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ウディ・アレン ウディ・オン・アレン―全自作を語る ウディ・アレン バイオグラフィー ウディ・アレンのすべて ウディ・アレン映画の中の人生 ウディ・アレンの時代 ウディ・アレンの世界―愛と性と死そして人生の意味 著作 羽根むしられて ウディ・アレンの漂う電球 これでおあいこ ウディ・アレンの浮気を終わらせる3つの方法 |
2023 | |||||||||
2022 | |||||||||
2021 | |||||||||
2020 | サン・セバスチャンへ、ようこそ 監督・脚本 | ||||||||
2019 | |||||||||
2018 | |||||||||
2017 | |||||||||
2016 | |||||||||
2015 | 教授のおかしな妄想殺人 監督・脚本 | ||||||||
2014 | マジック・イン・ムーンライト 監督・脚本 | ||||||||
2013 | ブルージャスミン 監督・脚本 | ||||||||
ジゴロ・イン・ニューヨーク 出演 | |||||||||
2012 | ローマでアモーレ 監督・脚本・出演 | ||||||||
2011 | ミッドナイト・イン・パリ 監督・脚本 | ||||||||
映画と恋とウディ・アレン 出演 | |||||||||
2010 | 恋のロンドン狂騒曲 監督・脚本 | ||||||||
2009 | 人生万歳! 監督・脚本 | ||||||||
2008 | それでも恋するバルセロナ 監督・脚本 | ||||||||
2007 | ウディ・アレンの 夢と犯罪 監督・脚本 | ||||||||
2006 | タロットカード殺人事件 監督・脚本・出演 | ||||||||
2005 | マッチポイント 監督・脚本 | ||||||||
2004 | メリンダとメリンダ 監督・脚本 | ||||||||
2003 | 僕のニューヨークライフ 監督・脚本・出演 | ||||||||
チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート 出演 | |||||||||
2002 | さよなら、さよならハリウッド 監督・脚本・出演 | ||||||||
ウディ・アレン 映画と人生 出演 | |||||||||
2001 | スコルピオンの恋まじない 監督・脚本・出演 | ||||||||
Sounds from a Town I Love 監督・脚本 | |||||||||
The Concert for New York City 監督 | |||||||||
2000 | おいしい生活 監督・脚本・出演 | ||||||||
CIAの男 出演 | |||||||||
ヴァージン・ハンド 出演 | |||||||||
1999 | ギター弾きの恋 監督・脚本・出演 | ||||||||
1998 | セレブリティ 監督・脚本 | ||||||||
アンツ 声優 | |||||||||
インポスターズ 出演 | |||||||||
ワイルドマン・ブルース 出演 | |||||||||
1997 | 地球は女で回ってる 監督・脚本・出演 | ||||||||
1996 | 世界中がアイ・ラヴ・ユー 監督・脚本・出演 | ||||||||
1995 | 誘惑のアフロディーテ 監督・脚本・出演 | ||||||||
サンシャイン・ボーイズ/すてきな相棒 出演 | |||||||||
1994 | トラブルボックス/恋とスパイと大作戦 監督・脚本・出演 | ||||||||
ブロードウェイと銃弾 監督・脚本 | |||||||||
1993 | マンハッタン殺人ミステリー 監督・脚本・出演 | ||||||||
1992 | 夫たち、妻たち 監督・脚本・出演 | ||||||||
ウディ・アレンの 影と霧 監督・脚本・出演 | |||||||||
1990 | 結婚記念日 出演 | ||||||||
アリス 監督・脚本 | |||||||||
1989 | 私の中のもうひとりの私 監督・脚本 | ||||||||
ニューヨーク・ストーリー 監督・脚本・出演 | |||||||||
ウディ・アレンの 重罪と軽罪 監督・脚本・出演 | |||||||||
Somebody or The Rise and Fall of Philosophy 監督・脚本 | |||||||||
1988 | Another Woman 監督・脚本 | ||||||||
1987 | ラジオ・デイズ 監督・脚本 | ||||||||
セプテンバー 監督・脚本 | |||||||||
ゴダールのリア王 出演 | |||||||||
1986 | ハンナとその姉妹 監督・脚本 | ||||||||
Meetin' WA 脚本 | |||||||||
1985 | カイロの紫のバラ 監督・脚本・出演 | ||||||||
1984 | ブロードウェイのダニー・ローズ 監督・脚本・出演 | ||||||||
1983 | カメレオンマン 監督・脚本・出演 | ||||||||
1982 | サマー・ナイト 監督・脚本・出演 | ||||||||
1981 | Concept subtil, Le 脚本 | ||||||||
