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仮面ライダージオウ Over Quartzer | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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仮面ライダー×仮面ライダー 鎧武&ウィザード 天下分け目の戦国MOVIE大合戦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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仮面ライダー×仮面ライダー オーズ&ダブル feat.スカル MOVIE大戦CORE 2010 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010 2009 | |||||||||||||||||||||||||||
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超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦 2009 | |||||||||||||||||||||||||||
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1980年。母の死により東京から田舎に引っ越してきた少年ユウ(沢木ルカ)は、そこでの生活になじめず、クラスメイトからもいじめを受けていた。そんな彼が突然化け物に襲われ、次いで現れた空中から現れた電車から降り立った仮面ライダーに救われる。野上幸太郎(桜田通)を名乗るその仮面ライダーから、ついてくるように言われたユウだが… 「仮面ライダー電王」は『さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン』(2008)で主演の佐藤健降板によって一応完結したが、平成ライダーシリーズ最大のヒット作だけに固定ファンも多く、あっという間に復活と相成った。ただ、前述の通り主演の野上良太郎役佐藤健は降板したため、色々手管を使わねばならなくなった。 まず代役を立てた良太郎の出番を極力減らし(出来れば顔も出さないようにして)、他の人物を主人公に立てる。そしてできる限り仮面ライダーの姿を取らせるようにする。と言った手段を用いることになる。 本作の場合は、敢えて電王を主役とせずに新しい主人公を立て、前作で登場した劇場オリジナルライダーであるNEW電王をヒーローとして投入。更に続作である「仮面ライダーキバ」や「仮面ライダーディケイド」からの登場人物も多数投入することで電王をあまり出さないようにしたのだが、あまりに多くのライダーが登場するためにお祭り騒ぎとしている。 それでまとまりがなくなりそうなもんだが(事実以降の作品はほとんどそうなってるんだが)、意外なことに本作は結構きちんとまとまってるところが面白い。こう見えて脚本がかなりしっかりしていて、これだけの登場人物をちゃんとまとめつつ、ちゃんと時間軸を絡めた意外性のある物語が出来ている。最後の方はほとんどコントのような物語なんだけど、それが無茶苦茶なキャラに上手く合ってた感じ。 少なくとも、以降の複数ライダーが登場するお祭り作品のぐだぐだっぷりと較べると、出来は段違いに良いので、結構お薦め出来る。 助監督として荒川史絵。 |
劇場版 仮面ライダーキバ 魔界城の王 2008 | |||||||||||||||||||||||||||
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高校生活を始めた紅渡(瀬戸康史)の前にファンガイアを凌ぐ強さを持つレジェンドルガ族が現れる。通常の攻撃がほとんど通用しないレジェンドルガを駆逐したのは、仮面ライダーレイに変身する白峰天斗(山本匠馬)だった。天斗の属する“3WA”と“素晴らしき青空の会”の調査によって、22年前にレジェンドルガのロードが復活したことがきっかけだったと分かり、渡は22年前の1986年へと飛ぶ。そこで渡は自分の父紅音也(武田航平)と出会うことになる。 平成ライダーシリーズ第9作「仮面ライダーキバ」の映画版。仮面ライダーシリーズは割と本編と映画版の設定部分の違いに力が入っていたものだが、本作は立ち位置がよく分からない。 「仮面ライダーキバ」テレビシリーズは現代(2008年)と22年前(1986年)をザッピングしつつ物語を進行させるという複雑な物語なのだが(それが成功したかどうかは別の話)、二つの世界で、片方は知ってるのに、もう片方の時代のキャラはその事を知らないという部分が物語上、とても重要な要素を持つ。映画版はその部分にまで踏み込んでしまったので、テレビとは同時並行しては存在し得ない。この物語が挿入できる部分がテレビ版にはなく、その辺の整合性を取ることが出来なかったようだ(都合良くキャラの何人かが記憶喪失になるとかしたら別だが)。 物語としては、過去と現代をザッピングして物語を展開するという作品の特徴を最大限活かして、意外性のある物語を作ろうとしてるのは分かるんだが、適当感が溢れていて井上脚本の悪い部分が出てしまったとしか。井上敏樹は脚本書く速度は凄く速いらしいが、それって頭で思いついたものをとにかく書き出してるって事だし、それが見事にはまる可能性もあるが、本当に適当に感じることもある。本作は完全に後者って事だな。 |
