書籍 |
ガメラ画報―大映秘蔵映画五十五年の歩み |
ガメラ監督日記金子修介 |
ゴジラ・ガメラ・大怪獣―すごいやつらが帰ってきた |
大映特撮映画大全 大怪獣空想決戦 ガメラ対大魔神 |
コミック |
ガメラ2006 HARDLINKArk Performance |
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1965年 湯浅憲明(監) |
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北極に某国の水爆輸送機が撃墜され、そのエネルギーで古代アトランティスの伝説の怪獣・ガメラが復活を遂げた。飛行能力を有し、金属よりなお固い体と全ての爆発エネルギーを栄養にしてしまうガメラ。ガメラに命を助けられ、何とか助かって欲しいという少年トシオの思いも空しく、ガメラはエネルギーを求めて暴れ始める。あらゆる軍事行動に失敗した人類は全ての科学を結集させ、最後の手段「Z計画」をガメラに試みる 東宝の『ゴジラ』(1954)に対抗して大映が試みた特撮野心作。単に破壊するだけではゴジラと同じになってしまうからか、色々と違いを出すべく様々な試みがなされているのが特徴で、後年の作品に色濃く残されていく(「ガメラは子供が好き」というのも既にここから始まっている)。 大映はこれが最初の特撮作品になるはずだが、ガメラの動きと言い、特撮の凝り方と良い、かなり凄い水準に達している。飛行機の描き方は特に良い。アニメーション合成もさほど違和感無しだし、特に尻尾の演技は特筆に値する(ゴジラでの操尾技術も凄かったけど)。飛行の見せ方も実に巧い。 事は日本だけでなく、世界を舞台としているのも良い。最後の「Z作戦」は全世界が共同して行っていると言うことで、冷戦を笑い、グローバリゼーションをしっかり念頭に置いていることが分かる(冒頭で原爆が爆発した時はちょっと驚いたけど)。更に子供を起用することで、怪獣が単なる恐怖とは違っていることを印象づけていることも大切だろう。 だけど、「ガメラは悪い奴じゃないんだ」というのが、どうもこの映画を中途半端な位置づけにしてしまった感じだし、冒頭のイヌイット(劇中ではエスキモー)がどう見ても日本人にしか見えないとか、アトランティスが北極にあるとか、少々気になるアラも多い感じ。ガメラの登場もあまりに早すぎて、ちょっとサービスしすぎかな? 『ゴジラ』の対抗作品としてではなく、単体でかなり水準が高い作品なので、是非鑑賞をお勧めする。 |
ガメラ | |||||
【がめら】 | |||||
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Z計画 | ||||
【ぜっと-けいかく】 | ||||
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ちどり丸 | → | |||
【ちどり-まる】 | ||||
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俊夫 | ||||
【としお】 | ||||
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火食い亀 東京襲撃 | → | |||
【ひ-くい-がめ-とうきょう-しゅうげき】 | ||||
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日高 | ||||
【ひだか】 | ||||
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名称 | → | |||
【】 | ||||
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大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン |
1966年 田中重雄(監) 本郷功次郎、江波杏子、夏木章、藤山浩二、藤岡琢也 |
ニューギニアの奥地で発見された巨大なオパール、だがそれは伝説の怪獣・バルゴンの卵であった。日本に持ち込まれた卵はバルゴンへと孵化し、急成長を遂げ神戸に出現、さらに大阪を蹂躙する。冷凍液で全てを凍らせ、虹光線で全てを焼き尽くすバルゴン。ニューギニアからやって来たテレサの助力によりバルゴンを倒そうと躍起になるが、全ては徒労に終わってしまう。その時怪獣ガメラが、虹光線のエネルギーに惹かれ、バルゴンのいる琵琶湖へとやって来た。 『大怪獣ガメラ』(1965)2作目にしてフルカラー作品。特にこの作品はヒューマン・ドラマが主体となり、エゴを剥き出しにした人間の醜さと、そしてそのエゴによりもたらされた災厄を上手く描ききっている。バルゴンの卵をオパールと思って日本に持ち込んだり、バルゴンをおびき寄せることの出来る唯一の武器である5000カラットのダイヤモンドを強奪しようとする人間が出たりして、人間側にも並々ならぬ苦労が偲ばれる。人同士の醜い争いの結果死人も出るので、後の子供映画化された怪獣映画とは一線を画すハードなドラマに仕上がっている。 造形技術は1作目に増して良くなり、人間の形をしていないバルゴンや、それに対し、まるで獣の如き構えで挑むガメラなど、構図も上手い。ガメラの顔はシリーズを通して最も凶悪なので、純粋に怪獣対怪獣の戦いが堪能できる。 ここでもしガメラが出なくて、人間側の努力でバルゴンと戦う。と言うだけでも充分楽しめる作品となっているので、これは結構お勧め。知恵と勇気で怪獣にぶつかっていく人間側の努力をこそ、この作品では見て欲しい。 やっぱり作られた年代が年代だけに今では放送禁止用語となった原住民の蔑称まで出てくるので、もはやテレビでは放映されることはないだろうけど。 |
