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息子にロマン・コッポラ | |||||||||||||||||||||||
ゾエトロープ(noir)(書籍) _(書籍) |
2010 | ||
2009 | ||
2008 | ||
2007 | コッポラの胡蝶の夢 監督・製作・脚本 | |
2006 | ||
2005 | ||
2004 | ||
2003 | ||
2002 | ||
2001 | ||
2000 | スーパーノヴァ 共同監督 | |
ファースト・ウェイブ(3rd)<TV>製作総指揮 | ||
1999 | タイガー&ドラゴン 伝説降臨 製作総指揮 | |
奇蹟の詩 サード・ミラクル 製作総指揮 | ||
ヴァージン・スーサイズ 製作 | ||
ファースト・ウェイブ(2nd)<TV> 製作総指揮 | ||
1998 | アウトレイジ/連鎖脅迫 製作総指揮 | |
モビー・ディック 製作総指揮 | ||
ファースト・ウェイブ(1st)<TV> 製作総指揮 | ||
1997 | レインメーカー 監督・脚本 | |
オデッセイ 製作総指揮 | ||
アバランチ2/雪崩 製作総指揮 | ||
バディ 製作総指揮 | ||
1996 | ジャック 監督・製作 | |
ダークエンジェル/暗黒の殺人連鎖 製作総指揮 | ||
1995 | パラドックス 製作総指揮 | |
マスター・アンド・ウォリアー 製作総指揮 | ||
月下の恋 製作総指揮 | ||
ミ・ファミリア 製作総指揮 | ||
パラドックス 製作 | ||
1994 | 官能 製作総指揮 | |
フランケンシュタイン 製作 | ||
1993 | 秘密の花園 製作総指揮 | |
1992 | ドラキュラ 監督・製作 | |
ウインズ 製作総指揮 | ||
1991 | ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録 出演 | |
1990 | ゴッドファーザーPART III 監督・製作・脚本 | |
1989 | ニューヨーク・ストーリー 監督・脚本 | |
アウトサイダー2 製作総指揮 | ||
1988 | タッカー 監督 | |
ポワカッツィ 製作総指揮 | ||
1987 | 友よ、風に抱かれて 監督・製作 | |
タフガイは踊らない 製作総指揮 | ||
1986 | ペギー・スーの結婚 監督 | |
1985 | SIGNAL 7/真夜中の遭難信号 製作総指揮 | |
MISHIMA 製作 | ||
フェアリーテール・シアター(4th)<TV> 監督 | ||
1984 | コットンクラブ 監督・原案・脚本 | |
1983 | ランブルフィッシュ 監督・製作総指揮・脚本 | |
アウトサイダー 監督・製作 | ||
ワイルド・ブラック2/黒い馬の故郷へ 製作総指揮 | ||
1982 | ワン・フロム・ザ・ハート 監督・脚本 | |
ハメット 製作総指揮 | ||
コヤニスカッティ 製作 | ||
マジック・ボーイ 製作総指揮 | ||
1981 | ゴッドファーザー 1901-1959/特別完全版 監督・製作・脚本 | |
1980 | 影武者 製作総指揮 | |
1979 | 地獄の黙示録 監督・製作・脚本・音楽 | |
ワイルド・ブラック/少年の黒い馬 製作総指揮 | ||
1978 | ||
1977 | ゴッドファーザー・サガ 監督・製作・脚本 | |
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ゴッドファーザーPART II 監督・製作・脚本 | |
華麗なるギャツビー 脚本 | ||
1973 | カンバセーション…盗聴… 監督・製作・脚本 | |
アメリカン・グラフィティ 製作 | ||
1972 | ゴッドファーザー 監督・脚本 | |
1971 | THX-1138 製作総指揮 | |
不思議な村 製作総指揮 | ||
1970 | パットン大戦車軍団 脚本 | |
1969 | 雨のなかの女 監督・脚本 | |
1968 | フィニアンの虹 監督 | |
1967 | 大人になれば… 監督・脚本 | |
1966 | パリは燃えているか 脚本 | |
1965 | 雨のニューオリンズ 脚本 | |
1964 | ||
1963 | ディメンシャ13 監督・脚本 | |
1962 | ||
1961 | グラマー西部を荒す 監督・製作・脚本 | |
1960 | ||
1959 | ||
1958 | ||
1957 | ||
1956 | ||
1955 | ||
1954 | ||
1953 | ||
1952 | ||
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1949 | ||
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1947 | ||
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1945 | ||
1944 | ||
1943 | ||
1942 | ||
1941 | ||
1940 | ||
1939 | 4'7 ミシガン州デトロイトで誕生 |
タイトル | |||||||||||||||||||||||||||
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コッポラの胡蝶の夢 2007 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
2007オーウェン・グレイバーマンワースト第1位 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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レインメーカー 1997 | |||||||||||||||||||||||||||||||
1997ゴールデン・グローブ助演男優賞(ヴォイト) | |||||||||||||||||||||||||||||||
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ジャック 1996 | |||||||||||||||||||||||
