中がむず痒くなってくるのを止めることが出来ない。大体「怪獣ママゴン」なる落書きを真面目に論議しているのは馬鹿にしか見えないぞ。 子供向きと言うのは怪獣の方にも及んでいて、怪獣島からやってくるゴジラとアンギラスは吹き出しで喋ってるし、完全にゴジラが正義の味方になってしまった。子供の悲鳴が上がれば、自らの危険を顧みず駆けつけるゴジラの姿はガメラと区別が付かない。 それに編集が下手で、昼のシーンと夜のシーンがごちゃごちゃになってたり、過去のフィルムの使い方も今ひとつ。 と、口を開けば文句しか出てこないような作品なのだが、その中でこの作品には一つだけ大きな売りがある。怪獣ガイガンである。このキャラクターは兎に角顔が精悍で格好が良く、怪獣同士の戦いでも残忍さを見せてくれた。お陰で競演したキングギドラは完全に脇役に押しやられてしまったが、それだけガイガンが格好良かったと言うことでもある。ただ、一つ疑問なのは、どうやってあの複雑な形状をしている腹の電ノコを回しているのだろうか?宇宙人の技術、恐るべし。 徹底して子供向けの娯楽作品として見るならば、アラについては語ることもあるまい。 ちなみに着ぐるみの名俳優中島春雄がゴジラに入ったのは本作が最後となる。 |
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ニュージーランドの若大将 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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フレッシュマン若大将 1969 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1968年邦画興行成績6位 |
ゴジラ映画音楽ヒストリア──1954 ― 2016(書籍) |
怪獣島の決戦 ゴジラの息子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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人間の手で気象コントロールを行なう研究を進めていた楠見博士(高島忠夫)は南太平洋の無人島ゾルゲル島で実験を進めていた。だが実験は失敗。高温に包まれた島は住んでいたカマキリが異常発育。怪獣カマキラスに変わってしまう。そのカマキラスが山から掘り出したのはゴジラの卵で、そこからも怪獣が出現するのだった。ゴジラに似たその子を助けるべくゴジラまでが現れ、島は怪獣が大挙して押し寄せる地となる。そんな時、実験に居合わせた記者の真城伍郎(久保明)は無人のはずの島に少女の姿を見かける… 怪獣映画を作る際、一つの問題がある。怪獣はあまりに巨大すぎるのだ。構造上怪獣映画は人間ドラマを入れることになるが、怪獣の巨大さに対して、人間はあまりにも小さい。どうしてもそこに断絶が生じる。 第1作目の『ゴジラ』(1954)は確かに素晴らしい作品だったが、その巨大さが後のシリーズに与えた課題は大きかった。あまりに素晴らしすぎたがため生じた負の要素は確かにあったのだ。 故にこそ、その体格差をどう埋めて怪獣と人間のドラマを作るか。そこが怪獣映画の宿命となった。これにはいくつかの手が用いられた。例えばゴジラシリーズからは離れるが、同年の『キングコングの逆襲』(1967)のように怪獣のスケールを小さくする方法や、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』(1999)のように怪獣の中にすっぽり人間を入れてしまう方法(ここではもう一つ、怪獣を閉鎖空間に閉じこめると言う方法も使われた)。最も単純には、人間が巨大ロボットの中に入ってゴジラと戦う方法。人間が怪獣を復活させる過程を丹念に描くなどなど、本当に様々な方法が用いられた… 本作は福田純監督による2作目のゴジラ映画だが、前作『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』であまりに無茶苦茶やってしまった事を反省してか、一つの画期的要素を投入する。 他でもないミニラの存在がそれ。ファンの多くにはすこぶる評判が悪いミニラだが、実はこの怪獣は人間と怪獣の橋渡しとして、これほどうってつけの存在はなかった。本作においてそれが顕著だったのはサエコ(前田美波里)がミニラに食べ物を渡すシーン。