1980 | スターダスト・メモリー 監督・脚本・出演 | ||||||||
1979 | マンハッタン 監督・脚本・出演 | ||||||||
1978 | インテリア 監督・脚本 | ||||||||
1977 | アニー・ホール 監督・脚本・出演 | ||||||||
1976 | ウディ・アレンの ザ・フロント 出演 | ||||||||
1975 | ウッディ・アレンの 愛と死 監督・脚本・出演 | ||||||||
1974 | |||||||||
1973 | スリーパー 監督・脚本・音楽・出演 | ||||||||
1972 | ボギー!俺も男だ 監督・脚本・出演 | ||||||||
ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう 監督・脚本・出演 | |||||||||
1971 | ウディ・アレンのバナナ 監督・脚本・出演 | ||||||||
Men of Crisis: The Harvey Wallinger Story 監督・脚本・出演 | |||||||||
1970 | Pussycat, Pussycat, I Love You 脚本 | ||||||||
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1969 | 泥棒野郎 監督・脚本・出演 | ||||||||
水は危険・ハイジャック珍道中 原作 | |||||||||
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1967 | 007 カジノ・ロワイヤル 脚本・出演 | ||||||||
1966 | What's Up, Tiger Lily? 監督・製作・脚本 | ||||||||
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1965 | 何かいいことないか子猫チャン 脚本・出演 | ||||||||
1963 |
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1962 | The Laughmaker 脚本 | ||||||||
1960 |
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1958 |
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1957 | |||||||||
1956 |
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1955 | |||||||||
1954 |
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1950 |
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1935 | 12'1 ニューヨーク市ブルックリンで誕生 |
サン・セバスチャンへ、ようこそ Rifkin's Festival |
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ニューヨークの映画学の大学教授モート・リフキン(ショーン)は、映画記者の妻のスー(ガーション)と共にスペインのサン・セバスチャン映画祭へとやってきた。実はスーの推す映画監督フィリップ(ガレル)が賞を受け取るために来ているので、その取材という名目だった。ただ、モートはこの二人が不倫関係にあるのではないかと疑っていた。風光明媚なサン・セバスチャンの景色も目に入らず、ただ二人を監視するばかりのモートはやがて心臓が痛くなってしまう。そこで知り合いに紹介されたクリニックを訪れるのだが、そこにいた女医ジョー(アナヤ)に一目惚れしてしまい… 昔からスキャンダルまみれで、もはやアメリカでは制作に金を出してくれる人がいないと言う状況にあるウディ・アレンだが、世界中にファンがおり、ヨーロッパで映画を作り続けている。私としても監督の作品が好きなので、ひとまず作り続けてくれることはありがたい。それに今回も存分に楽しめた。 本作は常に超然としていたいと願いつつ、嫉妬深くて不格好な姿をみんなに見られてしまうという情けない男性の話で、監督の初期の傑作である『アニー・ホール』の主人公に似たキャラである。もし20年くらい前に本作が作られていたなら、ウディ・アレン自信が主人公を演じていたことだろう。 ただ、それだけだと本当に『アニー・ホール』の続編になってしまう。実際作品そのものはあまり意外性は無く、いかにも監督らしさにあふれているが、監督としては当たり前。ただ本作ではそれに一要素加えることで面白さを増している。それは多くの映画の引用として現れている。 主人公のモートは映画学の教授ということもあって、様々な映画を愛しているのだが、名作を愛するあまり、現代の流行りの映画については否定ばかりしているし、夢で数々の名作の中に自分自身が入り込む妄想を抱く。 特に夢のシーンに関してははっきりと引用が分かるように作られてるのが面白い。出てくる作品を挙げてみても、市民ケーン(1941)、8 1/2(1963)、突然炎のごとく(1961)、男と女(1966)、勝手にしやがれ(1959)、「仮面 ペルソナ」(イングマール・ベルイマン)、野いちご(1957)、皆殺しの天使(1962)、第七の封印(1956)と、有名なものばかり(ベルイマンだけ3作)。それ以外にも会話の中で『忠臣蔵 花の巻 雪の巻』(1962)、『影武者』(1980)と、実に多彩な映画の引用がある。監督が自分の愛する映画を紹介してるみたいでとても微笑ましい。そのアクセントあって、特徴は充分ついている。 特に監督のファンとして、そして映画好きとして本作は悪く言いようがない作品と言えるだろう。こんな作品を作れる監督にはむしろ感謝と言うべきかも。 |
