妻のアリソンの自殺以降すっかり心を閉ざしてしまった娘エミリー(ファニング)の療養を兼ね、精神医であるデヴィッド(デ・ニーロ)は別荘地の一軒家に移り住む。しかしエミリーは、いつしか想像上の友達であるチャーリーと遊ぶようになっていく。しかもエミリーの想像上の存在に過ぎないはずのチャーリーの存在がどんどん大きくなっていき…
父親役にデ・ニーロ、子役にファニングという大物役を投入した豪華なサスペンス・ホラー。
映画に限ってのことではないが、物語には王道パターンというのが存在する。特に映画の場合、いくらパターンであっても、役者の巧さや演出によっていくらでも面白くできるものだが、それが当てはまらないものも存在する。それがサスペンスというもの。
特にどんでん返しを用意しているサスペンスの場合、パターンに入ってしまうといくら頑張っても陳腐化してしまう。しかし、そう言うのが多いのも事実で、物語の途中でどんでん返しまで分かってしまう作品になると、もはや頑張っていれば頑張っているほど痛々しいとしか言いようがない。
本作はその最悪のパターンにはまってしまった典型であろう。デ・ニーロ、ファニングどっちも素晴らしい演技を見せているのだが、演出面では根本的な点が間違ってる。
映画というのは観ている側にとっては情報が制限されてしまう。画面に映っているものしか観ることが出来ないので、画面に出ているものはとりあえず真実として受け取ることが必要とされる。特にサスペンス映画の場合、謎解きを考えるため、矛盾があってはならないのだ。本作の場合は、デイヴィッドが見たもの、あるいは行っていることは、本当に行っていなければ、サスペンスとして成り立たない。仮にそれが心象風景だったり、実際にやってないのに「してるつもり」なのが、画面に出てしまうと、それは最早物語を放棄しているとしか言いようがない訳だ。見事にそれをやってくれた時には怒るよりも完璧に呆れ返った。最早どうしようもない。
そう言うことで映画としては完全に失敗作。主役二人の演技は良いんだけどねえ。
ただ、本作は心理描写という事だけに限って言えば、面白い作品でもある。エミリーは精神を病んでしまったという前提条件があり、精神科医であるデヴィッドはそれを、自己防衛のためにもう一人の架空の存在を作り出すという、解離性障害だと診察する。だからチャーリーの存在を受け入れようと努力するのだが、実はそのチャーリーは実在しており、他ならぬ自分自身であることを知るに至る。この時、実は解離性障害であったのは、娘ではなく自分自身であった!という事実を突きつけられるのだが、この時、娘の精神病を自分が見守っているつもりで、実は娘の方が自分自身を守っていてくれた。と言う事に気づかされる。これが本作のどんでん返しの意味になっている。そしてラスト、エミリーは自分の描いた絵を見せるが、そこには頭が二つある少女が…解離性障害を起こしていたのは本当にデヴィッドだけだったのか?という驚きのラストになっている。
しかし、これらの描写の仕方が全部下手くそだったのが最悪と言えるだろう。結局何がなんだか分からないまま。と言う人が多かったんじゃないか?いや、分かっているとしても、それ以前に映画として成立してないんだからどうしようもない。
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