小野寺 | ||||
【おのでら】 | ||||
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オパール | ||||
【おぱーる】 | ||||
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カレン | ||||
【かれん】 | ||||
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ダイヤモンド作戦 | ||||
【だいやもんど-さくせん】 | ||||
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バルゴン | 大怪獣シリーズ 大映特撮編 バルゴン | |||
【ばるごん】 | ||||
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平田一郎 | ||||
【ひらた-いちろう】 | ||||
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平田圭介 | ||||
【ひらた-けいすけ】 | ||||
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ミラー作戦 | ||||
【みらー-さくせん】 | ||||
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大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス |
1967年 湯浅憲明(監) 本郷功次郎、上田吉二郎、笠原玲子 |
富士火山帯が活動を開始、伊豆諸島に継いでとうとう富士山が火を噴いた。それに伴い地底に住んでいた怪鳥ギャオスが地上へと出現、大暴れを始める。そこへ、火山のエネルギーを求めてガメラが飛来。火炎放射のガメラか、超音波メスのギャオスか、空を飛ぶ二大怪獣が名古屋と富士の裾野で激突する!ガメラ・シリーズの第3作。 怪獣もの、殊にガメラ作品ではかなりの秀作。特にラスト・バトルでのガメラとギャオスの戦闘シーンはお互いに遠間からの駆け引きが中心となり、とても緊迫感がある(どこかでこのシーンを見たと思ったら、グレーシー柔術の駆け引きがこんな感じ)。首が回らない分、完全に不利だと思われた敵のギャオスが、ガメラの繰り出す攻撃をことごとく凌ぎきり、しかも適切に反撃を返すその姿は敵ながらあっぱれ。人間側も色々努力するんだけど、ギャオスには効かない。しかも今まで凶悪なだけの存在であったガメラが今度は子供を助け、その子供の声援を受けて戦うというのだから、いよいよヒーロー化したガメラがここに誕生した(少年合唱隊が歌う主題歌が出たのもこれが最初だったはず)。 いくつかの致命的弱点が明らかなのに、やはり強いギャオス。しかも人間を食うという描写や、この二体のとっくみあいで多量に流れる体液など、子供向けの割にはハードな展開だし、人間側の努力もはっきり見えるのは、結構好感が持てる作りでもある。 ところでこの作品が作られた年を見ると、1967年となっている。実はこの1967年と次の1968年は怪獣映画にとっては最も輝いていた年でもあった。世はまさに高度成長時代。日本中が掘り返され、高速移送や近代建築の夢を追っていた時代である。この映画でも主人公は建設現場の監督であり、高速用地を売り渋る村人に説得する側だった。現代であれば自然破壊をする者として、逆に槍玉に挙がる役柄が正義の側という構成はまさにそれを端的に示しているだろう。更にギャオスに対し人間の側から様々な攻撃のアプローチが謀られているのも、科学への信奉の度合いが非常に高かったと言う事実がある。働く人間が最も輝いていた時代、そして未来に大きな展望がもたれていた時代である。それだけに怪獣はパワフルに、そして豪快に作られている。 そしてこの年は東宝、大映以外にも日活が『大巨獣ガッパ』(1967)を、松竹が『宇宙大怪獣ギララ』(1967)を投入している。年間に三社の怪獣映画放映なんて、この年だけ。 1968年末にいわゆるオイル・ショックが起こり、高度成長時代に陰りが見えてくる。バラ色の未来への夢が段々薄れていく時代へと変わっていく。それに連れて怪獣映画も様変わりしていく。60年代に作られた作品と70年代になって作られた作品には、実はかなりの隔たりがあるのだ。 |
青木 | ||||
【あおき】 | ||||
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AGIL照明弾 | ||||
【えい-じー-あい-える-しょうめい-だん】 | ||||
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金村英一 | ||||
【かなむら-えいいち】 | ||||
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金村辰衛門 | ||||
【かなむら-たつえもん】 | ||||
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ギャオス | |||||
【ぎゃおす】 | |||||
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超音波メス | ||||
【ちょう-おんぱ-めす】 | ||||