仮面ライダー THE NEXT 2007 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ショッカーにより改造人間とされたものの、逆に組織を壊滅させた本郷猛(黄川田将也)。その戦いから2年。母校城南大学の付属高校で教鞭を執る本郷は生徒の一人で反抗的な少女琴美(石田未来)と知り合う。琴美は親友でアイドルのチハル(森絵梨佳)の周りで血なまぐさい事件が起きていることを案じていた。彼女の頼みでチハルを調べ始めた本郷だが、そんな彼の前にチハルの兄風見志郎(加藤和樹)が姿を現す… TV版の平成ライダーシリーズとは一線を画すハードな作品として制作された『仮面ライダー THE FIRST』(2005)の続編にして、新しいライダーとなる風見志郎の登場を描いた続編。 「仮面ライダー」は元々がテレビ用企画として作られたものだが、設定監修者となった石ノ森章太郎によってマンガ版も描かれている。テレビでは放映しにくい相当ハードな設定がその特徴となっていたものだが、その雰囲気に合わせようとした、相当ハードな物語を映画版で作るというので、それなりに話題にはなっていた。 この試みは定期的になされていて、何回か「仮面ライダー」をハードにリブートしたものは作られているのだが、それで成功した例は今のところ全くない。実際『FIRST』にしても一般特撮ファン双方にとってもさほど話題になることはなかったし、その続編を作るといわれても「ふ〜ん」以上の感慨は無かった。 それで実際にどうか?と言うと、やっぱり盛り上がってない。 『FIRST』が仮面ライダー誕生を描いたというなら、『NEXT』は最強の敵との戦いということになる。ところがこれが全く盛り上がらない。 理由を挙げるなら、やっぱり脚本の難だろう。本作の脚本は井上敏樹が務めているが、この人は隙あれば物語に自分の趣味を取り入れる傾向がある。そのフェチ描写がはまると無茶苦茶おもしろくなるが、だいたいははまることなく終わり、井上の暴走だけが目立つ話になってしまう。 本作はその悪い部分が見事に出てしまった典型例。 少なくともハードな特撮ドラマを観たいという人間とアイドルオタクがどれだけ接点を持っているか?という根本的な部分を理解してなかったのが一番の問題だろう(80年代のオタにはそういう人間も結構いたという問題はともかくとして)。この二つを無理矢理融合させてしまったおかげで、ハードなのかなんなのかよく分からないキメラ的な物語が完成してしまい、どこが見所なのか分からなくなってしまった…綺麗な女性が無惨に切り刻まれるのが好きというフェティ要素を持っている人だったら多少お勧めできるのだが、少なくともそういう趣味を持たない私には無理。 風見志郎の改心についても取って付けたような感じで、一作目の2号のバリエーションみたいな感じ…これまでさんざん同パターンが描かれ続けてきたため、無理無いことか? 演出についても、ハードさを強調するあまり画面が暗い時が多く、しかも画像の大部分にエッジが効きすぎていて、観ていて疲れてしまう。演出の多くが『マトリックス』(1999)のアレンジになってしまったのもマイナス点だな。 でもいろいろ文句は言ってるものの、V3登場シーンと圧倒的強さの演出は上手くできている。最初から最後まで丸ごと外している訳でないと言う微妙な立ち位置にあるのが本作の特徴と言えるか。 |
小さき勇者たち GAMERA 2006 | |||||||||||||||||||||||||||