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幸せな結婚生活を送っていたブライアン(カーウィン)とカレン(レイン)の間に待望の子供が生まれた。なんと妊娠2ヶ月で産まれたジャックは細胞の分裂異常により、常人の四倍の早さで成長してしまう体質だったのだ。そして十年後。同じ年頃の友達がいないジャックを見かねた家庭教師はブライアンとカレンに学校に行くことを勧めるのだった。こうして四十歳の外見を持つジャックは小学校へ通い始めたのだが… ふーん、コッポラってこんな映画も撮ってるんだね。配役が異様に豪華なのは監督の知名度のお陰に違いない。 こう言う映画は私は嫌い。こんな単純に監督の思い通りになってしまう自分が情けないし、そうなってしまうと後で冷静にコメントが出来なくなってしまうから。 だからこの手の作品のコメントを書く時は充分時間をおいて、自分は冷静だと見極めがついた後でないと書いてはいけない。この手の単純な、しかも偽善的な作品に最高点の大盤振る舞いをしそうになるもので。 で、ようやくこれも書くに足る時間が得られた(と思う)。 主演のウィリアムズは“子供のような大人”を演じる第一人者だが、その魅力は本作でも健在。あのおっさんが子供のように振る舞うってのはギャップがあるように見えつつ、見事にはまっている。脇を固めるダイアン=レイン、ジェニファー=ロペスと、その辺も見事。子供達も面白い。特に最後の卒業式でのそれぞれの成長した姿が見事にそっくりだってのは凄い。 そして最後の卒業式でのスピーチは『パッチ・アダムス』(1998)を彷彿とさせるが、死を前にしているだけあって、こっちの方が言葉に重みがある。 希望としては、もう少し意地悪な小学生がいて、ネチネチと虐める描写があると良かった気もするけどね。子供ってとても残酷だし。後10分くらいあったら良かったかもね。 …おかしいな。総体的に見ると、やっぱり褒めてるじゃないか? ところで、一つだけ文句を。この作品、ビデオで観たのだが、途中腹が減ったので、一時中断してパスタを茹でた。それでさて観ながら食べようとしたら…なんとタイミングが良いんだ。こんなまずいパスタを食べたのは久々だったよ(実話)。 |
ドラキュラ 1992 | |||||||||||||||||||||||
1992米アカデミー衣装デザイン賞、メイクアップ賞、音響効果編集賞、美術監督賞、美術装置賞 1993MTVムービー・アワード キス・シーン賞(オールドマン&ライダー) |
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トランシルヴァニアの名君ドラキュラ伯爵(オールドマン)はかつて神のために戦いを続けたが、最愛の妻を失い神を呪い吸血鬼となり永遠の時を過ごす。一人の会計士の青年(リーブス)を雇い、彼が持っていた婚約者ミナ(ライダー)の写真を目にする。トランシルバニアに潜んでいたドラキュラ伯爵が血を求めロンドンに現れる。彼の目的は写真の令嬢。彼の目的を阻止するため、バン・ヘルシング教授(ホプキンス)は立ち上がるのだが・・・ かつて、コッポラの映画を観て、何と影の使い方の上手い監督なんだろう。と感心した。だけど、これを観て、何て影の使い方、下手になったんだろう。と思い直した。 ブラム=ストーカーの描いた「ドラキュラ」は映画受けする素材のようで、これまでにもいくつもの映画が作られてきた。『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922) 『ノスフェラトゥ』(1978) 『魔人ドラキュラ』 そして『吸血鬼ドラキュラ』(1957)…これらは皆、全く同じ物語を様々な監督が作ってきたので、まさに様式美的な作品となっている。そしてその度事に、伯爵役の名優を生み出してきた。マックス・シュレック、クラウス・キンスキー、ベラ・ルゴシ、そしてクリストファー・リー… それをコッポラが、映画化すると言うので鳴り物入りでクランク・インされていた。様式美ならコッポラは上手いぞ!しかもキャスティングが凄く、皆、私が大好きな俳優ばかりを集めているのも嬉しい(一応の主役であるリーヴスだけは除く)。 出来としては、原作にかなり忠実に作られ、ドラキュラ伯爵とミナとの愛情はとてもエロチック。 でもなんか乗り切れない。その理由を考えてみた。 ・ゴシック・ホラーの様式美にこだわるあまり、過剰な演出をしすぎた。 ・特に影の演技は嫌みったらしいことおびただしい。 ・ドラキュラの精神的な弱さを出し過ぎ。 ・全然怖くない。いや、「怖さ」の演出を最初から放棄しているとしか思えない。 ゴシック・ホラーというのは、演出が大切で、時として鼻につくほどなのだが、それらは「恐怖」のための演出だからこそ、良いんだ。ところが、この作品、その恐怖描写を放棄し、中途半端なラブ・ストーリーに仕上げてしまったお陰で、過剰な演出が、殆ど嫌みのまま残されている。 どれほど技術的に稚拙で、役者が大根であったとしても、『吸血鬼ノスフェラトゥ』には確かに恐怖の演出がふんだんに取り入れられていて、だからこそ、佳作足り得た。 根底に恐怖あってこその耽美的演出!恐怖を失ったら、演出過剰なだけの作品になってしまうんだな。良い勉強になったよ。 それでもオールドマンのドラキュラ役はやっぱ良いねえ。ライダーも好きだし、ホプキンスに至っては教授になりきってたし…いつから良い役者を下手に撮るのが上手くなってしまったのだろうか?コッポラは。 ただ、本作は唯一日本では大きな拍手を持って迎えられるべきであろう。ハリウッドで活躍する日本人衣装デザイナー石岡瑛子が見事衣装部門でのオスカーを手にしているのだから… |
ゴッドファーザー PARTIII 1990 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1990米アカデミー作品賞、助演男優賞(ガルシア)、監督賞(コッポラ)、撮影賞、主題歌賞、美術監督賞、美術装置賞、編集賞 1990シカゴ映画批評家協会撮影賞 1990ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(パチーノ)、助演男優賞(ガルシア)、監督賞、脚本賞、歌曲賞 1990ゴールデン・ラズベリー ワースト助演女優賞(コッポラ)、ワースト新人賞(コッポラ) |
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ファミリーのドンとなったマイケル(パチーノ)は、バチカンの加護を得て一切の犯罪から手を引くことを宣言した。だが後継者に甥のビンセント(ガルシア)を立てた事から内部抗争に火がついてしまう。自身も病に蝕まれるマイケルは何とか事態の収拾を図ろうとするのだが……。 連続アカデミー賞受賞という快挙を成し遂げた前2作。しかるに監督自身が泣かず飛ばず状態でかなり低迷している状態で、起死回生のため投入された『ゴッドファーザー』(1972)シリーズの完結編と言える作品。この作品に対する監督の意気込みと、そしてそれのプレッシャーを割り引いて考えるなら、悪くない作品だった。パチーノ演じる老齢に達したマイケルはかなりの貫禄を見せるし、若きビンセント役のガルシアのがんばりも評価できる。又オペラ劇場で迎えるクライマックスの美しさは、コッポラの才能そのものの集大成にさえ見えた。 ただ、老齢に達し、人生の逃げに取りかかっているマイケルの姿は見たくなかった気もするし、ガルシアもちょっとがんばりが空回り気味かな?で後継者に選ばれるってことは、よほどの人材不足にさえ見えてしまった(もうちょっと貫禄付けるよう、努力した方が良かったね)。中でも最低は何と言っても監督自身の娘、ソフィア・コッポラ。何でも当初の予定だとウィノナ・ライダーを使うはずだったのが、ジョニー・デップと別れたウィノナがノイローゼになってしまい、代役として監督の強引なオファーにより決まったのだとか…頼むから、こんなの、連れてくるなよ! 壮大な『ゴッドファーザー』サーガは一人のコッポラによって開かれ、二人のコッポラによって閉じられた。 |