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教授のおかしな妄想殺人 2015 | |||||||||||||||||||||||||||
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ブルージャスミン 2013 | |||||||||||||||||||||||||||
2013米アカデミー主演女優賞(ブランシェット)、助演女優賞(ホーキンス)、脚本賞 2013英アカデミー主演女優賞(ブランシェット)、助演女優賞(ホーキンス)、オリジナル脚本賞 2013全米批評家協会主演女優賞(ブランシェット) 2013NY批評家協会女優賞(ブランシェット) 2013LA批評家協会女優賞(ブランシェット) 2013ゴールデン・グローブ女優賞(ブランシェット)、助演女優賞(ホーキンス) 2013シカゴ映画批評家協会女優賞(ブランシェット)、脚本賞 2013インディペンデント・スピリット主演女優賞(ブランシェット)、助演女優賞(ホーキンス)、脚本賞 2013放送映画批評家協会主演女優賞(ブランシェット)、脚本賞 2013セザール外国映画賞 |
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ミッドナイト・イン・パリ Midnight in Paris |
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2011米アカデミー脚本賞、作品賞、監督賞、美術賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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恋のロンドン狂騒曲 2010 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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それでも恋するバルセロナ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2008米アカデミー助演女優賞(クルス) 2008英アカデミー助演女優賞(クルス) 2008NY批評家協会助演女優賞(クルス) 2008LA批評家協会助演女優賞(クルス) 2008ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(バルデム)、女優賞(ホール)、助演女優賞(クルス) 2008インディペンデント・スピリット助演女優賞(クルス)、脚本賞、主演男優賞(バルデム) 2008放送映画批評家協会助演女優賞(クルス)、コメディ映画賞 2008映画俳優組合アンサンブル助演女優賞(クルス) 2008ナショナル・ボード・オブ・レビュー助演女優賞(クルス) 2008 |
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ウディ・アレンの 夢と犯罪 2007 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ロンドン南部に暮らす兄弟イアン(マクレガー)とテリー(ファレル)は念願のヨットを購入。それを“カサンドラ・ドリーム号”と名付ける。イアンは目下父のレストランを手伝いながら、アメリカのホテル事業への投資にいそしんでいた。一方のテリーは同棲中の恋人ケイト(ホーキンス)との生活を続けつつ、どうしてもギャンブルから脚を洗えずにいた。そんな時イアンは偶然知り合った若い舞台女優アンジェラ(アトウェル)と交際し始め、金が必要になってきた折、テリーがポーカーで巨額の借金を負ってしまうのだった。二人には裕福な叔父がいたのだが、彼に金の無心に行ったところ、とんでもない条件を持ち出されてしまう… そのフィルモグラフィを通し、一貫してコメディを作り続けているアレン監督。 時代によってその作りは様々に変化していった。ナンセンスコメディから風刺コメディ、艶笑もの、シニカル・コメディ、ロマンティック・コメディ、スクリューボール・コメディなど、それらのジャンルの垣根を外し、笑いというものを追求していった監督の努力の跡が見られる。70年代には前人未踏のシニカル・コメディとしての『アニー・ホール』という大ヒット作品も作っている。 ただ、どの作品にせよ、アレン監督でなければ作る事が出来ない独特さに常に溢れている。簡単に言えば、それはあらゆるものを斜に構え、自分がしていることがどんなに馬鹿馬鹿しい事なのかを知っていながら、それを止めることが出来ない悲しい人間の性を描くと言う事なのだが、どんなジャンルにせよ、わたし達はコメディを観に行くというよりアレンを観に行く感じで劇場に足を運ぶ。 