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1995 | 2'26 死去 | |
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1990 | ||
1989 | ||
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1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | 何かが道をやってくる 監督 | |
1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | ||
1974 | 華麗なるギャツビー 監督 | |
1973 | ||
1972 | ||
1971 | ||
1970 | ||
1969 | ||
1968 | ||
1967 | ||
1966 | ||
1965 | ||
1964 | 女が愛情に渇くとき 監督 | |
1963 | ||
1962 | ||
1961 | 回転 監督・製作 | |
1960 | ||
1959 | ||
1958 | 年上の女 監督 | |
1957 | ||
1956 | ||
1955 | 外套 監督 | |
1954 | ||
1953 | ||
1952 | 赤い風車 製作 | |
1951 | ||
1950 | ||
1949 | ||
1948 | ||
1947 | ||
1946 | ||
1945 | ||
1944 | ||
1943 | ||
1942 | ||
1941 | ||
1940 | ||
1939 | ||
1938 | ||
1937 | ||
1936 | ||
1935 | ||
1934 | ||
1933 | ||
1932 | ||
1931 | ||
1930 | ||
1929 | ||
1928 | ||
1927 | ||
1926 | ||
1925 | ||
1924 | ||
1923 | ||
1922 | ||
1921 | 3'1 サセックス州ブライトンで誕生 |
何かが道をやってくる | |||||||||||||||||||||||
1984アボリアッツ・ファンタスティック映画祭グランプリ | |||||||||||||||||||||||
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10月のある夜、田舎町にカーニバルがやってくる。ウィルとジムの二人は突然前日の夜中にやってきたカーニバル会場に潜り込むのだが、何かそこは普通のカーニバルとは違っていた。そして当日。町の住人達はそのカーニバル会場で全員不思議な体験をする。それが何か邪悪な儀式であることを目撃してしまったウィルとジムの二人にカーニバルの座長ダークが迫る。 これは題目を見れば分かるとおりレイ・ブラッドベリ原作作品の映画化(ブラッドベリ自身脚本で参加している)。ブラッドベリの小説は読むたびに非常に不思議な気分にさせてくれるので凄く好きだが、この映画を観てはっきり分かったことがある。彼の小説は非常に映像的なのだ。現実の世界と半分だけずれた不思議な空間。まるで文章で映画を作っているかのよう。 それでこの映画だが、雰囲気が兎角良い。特に前半、暗闇をついて皓々と光り輝くライトを伴ってカーニバルを乗せた蒸気機関車がやってくる所とかはもう最高。良くブラッドベリの作品を分かってらっしゃる(当然と言えば当然なんだけど)。中盤以降多用されるアニメーションはおそらく筆塗りだろうけど、これも上手く合成されていた。 物語は一見月並みに見えつつも、過去と現在にまたがる人間の欲望が交錯し、そこに悪魔が絡む辺り、ブラッドベリ独壇場!(スティーヴン=キングもこの辺の描写上手いんだけど、キング自身ブラッドベリに傾倒している訳で)。最後も上手くまとまっていた。映画冒頭でモノローグされていたが、この作品の主人公は間違いなくお父さんなんだよな。 一見ありふれた映画の手法ながら、結構ジーンとさせられる作品。 |
華麗なるギャツビー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1974米アカデミー音楽賞、衣装デザイン賞 1974英アカデミー撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞 1974ゴールデン・グローブ助演女優賞(ブラック) |
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1920年代のニューヨーク郊外。株屋のニック=キャラウェイ(ウォーターストン)の隣の邸宅にジェイ・ギャツビー(レッドフォード)と言う男が引っ越してきた。何の商売をしてるのか分からぬギャツビーだが、毎晩のようにパーティーを催していた。ニックも何度かパーティに招かれる内、ギャツビーと親しくなっていく。そしてやがてニックは知ることになる。何ギャツビーが自分の隣の家を選んで引っ越してきたのかを。ニックのいとこで、現在は上流階層のブキャナン家に嫁いだデイジー(ファロー)とギャツビーの過去。そして二人は今も愛し合っていると言う事実を知ってしまったニック… アメリカ文学史にその名を残すフィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」の映画化作。