タッカー 1988 | |||||||||||||||||||||||
1988米アカデミー助演男優賞(ランドー)、美術監督賞、美術装置賞、衣装デザイン賞 1988英アカデミープロダクションデザイン賞 1988NY批評家協会助演男優賞(ストックウェル) 1988シカゴ映画批評家協会助演男優賞(ランド-) 1988ゴールデン・グローブ助演男優賞(ランドー) |
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第二次世界大戦間近のデトロイト郊外の小さな街で、「夢の車」づくりに情熱を燃やす男タッカー(ブリッジス)。より速く、より美しく、なによりも優れた安全性と機能性をもつ理想の自動車を作ろうという彼の夢は、卓越した発想と驚くべき行動力、そして家族と仲間たちに支えられて、新車「タッカー・トーペード」として実現する。ところが待ち構えていたのは、タッカーと彼の車をたたき潰そうとする、米自動車業界の巨大な圧力だった。 コッポラとその弟子であり友でもあるルーカスが、組織に立ち向かう実在の人物を描きつつ、アメリカン・ドリームの現実を描いた作品。 実在のタッカーも陽気で大風呂敷を広げる傾向はあったらしいが、間違いなく天才肌の人間で、第1次世界大戦中技術の腕を磨き、素晴らしい車を作りだしたそうである。ただ、個人資本の哀しさで、大手の車製造会社には太刀打ちできず、それどころか目の敵にされて消えていった。そんな栄光なき天才をコッポラとルーカスが描くと言う。かなり楽しみだった。 見た後での感想を言うと、かなり地味目な作品。果たしてジェフ=ブリッジスが主人公で良かったのか、悪役向きの(失礼)クリスチャン=スレーターが善人役だと言うのも今ひとつ納得できない。更に問題として、この話を既に知っていたことが致命的になった。結局だらだらと見続けるだけの映画だったな。コッポラも何でこんな脚本に惚れ込んだのか分からない。 |
ペギー・スーの結婚 1986 | |||||||||||||||||||||||
1986米アカデミー主演女優賞(ターナー)、撮影賞、衣装デザイン賞 1986ゴールデン・グローブ作品賞、女優賞(ターナー) |
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ペギー=スー(ターナー)は高校時代からのステディであるチャーリー(ケイジ)と結婚し、二人の子供に恵まれたが、やがてチャーリーは高校時代の夢であるミュージシャンを諦め、繁盛した家業の電気屋を大きくすることに夢中になっていき、今や外に女を作って別居中の身だった。そんな時、二人に高校の同窓会の招待が舞い込み、久々に二人は顔を合わせるのだが、久々の旧友達との再会に舞い上がったペギーは、会場で卒倒してしまう。そしてペギーが目を開けた時、そこには25年前の懐かしい景色が… キャスリーン=ターナーを主役に、コッポラ・ファミリー総出演で製作された作品。コッポラ監督ものとしては珍しいSFチックな作品で、タイムマシンが出ない『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)みたいな感じ。それでターナー、ケイジ共に本人役で25年前の役をやったのは、意外に面白い結果を生んだと思う。まるで現代日本で日々量産されているライトノベルっぽい作品に仕上げられていた。ラストも、過去を後悔して生きるよりは、新しい今を生きよう!と言う非常にポジティヴなもので、後味もすっきり。変にこねくり回さず、キャラの魅力で作り上げたような作品である。ストーリーを捻るのが好きなコッポラにしては珍しい作品だ。 ただ、こう言っちゃ何だが、やっぱりキャスリーン=ターナーが高校生役をやるのは無理があったし、そもそもおっさん顔してるケイジも高校生役やってると、凄まじい違和感があるのも確か。特にふさふさ髪のケイジが登場するたびに、頭ばかりに目がいってしまうため、ケイジの印象が強烈な割にどんな役だったかよく覚えてないという不思議な役回りになってるのも特徴か。 ちなみにタイムトラベルを行おうとしていた秘密集団のコスチュームはフリーメイソンのもの。よく文句言われなかったものだ。 |
コットンクラブ 1984 | |||||||||||||||||||||||
1984米アカデミー美術監督・装置賞、編集賞 1984ゴールデン・グローブ作品賞、監督賞 1984ゴールデン・ラズベリー最低助演女優賞(レイン) |
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禁酒法時代のNYハーレム。ここには白人専用のジャズ酒場コットンクラブがあった。ここで一流のタップ・ダンサーとなることを目指すサンドマン=ウィリアムズ(ハインズ)と、白人ながら、彼らに混ざってコルネットを演奏しているディキシー=ドワイヤー(ギア)は、ある日爆弾騒ぎを目撃。被害にあった人物を助け出したところ、それは実はハーレムのギャングのボスのダッチ=シュルツ(レマー)だった。それが機会に二人はコットンクラブへと出入りが許されるようになり、彼らの日常はにわかにスリリングなものとなっていく。野心家のディキシーの弟ヴィンセント(ケイジ)は、これを契機とダッチの用心棒としてのし上がっていくが… NYのハーレムに実在した伝説のナイトクラブ、コットンクラブを舞台にした群像劇。実在するマフィアのダッチ=シュルツやオニー=マデンなどを登場させた事が話題となった作品。 『ゴッドファーザー』にて二つのオスカーを手にしたコッポラだが、やはり息切れしたのか、しばらくはギャングものからは離れていたのだが、約10年ぶりに再びギャングものに挑戦した一作。 『ゴッドファーザー』ファンにとっては待ちに待った作品…と思われたのだが、いざ本作を出されると、複雑な思いをさせられることになる。 何というか、明確に「悪い」とは言えない出来なのに、どの部分もキレが悪く、もたついた作品という印象しか持てないのだ。 改めてこれを考えてみると、『ゴッドファーザー』はマフィアの非情な、乾いた描写が特徴だったのに対し、本作の場合、古き良き時代へのノスタルジーに溢れている所に問題があったのかも?雰囲気は確かに凄く良いのだが、その雰囲気に物語が阻害されてしまったようにも思える。話自体二組の兄弟の物語が輻輳する結構複雑な、情念に溢れたものだったのも災いだった。 コットンクラブの雰囲気は良く、タップも上手かったのだが、詰まる所雰囲気以外何の印象も残らない話になってしまった。これだったらコッポラも戻らない方が良かったんじゃないか? コッポラも、「夢をもう一度」と思ってたかも知れないけどねえ…考えてみると、本作以降監督作品はたいしたものが作れてないな。『地獄の黙示録』で吸い尽くされたか? |