人間と怪獣が同スケールで交流できる!これがどれほど重要だったか、よく考えていただきたい。そう。ミニラはゴジラと対比することもできるし、人間とも交流できるという、怪獣と人間とをつなぐ重要な要素を持ち込んだ希有な存在だったのだ(二年後の『ゴジラ ミニラ ガバラ オール怪獣大進撃』(1969)ではより顕著にそれが表されていた)。 そりゃ確かに作品自体は怪獣プロレスにさえなってない作品だったし、親としての使命に目覚めたゴジラなんて見たくもなかったが、それでも尚、この時点まででこれほど人間と怪獣のリンクが出来た作品はなかった。ミニラの重要さはもう少し評価して然るべきだと私は思っている。 それともう一つ。本作で評価したいのは、表題を『ゴジラ対クモンガ』にしなかったことかな?「エビの次はクモかよ!」という極めつけの悪評は避けられたし、少なくともこども達はゴジラに親近感を持ったことだろう(以降のシリーズは子供をターゲットにしてるので、これは重要な点だ)。 形と言い、存在感と言い、殆ど怪獣ファンの口にも上らないようなクモンガだが、二体の怪獣に対し、これほど健闘したのだ(事実人間側の努力無しだったら勝ってた)。これももう少し評価すべきじゃないかな?それにクモンガやカマキラスを着ぐるみにせずにあくまで繰演にこだわったのもスタッフの意気込みが見えるようで良い。 |
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ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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南太平洋で失踪した兄の弥太を探すため、良太(渡辺徹)は途中知り合った市野(当銀長太郎)、仁田(砂塚秀夫)と共に停泊していたヨット「ヤーレン号」に乗り込むが、そこには金庫破りの吉村(宝田明)がいた。成り行きで出航してしまったヨットは遭難し、4人はレッチ島という太平洋の島にうちあげられる。そこでの住民ダヨ(水野久美)から、ここは世界制覇を目ざして原水爆を製造する「赤イ竹」一味が人喰い海獣エビラを操って島民を苦しめているというのだ。しかも、この島を探検したところ、地下にゴジラが眠っているのを発見!「赤イ竹」の野望を打ち砕くべく、隣島のインファント島のモスラに救援を求めると共にゴジラを起こそうとするのだったが… 何というか、改めてあらすじを書いてみると、この作品がどれほど荒唐無稽な物語だかよく分かる。凄いぞこれは。イタコの言葉を信じてどこにいるとも分からぬ兄を探しに行ったところ、たまたま乗り込んだヨットが金庫破りの持ち船。しかもトラブルで出航してしまったら遭難していきなりビンゴ。しかもそこには日本人による大規模なテロ組織があって、隣島はインファント島。しかもその地下にはゴジラがいる…ここまでご都合主義の物語を作ってしまったと言う点を先ず評価したい(あれ?)。 本作の主人公は元々はゴジラではなくキングコングだったそうで、ひたすら明るく作られているのはそのためか?でも、その方向性が以降のゴジラの性格を決めてしまったのだから皮肉な話だ。 本作は福田純監督によるゴジラシリーズ第1作。この監督は昭和ゴジラ中期から後期にかけての作品の多くを監督した人で、ゴジラシリーズを怪獣プロレスにしてしまった張本人。そう言うことで評価しにくい監督さんではあるが、一つこの監督作品には評価すべき部分があると思う。 本多猪四郎監督によるゴジラシリーズは概ね怪獣の陰の部分を強調して描かれていたのだが(大人向きという方向性ではある)、福田監督による怪獣は徹底して陽の部分を強調している。怪獣は怖い存在であると同時に、人間が利用できる存在となり、上手く使えば人間の役に立ってくれる。そんな存在へと変えていった。子供向きの方向へゴジラシリーズを転換したのは、延命の意味では正しかったし、きっちり一つの方向性を明示してもいた。なんだかんだ言っても彼がゴジラシリーズを引っ張ったのは確かな話だ。そしてこの方向転換こそがゴジラを長寿シリーズへと変えていったのもやはり事実。 それで本作だが、上記の通り、とにかくすさまじいご都合主義の固まりな上に、新しく登場した怪獣はエビラというなんのひねりもないキャラクター(大体ゴジラにエビの化け物が釣り合うか!最初から勝負目に見えてるじゃないか)だったり、表題にバーンと大きく登場したモスラがラストにちらっと登場するだけとか(そういや以降の作品のモスラは幼虫ばっかりだけど、これの子供なのか?)