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堤志郎 | ||||
【つつみ-しろう】 | ||||
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ガメラ対大悪獣ギロン |
1969年 湯浅憲明(監) 加島信博、秋山みゆき、浜田ゆう子、イーデス=ハンソン |
世界中の天文台で謎の電波が観測された翌日、天体観測が大好きな少年・明夫とトムは自宅の裏山で円盤を発見。興味本位で二人が搭乗した途端円盤は急発進、宇宙へ飛び出てしまう。やがて辿り着いたのは文明が滅びかけ怪獣(宇宙ギャオス)が闊歩する不気味な星。僅かに残った星の2人の住人から、この星が太陽系第10惑星だと知った少年達。だがその宇宙人が彼等を食料にして脱出を企んでいるとは知る由も無かった。その頃宇宙では地球から飛び出た円盤を追ってガメラが第10惑星へと向かっていたが、星には宇宙人達の番犬怪獣・ギロンが待ち構えていた! ゴジラの後発だけに、ガメラは様々な形でゴジラとの差別化が図られているのが特徴。ガメラを完全に子供の味方にしてみたり、その割に怪獣同士の戦いが異様にハードだったり。中でも特筆すべきは怪獣のデザイン。まるでカメレオンのような人間離れしたデザインのバルゴンや、鳥とも獣ともつかない不思議な、それでいて格好良いデザインのギャオス、これまた他に類を見ない魚型のジグラ、円板生物バイラス…でも、その中でも最も異様で、特徴的なデザインと言えば、このギロンが最高だろう。見ただけで分かる武器のデザイン。それだけでなく、眠たげなサメの如き凶悪な目つき、極めつけに手裏剣! 特にギロンはガメラをあれだけ苦しめたギャオスをあっという間にまっぷたつにしてしまう程の攻撃力を持つ。これでギロンの強さをアピールすると共に、彼の武器は頭部の包丁(!)だと印象づけるわけだ。それでガメラと対峙するギロンは意外にも頭部の包丁をメインの武装として用いてない! ところでガメラの強さを象徴するのは何だろうか?断じてパワーや炎ではない。では飛べることか?それは確かに強さの一部には違いない。しかし、本当の強さは脅威の打たれ強さにこそある。これこそカメの特性を最大限に活かした部分だ。そしてその打たれ強さは勿論頭と手足を身体に収納できる所から来てるのだが、ギロンは一見地味に見える手裏剣を用い、それを防いでしまった。結果ガメラはこれで最大の強さを失うことになり、劇中で一度「死んだ」とまで言われる程のダメージを受ける。この辺りの戦闘の駆け引きの巧みさはゴジラを完全に超えてるよ。 それで復活したガメラ。ギャオス、ガメラとの二度に渡る戦闘で充分に強さを見せ付けたギロンにぶつかるシーンは実に感動的だった。決死の覚悟を思わせるガメラと、強力ながら、全ての技を出し尽くしたギロン。その死闘の結果、やはり耐久力にものを言わせて勝利するガメラ。うーん。格好良い! 一方、この映画での人間部分のドラマはあまりにもしょぼい。子供を主人公にしたのは良いとしても、あの極彩色&銀ラメの第10惑星はデザイナーの正気を疑う程で、機械部分の特撮は今までにない程の情けなさ。更にギャグが寒い。「嬉しいと眼鏡が落ちるんですよ」は怪獣映画に使うべきじゃないんじゃない? …そう言えばつい最近この第10惑星は発見されたんだっけ。 |
明夫 | ||||
【あきお】 | ||||
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ギャオス | ||||
【ぎゃおす】 | ||||
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ギロン | |||||
【ぎろん】 | |||||
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太陽系第10惑星 | ||||
【たいよう-けい-だい-じゅう-わくせい】 | ||||
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トム | ||||
【とむ】 | ||||
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ガメラ対大魔獣ジャイガー |
1970年 湯浅憲明(監) 高桑勉、ケリー=バラス、キャサリン=マーフィ、炎三四郎 |
南太平洋の島ウェスター島の石像「悪魔の笛」が日本の万国博に陳列されるため像を積んだ南海丸が大阪に入港した。丁度その時、島の石像跡には異変が起き、大魔獣ジャイガーが出現し、南海丸の中では石像に触れた人々が、次々と倒れた。ウェスター島に現れたガメラはジャイガーと対決するが、ジャイガーは唾液によってガメラを固定。日本に向かい、大阪で大暴れを始める。身体の自由を取り戻したガメラは再度ジャイガーと対決するが、今度は身体にジャイガーの身体に卵を産み付けるのだった。ガメラの身体を心配した少年弘とトミーは弘の父が作った小型潜水挺に乗り込み、ガメラの体内に潜入するのだった…。 東宝シリーズの『ゴジラ』と大映による『ガメラ』これらは日本の特撮界における二大スター怪獣と呼ばれる。ただガメラの場合、後発と言うこともあって、ゴジラとは多少違った位置づけがなされているのが特徴。その中でも本作は最も“ガメラらしい”作品と仕上がっている。 何が“ガメラらしい”のか。単純である。ガメラとは、徹底して子供の味方なのだ。そしてそれに合わせ、子供も又、ガメラのために働く…いや、子供はガメラとの友情で動くのだ。 この徹底して子供の視線で描くと言うのは大変重要な点となっている。子供だからこそ、ガメラの優しさが分かるのであり、子供だからこそ、どれほど危険な任務も、“友情のために”動ける。 これが大人だとそうはいかない。