ランブルフィッシュ 1983 | |||||||||||||||||||||||
1983ゴールデン・グローブ音楽賞 | |||||||||||||||||||||||
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かつて不良グループの偉大なるリーダーとして君臨したバイクボーイ(ローク)が町に帰ってきた。兄に強く憧れ、何とか追いつこうと虚勢を張って生きている弟ラスティ(ディロン)は、そこに自分が思っていた理想の兄像とは違った本当の兄の姿を見る。自由奔放で何事にも執着を持たぬ兄と、自分の理想とは違っている兄に苛立ちながら焦燥感を募らせる弟の関係を描く。 コッポラ監督が同年製作の『アウトサイダー』に続き、スーザン=E=ヒントンの原作を元に制作した作品。『アウトサイダー』同様ブラット・パックの出世の場になった。 不思議な映画だった。大体青春映画と言うのは二系統に分かれ、片方が恋愛を中心とした割合爽やかな印象を残すもの(その傑作が『愛と青春の旅だち』(1982)や『アメリカン・グラフィティ』(1973)だと思っている)。もう片方は若者特有の不安定な心を鋭く捉えたもの(これの代表作が『アウトサイダー』や『エデンの東』(1954)であろう)。この作品は明らかに後者に入る。 物語は数カットを除き全編モノクロームの映像で描いており、カメラアングルに凝った実験的な作風が不思議な雰囲気を醸していた(劇中にこのモノトーンの映像は兄が見ている光景だと説明される)。一瞬だけ現れる闘魚(ランブル・フィッシュ)の赤も強烈に目を焼く。これは兄の極めて醒めた目で世界と弟を観ているという演出なのだろう。上手い方法だ。 ディロン、ローク共に不安定な存在を好演しており、特にロークは強烈な存在でありつつ、儚い存在という極めて難しい役柄をきちんとこなしている。 この映画を観た時は20歳過ぎていたのに、全然その良さを理解できなかった。今このコメントを書くために思いだしたらようやくその凄さに気付いたと言う次第である。もう一度観ておく必要はありそうだ。 |
アウトサイダー 1983 | |||||||||||||||||||||||
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オクラホマ州の田舎町タルサ。貧民街の少年達のグループ“グリース”と上流階級のグループ“ソッシュ”は何かともめ事を起こしていた。両親を失いダレル(スウェイジ)ら兄たちと住むポニーボーイ(ハウエル)は“グリース”の一員として、ジョニー(マッチオ)やリーダーのダラス(ディロン)といつもつるんでいた。だがある日、ソッシュの女の子にちょっかいを出してしまった事から抗争は本格化していく。ついにそれはジョニーによる刺殺事件にまで発展してしまった。警察にも追われ、行き場の無くなったポニーボーイとジョニーは郊外の廃屋となっている教会に隠れるのだが… アウトサイダーというと“怒れる若者”と呼ばれたイギリスの文壇グループの方を思い出すし、大学時代にコリン=ウィルソンの同名小説(?)も読んだことがあったが(はっきり言ってよく分からなかった)、それと本作は全くの別物で、原作はS=E=ヒントンによる高校の教科書にも取り入れられているというアメリカ文学の名作の一つ(ちなみにヒントン本人も看護師役で出演してるのだとか)。 成否極端なコッポラの作品群の中でも成功の部類に入る作品で、それこそ“怒れる若者”を体現したかのような当時のアメリカの世相にあってかなりのヒットを記録したが、何より本作によって新しいスターが続出したのが何よりの功績といえるだろう。本作および同じコッポラ監督による『ランブルフィッシュ』に出演した若手俳優は当時無名ながら、“ブラット・パック”(悪ガキという意味のスラング)と呼ばれ、かなりの人気が出し、80年代から90年代前半の映画を引っ張っていく存在となっていく。主人公役のハウエルこそさほど芽が出なかったものの(最大のヒットが『ヒッチャー』(1985)じゃなあ)、『ベスト・キッド』(1984)で空手ブームを作るマッチオ、要所要所で良い役を引き当て、常に悪ガキ精神を忘れないマット=ディロン、『ヤングガン』(1988)、『飛べないアヒル』(1992)と言った役の後、今や監督として有名になりつつあるエステベス、そして何よりも抜きんでたトム=クルーズ。女優の方でもセクシーアイドルとして登場して今は落ち着いた演技で定評のあるダイアン=レイン、翌年の『エルム街の悪夢』(1984)でSQとして有名になったランゲンカンプなど。まさに登竜門だったんだな。オーディションで出演者を決める際、コッポラは15年後も活躍し続ける可能性を持った役者を対象にしたと言っていたが、それは事実となったことから、コッポラの目の確かさは折り紙付きと言えよう。 内容としてはやっぱり本作もアメリカという国をよく知っていて、そこの空気を空気を吸っていなければ本当に分かったとは言えないだろう。現代日本にはこういう偏見や貧乏と金持ちの確執などは“表向き”ないのだから。だけど、ここでの彼らの感じている苛つきや、何かを攻撃しなければいられない爆発感、そして友情感など、丁度その当時思春期を迎えた人間にとっては共通の思いがある。なんか「湘南爆走族」とか読み返したくなってきたよ。 それを上手く封じ込めたのは演出の巧さとは言える。同じ年にコッポラは『ランブル・フィッシュ』を映画化しているが、違いを出すため本作はノスタルジックに仕上げられている。最後の夕陽を二人で見るシーンなんかはモロにそれをよく表しているだろう。 私もこれを観た当時、色々考えさせられたもの。とりあえず知恵を付けなきゃならない。と思って本を読み始めた…と言うのは、私の場合どこか取り違えていたかも知れないけど(笑) 結局本作に高得点を与えたくなるのは、そう言う思い出があってのこと。 いくら俳優とはいえ、悪ガキを集めての撮影はかなり大変だったそうだが、コッポラは良い演技を引き出すため、ロケ期間中ソッシュのメンバーは一流ホテルに優雅に宿泊させ、グリースの俳優達は三流ホテル住まいをさせたという。コッポラは子供の扱い方も上手かったようだ。 |
ワン・フロム・ザ・ハート 1982 | |||||||||||||||||||||||
