何かいいことないか子猫チャン
What's New Pussycat? |
1965米アカデミー歌曲賞 |
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チャールズ・K・フェルドマン
ジョン・C・シェプリッジ(製)
ウディ・アレン(脚)
ピーター・オトゥール
ロミー・シュナイダー
ピーター・セラーズ
ウディ・アレン
キャプシーヌ
ウルスラ・アンドレス
フランソワーズ・アルディ
ルイーズ・ラサー
ポーラ・プレンティス
リチャード・バートン |
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★★★★★ |
物語 |
人物 |
演出 |
設定 |
思い入れ |
5 |
5 |
4 |
5 |
5 |
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一流ファッション誌の編集長マイケル(オトゥール)は名うてのプレイボーイであり、挨拶するのと同じ気安さで美人を口説くことを日課としていた。マイケルのフィアンセであるキャロル(シュナイダー)はそれで嫉妬のあまり、マイケルの悪友の小男ビクター(アレン)を好きになったという芝居をうった。だが、ビクターはそれを本気で受け取ってしまい、更に精神医フリッツ(セラーズ)に相談に行ったマイケルは、フリッツの思い人ルネ(キャプシーヌ)に惚れ込んでしまう。恋の行方はどこに行くか…
豪華キャストによるベッドルームコメディと呼ばれる艶笑作品。1965年全米興行成績5位。
艶笑ものコメディは数あれど、私が観た中でのベスト作品と問われたら、間違いなく本作になるだろう。
そもそもセックスコメディは私はあまり好きではない。観ているうちにキャラが痛々しくなってくるし、その痛々しさを笑う気分になれないので、どんどん気持ちが醒めてしまうのだ。特にハリウッド製になるとこの傾向が強く、結果的に「笑えないコメディ」としか観られなくなってしまう。しかし、どうやら全部が全部嫌いというわけではないらしい。シニカルな笑いがちょうどツボにはいるのか、それとも艶笑と言っても嫌らしさを感じないからか、色々理由は考えられるが、「愛こそ全て!」ではなく、「愛なんて病気の一種だ」と捉えてしまう姿勢が好みなのかも知れない。
言ってしまえば、落とし所を「本当の愛に巡り会えた!」というのがハリウッドの特徴であり、対してその結論をぼかし、愛という感情さえ、人間の弱さを示す材料の一つにしてしまうのがイギリス流とも言えるかな?それが合うのかもしれないな。
本作は一応アメリカの映画のはずなのだが、やはりアレン脚本はひと味違う。なんかイギリス流ギャグのように思えてしまった。
マイケル(オトゥール)は多情な自分自身は少々異常であることを自覚しており、カウンセリングにも通っているし、逆に自分自身に愛は関係ないと突き放した考えを持っていながら、いざ当事者になると舞い上がってしまうビクター(アレン)、超然とした姿を周りに見せながら、実は一番純愛というものに飢え渇いているフリッツ(セラーズ)、それぞれがどこか異常であり、それを笑ってしまおうと言うのが本作のコンセプトに思える。
それはやはり脚本を書いたアレン自身がその事をよく知っているからなんだろう。彼の監督する映画に貫いているのは「愛というのは最も重い精神病」としているところにあるのだから(勝手な考えかもしれないけど)。
いずれにせよその異常さが妙なハイテンションになって、画面狭しと暴れ回っているのが本作の醍醐味。実際、この三人が顔を合わせるだけで、何も事が起こらないのにくすくすと笑い出せてしまうほどだった。愛に我を忘れた異常さを笑うのだが、全員が全員そういう状態に陥っているため、収拾のつかなさが笑える。
キャラについては言うまでも無し。セラーズは貫禄の域に入っており、真面目ぶった姿のまま、とんでもないことをやらかすアブない医者を好演。『ピンクの豹』(1963)のクルーゾー以上にはまってた。そして役者としてデビュー作というアレンも、余裕で役者をこなしている。デビューから芸風が完全に固まってる人だったんだな。そして何よりオトゥール。この人は真面目ぶったキャラとしてしか観てなかったけど、こんなに笑えるキャラクタだとは、本作で初めて知ったよ。勿論それを取り巻く女性陣も魅力的。負けず劣らず個性の強い女性をそこかしこに配した(ボンドガールのアンドレアスまでいるし)お陰で、どれほど格好良いこと言っても、結局女性に負けてしまう男の本性ってものをしっかりと演出してくれた。
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