本作は監督作に専念していて本人は登場していないが、やはり根底にアレンらしい味わいが横たわっている。 むしろ本作をコメディ色で覆うことによって、モンタージュ的な意味で犯罪の重さというものをひしひしと伝えることが出来ているように思える。 一人の命を奪う。これは当然犯罪になるが、これを本当の意味で重く真っ正面から受け止める映画は作りにくい。作りが真面目になりすぎると、批評家受けは良いだろうけど一般のハコではかけにくくなるし、かと言ってアクションとかにすると、命を奪うという事自体が軽くなりすぎる。そう言う意味ではコメディというのは匙加減としては最適なのかもしれない。人の命を奪うことの深刻さと、端から観ていて当人の無様さを笑う心理は不思議と相性が良い。大声出して笑う訳じゃなく、苦笑いしながら観ていて、しっかり心に残る。そう言った作りにすることも出来るのだ。 そう言った意味ではアレンは本当に見事なコメディの作り手。笑いにくるみつつ、重いものを心に放り込んでくれる。 本作のコメディ部分として、やっぱりあの兄弟の描写があるだろう。二人とももう40を前にしているというのに、子供のように仲が良く、しかも観ている夢もやってることも思春期の頃と大して変わってない(なんか『間宮兄弟』みたいだな)。一言で言えば「子供っぽい」のだが、それが上手く機能していた。特にファレル演じるテリーは、挑発を受けるとついついムキになってしまい、そしてその後で激しく落ち込む。と言う、子供そのものだったりする辺りが、とても痛々しくて、それが笑える。こう言ったシニカルな笑いがイギリス風と言う奴かな?冷静な男の役を演じることが多いファレルにこれを演じさせたのも慧眼。情けない役がこんなに似合う人だとは、初めて気付かされた。大人になれない子供…こう言うのをオトナと言うのだろうけど、彼の存在自体がコメディそのものだ(書いていて何か心が痛いが)。 ところで、これを観ていると、「何故人を殺してはいけないのか」という質問への的確な答えの一つにも思えてくる。人を殺すと言う事は外的な意味で罰せられるのではなく、心の中の問題に関わってくるからなのだな。そう言う疑問を素直に言ってくる子供には一旦この作品をみせてやりたいもんだ。コメディだからこそ心に入ってくる真実というのもあるのだ。 残念なのは本作が製作されたのが2007年だというのに、2010年になるまで日本では公開さえされなかったという事実か(しかも都内でも一箇所しか上映館が無かった)。こう言う作品こそ広く見せねばならないものなのに。 |
タロットカード殺人事件 2006 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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マッチポイント 2005 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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メリンダとメリンダ 2004 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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僕のニューヨークライフ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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さよなら、さよならハリウッド | |||||||||||||||||||||||||||
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スコルピオンの恋まじない 2001 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1940年NY。一流保険会社のやり手保険調査員のブリッグス(アレン)は、有能ながら、差別的な主張を隠そうともせず、それが新しく彼の同僚となった女性調査員のベティ(ハント)とことごとくぶつかり合う。ところが2人の同僚ジョージ(ショーン)の誕生パーティーでヴォルタン(スティアーズ)と言う魔術師に恋の呪文をかけられてしまい、呪文が効いている間は、二人は熱愛のカップルとなってしまう。しかし一方でヴォルタンはもう一つの暗示を二人にかけていた。ある呪文を聞かせられると、彼らの専門知識を総動員して、本来守るべき宝石を盗み出してしまうのだ。やがてその事が警察に知られることになり、追求を受けるブリッグス…どうしようもなく彼が最後に逃げ込んだのは、ベティの自宅だった… アレンはそれぞれの時代において、彼しか作れないような作品を次々に作り出す精力的な監督だ。 最も初期にはチャップリンばりに自らの肉体を使ったコメディが主だったが、内容は結構シニカルなものが多かった。その後、コメディ色を押さえ、むしろ自分自身の個性であるシニカルさを前面に出した作品を作るようになっていったが、近年は又方向転換してコメディ路線を走っている。