怪獣は絶対的な味方には成り得ないから。どこかにそこには打算が生じる。それは『ゴジラ』のシリーズを観ても明確化している。ゴジラは人間の味方をする“こともある”で留まる。だからこそ人間の側は、ゴジラの機嫌を窺うとか、あるいは『怪獣総進撃』(1968)に見られるように、怪獣を管理しなければならないと考える。平成シリーズになると最早、ゴジラは最早単なる暴れん坊であり、ゴジラに他の怪獣をぶつけるか、あるいはゴジラを他の怪獣にぶつけると言う単純な図式しか作れなくなってしまった。 確かにこの作品にも大人は登場する。だが、その大人の視点はどうか?やはりガメラもジャイガーも同じ怪獣としてしか見ていない。子供だけがガメラが絶対的な味方であることを知っているのだ。 それに怪獣映画を語る上で、大変重要な点がもう一つ。人間ドラマと怪獣の戦いはスケールの違いから断絶しやすいと言う点が挙げられる。一般には人間ドラマが展開していく一方で、怪獣同士のどつきあいが語られることが多いのだが、この場合、二つの物語が乖離しやすいと言う難点を持つ(これが監督と特技監督を分けてしまったことによる部分もある)。「ウルトラマン」シリーズで活動時間に制限を加えたのも、このためだろう。いくつかの作品でそれをクリアしているが、『ゴジラ』と『ガメラ』を較べてみると、圧倒的に『ガメラ』の方がよく考えられている。本作では何せ、子供がガメラの体内に入っていくのだ。これほど二つのドラマを同時に展開する良い方法があろうか。スタッフはそこまで考えていたかどうかはともかく、画期的要素をこの作品は指し示していたのは事実であろう。 …以上の如く、設定の上では非常に優れた作品ではあるのだ。ただ、その設定をストーリーが生かし切れたかどうかと言うと、やっぱりなあ(笑)。万博とタイアップしたが故に物語に無理や行き過ぎがあるし、国際色豊かな子供の演技がどうしても棒読みだった。物語が進めば進むほど、笑いの要素が強まっていくガメラとジャイガーの戦いなど、問題がありすぎて… あれ?実際のレビューはこれだけ?(笑) |
悪魔の笛 | → | |||
【あくま-の-ふえ】 | ||||
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ウェスター島 | → | |||
【うぇすたー-とう】 | ||||
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ジャイガー | → | |||
【じゃいがー】 | ||||
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ジャイガー二世 | → | |||
【じゃいがー-に-せい】 | ||||
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トミー | → | |||
【とみー】 | ||||
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弘 | → | |||
【ひろし】 | ||||
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ガメラ対深海怪獣ジグラ |
1971年 湯浅憲明(監) 坂上也寸志、グロリア=ゾーナ、坪内ミキ子、藤山浩二、佐伯勇、笠原玲子、吉田義夫、八並映子 |
天体ナンバー105系宇宙のジグラ星は高度に発達した文明は公害を生み、移住先を地球に定める。ジグラは地球人を洗脳し、それを足がかりとして地球に攻めてくる。ペルー沖で起きたM12の地震調査を行っていた国際海洋動物研究所の所員である石川洋介とウォーレス、そして彼らの子供健一とヘレンは宇宙船へと連れ込まれるが…シリーズ第7作で、昭和シリーズの最終作。 中心に子供を置き、公害を前面に捉えた作品。メッセージ性はかなり高かったし、演出もお色気を出したりして(八並映子がビキニ姿で水族館を走る姿は結構ドキドキもの)、意気の高さは買うが、どうもそれがチグハグになってしまった印象を拭えず。 ガメラシリーズを通し、面白いのはガメラ自身もそうだが、ガメラと戦った怪獣が皆恐竜や人間型と言ったオーソドックスな形をしていないと言うこと。バルゴン、ギャオス、ギロン、バイラス、ジャイガー、それぞれに個性を持たせたシルエットを持たせていたが、今回は全怪獣でも珍しい魚型。一応格闘もこなすが、やはり形状故に、泳いでいる姿が多い。ただし、これが成功したとは言えず。どうにもガメラとの戦いが間延びして見えてしまう。ストーリーもなんだかんだ言っても、メインが追い駆けっこだったし。 最後にジグラの背びれを使ってガメラ自身がガメラマーチを奏でる所は、見所ではあるが、やっぱりあんまり盛り上がらなかったな。 大映としてはシリーズを続ける意向だったらしいが、本作を最後に大映は倒産。それが残念。 |
石川健一 | → | |||
【いしかわ-けんいち】 | ||||
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石川洋介 | → | |||
【いしかわ-ようすけ】 | ||||
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ウォーレス | → | |||
【うぉーれす】 | ||||
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ジグラ | → | ジグラ星 | |||
【じぐら】 | |||||
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ジグラ星 | → | ジグラ | ||