1982米アカデミー音楽賞 | |||||||||||||||||||||||
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ラスベガスの旅行社に勤めるフラニー(ガー)と同棲相手ハンク(フォレスト)は、5年前に出会った日を記念してお互いにプレゼントをしあう。フラニーはボラボラ島行きの航空券を、ハンクは家の権利書を。だがどうもしっくりといかず、その後喧嘩になり、二人は家を出ていってしまう。二人はそれぞれラスベガスの町で、それぞれフラニーはピアニストのレイ(ジュリア)、ハンクはサーカスの踊子ライラ(キンスキー)と出会い、素敵な出会いを果たす… ラスベガスという、一種夢の街を舞台にした、本当に夢のような出来事を描いた作品で、『ハメット』(1982)に続くコッポラが設立したゾーエトロープの第2回作品。 多くの成功作と失敗作で知られるコッポラ監督の失敗作の一つと言われるのが本作。それは事実で、しゃれた都会風の恋愛話にミュージカルシーンをくっつけた軽い作品のはずが、話が妙に重めになり、ミュージカルシーンも凝りすぎて、ちょっと消化不良を起こしたかのような作品になってしまった。 多分それは本作を完全セットで作ったと言うところに一つの理由があったように思わせる。昔のハリウッド作品は基本的にセット撮りなため、こういうパターンが多かったのだが、『ウエスト・サイド物語』(1961)以来、観客の目は、もっとオープンに、広がりを持ったミュージカルシーンに目が慣れていくようになっていた。 しかるに、本作のミュージカルシーンはわざとセット撮りを際だたせるように作られているため(これはアンチ・リアリズムで有名なデザイナー、ディーン=タブラリスのためとも言われる)、閉塞感を感じさせてしまうのだ。古き良き時代を思わせようとしてのことだったのかも知れないが、それを強調しすぎたため、かえって嘘くさくなって入り込めない作品になった。 ストーリーについても、ご都合主義を多用して、ファンタジー性を増したのが余計物語の足を引っ張った。妙に重い物語に、軽快な設定を加えたお陰でこれも嘘っぽさしか感じられず。ドロドロした恋愛話を延々見せられるといい加減鬱にもなろうというものだ。 尚、ゾーエトロープの1作目『ハメット』もセットに凝りすぎたために資金不足になったそうだが、2作目の本作もラスベガスのミニチュア・セットなどに凝りすぎ、更にデジタル機器を多用したため製作費が途中で底をついてしまう。結局パラマウントの助けを借りて公開にこぎ着けたという。 結果的にコッポラが作り上げた製作会社ゾーエトロープは、この2作のお陰で低迷。監督もスランプに陥ってしまうことになる。 |
地獄の黙示録 1979 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1979米アカデミー撮影賞、音響賞、作品賞、助演男優賞(デュヴァル)、監督賞(コッポラ)、脚本賞(ジョン=ミリアス)、美術監督・装置賞、編集賞 1979英アカデミー助演男優賞(デュヴァル)、監督賞、作品賞、主演男優賞(シーン)、作曲賞、撮影賞 1979カンヌ国際映画祭パルム・ドール(コッポラ)、国際映画批評家連盟賞(コッポラ) 1979全米批評家協会助演男優賞(フォレスト) 1979ゴールデン・グローブ助演男優賞(デュヴァル)、監督賞(コッポラ)、音楽賞 2000アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
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ベトナム戦争真っただ中のアメリカ陸軍情報部のウィラード大尉(シーン)に下された密命。それは、カンボジアに特殊任務で赴いたままジャングル奥地に自らの王国を築き、カリスマ的な存在と化した危険人物カーツ大佐(ブランド)を暗殺せよ、というもの。任務を全うすべく、ウィラード大尉は4人の部下とともに哨戒艇に乗り込み川を遡航する。道中様々な異常な体験を経験する彼らだったが、ついにジャングルの奥深く、カーツ大佐が潜伏する“王国”へと辿り着く… 1979年全米興行成績6位。しかし、これだけヒットしても製作費の回収に至らず。 ジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」(書評)を元に作られた作品で、コッポラ監督の傑作映画の一つ。そもそもヴェトナム戦争の狂気を描こうとして、監督自身が映画作りの地獄にはまったとさえ言われている。フィリピンで撮られた撮影は疫病や台風、さらに軍が約束してくれた飛行機が飛ばなかったりと困難を極め、コッポラ監督はノイローゼに、シーンは心臓発作に襲われたりと、14ヶ月に及んだ撮影はスタッフ自身がほとんど狂気の中にあったとか… 本作の売りは勿論冒頭でのあの大迫力の空爆シーンだろう。あれは確かに度肝を抜かれるし、そこでの狂った上官に振り回される海兵隊の方もかなり凄まじい。兵士にとっては戦争は誰も幸せにしない。 ストーリーの方はもう有名になりすぎただろう。元々の作品自体が2時間半と言う長い作品だったのに、それに約1時間に及ぶシーンをくっつけたのがこの<特別完全版>である。それだけでなくdts仕様になったらしく、音響も凄くなっている。 ところでこの『地獄の黙示録』だが、実は私は既に4回ほど観ている。1回目にビデオで観て、何がなんだか分からず、その後LDを購入。繰り返し観た。 それで何が分かったか。 それが、実は分からない。私にとって衝撃を与えてくれる映画には違いないのだが、具体的にどこが良いのか、話すことが出来ない。最初のシーンでのヴァルキュリーの騎行があまりにも印象深いことくらいか? 更にこれを観ると決まって体調がおかしくなる。頭痛が起こり、消化不良を起こし、不眠になる。何度観てもそうなるのが自分でも不思議。理由は不明だが、あるいは私にとって精神的にはまりやすい映画なのだろうか?観ると後悔し、それでも暫くすると又観てしまう。殆ど麻薬。 そして5回目の今回。劇場でこの作品を観るのは初めて。しかも3時間半に及ぶ長丁場。相当な気合いを入れて臨んだ。 さすがに劇場。更にdts仕様!音は最高。特に「ワルキューレの騎行」に合わせてヘリコプターが突撃するシーンは身体にびりびりくる(かつてこれを聞きたかったからCDで「ニーベルンゲンの指輪」を買ったこともある)。 しかし、その内容が… 色々追加された所はあるけど、本当に大切な話なのかどうかはちょっと不明。あ、カーツ大佐に会うあのシーンで、ぼかしが入ってなかった! それより、劇場になって、ますます映画との一体感が増すに連れ、私の精神がかなりやばい状態になってきた。 ラスト近くになると頭痛が激しくなり、だんだん吐き気がしてきた。生欠伸が止まらない。 しまった。酔った。 