題材こそ古き良きスクリューボール・コメディの形を取っているが、今のコメディは昔のような目で楽しませるコメディではなく、より知的に、人間の馬鹿馬鹿しさ加減を笑うような、やっぱりシニカルな笑いを提供するようになっているのが面白いところだ。 そのどれも、アレンしか作れない味がある。端的に言えば、すべからくアレンの作品とは、他のなにものでもなく、アレンの個性を見せるために作られていると言っても良い。この雰囲気が好きな人は、どんなに作風が変わっても、やっぱり楽しいと思えるものだ。題材も物語も他愛ないものなのに、妙に惹かれるのはこの個性(アクと言っても良い)あってこそ。 物語は大変単純で、しかも下手な演出で複雑にしてない分、もの凄くストレート。まるで50年代の映画を観てるみたいな気分にさせられる。しかし物語そのものは味があるし、オチも秀逸。単純ながら見事などんでん返しになってた。様々な遍歴を経て今なお継続中のアレンの恋愛経験のなせる技だったのだろう。 決して大爆笑できるような作品でもなければ、見終わった後、じーんと来るものでもない。だけど、アレンを堪能できる作品だった。 |
おいしい生活 2000 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2000全米批評家協会助演女優賞(メイ) 2000ゴールデン・グローブ女優賞(ウルマン) |
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本人は天才だと思っている落ちこぼれ犯罪者レイ(アレン)と、口が悪い妻フレンチー(ウルマン)。結婚25年を迎えた2人は、人生最後の賭けに銀行強盗を企てる。銀行から2軒隣の空家を買い取り、仲間達と金庫へ通じる地下道を掘り始めるのだった。結局銀行襲撃の方は失敗するのだが、カムフラージュのため始めたクッキー屋が大当たり。ニューヨーカー達の口コミで一躍行列のできる店になる。フランチャイズ展開もうまくいき、夫婦はあっという間に大金持ちになってしまった。フレンチーは自分たち夫婦の貧乏性を何とかしようと、上流階級の趣味をデビッド(グラント)という絵画商に教えてもらおうとするが、レイはそれに戸惑いがち。やがて二人の距離は徐々に離れていく。 アレン作品はほとんどがビデオでしか観られない。過去の作品は当然かも知れないが、最新作も地方にいるとなかなか回ってこないのが現状。しかしこれは幸運なことに期間限定での公開に当たり、初めてアレン監督作品を劇場で観ることが出来た。それだけでもありがたい。 先ずこの作品、一見古くさく見える。CGを多用し、画面に見栄えがする最近の作品の中にあって、まるで70年代を彷彿とさせるかのような画面の荒さ。しかも物語は好きあっている夫婦がお互いの価値観の違いにより離れていき、最後に本当に自分が愛しているのは誰かを悟り、ハッピーエンドを迎えるというごくごく単純なもの。 しかし、である。まさしくこういう映画をこそ、本当に求めていたし、純粋な意味での映画の良さと言うものが詰まった作品と言いたい。 映画の上映中、いかに観客に飽きさせないか、楽しんで見続けてもらうかと言うのが映画の重要な点だが、これは本来演技者の演技で見せるものだ。この映画は画面に下手な小細工をしていない分、役者の巧さに映画の全てがかかっている。ウディ=アレンはその辺、本当によく分かっている。会話が洗練され、演じる人間を観ているだけで全然飽きさせないし、会話や行動の微妙な「間」がこれ又巧い。本来の映画の楽しみ方をこの時代にあって感じさせるこの作りは貴重だし、今の技巧に頼りすぎの映画製作者達に教えてやって欲しいほど。最近増加傾向にある上映時間もちゃんと90分少々に抑える気配りも嬉しい。 キャストについては文句なし。ウディ=アレンの会話技術は本当にすごい。ヒュー=グラントも、こういう役が一番はまってるように思えるし、絶妙なキャスティングではないかな? 見終わった後、本当に楽しい気分にさせてくれ、しかもそれが持続していると言うのは凄い。本当に観ておいて良かったと思わされる。 ちなみにこの映画製作はドリーム・ワークスが行っている。少々馬鹿にしていたドリーム・ワークスだったが、これですっかり見直してしまった。こういう映画にきちんと出資してくれるなら安心だ。 |
ギター弾きの恋 1999 | |||||||||||||||||||||||||||
1999米アカデミー主演男優賞(ペン)、助演女優賞(モートン) 1999ゴールデン・グローブ男優賞(ペン)、助演女優賞(モートン) |
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ジャズ全盛の30年代シカゴ。エメット・レイ(ペン)は天才的なジャズギタリストという表の顔と、娼婦の元締めという裏の顔を持っていた。女遊びも激しいエメットだが、ある日ナンパした口の不自由なハッティ(モートン)と出会って、いつの間にか二人はいつも一緒にいるようになる。やがてエメットは上流階級の美女ブランチ(サーマン)と出会い、衝動的に結婚してしまい、ハッティを捨ててしまうのだが… なにかと皮肉の利いた作品を作ってくれるアレン監督による偽伝記。 近年に生きた実在の人間をモデルにした伝記映画というのはだいたい作り方が決まっていて、基本的に役者がその役を演じる一方で、その当時の本人を知る人物のインタビューをして、本人の足跡を辿るというのがそのパターン。