【じぐら-せい】 | ||||
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ヘレン | → | |||
【へれん】 | ||||
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ガメラ 大怪獣空中決戦 |
1995年 金子修介(監) 伊藤剛志、小野寺昭、中山忍、藤谷文子、蛍雪次朗 |
突如太平洋に出現した動く環礁。それと時を合わせ、九州の孤島では謎の怪鳥が人々を襲うという事件が発生する。「ギャオス」と命名されたその生物は政府決定で捕獲されることになのだが、その時動く岩礁からガメラが姿を現す。福岡ドームを利用した3匹のギャオスの大捕獲作戦が行われようとしたその時、まるでそれを妨害するかのようにガメラが福岡に上陸するのだった。そして始まるガメラ対ギャオスの空中決戦。 大映が往年のガメラシリーズを復活させる!。そのニュースを聞いたとき、悪いが全然期待できなかった。既に復活して大分経つ平成ゴジラシリーズがあまりにも駄作揃いだったため、正直特撮に飽きが来ていたのだ。特撮は古い作品に限る。そんな風にも思っていた。確かに金子修介と言う監督には興味があったものの、劇場に足を運ぶまでもない。そう思っていた。 しかし、そう考えるのは、あまりに早計だった。まさかここまで質の高い作品を投入してくれるとは。正直、ビデオでこれを観て、劇場に行かなかった自分の不明を悔やんだものだ。 特撮好きな人が、長年暖めてきた企画を可能な限り忠実に映像化した作品。これが正直な感想。往年の昭和ゴジラシリーズやガメラシリーズを観ていた人なら、「私だったら、ここはこうする」とか、「こうすればもっと面白くなるのに」と言う思いを鑑賞の度に思っただろうが、まさしく、それがしっかりと映像化されているのだ。これには驚かされた。正直、私が思っていた「ここはこうして欲しい」と言う所を、実にツボを抑えて製作してくれた。それだけで充分。昭和の怨念がここでやっと晴らされた。と言う感じ。 予算の関係で、少々安っぽくなったことと、売りのためどうしても使わねばならなかった藤谷文子の(スティーヴン・セガールの娘だったりする)の素人臭い演技お陰で大分興が薄れた部分もあるが、いかに怪獣を格好良く撮るか、そして従来の着ぐるみだけでなく、SFXをいかに映えるように使うか。そしてどういう風にストーリーを持っていけば、怪獣が格好良くなるか。色々な点で実に顧慮されており、これが又、本当にツボにはまってる。 怪獣は哀しい存在であって欲しい。それが私なりのポリシーだったのだが、怪獣映画が派手になればなるほど、その要素がどんどん減っていった。特に平成シリーズになり、巨大さを失ったゴジラは単なる暴れん坊でしかなかったし、ゲスト怪獣は単なる人間の手先か、ゴジラを上回る極悪な存在か。それだけになってしまい(唯一『ゴジラVSビオランテ』(1989)のみ、その点を顧慮していたが)、正直これではどうしようもないと思っていた時期だけに、ガメラが人を助け、その人間に誤解を受けて攻撃される姿を見せつけられて、思った。そう。まさにこれこそが私の見たかった怪獣の姿じゃないか。そして地上で肉弾戦を行い、空を飛んで必殺の火の玉を吐くあの雄志。それをきちっと撮り切ったカメラ・ワークと脚本。背筋がゾクゾクするほどだった。 ところで、先に「予算の関係」と書いたが、大映としてもこれがこんなにヒットするとは思ってなかったらしく、大映が提示した予算は驚くほど少なかったらしい。結局屋内施設がレンタルの関係で使えず、外にセットを組んで、自然光の元、カメラを回したのが意外な効果を見せ、実にリアルに仕上がったのが面白い。これは特技監督の樋口真嗣に負うところが大きい(ちなみに『エヴァンゲリオン』の主人公は彼の名前を取ったもの。現に彼はこの撮影中にも『エヴァンゲリオン』の脚本及び撮影に携わっている)。彼は元々素人で特撮映画を作っていたこともあり、その辺のノウハウはしっかりしていたし、その後アニメ界に入ってからは構図の勉強をしっかりしたらしく、見事なまでに「格好良さ」の演出を打ち出していた。そして伊藤和典の脚本。彼が押井守と組まずにこれだけ見事な脚本を書けるとは、正直思ってもみなかった。これで彼のことを、大分見直す事となった。 これが怪獣映画としては一つの完成型と思ってしまう程だったのだが、私はまだ甘かった。まさかこの続編が… |
アトランティス | ||||
【あとらんてぃす】 | ||||
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オリハルコン | ||||
【おりはるこん】 | ||||
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ガメラ | ||||||||||||
【がめら】 | ||||||||||||
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ギャオス | ||||
【ぎゃおす】 | ||||
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草薙浅黄 | ||||
【くさなぎ-あさぎ】 | ||||
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長峰真弓 | ||||
【ながみね-まゆみ】 | ||||
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米森良成 | ||||
【よねもり-よしなり】 | ||||