ラスト30分はほとんど根性で見終えたが、全精力を持って行かれたような気分になった。 これで分かったのは、本作はとても哲学的な要素を持っていると言うこと。そしてやはり元々は反戦を主眼にしているらしいと言う事。それだけはなんとか。 本作の制作は徹底的に難航したが、その辺は『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』(1991)に詳しい。当初主人公役はマックィーンに打診したが、マックィーンは6ヶ月もジャングルで生活するのが嫌。と突っぱねられ、その後ハーヴェイ=カイテルにほぼ決定。だがコッポラと仲違いしてしまう。それでようやくシーンに決定した所、今度はシーンが心臓発作で倒れてしまう。更に1976年に開始した撮影は撮影地のフィリピンで内戦が勃発したり、台風がやってきて撮影機材を吹っ飛ばしたり、ブランドが徹底的に撮影を引き延ばしたりして、結局実質で238日、中断期間を含めると14ヶ月という長期間撮影となる。途中で撮影費が足りなくなり、コッポラは私財をなげうって撮影を続行…結局、これでコッポラは破産。彼の製作会社ゾーエトロープは活動停止を余儀なくされてしまったと言う。 ところで本作のキルゴア中佐は、何かと引き合いに出されることが多い人なのだが、それはここでの描写があまりにもイカれていたからだが、そのカウボーイハットと、騎兵隊を模したヘリ大隊は、古き良きアメリカそのものを象徴しているかのようでもある。そう考えると、やっぱり批判精神に溢れた作品とは言えるか。 |
ゴッドファーザー PARTU 1974 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1974米アカデミー作品賞、助演男優賞(デ・ニーロ、ガッツォ、ストラスバーグ)、監督賞(コッポラ)、脚色賞(コッポラ、プーゾ)、作曲賞、美術監督・装置賞、主演男優賞(パチーノ)、衣装デザイン賞 1974全米批評家協会監督賞、撮影賞 1975英アカデミー主演男優賞(パチーノ)、作曲賞、新人賞 1975キネマ旬報外国映画8位 1993アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
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父ヴィトーの死去から5年が経過。ドンのマイケル(パチーノ)は、根拠地をニューヨークからラスベガスのある西部のネバダ州タホー畔に移していた。ファミリー内に絶えず起こるいざこざや、自分を標的としている父の時代の仲間達、そして妻との心のすれ違い…ドンの椅子に座るマイケルの頭の中には、やがて父ヴィトーから聞かされた話が巡ってくる。 そこでのヴィトー(デ・ニーロ)の姿は、シチリア・マフィアのボス、ドン・チッチオに生命を狙われ、命からがらにアメリカに逃げ延び、リトル・イタリアで成長していた。そこで若き日のクレメンツァ、テッシオ、ジェンコらと知り合う。次第に頭角をあらわす彼の前にリトル・イタリアの街を牛耳っている悪玉ファヌッチが立ちはだかる… シリーズ第二作にして現時点で唯一1作、2作の二作が作品賞オスカーという快挙を成し遂げた作品。1975年全米興行成績4位。これまで「2作目は決してオリジナルには及ばない」という定式を崩した作品としても知られる。残念ながらブランドは出演していないが(前年のアカデミー授賞式でとんでもない事をしたことと、本人が「もう演らない」と断言したから)。 『ゴッドファーザー』でマーロン=ブランド演じるヴィトーを主役に、そしてパチーノ演じる若きマイケルがトップへの階段を駆け上がるストーリーを描いた後、ここではトップに登りつめたマイケルが古き時代に決別し、新しい時代を切り開こうと苦悩する様が描かれている。ヴィトーと異なり、アクティヴな感じのするマイケルの物語で、パチーノも格段に上手くなっているとは言え、これだけでは単純な似ただけの作品になってしまっただろう。「良い作品」と言われることがあっても、連続オスカーなど夢の又夢。しかしそれを上手く防ぎ、話としての膨らみを持たせたのが過去の回想シーン。続編で、しかも1より話の規模が縮小しているのに、別種の魅力を見事に引き出している。 これを観て、続編の強みと言うものを考えさせられた。 続編ものは大概クズのような扱いを受ける。これは当然で、1作目にいくら雰囲気を似せようとも、超えられるわけはないから。衝撃は一度で良い。二度あると喜劇にしかならない。キャラクターの魅力で見せるのも自ずと限界がある。 だが、一方で続編には多くの魅力もある。大ヒットを受けて作られた作品だけに、ある程度の安心感があることやもう一度彼(彼女)に会いたい。と言うファン心理を叶えてくれること。ただ何より重要なのは、物語やキャラクターの背景を了解事項として描き出すことが出来ると言う点が最大の強みだろう。 この作品においてはマイケルがなぜこの若さでゴッド・ファーザーの地位にいられるのか、そして彼の置かれている緊張感ある状況が既に前提事項として現れている。視聴者はそれだけでなく、『ゴッドファーザー』の主人公ヴィトーとマイケルのゴッド・ファーザーとしての器の違いも頭に入っている。そこから始められるのは強み。 だから現在の物語とは全く異なるヴィトーの話が挿入されていても、違和感が感じられないどころか、今のマイケルの置かれている状況とも対比できる。しかもそれがイタリア人、殊にマフィアが大切にする家族のパーティによって結びつけられるため、違和感を感じさせない作りは流石と言える。 ピカレスク・ムービーでの面白さは成り上がりの過程にこそある。すっかり受けの立場に回ったマイケルではなく、若くアクティヴで、命を懸けて次々と成功をものにするヴィトーの姿が挿入されることによって、物語は実にメリハリがきいている。この挿入が絶妙で、3時間の長丁場が全然飽きない。デ・ニーロが又上手い。本当にヴィトーの若い頃になりきっている。デ・ニーロらしい役作りだ。 それに、前作と較べてさえ、パチーノの格好良い事よ。彼は真面目にファミリーを存続させようとしているだけなのだが、いくらうまくやってもどうしてもそこには犠牲者がつきもので、結果として親しきものをも処刑していかねばならなくなる。ラスト、信じていたものに裏切られながら、それでも一家を束ねていかねばならない憂鬱を示す頬に片手を当て、椅子にもたれ込む姿は見事に様になってる。 この作品は、映画には、続編だからこそ出来ることがあることを私に教えてくれた。本当に見事だ。 一方、このマイケルの生き方は、アメリカの今を描いているとも言われている。ヴェトナム戦争がまだ続いていることを考えると、確かにマイケルの姿は、既に後には引けないアメリカという国そのものとも… 1作目の大ヒットにより、当然の如く続編の話はコッポラの元に来たのだが、その際コッポラは自身のプロダクションでなければ撮らないと主張し、製作権を獲得している。更にマイケルが証人喚問されるシーンでは上院議員の席に師匠であるロジャー=コーマンを滑り込ませているというお遊びも。 |