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1973年。伊勢志摩でギャオスと戦ったガメラは、町の人を守るため、ギャオスの群れと共に自爆して果てる。それから33年の月日が流れ、今や伊勢志摩は美しい海辺が広がる町へと復興していた。交通事故で母親を亡くしたばかりの相沢透(富岡涼)はある日、小島の一つに不思議な光を見かける。そこで赤く光る台座にあった卵を手に取ったところ、そこから小さな亀が姿を現した。透はそのカメを“トト”と名付け、父親の孝介(津田寛次)に内緒で飼い始める。ところがカメだと思ったその生き物は驚くべき速さで成長していった。そんな折、巨大な生物が海から現れ… 『ゴジラ』は2005年で(一応の)終幕をみた。これを観た時、私の中で、「ああ、特撮好きにとっても又一つの時代が終わったのだな」という感慨をもたらせてくれたものだが、これが大変皮肉な話で、『ゴジラ』の終了と時を同じくして、TVの方では時ならぬ特撮ブームが起こっている。2006年現在、一週間で観ることが出来る特撮番組は何と6つ。更にCSやネットなどで古い特撮番組が次々と配信され、一時期の低迷時代を知っている身としては嬉しい限り(一方では追いかけるのが大変になってるけど)。まるでゴジラの終了に合わせたかのようで大変皮肉な話だ。 それに後押しを受けたかのように、こういう流行ものには特に敏感な角川が、今度はガメラを復活させるという(角川は他にも『大魔神』やるとか『G×G』やるとか盛んにアドバルーンを飛ばしていたが、結局企画として最も無難な作品に落ち着いたらしい)。 こっちとしては「やっぱ角川はやると思っていた」とか、割と醒めた目で見てはいたものの、やっぱり7年ぶりのガメラの復活である。勿論楽しみにはしていた。 それで本作は監督が田崎竜太。この人は東映ヒーローものの監督として頭角を現した監督だが、確か巨大怪獣ものは初めての監督。特撮慣れした監督がどんな映像を見せてくれるか? …冒頭ははっきり言ってきつい。 ありがちな構図と、怪獣側はともかく人間側のチープな演出部分。まるでテレビ特撮を見ているかのようだ(いかにも焼くために急ごしらえで作ったとしか思えないぺらぺらの小屋ひとつ焼いてパニックを演出しようなど、手抜きも甚だしい)。ガメラの自爆だって、あれが人間を救うためだったという明確な意思は見えないのも困ったもの。この状態では、たまたま自爆したところに人間がいなかった。と言う程度の認識だけしか感じられず。細かく言えば『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』(1999)で失ったはずの右手は?などと、頭の中では無茶苦茶なツッコミが入りまくる(直後に時間の流れを見て、これは金子ガメラではなく、昭和ガメラの方だと認識して、人間がガメラに思い入れを持っていたことを納得したが)。 それに、全体を通してみても特に怪獣同士の戦いに迫力が感じられないし、子供の挿入もいかにもとってつけたような感じだ。それに何よりガメラが妙に脱力系の顔してる。ジーダスの存在もとってつけ。 …それは分かってるんだ。 と言うか、私の頭のどこかではこの作品を徹底的にこき下ろせという声が聞こえてくるし、伊達に特撮好きを自認してるばかりじゃない。仮にそうしようと思ったらどれだけでも細かいツッコミを入れることだって出来る。 しかし、この作品に関しては、悪く言いたくない。 実は、この作品については、大変感心できる部分が多々含まれているのである。 と、言うことで、以降は妄想爆発で書かせていただく。 さて、ゴジラとガメラの違いとは何だろうか? 特撮好きな人間にこれを聞いたら、いくらでも答えが返ってくるだろうが、一つの極論を言わせてもらえれば、「物語の半分以上に怪獣が出てこないと怒られるのがゴジラであり、1/3以下で済ませても納得させられるのがガメラである」と言ってしまおう。 これを言い直せば、「主人公が怪獣であるのがゴジラであり、主人公が人間であるのがガメラである」。としても良いだろう。 事実、ゴジラは人間側から見る限り、何を考えているのか分からずただ破壊をもたらす存在。それ故にその描写を中心としないと、描ききれない部分がどうしても出てくる。結果として怪獣描写は自然と増えていかざるを得ない。それに対しガメラは明確に“人間(特に子供)の味方”という前提があるため、その意志が明確。故に最後に登場して子供を救うと言う描写があれば最低限体裁を保つことが出来る(平成版は多少意味合いが違っているけど)。結果として人間ドラマを中心に持って行くことが可能なのだ(ゴジラ側でも昭和ゴジラの後半部分『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』(1972)や『ゴジラ対メガロ』(1973)辺りはゴジラがガメラ化したお陰で話は成り立っている)。 その意味で言うなら、本作はよくガメラの特性を掴んだ作品である。ガメラは確かに話の中心ではあるが、それにまつわる人間の物語の方に力が入っており、それはそれでしっかり物語は作られているのだ。ガメラ無しに話は成り立たないが、登場時間は最低限に抑えることが出来た。この作り方は『ガメラ』として考えるならば、決して間違ってはいない。むしろちゃんとそれを土台としていることに感心した。 それにこれまでにも何度も書いたことだが、怪獣映画を作る際、重要なのは目線をどうするか。と言う問題がある。 怪獣と人間はサイズがまるで違う。これが人間と怪獣が交流を持つ事自体大変難しいものにしている。