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ガメラ2 レギオン襲来 |
1996年 金子修介(監) 永島敏行、水野美紀、藤谷文子、石橋保、吹越満 |
突如地球に降り注ぐ流星雨。北海道に落下した隕石の正体は二種類の生物だった。“レギオン”と命名された生物と、“草体”と呼称された個体は、やがて札幌に根を張った。互いに共生し会うこの2つの生物の存在は、間違い無く地球生物の脅威ともいえた。そこへ、かつてギャオスを殲滅した怪獣ガメラが出現、“草体”は倒されるがレギオンによってガメラは傷つく。だが、この生物達の侵略はそれでは終わらなかった。今度は“草体”が仙台に出現したのである。数々の状況を分析し、必死のレギオン対策を図る自衛隊だったが、レギオン同士が合体。巨大怪獣へと変化していくのだった。そこに現れたガメラとレギオンの決死の戦いが始まる。 『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995)の好評を受けて登場したシリーズ第2弾。リアリティは1作目以上で、SF的な細かい設定に裏打ちされた、共生生物のレギオンと草体の関係や、リアルな攻防戦、そして1作目を凌ぐマニアックなカメラ・アングル、ガメラの必殺技の存在などに目が行く。ただ、ここで本当に重要なのは、自衛隊の存在だろう。 怪獣映画に出てくる人間側の兵器もそれなりに変遷している。ゴジラシリーズだと、初代ゴジラは別物として、以降のシリーズだと人間側は通常兵器をベースとしたものを用いていた。ただ、その存在は怪獣の強さを印象づけるための単なるやられ役、若しくはゴジラ登場までの場つなぎに過ぎない。これが平成ゴジラになると、人間側も超兵器を繰り出すようになるが、基本的に正面対正面の戦いとなる。これが全く面白くなかったのは周知の通り。これは要するに怪獣対怪獣に焦点を当てすぎ、人間の兵器は絶対に怪獣に敵わないと言うのがゴジラシリーズでは不文律となっていたから。だから、人間側がどんな超兵器を投入しようと、「どうせやられる」と思ってしか観ることが出来ないし、作る側もその辺割り切っていたようだ。 これがガメラシリーズになるとやや様相が変化する。昭和ガメラの時であっても、ガメラ自身、人間によるZ計画で宇宙の彼方に飛ばされたのだし、以降の『ガメラ対バルゴン』(1966)、『ガメラ対ギャオス』と、確かに人間側の兵器は最終的には通用しなかったとは言え、丁寧に人間と怪獣の攻防が描かれていたのが特徴的だった。しかも基本的には現用兵器、若しくは別目的のために作られたものを兵器に転用し、リアリティを増していた。そこには紛れもなく、人間側による工夫の跡が見られた。 それで平成になって復活したガメラは、そう言う点においてもやはり『ガメラ』だった。1作目はどうも目立たなかった人間側の努力が、2作目の本作ではむしろガメラ自身よりも前面に出るほどに強調されている。 登場するのが自衛隊というのは、現代の日本の状況を考えれば当たり前と言えば当たり前であるが、これは本当に重要なこと。日本に於いて、怪獣対策本部と言うものが作られなかったとするなら、当然登場するのは自衛隊を於いて他はない。しかもこういう場合において、自衛隊がなすべき役割は何よりも人的被害の軽減に他ならない。“人的被害”の中には当然自衛隊員も含まれるため、特攻をかけたりするのは許されない。ましてや他人の生命を脅かす重火器の仕様は極力避けられる。…こう書くとあんまり派手なドラマにならないように思えるが、それが違う。人間を人間たらしめている大きな要因、つまり人間には考える力が備わっている。 そう。レギオンと草体が現れたとき、その正体を探るべく、必死になって調査する姿、レギオンの弱点を探し出そうと努力する姿、それらは確かに派手ではないかも知れないが、この点に焦点が当てられると、充分に息詰まる展開が得られる。それで現用兵器を用いて、効果的に敵にダメージを与えると言う展開に持っていける。正面から堂々と戦うより、むしろそう言う側面から、どう勝つかの研究がなされて然りなんだ。人間側の主人公達が上手くその辺をフォローしてくれていたので、自衛隊の存在感が強調され、怪獣映画における“弱いはずの自衛隊”を上手く用いる事ができていた。 他にも、人間の視点から見た戦車の雄志と言うのもあるだろう。怪獣の目から見た、見下げる形の戦車ではなく、人間の目で横向きに見ているからこそ、戦車に重量感が与えられ、そしてレギオンとガメラの巨大さが強調される。その辺の撮り方が実に上手い。個体としてのレギオンを小さくしたのも上手かった(『ゴジラVSデストロイア』(1995)では、その部分をとてつもなく下手に撮ってしまっていたのが良い反面教師になってたんじゃないかな?)。 とにかく自衛隊の撮り方が上手いのがこの映画の特徴とも言える。金子修介監督がその点にこだわった事を示すのに、面白いエピソードがある。日本の映画監督で戦車の格好良い撮り方を追求する監督として押井守の名前が挙げられるが(この人の戦車好きは筋金入り)、金子監督は実は押井監督と大学が同じで、同じ映像研究部に入っていた。それで本作を撮る際、押井守に自衛隊パートの特技監督を打診したそうだ。丁度押井監督は『攻殻機動隊』(1995)の撮影に入っていたので、一蹴されたそうだが、これが実現していたら、面白かっただろうな。 ストーリー展開で言えば、特に後半はややアニメっぽくなってしまったのが残念とは言え(一応最後まで出し渋った必殺技は『ガメラ3』(1999)で明らかにされるけど)、その分、ツボを抑えた演出がなされ、丁寧に作られているので、好感が持てる。 一作目を劇場で見逃し、残念な思いをしていただけに、これを大画面で観ることが出来たのは嬉しかった。 |
ウルティメイト・プラズマ | ||||