カンバセーション…盗聴… 1973 | |||||||||||||||||||||||||||
1974米アカデミー作品賞、脚本賞、音響賞 1974英アカデミー編集賞、音響賞、主演男優賞(ハックマン)、監督賞(コッポラ)、脚本賞 1974カンヌ国際映画祭パルム・ドール(コッポラ) 1995アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
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コッポラ自身が前に書いて、暖めていた脚本を自らのプロデュースで映画化。ウォーターゲート事件もあり、大ヒットする。ラストのひねり方も評価される 端役でブレイクする前のハリソン=フォードが出演している。 主人公は人と共にあるよりも、遥か遠く離れた人を盗聴している事の方がリラックスしている。 最後に主人公は全てを失ってしまうが、それらがこれから起こるウォーターゲート事件を予見していたと言われる。 極めて実験性の高い作品だが、興行的にも成功している。 この年コッポラは「ゴッドファーザーPART2」でもノミネート。この作品が高い評価を受けたのはウォーターゲート事件があってのこと。 |
ゴッドファーザー 1972 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1972アカデミー作品賞、主演男優賞(ブランド)、脚色賞(コッポラ、ブーゾ)、助演男優賞(カーン、デュヴァル、パチーノ)、監督賞(コッポラ)、衣装デザイン賞、音響賞、編集賞 1972英アカデミー作曲賞、主演男優賞(ブランド)、助演男優賞(デュヴァル)、新人賞(パチーノ) 1972ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(ブランド)、監督賞(コッポラ)、脚本賞(コッポラ、プーゾ)、音楽賞 1972全米批評家協会男優賞(パチーノ) |
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ニューヨークのマフィア、コルレオーネのボス、ドン・ヴィトー・コルレオーネ(ブランド)は、相手がたとえ貧しく微力であっても助けを求めてくれば、親身になってどんな問題でも解決してやっていた。彼が求めたのは“ドン”あるいは“ゴッドファーザー”という尊称であり、そして彼らの出来る範囲での仕事。そのやり方を頑なに守り、ヴィトーはファミリーを大きくしていったのだった。彼を慕う人間は多かったが、麻薬を商売にしている男ソロッツォ(レッティエリ)は、彼の仕事への強力を拒むビトーを恨み、ドンさえ殺せばこの取り引きは成功すると鋭く見てとり、その日以来機会を狙っていた。更にソロッツォの背後にはタッタリア・ファミリーがあり、すでにニューヨークの他のファミリーも動きだしていた。こうして1947年のマフィア同士の戦いは始まってゆく… マリオ・プーゾによる同名小説(プーゾは当時借金に苦しんでおり、一山ベストセラーで当てて借金を返そうと本作を描き、見事にベストセラー入りしたのだが、映画化の際には、早く借金を返すため、僅か5万ドルで映画化権を売却している)の映画化で1972年全米興行成績1位。コルリオーネ一家の闘争を描いた壮大なピカレスク・ムービー。ヴェトナム戦争の影響下、軒並み映画の興行成績が落ち込む中、本作のみ突出したヒットを記録した。 そうそうたるキャストに、コッポラの美術的センスが重なり、とんでもない作品に仕上がっている。 主人公はドン・コルリオーネの尊称を受けるヴィトーだが、彼の息子達ソニー(カーン)、フレッド(カザール)、そしてその末の息子マイケル(パチーノ)の見所(ついでに言えばヴィトーをサポートするデュヴァルの見所)もしっかりあり、本当に良く仕上げたとほとほと感心する。ブランドは既に貫禄充分ながら、同時にパチーノの描き方が実に上手い。神経質で、マフィアのあり方に否定的な学生マイケルが兄の死によって後継者に指定された戸惑い、そしてその運命を受け入れていく課程の表情の変化が絶妙。特にラストの、マフィアのドンらしくふてぶてしい顔つきになった表情は前半で見せた顔とはまるで違っているのが凄い。当時無名俳優であったパチーノを強く推したのはコッポラ監督本人だったそうだが、主人公にはもっと華があるスターを。と主張するパラマウントと喧嘩までしたとか。 良くここまで描けたものだ。当時のコッポラは本当に輝いていた名監督だった。 この映画、ブランドであれ、パチーノであれ、何気ない仕草がとにかく画面にはまっている。 考えてみれば、マフィアのドンに気に入られるためには、部下達はちょっとした仕草にすぐ対応できるよう目を彼から離してはいけない。何かちょっとした仕草で反応し、ドンが何も言わなくてもすぐにその意を汲む必要がある。当然ドンとしても、その効果を充分に顧慮に入れて顔の表情やら、仕草やらをしているわけだ。自然と部下の前での動きは技巧的になっていく。まさに生活そのものを演技としなければやっていけないのがドンという存在なのだろう。命の危険と常に隣り合わせの彼らは、生活そのものを舞台として、役を演じ続けなければ生きていけない。そんなところが画面からも感じられる。素晴らしい作りだ。 そしてあの音楽。これも実に素晴らしい。『スティング』(1973)同様知らず知らず口ずさんだりしてるもんな。それだけ印象深く、はまった音楽と言うことだ。 尚、ここでキャリアにいっそうの箔を付けることになるブランドだが、まだそんな年齢でもないのに思い切り老けメイクで登場。もの凄い貫禄を見せつけた。このヴィトー役には彼自身が名乗りを上げたそうなのだが、製作者側はこのトラブルメーカーの起用を最後まで渋ったとか。結局コッポラは彼のスクリーンショットが完璧であることを製作者側に見せつけることで了解を取ったという。更にこの時代では珍しくブランドは撮影に終始協力的で、大変リラックスしていたらしい(ヴィトー候補としてはボーグナイン、ダニー・トーマス、エドワード・G・ロビンソン、バート・ランカスター、ジョージ・C・スコットなど。コッポラはオリヴィエかブランドの二択。オリヴィエに断られたからブランドとなった。パチーノもパラマウントは難色を示した)。 あともう一つ、本作は大きな役割も果たした。本作での登場人物の大半はイタリア特にシシリア島からの移民で構成されている。アメリカ国内にありながら、イタリアの民族主義を称揚した作品は、本作が最初の作品であり、この作品を皮切りに民族主義的な作品が作られるようになっていったという。 『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)以来久々にその年の興行収入トップと作品賞でのオスカーを得た好例だが、アカデミーの負の歴史も刻まれる。この作品によってマーロン=ブランドはアカデミー主演男優賞を見事射止めたが、何と受賞を拒否する(授賞式の際、ネイティヴ・アメリカンの格好をさせたフィリピン系女性を登場させ、一分間受賞拒否の声明文を読ませた…彼女はこれで人生を誤らせたと言う)。様々な逸話を残した作品でもある。 ところで劇中の馬の首の話は、フランク=シナトラが『地上より永遠に』(1953)の主役欲しさに(事実彼はこれでアカデミー主演男優賞を受賞)実際にやったことを元ネタとしていたとか。う〜む、実は凄い人だったんだな。シナトラって…。それであの馬の首は本物を使い、それを全然教えてなかったから、あの悲鳴は本物だったのだとか…本当かどうかは分からないけど、そんな噂も聞いた。 後に原作の方を読んでみたが、改めてよくこれを映画化出来たもんだ。コッポラの凄さを感じたよ。 |