様々な問題を抱えているが(致命的とも言える)、そう言うもんだと思って観る限り、結構温かい目で観られるんじゃないかな? 前作『怪獣大戦争』(1965)でシェーをやってくれたゴジラは今度はキャッチボールをやってくれるし、日本人離れしたくっきりした目鼻立ちしている水野久美がなんの違和感もなく原住民やってるとか、今回悪役で登場した平田昭彦がまるで『ゴジラ』(1954)ばりに眼帯で登場するとか、結構見所はあるから、楽しんでみようと思えば充分楽しめると思う。 ただ一つ、少々気になるのがラストの台詞。確か「これからは核も使い手の心次第だ」 だったと思うけど、この台詞かなり当時の世相を知る手がかりになると思う。『ゴジラ』はそもそも日本敗戦を決定づけた原子力爆弾の驚異へのオマージュがある事はよく言われることだが、ゴジラ=原子力と考えてみると、「使いようによって、原子力は人間の役にも立つんだよ」という事を暗に語っているような気がしてならない(当時は既に日本に原子力発電所設立は決まっていたし、本作の2年前の1963年には試験発電が開始、3年後の1970年には初の商業原子炉敦賀1号が運用を開始してる)。世相なのか、それとも何らかの意志が働いていたのか…考えすぎだろうか? |
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100発100中 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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本作の演技が評価され、浜美枝は『007は二度死ぬ』に起用されたとも言われる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ハワイの若大将 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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電送人間 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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都内で起こる連続殺人事件。被害者は全員旧陸軍の関係者だった。その奇妙な殺人方法と被害者の一致に興味を抱いた東都新聞の科学担当記者桐岡勝(鶴田浩二)は、犯人の遺留品の中に小さな針金状の物体を発見する。その物体はクライオトロンで、将来トランジスターにとって代るべき真空管の一種であることが分かり、桐岡はその手がかりから、終戦直後に死んだはずの軍の科学者仁木博士と、そのボディガードである須藤兵長(中丸忠雄)にあたりを付けるのだが… 東宝の放った変身人間シリーズは良作が多い。特に同じ年に公開された『ガス人間第1号』(1960)と『マタンゴ』(1963)は、私にとって貴重な最高作品(特撮映画で満点くれたのは結構少ない)。 しかしまあ、その中でも、本作はちょっと外したかな? 決して悪いとは思わないし、演出も結構良かったと思うけど(走査線で表現される電送人間の表現方法や、電送を繰り返すたびに傷が増えていく描写など)、物語があまりにも単純に過ぎた上に、謎解きとかもかなり強引。後で円谷プロによって作られたテレビシリーズの「怪奇大作戦」の一本としてだったら、評価も出来るんだけど… 私なりには変身人間シリーズの特徴として、人間外のものに変えられてしまった人間の哀しさというものが重要だと思うのだが、本作の場合、哀しさと言うよりは復讐の鬼としか描かれてなかった分、それが科学を用いた単純なサスペンスになってしまった感じ。更に科学的な意味合いが強すぎて、人間の感情を排除してしまったのも問題。怒り以外の感情が見あたらない。もっと複雑な感情を表現できたと思うんだよな。 キャラクターは、電送人間役の中丸忠雄が妙に無表情で、何考えてるのか分からないのは結構良かったんだけど、逆に演技が今ひとつ。関係ないところで挿入される白川由美も物語のバランスを崩してる。時間の使い方が少々下手なんじゃなかろうか? |
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