【うるてぃめいと-ぷらずま】 | ||||
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帯津 | ||||
【おびつ】 | ||||
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ガメラ | ||||||||
【がめら】 | ||||||||
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草薙浅黄 | ||||
【くさなぎ-あさぎ】 | ||||
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草体 | ||||
【そう-たい】 | ||||
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穂波碧 | ||||
【ほなみ-みどり】 | ||||
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マナ | ||||
【まな】 | ||||
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レギオン | 特撮リボルテック SERIES No.032 レギオン 超激造シリーズ ガメラ2 レギオン |
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【れぎおん】 | |||||
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渡良瀬祐介 | ||||
【わたらせ-ゆうすけ】 | ||||
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2006年 田崎竜太(監) |
1973年。伊勢志摩でギャオスと戦ったガメラは、町の人を守るため、ギャオスの群れと共に自爆して果てる。それから33年の月日が流れ、今や伊勢志摩は美しい海辺が広がる町へと復興していた。交通事故で母親を亡くしたばかりの相沢透(富岡涼)はある日、小島の一つに不思議な光を見かける。そこで赤く光る台座にあった卵を手に取ったところ、そこから小さな亀が姿を現した。透はそのカメを“トト”と名付け、父親の孝介(津田寛次)に内緒で飼い始める。ところがカメだと思ったその生き物は驚くべき速さで成長していった。そんな折、巨大な生物が海から現れ… 『ゴジラ』は2005年で(一応の)終幕をみた。これを観た時、私の中で、「ああ、特撮好きにとっても又一つの時代が終わったのだな」という感慨をもたらせてくれたものだが、これが大変皮肉な話で、『ゴジラ』の終了と時を同じくして、TVの方では時ならぬ特撮ブームが起こっている。2006年現在、一週間で観ることが出来る特撮番組は何と6つ。更にCSやネットなどで古い特撮番組が次々と配信され、一時期の低迷時代を知っている身としては嬉しい限り(一方では追いかけるのが大変になってるけど)。まるでゴジラの終了に合わせたかのようで大変皮肉な話だ。 それに後押しを受けたかのように、こういう流行ものには特に敏感な角川が、今度はガメラを復活させるという(角川は他にも『大魔神』やるとか『G×G』やるとか盛んにアドバルーンを飛ばしていたが、結局企画として最も無難な作品に落ち着いたらしい)。 こっちとしては「やっぱ角川はやると思っていた」とか、割と醒めた目で見てはいたものの、やっぱり7年ぶりのガメラの復活である。勿論楽しみにはしていた。 それで本作は監督が田崎竜太。この人は東映ヒーローものの監督として頭角を現した監督だが、確か巨大怪獣ものは初めての監督。特撮慣れした監督がどんな映像を見せてくれるか? …冒頭ははっきり言ってきつい。 ありがちな構図と、怪獣側はともかく人間側のチープな演出部分。まるでテレビ特撮を見ているかのようだ(いかにも焼くために急ごしらえで作ったとしか思えないぺらぺらの小屋ひとつ焼いてパニックを演出しようなど、手抜きも甚だしい)。ガメラの自爆だって、あれが人間を救うためだったという明確な意思は見えないのも困ったもの。この状態では、たまたま自爆したところに人間がいなかった。と言う程度の認識だけしか感じられず。細かく言えば『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』(1999)で失ったはずの右手は?などと、頭の中では無茶苦茶なツッコミが入りまくる(直後に時間の流れを見て、これは金子ガメラではなく、昭和ガメラの方だと認識して、人間がガメラに思い入れを持っていたことを納得したが)。 それに、全体を通してみても特に怪獣同士の戦いに迫力が感じられないし、子供の挿入もいかにもとってつけたような感じだ。それに何よりガメラが妙に脱力系の顔してる。ジーダスの存在もとってつけ。 …それは分かってるんだ。 と言うか、私の頭のどこかではこの作品を徹底的にこき下ろせという声が聞こえてくるし、伊達に特撮好きを自認してるばかりじゃない。仮にそうしようと思ったらどれだけでも細かいツッコミを入れることだって出来る。 しかし、この作品に関しては、悪く言いたくない。 実は、この作品については、大変感心できる部分が多々含まれているのである。 と、言うことで、以降は妄想爆発で書かせていただく。 さて、『ゴジラ』と『ガメラ』の違いとは何だろうか? 特撮好きな人間にこれを聞いたら、いくらでも答えが返ってくるだろうが、一つの極論を言わせてもらえれば、「物語の半分以上に怪獣が出てこないと怒られるのが『ゴジラ』であり、1/3以下で済ませても納得させられるのが『ガメラ』である」と言ってしまおう。 