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1963 | 10'11 死去 | |
1962 | ||
1961 | クレーヴの奥方 脚本 | |
1960 | オルフェの遺言-私に何故と問い給うな- 監督・脚本・出演 | |
1959 | ||
1958 | グレバン蝋美術館 出演 | |
1957 | ||
1956 | ||
1955 | ||
1954 | 一つのメロディと四人の画家 出演 | |
1953 | ||
1952 | サント・ソスピール荘 監督・ナレーション | |
1951 | ||
1950 | 恐るべき子供たち 原作・脚本 | |
1949 | オルフェ 監督・原作・脚本 | |
1948 | 恐るべき親達 監督・原作・脚本 | |
アモーレ 原作 | ||
1947 | 双頭の鷲 監督・原作・脚本 | |
ルイ・ブラス 脚本 | ||
1946 | 美女と野獣 監督・脚本 | |
1945 | ||
1944 | ブローニュの森の貴婦人たち 脚本(台詞) | |
1943 | 悲恋 脚本 | |
1942 | ||
1941 | ||
1940 | ||
1939 | ||
1938 | ||
1937 | ||
1936 | ||
1935 | ||
1934 | ||
1933 | ||
1932 | ||
1931 | ||
1930 | 詩人の血 監督・脚本 | |
1929 | ||
1928 | ||
1927 | ||
1926 | ||
1925 | ||
1924 | ||
1923 | ||
1922 | ||
1921 | ||
1920 | ||
1919 | ||
1918 | ||
1917 | ||
1916 | ||
1915 | ||
1914 | ||
1913 | ||
1912 | ||
1911 | ||
1910 | ||
1909 | ||
1908 | ||
1907 | ||
1906 | ||
1905 | ||
1904 | ||
1903 | ||
1902 | ||
1901 | ||
1889 | 7'5 セーヌ=エ=オワーズで誕生 |
オルフェの遺言 私に何故と問い給うな Le testament d'Orphée ou ne me demandez pas pourquoi |
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1960英アカデミー作品賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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時間を旅するコクトー(コクトー本人)は時間の旅人であることを止め、この世界に自分を固定化しようとする。そのため、その研究を行っている教授の様々な時代へと現れる。いくつかの不確定要素を教授に与えつつも、教授の力により現実に戻ることが出来た。そこからのコクトーの現実の旅を描く。『オルフェ』に登場したセジェスト、やはり『オルフェ』で主人公オルフェを助けたため、罰として人を裁く仕事に就かされた“死の女王”、武神などとの交流を通し、自分自身を表現しようとする… 本来芸術家としてのコクトーの私的映画であり、他人に分かってもらおうとして作られたものではない。故にこそ明確さを欠き、個人哲学に基づいた不条理きわまりない作品となっている。 …の、だが、この美しさ、緻密な描写能力はどうだ。 フィルムの逆転により、不可逆な生→死を逆転させ、時間旅行によって時空を超越する。映画の登場人物が実態を持つ。更に神と会話する。と言ったように、常識を根底から突き崩し、それら全てが自分自身の上に降りかかっているものとして捉える。つまりはこれこそがコクトーの内面世界そのものって事なんだろう。それを表現しようとし、ある意味で成功しているのだから凄いもんだ。 いくつかロケも使われているが、基本的に舞台がむき出しの映画の製作スタジオで作られているというのも面白い(押井監督の『Talking Head』(1992)ってこれの影響下にあったのかな?可能性はありそうだ)。こんな私小説みたいな作品なのに出てくるキャラが豪華なのも良い(分からなかったけどピカソも出てるそうな)。監督の交友関係の深さ(広さじゃなくて)も窺える。 |
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「シネマトグラフ(映画)の特権は、多数の人々に一緒に同じ夢を見させることができ、さらに非現実の幻想をリアリズムの厳密さで描くことができることにある。つまりは詩を運ぶ素晴らしい車なのだ」 |
オルフェ Orphée |
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自作の戯曲を映画化した作品で、コクトー流の美しさにあふれた作品。 死と生を自在に通り抜けられる詩人のイマジネーションが主題 |
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双頭の鷲 L'aigle a deux tetes |