ベイティがオスカーを取った『レッズ』などがその典型的なパターンとなる。 アレンはそのやり方を使い、全く架空の人間の伝記を作ってしまった。監督の、映画そのものに対する皮肉がよく現れた作品と言えるだろう。 実際私自身これを初めて観たとき、「こんな人がいたのか」とまじめに思ったくらいで、見事にアレンの術中にはまってしまい、後で事実を知って苦笑いした口。 更にこの作り方が、明らかにフェリーニの『道』(1954)をベースにしてるのが分かるのだが、フェリーニに敬意を表するってよりも、これも皮肉に思えてしまうのもアレンの人徳のなせる業か。 女好きで破滅的な生き方をし続けるという役を見事にこなしたペンの演技は見事。はっきり言って全く共感の持てない勝手し放題な男だが、だからこそこういう役がはまるのがペンという役者だ。演技をまじめにやればやるほど皮肉な存在になっていく。アレン監督との噛み合わせは最高だな。 |
世界中がアイ・ラヴ・ユー 1996 | |||||||||||||||||||||||||||
1996LA批評家協会助演男優賞(ノートン) 1996ゴールデン・グローブ作品賞 1997ヨーロッパ映画インターナショナル作品賞 |
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ニューヨークに住むホールデン(ノートン)と恋人のスカイラー(バリモア)は幸せなカップルだった。やや複雑な家庭環境を持つスカイラーは売れっ子弁護士の義父ボブ(アラン・アルダ)のおかげで裕福な生活をしていたが、実の父ジョー(アレン)は女癖が悪く、それで振られるたびに家族に愚痴を言いに戻ってくる。他にも風変わりな人間達がニューヨークとパリで織りなすコメディミュージカル。 自身もプロのジャズサックス奏者として有名なアレン監督が初めて挑戦したミュージカル映画。現代の裕福な人びとをシニカルに、しかし温かく見守った作品としてフェリーニ監督の『甘い生活』(1959)に一脈通じるものがあるが、さすがアレン監督、嫌みなくらいに表層的な人間関係を描きつつ、その中での楽しさやほろりとくる優しさを演出している。 アレン監督が作る映画で自分自身が出る場合、本当にそのまま等身大の自分が登場するのだが(端的には『さよなら、さよならハリウッド』(2002)なんて本当にそのままだったし)、ここでも女性にだらしなく、それでいて凄い寂しがり屋で捨てたはずの家族に慰めを見つけるためにたびたび帰ってくるという役どころをきちんと(?)演じていた(アレン監督の女性関係はゴシップに事欠かないハリウッドの中でも飛び抜けているから)。この人は映画作ってなかったら、本当にどうしようもない人物になってしまったかも知れないぞ。ある意味アレンが映画を作ってるのは、奇跡的なバランスなのかもしれない。 本作の魅力は物語面の雰囲気もそうだけど、やはりここに登場する有名俳優の数々も挙げて然るべき。監督作としてはニューヨーク派として一貫してハリウッドとは距離を置いた映画作りしているが、この蒼々たるメンバーは凄い。どれだけアレンが愛されているのかよく分かる作品となっている。しかも登場人物はみんな歌って踊ってる。確かに決して上手いとは言えない人もいるけど、逆にそれが貴重。 尚、ここで登場するナンバーは皆シリー・ソングと呼ばれる映画や舞台で用いられながら、スタンダードにはならない小曲ばかりを集めたと言うが、それもマニアックさを感じさせられて良し。初ミュージカル作品でここまでやれるアレンの実力を改めて知らされた。歌に関しては全員本職でないため、ちょっと聞き苦しいところもあるけど、ま、それも愛嬌。 色々な意味で、観ているとほのぼのした幸せを感じさせられる作品。アレン作品はちょっと。と言う人には是非お勧めしたい。 |
誘惑のアフロディーテ 1995 | |||||||||||||||||||||||||||
1995米アカデミー助演女優賞(ソルヴィノ)、脚本賞 1995英アカデミー助演女優賞(ソルヴィノ) 1995NY批評家協会助演女優賞(ソルヴィノ) 1995ゴールデン・グローブ助演女優賞(ソルヴィノ) 1995放送映画批評家協会助演女優賞(ソルヴィノ) |
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スポーツ・ライターのレニー(アレン)と画商の妻アマンダ(ボナム・カーター)との間に子供がおらず、アマンダついにレニーの反対を無視して養子をもらってしまった。最初は子育てに興味がないと言い張っていたレニーだが、いつの間にかその子マックスに夢中になってしまう。そんな時にアマンダの独立話が出てきて、アマンダはレニーやマックスを放っておきがちになっていた。後援者のジェリー(ウェラー)と彼女の仲がどうしても気になるレニーは、それを忘れるためにマックスの本当の親探しに熱中する。やがて見つかった母親とは、何と娼婦のリンダ(ソルヴィーノ)だった。驚くレニーだが、身分を隠しリンダと話し合う内にすっかり二人は意気投合してしまう。 現在のニューヨーク派を代表となるアレンのロマンティック・コメディ作品。しかし単なるロマコメでもアレンが手がけると一風変わった作品になってしまう。人生とは皮肉で残酷。しかし、それがコメディになってしまうと言うことをよく分かった作品であろう。 