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2002 | 11'09''01 セプテンバー11 監督・脚本 | |
2001 | ノー・マンズ・ランド 監督・脚本・音楽 | |
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1969 | 2'20 ゼニツァで誕生 |
ノー・マンズ・ランド | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2001米アカデミー外国語映画賞 2001カンヌ国際映画祭脚本賞、パルム・ドール 2001LA批評家協会外国映画賞 2001ゴールデン・グローブ外国映画賞 |
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1993年6月。ボスニアとセルビアの戦争中での中間地帯であるノー・マンズ・ランド。道に迷ったセルビア人兵士ニノ(ビトラヤツ)は相棒と共に塹壕を発見してそこに逃げ込むが、運悪くそこにはボスニア軍のチキ(ジュリッチ)とツェラが隠れていた。銃撃戦となり、ニノの相棒は殺され、ニノも怪我を負う。一方、死んだと思われたツェラの体の下にはジャンプ型地雷が仕掛けられてしまった。状況を打破するため、やむを得ず協力することになったニノとチキだったが… 1991年のソ連邦の崩壊に従い、それまで水面下に押し込められていた東欧各国の問題が浮上してきた。崩壊した社会主義体制の中で、なんとか自国の権利を守るために、より多くのパイを得るために、混乱のさなかでも各国は血眼になって外交努力を続けたが、時としてそれは戦争という形をも取っていった。そして何よりやっかいなのは、強引に一つの国にまとめられていた国がそれぞれの民族毎に武力放棄した民族紛争の問題をも引き起こしてしまった。 ボスニア・ヘルツェゴビナはその典型的な例で、それまで押さえられていたセルビア人やボスニア人たちによる民族紛争がエスカレートしていった。 そんな時代を背景とした戦場の物語だが、本作はそんな紛争をたちの悪いブラックジョークとしてまとめた作品である。 戦争をコメディにしてしまった映画はこれまでにもいくつか作られているが、その中で一番面白いと思うのはやはり日本の岡本喜八監督の手によるもの。戦場を笑い飛ばし、そこに生きている人間の生命力の強さを温かい目で描いた作品は、今の目で見ても素晴らしい作品に仕上げられている。 本作を観ていると、これもそう言うコメディとして扱うべき作品なのかもしれない。しかし、紛争が起こって僅か10年足らずで作られたお陰か、それを消化しきっているとは言えず、終始陰鬱な雰囲気に包まれているのが特徴だろう。 それと、紛争からほんの僅かしか時間が経っていない分(しかもタノヴィッチ監督は実際にボスニア紛争に参加した過去を持っている)、とにかくリアルに描かれている。下らなくてもとりあえずジョークを言い合うことでお互いの存在感を確かめ合う味方同士の関係。同じ国に住み、同じ知り合いもいるというのに、状況次第で殺し合わねばならない敵味方の関係。そして“調停”の名目の元、結局何も出来ないでいる国連の状況。全てがリアルだ。 先に私は本作を「コメディ」と書いたが、コメディにもいくつか種類があって、笑わせることが目的のコメディと、逆に笑い立てにして、観ている者にきまりの悪い思いをさせる事を目的としているものがある。本作は明らかに後者の立場に立つ作品だ。 確かにコメディの皮はかぶっているものの、これほど笑うのに気の引ける作品もないし、後味の悪さは一級品。 互いに銃を撃つことが出来ない緊張感が続き、そんな時にお互い“セルビア人”“ボスニア人”としか見ていなかったのが、互いに人間であることが分かり、やがて互いの共通点を見つけて“ニノ”と“チキ”に変わっていく。この過程は平和のためには必要なのだが、それは、このままでは共倒れだという共通認識あってのこと。まるで冷戦構造だ。 しかし、ソ連邦が崩壊したように、冷戦構造もやがて自壊していく。しかもそれは無力な国連軍の介入によって。しかも国連軍が結果的にやったことは、何の意味もない“政治的声明”だけ…ブラックジョークとしても見事な構造だ。 ラスト、結局取り残されたツィラをカメラは逆ズームで映しつつ、空へと舞い上がっていく。あたかも言葉や見せかけの平和を謳う前に、この現実を見ろ。と言う具合に。 平和平和と口にするのは簡単だが、こうやって死んでいくしかない多数の人間のことを忘れるな。今でこそあまり顧みられることが少なくなったが、今もなお民族紛争は続いているのだ。この現状を見てくれ。それがこの作品の最大の主張ではなかっただろうか? |
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