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最も長いモノローグの映画で、冒頭20分のスピーチを行う。 コクトーはこの作品に「美女と野獣」というタイトルを付けようとしたが、ジャン・マレーの助言で、それは別の映画に使うことにした。 |
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美女と野獣 La belle et la bete |
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1946カンヌ国際映画祭音楽賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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商人の三人娘の末っ子ベルはいつも二人の姉にいじめられて過ごしていた。彼女は幼なじみのアナヴンからの求婚も断り、一人父の世話をしていたが、ある日、父が商用に出掛けた帰りに道に迷い、見たこともない古城に紛れ込んでしまう。しかもそこに住んでいたのは人とも獣ともとれる恐ろしい存在で、商人が手折ったバラの代わりに娘を一人身代わりに出せという。三人の娘の内、ベルだけが父の命を救うため、一人野獣の住む城へと向かう。野獣の恐ろしい姿に恐れるベルは、しかしやがてその野獣が何らかの秘密を持っていて、優しい心を持っていることに気づいていく… 現代でこそディズニーアニメとして有名な本作だが、元々はにガブリエル=スザンヌ・ド・ヴィルヌーヴによって描かれ、ボーモン夫人によって童話に書き起こされた名作で、それが舞台用の作品となり、それを最初に見事に映像化したのは本作。実は日本におけるフランス映画輸入第1号で、コクトーの名前を飛躍的に高めることに成功している。 映画も数を見ていると、監督のカラーによって自分と相性のいい監督と悪い監督というのが見えてくるものなのだが、コクトーとの相性の良さは本当にぴったり。私の大好きな監督の一人である。 こう言って良ければ、古典小説を題材に取り、そこに突飛な表現を持ち込むことによってなされる詩的なグロテスクさと言えばいいのだろうか。単なる映像表現を越えた深いものを感じることが出来る。何よりカメラ・ワークの素晴らしさは、もう溜息が出るほど。 そりゃ話自体はよく理解できない部分があるとか、何のためにこんな所にこんなものを出すのか?とか、妙に同性愛的傾向が強いとか、色々あるが、それらをひっくるめ、なんかとても心地が良い。何にせよ、大好きな監督には違いない。 それで本作は、非常に耽美性の高い作品に仕上がっており(と言うか、監督の作品はみんなそうだが)、その中でぬめぬめと動き回る人間群像がたいへん興味深い。 実際、ここで登場する人間はみんなまるで軟体動物のようで、現実感がたいへん希薄。むしろ強烈な現実感を持つのは人間ではなく野獣の方。彼は自分が人間の心を持つその瞬間だけしかベルの前に出ることが出来ず、そのことに苦悩し続ける。一見化け物のような暴君に見える野獣こそが、この登場人物達の中で最も生っぽい、というか人間っぽい描写がなされているのが大変面白いところ。特に水を飲む際、腹這いになって水を舐める描写が凄い。本編にこれだけ食事シーンが出ているのに、実際にものを食べて見えるのはその瞬間だけ。他の生身の人間がみんな現実感のない本作の中で、唯一人間らしい存在だった。登場人物の中で彼ほど苦悩している存在はない。野獣の姿を持っていながら、最も人間らしい存在として描かれている。果たしてそれが狙いだったのかどうかは分からないが、それが見事な対比を作り出しているのは確かだ。 それと、生きてる城の描写が何とも凄いところ。彫刻や燭台といった一つ一つがゆるゆると動いていて、別世界さを感じさせられる。映画とは、リアリティだけが重要なのではない。いかにして表現するのかが大切か。この作品はそれを端的に示しているのではないだろうか?(分析家によると、これはフロイト的なイメージとして捕らえられるそうだ) それと本作では何と言っても野獣が魅力的。単なる粗野なキャラではなく、大変心に複雑なものを持つキャラであり、自分の内なる獣性を本当に怖がっている一方、人を求めずにはいられない。アンビバレンツが具現化したようなキャラクタに仕上がっており、むしろ美男子になったマレーよりも遙かにこちらの方が共感を得られた(なんでもこれを最初に観たマレーネ=ディードリッヒは、思わず「私の素敵な野獣はどこへ行ったの?」と叫んだというエピソードも残されている)。 ところでコクトー監督はこの映画の製作当時、ドイツ協力者の嫌疑を受けていたらしく、その恨みも込めてクレジットでの自分自身の名前の下にダビデの星を書いたのだが、冒頭でこんな事も書いている。「世界は今、あらゆるものを破壊し去ろうと熱中しているが、おとぎ話が天国へ寝そべったまま連れて行ってくれた、あの少年時代の信頼感と素直さを取り戻したい」。現代も尚、同じ台詞が有効だ。 |
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