題からも分かる通り、本作はギリシア神話に例を取り、画面の端々に預言者やら神々、果ては神話の朗読者まで配し(これ自体がかなり皮肉な存在だな)、教訓じみたことを延々と語るのだが、その教訓が何らか活かされているということはなく、むしろ人間の愚かな行いを神々が横目で観ながら笑ってる。と言った風情。かねがねアレンの笑いの質は、恋愛事に夢中になってしまう自分自身を突き放し、「愚かなことをやってる」と自分自身で笑いながら、それでも夢中になることを止められない。と言うところにあると思っている。その意味ではアレンの映画作りは常に神の視点を持ってなされているのだが、ここで本物を出してしまったと言うことになるだろうか。結果的に笑っているのも、笑われているのも本人。その自覚がシニカルさを作り出す。影のある笑いを撮らせたら一級品だね。特にあの皮肉の利いたラストシーンには苦笑いするしかない。 羨ましくはない。だけどまんざらでもない人生を送ってるじゃないか。最後にそんな風に思わせてくれるのがアレン作品の特徴か。 毎度の事ながらキャスティングも見事。特に娼婦役のソルヴィーノの存在感が際だってる。我を押し通す押しの強い女性ではあるが、一方ではまるで少女のようなはにかんだ笑みも見せる。そのギャップをひっくるめて演出出来たのはアレンの手慣れた描写能力あってこそ。 そうそう。養子縁組というのはアレン自身がミア=ファローとの間に養子を取り、1992年にそれがもの凄い問題になるのだが、そんな中でこんな作品を作ってしまうのもアレンらしい。ライフ・イズ・コメディ。なのかな? |
ブロードウェイと銃弾 1994 | |||||||||||||||||||||||||||
1994米アカデミー助演女優賞(ウィースト、ティリー)、助演男優賞(パルミンテリ)、監督賞、脚本賞、美術監督賞、美術装置賞、衣装デザイン賞 1994全米批評家協会助演女優賞(ウィースト) 1994NY批評家協会助演女優賞(ウィースト) 1994LA批評家協会助演女優賞(ウィースト) 1994ゴールデン・グローブ助演女優賞(ウィースト) 1994インディペンデント・スピリット助演男優賞(パルミンテリ)、助演女優賞(ウィースト)、作品賞、脚本賞 1995英アカデミーオリジナル脚本賞 1995キネマ旬報外国映画7位 |
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芸術性を重んじすぎたため、誰も使ってくれなくなった劇作家デイヴィッド(キューザック)の元に久々の仕事が舞い込む。実はギャングの親分ニック
(ヴィテレリ)が、女優志願の愛人オリーヴ(ティリー)にせがまれ、その主演映画を依頼してきたのだ。脅しをかけられたニックは渋々劇を書くが、大根のオリーヴにほとほと手を焼いてしまう。さらにオリーヴのボディガードであるチーチ(パルミンテリ)が劇の構成にまで口を出してくる。だがチーチの指摘は見事なもので、やがて劇そのものがチーチによるものへと改編させられていく… アレンが監督に専念して作り上げた舞台劇のバックステージものの作品。本作でアレン監督はアカデミー監督賞に歴代最多となる6回目のノミネートを果たしている。 本作の場合、アレン自身が登場しないためか、痛々しさは後退しているものの、その分皮肉の利き方がきつい。アレンが監督に専念すると往々にして皮肉が利きすぎたものになるが、本作はその代表と言ってもいいだろう。 一応本作はコメディなのだが、いろいろな意味で心に突き刺さるものを持っている。 例えば芸術家気質を持つ人間は、「おれは人とは違う」ことを示すために観念的な作品を作り上げて悦に入ることが多いが、それは単に実力不足をカバーするためだけだという事が多い。キューザック演じるデヴィッドなんかはその典型的例で、「俺は芸術家だ」という主張がどんどん痛々しくなり、本物の才能に出会ってしまうと、自らの存在価値すら失ってしまう。なまじ見る目だけはあって、実力が伴わない人間と言うのは哀しいものだ…と言うか、はっきりいって私が痛い。少なくとも主人公に的を絞ると、駄目な男が自分の駄目さ加減を思い知らされて余計落ち込むという、アレン得意のパターンであることが分かる。 ただし、本作はそれでは終わらない。もう一つの痛みがある。 昔話になるが、私の田舎の同級生で社長の息子というのがいた。流石社長の家というだけあって、そいつはちゃんと自分用の広い部屋を持ち、更にその部屋には色々ステキアイテムが揃っていて、中学生や高校生であれば、欲しがるものは、大概ここに行けばあった。真っ先にビデオを(しかも個人持ちを)買ったのはこいつだったので、色々私もお世話にはなった(あくまで私の場合は映画のビデオを観たんだよ…他のも観たけど)。まあ、ご多分に漏れずそう言う部屋というのは不良学生の溜まり場になってしまうのだが、本人は至って鷹揚な人物だったので、私みたいな人間も気軽に誘ってくれた。そいつは将来家を継ぐことが決まっていて、その運命も受け入れていたのだが、実はそいつには一つの夢があった。その部屋にはギターやドラムセットまで置いてあったのだが、実はそいつはドラマーになりたかったのだ。実はちょっと都会のバンドからも来て欲しいと言われていたし、本音は音楽学校にも行ってみたかったらしい。今はどうしているか分からないが、多分今頃は家を継いで重役にでもなっているだろう。でも、本当にそいつは幸せだろうか? こんな例は枚挙に暇がない話だが、自分に好きな道の才能があることを自覚していながら、その道を歩めない人間とは、結局不幸になってしまうことがまま多い。 