通常サイズの怪獣の場合、基本的に人間は見上げることしかできないので、どうしてもアングルは決まってしまうし、上を向きっぱなしだと、人間と怪獣の間のドラマは存在しにくい。『ゴジラ』(1954)のような加害者と被害者の関係ばかりになりがち。ここに同一目線を作ろうとするなら新しい怪獣を投入するしか無い訳だ。これを防ぐため、これまでにも様々なアイディアが盛り込まれていた。例えばそれは人間と巨大怪獣をつなぐ存在を作った『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967)であったり、怪獣の中に人間を入れてしまうと言う『ガメラ対大魔獣ジャイガー』(1970)とか『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』(1999)とか『ゴジラ×メカゴジラ』(2002)であり、人間を徹底して空中から描くというゴジラの逆襲(1955)とかであったり。 それに対し本作では(TVシリーズではいくつかあるにせよ)目新しい方法を投入。それが怪獣を育てるという過程なのである。最初の内は、人間の側が怪獣を“見下げる”という面白い視点で展開する。そして見下げていた視線が、ガメラの成長と共にやがて同一目線へとなり、そして見上げる視線へと変わっていく。この過程を丁寧に描いてくれていた。これは人間とガメラの関係だけでない。ガメラとジーダスの戦いにも目線の工程がふんだんに取られていた。ミニサイズガメラは自然ジーダスに対して目線を上げざるを得ないが(前半の橋上での攻防は、その意味では大変上手い演出だった)、やがて同一サイズとなって同じ目線となり、最後に飛ぶことによって、目線を下にすることが出来た。本作を観る機会があるなら、是非その目線の変遷に注意してもらいたい。色々面白いことが分かってくると思う。 …と、色々理屈は付けたものの、しかし実際の話を言えば、ガメラがあの“円盤飛び”を披露してくれた。これだけで実は凄く嬉しい気持ちになった。と言うのが本音だったりする。あのシーン見せてくれた瞬間、もう悪いことを言う気が失せた。 もう一つ好きな理由を挙げさせてもらうなら、20年近くファンをやってるZABADAKの元ボーカル上野洋子が音楽を担当していると言う事実。やっぱり耳馴染みの良い音楽を聴いてるのは、これはこれで嬉しいものだ。 |
仮面ライダー555 パラダイス・ロスト 2003 | |||||||||||||||||||||||||||
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遠くない未来。世界は人類の進化系であるオルフェノクがその実権を握り、数少ない人類はレジスタンスとして戦っていた。人類の希望は仮面ライダー555のベルトと、その保有者乾巧であったが、巧は先のオルフェノクとの戦いで行方不明となっていた。残った人類を奮い立たせようと努力する園田真理、そして人類に味方するオルフェノク一派のリーダー木場勇次だったが、個々の能力に勝るオルフェノクに敗北を重ねていった… 平成ライダーシリーズが始まって10年以上が経過してる。もはや夏の風物詩とも言えるライダー映画だが、その作り方は様々。特に前作『仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』は先行して最終回をやってしまうと言う最もぶっ飛んだ内容だが、その次となった本作も負けてはいない。 本作の特徴は、前提となるTVシリーズを完全に無視してるということに現れているだろう。一応設定や人間関係などはTV版に準じているものの、物語はTV版を完全に離れ、完全オリジナル。言うなれば完全作り直しされた物語となっている。物語上既に亡くなってしまった人物も多々いるため、彼らを登場させるための措置とは言え、完全に脚本の井上敏樹の暴走状態である。 元々が平成ライダーシリーズの中でも最も暗く重い内容を持つ作品を、その重さをそのままに映画化した作品である。脚本家の暴走がこれほどはまった作品も珍しい。完成度で言うなら他のライダー映画の一枚上をいっている。 ここでの人間関係はとにかく殺伐としていて、裏切りと個々人の誤解による思いこみによって、為すすべなく死んでいくキャラばかりで、終わり方も救いようがない。とうてい子供向きとは思えない内容だが、だからこそ最も映画的に仕上げられたと言っていいだろう。 一応本作もテレビシリーズと同様主人公は二人、乾巧と勇次の二人だが、尺の関係か、ウェイトは巧の方にかなりかかっている。その割を食ったか、勇次の方は最初から最後まで悲惨な目に遭い続ける役割だった。なにせオルフェノクと人間の融和という夢が人間、オルフェノク双方から拒否され、数少ない仲間たちも次々に殺され、立場が違えど、心が通じあえたと思えた巧とは命がけで殺し合わねばならず、しかも全ての夢が消え去って自分も死なねばならない立場に立たされる。たいへん可哀想な役回りだが、そのような悲惨な人間を作ることで井上脚本は映えていくのだ。 一から物語を作り直し、ちゃんと観られるものに仕上げたという意味で、本作は平成版仮面ライダーの映画化としては最も完成度の高い作品と言うことが出来る。 ちなみに最後のアリーナの観客はCGではなく、一般公募で集まった人たちで、その数一万人(応募は9万人あったそうな)。 |
仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL 2002 | |||||||||||||||||||||||||||
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自らの願いを叶える為に行われるライダーバトルも佳境へと入っており、残された龍騎、ナイト、ゾルダ、王蛇、ファム、そして未だ現れていないライダーの6人となっていた。そんな中、彼らの前に現れたバトルの仕掛け人神崎士郎は「自らの願いを叶えるタイムリミットは残り3日」であると告げる…最終決戦に色めき立つライダー達だが、これまで戦いを留めようとしてきた城戸信司(須賀貴匡)の思いは複雑だった… 平成ライダーシリーズの映画化第2作。テレビ版では3本目となる「仮面ライダー龍騎」をベースとしている。 本作はテレビ版と並行して作られているのだが、かなり思い切ったことをやってくれた。 それにはまず、本作のテレビシリーズがどれだけユニークな作品だったかということを書いておかねばならないだろう。 「仮面ライダー龍騎」は「クウガ」、「アギト」に続く、仮面ライダーシリーズの第3作目に当たるわけだが、ここにきて物語は大きくシフトチェンジした。これまで「仮面ライダー」というブランドとしての名前を聞くと、主人公は怪人から地球(具体的には日本のみだが)を守る役割を担っていたし、多分「仮面ライダー」という名前だけ聞くと、そこだけは譲れないところだろう。 少なくとも前2作はそのフォーマットに沿って作られていて、特撮としては定番の作品として捉えることが出来たのだが、本作はその大前提を見直した。本作でも一応怪人は出てくるものの、その本当の敵は、そういったモンスターを操る者としての仮面ライダーだったのだ。これまでにも「仮面ライダーBLACK」で悪のライダーは登場していたが、本作の場合、自分以外の他のライダーはみんな敵である。まさしく仮面ライダー同士のバトルロイヤル。ここにおいては正義も悪もなく、自分が生き抜いて望みを叶えるために他のライダーと戦わなければならない。このユニークな設定こそが本作を特徴づけている。 他にもいくつもユニークな部分はある、例えばそのシルエットにしても、これまでのライダーを特徴づけていた触覚、複眼、クラッシャーと呼ばれる顎のすべてを備えたライダーが誰もいないとか(ちなみに主人公格では龍騎が複眼、ナイトが顎、ゾルダが触覚を担当している)、ライダーは13人いるはずなのにテレビでは10人しか出てこなかったり、最終回を待つことなく主人公が死んでしまったり…脚本担当の小林靖子と井上敏樹の苦労(悪ノリとも言う)がそこかしこに出ていた作品だった。 そんな“ユニーク”な作品の映画化なので、本作もきわめてユニークなものに仕上がっている。 なんせ、テレビ放映は半ばなのに、本作では先行して最終回をやってしまおうというのだ。ずいぶんとぶっ飛んだことをやってくれたものだ。 テレビ版と合わせて物語の構造を考えてみよう。 まず本作はテレビ版の最後半。ライダーバトルのタイムリミットが迫っている。本来ここでライダーは残り二人になっていなければならないのだが、この時点で生き残っているライダーがまだ6人もいる(何故か劇場版ではラスボスであるオーディンの存在が抜けている)。そこでリミットまでに全ての決着をつけるように指令されたライダーたちの戦いが展開していくことになる。 この時点でTVと映画では話が分かれ、TVでは何らかの形で身を引くことになった二人のライダーが映画では生き残り、主人公格の4人のライダーに関わっていくことになる。ただし、基本的に物語に関わってくるのは初の女性ライダーとなったファム一人。もう一人のリュウガは、いわばオチを付けるために登場しただけ。そんな彼女を中心として物語は展開していく。彼女がライダーになったのは、ただ浅倉に対する復讐であり、その復讐が出来さえすれば、それで目的は完遂する。その望みが叶えられるまでが前半の見所で、少なくともそこまでは完全に彼女の存在が主役を食ってしまってる。むしろ本作の前半に関しては、初の女性であり、初の主役を張ったライダーとして特記できる出来といえよう。 ただ、彼女の死と共に物語は本来の主人公である真司にシフトする。ここでリュウガという、最後のライダーが実は信司自身であったという話に入っていく。本来ならばここからが物語が盛り上げるべきターニングポイントなのだが、逆にそこから急に精細を欠いてしまった。 思うに、リュウガというライダーは本来テレビシリーズに登場させるはずのキャラだったのでは無かろうか?