これを言い直せば、「主人公が怪獣であるのが『ゴジラ』であり、主人公が人間であるのが『ガメラ』である」。としても良いだろう。 事実、ゴジラは人間側から見る限り、何を考えているのか分からずただ破壊をもたらす存在。それ故にその描写を中心としないと、描ききれない部分がどうしても出てくる。結果として怪獣描写は自然と増えていかざるを得ない。それに対しガメラは明確に“人間(特に子供)の味方”という前提があるため、その意志が明確。故に最後に登場して子供を救うと言う描写があれば最低限体裁を保つことが出来る(平成版は多少意味合いが違っているけど)。結果として人間ドラマを中心に持って行くことが可能なのだ(ゴジラ側でも昭和ゴジラの後半部分『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』(1972)や『ゴジラ対メガロ』(1973)辺りはゴジラがガメラ化したお陰で話は成り立っている)。 その意味で言うなら、本作はよくガメラの特性を掴んだ作品である。ガメラは確かに話の中心ではあるが、それにまつわる人間の物語の方に力が入っており、それはそれでしっかり物語は作られているのだ。ガメラ無しに話は成り立たないが、登場時間は最低限に抑えることが出来た。この作り方は『ガメラ』として考えるならば、決して間違ってはいない。むしろちゃんとそれを土台としていることに感心した。 それにこれまでにも何度も書いたことだが、怪獣映画を作る際、重要なのは目線をどうするか。と言う問題がある。 怪獣と人間はサイズがまるで違う。これが人間と怪獣が交流を持つ事自体大変難しいものにしている。通常サイズの怪獣の場合、基本的に人間は見上げることしかできないので、どうしてもアングルは決まってしまうし、上を向きっぱなしだと、人間と怪獣の間のドラマは存在しにくい。『ゴジラ』(1954)のような加害者と被害者の関係ばかりになりがち。ここに同一目線を作ろうとするなら新しい怪獣を投入するしか無い訳だ。これを防ぐため、これまでにも様々なアイディアが盛り込まれていた。例えばそれは人間と巨大怪獣をつなぐ存在を作った『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967)であったり、怪獣の中に人間を入れてしまうと言う『ガメラ対深海怪獣ジグラ』(1971)とか『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』(1999)とか『ゴジラ×メカゴジラ』(2002)であり、人間を徹底して空中から描くというゴジラの逆襲(1955)とかであったり。 それに対し本作では(TVシリーズではいくつかあるにせよ)目新しい方法を投入。それが怪獣を育てるという過程なのである。最初の内は、人間の側が怪獣を“見下げる”という面白い視点で展開する。そして見下げていた視線が、ガメラの成長と共にやがて同一目線へとなり、そして見上げる視線へと変わっていく。この過程を丁寧に描いてくれていた。これは人間とガメラの関係だけでない。ガメラとジーダスの戦いにも目線の工程がふんだんに取られていた。ミニサイズガメラは自然ジーダスに対して目線を上げざるを得ないが(前半の橋上での攻防は、その意味では大変上手い演出だった)、やがて同一サイズとなって同じ目線となり、最後に飛ぶことによって、目線を下にすることが出来た。本作を観る機会があるなら、是非その目線の変遷に注意してもらいたい。色々面白いことが分かってくると思う。 …と、色々理屈は付けたものの、しかし実際の話を言えば、ガメラがあの“円盤飛び”を披露してくれた。これだけで実は凄く嬉しい気持ちになった。と言うのが本音だったりする。あのシーン見せてくれた瞬間、もう悪いことを言う気が失せた。 もう一つ好きな理由を挙げさせてもらうなら、20年近くファンをやってるZABADAKの元ボーカル上野洋子が音楽を担当していると言う事実。やっぱり耳馴染みの良い音楽を聴いてるのは、これはこれで嬉しいものだ。 |
相沢孝介 | ||||
【あいざわ-こうすけ】 | ||||
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相沢透 | ||||
【あいざわ-とおる】 | ||||
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雨宮宗一郎 | ||||
【あまみや-そういちろう】 | ||||
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ガメラ | ||||
【がめら】 | ||||
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ギャオス | ||||
【ぎゃおす】 | ||||
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ジーダス | ||||
【じーだす】 | ||||
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トト | ||||
【とと】 | ||||
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西尾麻衣 | ||||
【にしお-まい】 | ||||
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一ツ木義光 | ||||
【ひとつぎ-よしみつ】 | ||||
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