脚本にコッポラを起用し、元はマッグロー&マックィーンでキャスティングされたが、二人が本当の不倫関係になってしまったため、新しいキャスティングされたが、そこで名乗りを上げたのがレッドフォードとファロー。二人とも自分で売り込んだため、あっという間にキャストは決まってしまった。 大人気の二人だけに映画そのものは大いに受け、1974年全の米興行成績8位という記録を残しているが… レッドフォードは俳優としても監督としても一流だとは思っているが、結構アラの目立つ役も多い。これはレッドフォードが特殊な芸域を持っているからだと思う。レッドフォードの役づくりは独特で、自分なりのイメージをふくらませ、自分のキャラクタとして役を演じるのだが、自分が「これだ」と思った役に固執してしまい、結果原作とはずいぶん違った人物像を作り上げてしまうことになる。それがうまくいくこともあって、それは傑作となるのだが、時として外れも出てしまう。残念ながら本作はその外れに位置してしまう。 原作のギャツビーはもっと若さと言うか、かなりの“青臭さ”を感じさせる人物。彼はただデイジーともう一度出会いたい。もう一度愛を確かめたい。というそれだけの理由で慣れぬパーティを毎晩開き、いつかデイジーが来てくれることを待ち、気持ちを確かめあったら、もう後のことはすべてうっちゃって彼女に夢中になり続けるタイプの人間。ものすごく奥手で、情熱的な男。 しかし、レッドフォードは原作の冒頭の謎めいた男という部分のみをふくらませてしまったのか、彼を余裕を持ち、宴会慣れした人好きのする人物として演じてしまった。不安定さこそが魅力の人物を安定化させてしまった。それがレッドフォードなりのギャツビー像だったのだろうが、それがかなりの違和感をもたらしてしまっている。 演出面で言っても、猥雑さよりも芸術に力を入れた作りは、画面画面は美しいものの、物語の本質をぼかしてしまった感じがある。いかにも美しく描かれた不倫描写は、どうにも気分的に萎えてしまうし、感情面で力を入れるべきところを画ばかりが目立つようになってしまったのも、狙いが違うんじゃないだろうか。クレイトン監督は幻想的な絵のつくり方は長けているのだが、果たしてそれが本作に合っていたかというと、はなはだ疑問。 お陰で極めてアンバランスな作品となってしまった。 本作は当初トルーマン=カポーティに脚本が依頼されたが、そこで描かれる主人公は同性愛者だったため、即座に却下される。それを不満としたカポーティが訴訟を起こし、11万ドルが支払われる。 |
回転 The Innocents |
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1961英アカデミー総合作品賞、国内作品賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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幼い兄妹マイルス(スティーヴンス)とフローラ(フランクリン)の家庭教師として田舎の屋敷にやってきたミス・ギデンス(カー)。マイケルはいくつもの学校から放校処分となっている問題児と言われていたが、二人とも至って真面目な生徒だった。そんなある日、家の塔に見知らぬ男の影を見たギデンス。どれほど探しても家族以外はここにはいないはずなのだが… ヘンリー・ジェームズの「ねじの回転」を元にした古典ホラーの傑作で、珍しい幽霊を主題にした作品。 この作品の場合はホラーと言うよりも文学作品の映画化と言うべきだろう。制作側の意図は純粋に文学作品を映画にしようと言うものだったのだろうと思うのだが、むしろそれが怖さを際だたせたという不思議な作品でもある。 演出もきっちりしてるし、なにより主演のデボラ・カーが見事にキャラ立ってる。「これぞ英国婦人!」と言った存在感を存分に見せつけ、超常現象を信じない頑なな存在が、徐々に今ある事態を認識していく過程を見事に演じきっていた。 ホラー映画で怖がらせる演出は多々あるが、むしろそういった演出がまだ未発達だった時代だからこそ、一般人のキャラを際だたせ、その心の動きに焦点を当てた作りは見事と言うしかないだろう。この時代だからこそ作れた、この時代でしか作れなかった物語に他ならない。 ここに登場する幽霊は、怖がらせようと言う意図はあまりなく、ただぬぼーっとそこに立ってるだけの存在なのだが、演出の妙でこれが相当に不気味な存在となっており、はっきり言ってかなり怖い。たぶんどこかで書いたが、ホラー作品の怖さは、女性を主人公において、その恐怖をまざまざと見せつけることなのだから、その意味で本作のねらいは見事にはまっていた。女性側に恐怖を巻き起こさせれば、お化けの存在はそれだけで立ったものになるのだ。 モノクロームで、構図がきっちりと取られたカメラアングルも上手い。特に前半は陰影がはっきりメリハリ付けられてる分、今観ている光景の異常さと正常さの対比がつけられ、後半になるに従ってそれが徐々にあやふやになっていくので、どんどん不安感が増していく描写が際だつ。ホラーというのは何もショック描写や驚かせるのが能ではない。むしろこういったじわじわ来るような作品にこそ、作り手側の手腕が求められるものだ。 それらが上手くはまっていて、本作は一般的に文芸作品としても、古典ホラーとしても心地良い作品に仕上げられてる。 ただ、本作はヨーロッパでは絶賛されたものの、アメリカでは全く受けなかったと言うのが、以降の映画界のホラー作品の扱いを暗示してる感はある。 |
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