これは主人公のアイデンティティの裏返しのキャラであり、テレビ本編では、「全てのライダーを守る」という自ら課した制約のために、あんまり強くなかった龍騎というキャラの本当の強さを見せるために登場させるべきキャラだったから。テレビでたっぷり時間を使って登場させ、5話以上使って真司がそれを超えるまでを描いてほしかった。こんな短い時間で出してしまったために魅力を充分に伝えることが出来ず、残念なキャラになってしまった感じ。 その消化不良が最後に出てしまったか、終わり方もなし崩し的で、どうにももやもやした感情が残る。どうせならファムこそ全編にわたって主役に持っていくか、リュウガの話を最初から最後までやっていれば本作の完成度は相当に上がったと思うのだが…名作に化ける要素を多分に持っていながらそれを生かせなかったことが残念な作品。 |
仮面ライダーアギト スペシャル 新たなる変身 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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仮面ライダーアギト ProjectG4 2001 | |||||||||||||||||||||||||||
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警視庁G3ユニット部隊に陸上自衛隊からの研修生として深海理沙(小沢真珠)が赴任した。早速歓迎会が開かれたが、その席で酔った尾室隆弘(柴田明良)から何事かを聞き出す理沙。その後小沢澄子(藤田瞳子)の保有するデータベースから、封印していた対アンノウンの最終兵器G4システムのデータが盗まれてしまう。装着者を確実に死に至らしめる危険性を持つG4。そのリスクを知っている小沢は自衛隊に乗り込むが… テレビシリーズ「仮面ライダーアギト」の映画版。平成ライダーシリーズももう長く、更に最初の「クウガ」を除けば全部映画が作られている。だが、その中で最も完成度が高い作品は何か?と訊ねられたら、私はためらいなく本作を選ぶ。平成ライダーシリーズ第一作目にして、その頂点に立つ作品である。 しかし、これだけ持ち上げておいてなんだが、実は本作はほかの作品と比べると、設定は貧弱ではある。他の作品ではどれを見ても“世界の危機にライダーが立ち上がる”。と言う地球規模の戦いが展開されるし、敵の姿も巨大なものが多い。“これは主人公には敵いそうもない”ものを出しておいて、仲間の力を集めて戦い、ぼろぼろになりながら勝利を得る。と言う、少年マンガの王道ノリで話が展開していくものが多いから。 ところが本作は敢えてその形を取らなかった。本作では一つの研究室が作ったシステムを止めるまで。と言うレベル。とても小さな事件を扱っている。しかも時間的な位置づけもはっきりしていて、テレビシリーズの46話と47話の間に入る(テレビスペシャル版でG4ユニットがほんのちょっと出ているし、エクシードギルス登場後なので分かる)。テレビの一エピソードに過ぎないとも言える。 しかし、派手さを排した本作の作りは、実に見事なものだった。外伝ではなく、正伝の一本故に、テレビ版の設定がそのまま生きており、テレビ版を観ている人だったら、設定上も物語も完全に納得できる出来。派手でない分、時間をかけて物語を練っていたのだろう。内容もテレビ版ではなかなか表現できなかった登場人物の内面にもしっかり踏み込んでいる。 なにより本作でおもしろいのは、メインとなる主人公がテレビ版の主役でアギトでもある翔一ではないという点。一応この作品には主人公格が三人いるので、それぞれの戦いを描きつつ、メインを一人に絞る構成を取っているのだが、その中心はテレビ版で野暮でコメディリリーフ的な存在のG-3Xの氷川にウェイトを持って行ったということだった。 彼は要領は悪いがとにかく素直な上に真面目なキャラで、こう言うのは得てしていじられやすく(特にこの脚本家の場合は)、冗談の種にしかならないことが多いのだが、その真面目さと言うのを徹底的に掘り下げ、その不器用でまっすぐさこそが物語を紡いでいくと言う構成となっているのも評価高い。私なんぞもテレビ版では、主人公よりもこのキャラの方が好みだった位なので、これはとても心地良い。逆にこの映画版があったが故にテレビ版も再評価できたくらい。 難点を言えば、対象を完全に大人に取っているため、話がかなり暗いものに仕上がってしまった事くらいだろうか?子供はたぶんこれについていけないだろう。逆に言えば、大人向きとして充分ライダーという素材を使えた一番上手い形ともいえる。 |
電磁戦隊メガレンジャーVSカーレンジャー 1998 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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