雨のなかの女 1968 | |||||||||||||||||||||||||||
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妊娠中の主婦ナタリー(ナイト)は、ある日突然夫を捨てて家出をする。途中で元フットボール選手で、大学を放校処分となったジミー(カーン)を拾った彼女だが、何か彼の様子がおかしい事に気づき… コッポラ監督の初期作品。暗めのロードムービーなんだけど、観ていてやるせない、もの悲しい気持ちになってくる。そんな作品をきっちり観られるものに仕上げているんだから監督の実力は本当にたいしたものだ。メロドラマが嫌いな私だが、これはとても好み。 主人公のナタリーが家を出た理由は精神的に不安定だったからで、そして気まぐれと、寂しさも手伝って度の途中でジミーと言う男を拾った。だが、見た目非常に男っぽい彼は、実は脳に障害を持っており、まともな生活も、気の利いた会話も出来ないことが分かる。人の言うことに従うことしかできず、ナタリーの後を常にくっついてくる。それに辟易した彼女は彼を捨てて彼女を誘ったもう一人の男の元に赴く… …と、これがロジカルに考えた場合のストーリーフロー。これは確かに正しかもしれないけど、物語を語るには明らかに間違っている。 この映画の良さは、説明不能の中途半端な気分を満喫するところにあるんだと思うから。 “なんとなく”したい、あるいは“なんとなく”したくない。と言う曖昧な境界線上に自分が立たされている、モラトリアムな自分自身。このままでは駄目だと言うことが分かっているし、常に不安がつきまとうんだけど、それでも今の生活から抜け出せない。と言う状況をどうにも思い出させてしまう。そう言う状況に持っていけただけで並々ならぬ手腕を感じるよ。 観ていてとても不安な気持ちにさせる、そして居心地の悪さというものを否応なく感じつつも目を離したくもない。怠惰な気分に陥れる作品だ。 ただ、勿論実生活においてそう言った怠惰もいつか終わりが来るように、この映画も終わりを迎える。 今までナタリーのお荷物でしかなかったジミーの意地、そして感情が噴出して彼に謝り続けるナタリー… 涙が出た。 彼女も彼も、このままじゃいけない。今の生活をうち切る事を求めていたはず。そして死というものによって、否応なく断ち切られる生活。硬質な現実に断ち切られる柔らかい心。心から切り離され冷たい現実に戻されていく肉体。 こんな不思議なものを監督は見せたかったのかも知れない(外れてるかも知れないけど)。 ところで、この作品において警官役で登場したデュヴァル、この人、狂気をはらんだ役作りがとても上手いね。デビュー作の『アラバマ物語』(1962)も登場するのはほんの一瞬とは言え、強烈な印象を与えてくれたし、同じコッポラ監督と組んだ『地獄の黙示録』でもあの強烈なキルゴアという存在感を際だたせていた。本作でも、“一見まともで人当たりも良い、だけど、常に苛々してる”と言う役を好演。最後の切れまくった演技は凄かった。カーンも純朴そうな(事実、これほど純朴な人間もいない)役をうまくこなしていた。 この映画の撮影にはキャラヴァン隊を組んでアメリカ中を回って行ったそうで、その場で生じたハプニングも活かしてる。丁度ニュー・シネマの流行りだした時分、見事に時代に適合した作品だったと言っても良いんじゃないかな? |
フィニアンの虹 1968 | |||||||||||||||||||||||||||
1968米アカデミーミュージカル映画音楽賞、音響賞 | |||||||||||||||||||||||||||
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アイルランドにある妖精の地グロッカ・モーラからアメリカにやってきたフィニアン・マクロナガン(アステア)と娘のシャロンは、虹の谷へと辿り着いた。そこで土地の人々の窮地を救ったため、受けいれられる親子。だが実はフィニアンは故郷から三つの願いを叶える妖精の金の壺をこの土地に持ち込んでいたのだ。壺を取り返しにアイルランドからやってきたレプラコーン(妖精)オグを含め、谷で起こった不思議な事件をコミカルに描くミュージカル。 元は大ヒットした(この興行成績は歴代2位)ブロードウェイ・ミュージカルの映画化作品だが、これを一言で称すれば、「おもちゃ箱をひっくり返したような」作品。展開がいったいどのように変化していくのか、全く読めない。一応ミュージカルだから、唐突に踊りが始まって、しかもその中で物語は刻々と変化していくし、魔法も出てきて、次の展開が全く変わってしまうので、飽きさせることだけはないな。 表現そのものは結構稚拙な上にご都合主義な部分もかなり見受けられるが、それでも画面からほとばしり出るような圧倒的なパワーと、暖かい笑い。何より登場人物たちの笑顔が何にまして素晴らしい。笑ってほんのり心が温かくなる。私は暗い、深刻な作品も好きだけど、こういう突き抜けたような明るくて馬鹿笑いできる作品も大好きだ。 本作においてはやはりフレッド=アステアがいい味を出している。もうこの時70歳に手が届く年齢だったはずだけど、明るい笑顔と、老いたりとは言え、往年のタップまで見せてくれるサービスぶりが気に入った。それに最後、壺の力を全て使い果たし、新しい虹を探しに出て行く表情がとても良し。 コッポラは古い作品に限る。コッポラ作品においては異色作になるんだろうけど、監督の幅広さを見たような気分。近年ろくな作品を撮らない(撮れない?)けど、こう言った突き抜けたような作品を又撮って欲しいものだ。 |
大人になれば… 1966 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
1966米アカデミー助演女優賞(ペイジ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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