思えば、人の一生を楽しいものにするか、不幸なものにするかは、自分の才能をちゃんと活かせる職業に就くことが出来るかどうか。と言う所に大きなポイントがあるように思える。やりたい職業に就き、そこで自分の才能を存分に活かせるなら、本当に幸せだろうが、多くの人はそれが出来る環境にはない。仕事とは、生きるため、家族を養うため、しがらみのために行うことだ。 それでもまだ自分の才能がどこにあるのか分からない人はどこにあるのか分からないなら、まだ幸せかもしれない。悔やむことは少なくて済む。 しかし、何かの拍子に才能があることが分かり、しかも絶対その世界で生きる事が出来ないことを知らされたりしたら…これこそ最も不幸な人間と言えるんじゃなかろうか。 前置きが長くなったが、ここでパルミンテリ演じるチーチという人物は、まさしくその不幸を負って立つ人物として描かれる。マフィアのファミリーとして生きるしか出来ないのに、演劇演出にとびっきりの才能を持っていることが分かった。しかもそれをしている時は楽しくて仕方がない…せめてこの作品。一本だけは命を賭けてやりたいが、主演は大根。どんな悲愴な覚悟を持っていても、ここまで上手く行かないと、いい加減暴走もしたくなるってもんだ… 本作は二人の不幸な人間を主軸にしたコメディと言う事になる。ただ、コメディにしてはやっぱり心が痛むんだよな。 ここでどの立場で心が痛むかで、評価も変わるだろう。 本作を良くできた楽しい作品として捉えられる人は、多分とても幸せな人。 この作品に込められた皮肉を受け取り、苦笑いできる人は、それなりに苦労をした人。 そして涙できる人は… |
マンハッタン殺人ミステリー 1993 | |||||||||||||||||||||||||||
1993ゴールデン・グローブ女優賞(キートン) 1994英アカデミー助演女優賞(ヒューストン) |
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マンハッタンのマンション住まいのラリー(アレン)とキャロル(キートン)のリプトン夫妻。隣家の初老のハウス夫妻の妻(コーエン)が心臓病で亡くなったことで、詮索好きなキャロルはハウス(アドラー)の態度に疑問を抱き、自ら事件の調査に乗り出す。いつの間にかキャロルの話はどんどんリアリティを増していき、リプトン夫妻の周囲の人間を巻き込んでいくのだが… 独自の作風で批評家からも一般からも数多くのファンを持つアレン監督だが、1990年代になってから作風を変え、昔懐かしいソープオペラ風のコメディを作り始めるようになった。元々コメディアン(というかコメディの脚本家)からキャリアが始まったので、元に戻ったとも言えるが、コメディにも監督特有の痛烈なシニカルさを込め、以降監督独自の傑作コメディをものにするようになる。 本作はその中では比較的シニカルの度合いが低く、一般向けのコメディっぽいが、劇中様々な映画からの引用も多く、特に古い映画を好きな人にはにやっとする要素が色々入っていてなかなか楽しませてもらえる作品に仕上がっている。とくに後半の劇場での鏡のシーンは圧巻。まさしくウェルズの『上海から来た女』のパクリだが、それを上質なコメディ調で、しかも緊張感あるものに仕上げてくれる監督の実力には脱帽である。 物語が全部偶然と憶測の重なりという問題はあり、表題の「ミステリー」部分がかなりいい加減になってしまっているものの、それらも含めて、懐かしさを感じさせられるものばかり。 かつての『アニー・ホール』の名コンビぶりを彷彿とさせられるアレンとキートンの掛け合いも楽しいのだが、かつて恋人同士だったこの二人は、もの凄い喧嘩別れをしていて、一生和解は不可能と言われたものだが、それがあっさりと共演。しかも名コンビぶりを復活させたというのは、意外と言えば意外。いや、むしろこれはアレンの人徳がなせる技なのかな?(本来はキートンと別れた後で結婚したファローが本作のヒロインとなるはずだったが、これまたとんでもない別れ方をしてしまったため、仕方なくキートンに依頼したと言うが、到底そうとは思えないはまりっぷりだった)。 これまでの作品だったら、妄想はアレン自身が演じ、周囲がそれを抑える役を担うのがパターンなのだが、今回は全く逆。キートンの方が妄想全開で、アレンの方がそれを抑えるのだが、これも又実に良くはまってる。オロオロしっぱなしのアレンはこれはこれで本当によく似合う。 題名に惹かれ、本格ミステリーを楽しみたいなら別だが、コメディと、アレンの芸達者ぶり、それにいろんな外連味を楽しみたいなら是非お薦めしたい一本。 |
夫たち、妻たち 1992 | |||||||||||||||||||||||||||
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夫たち、妻たち | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1992米アカデミー助演女優賞(デイヴィス)、脚本賞 1992英アカデミー脚本賞、主演女優賞(デイヴィス) 1992全米批評家協会助演女優賞(デイヴィス) 1992LA批評家協会助演女優賞(デイヴィス) 1992ゴールデン・グローブ助演女優賞(デイヴィス) |
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ウディ・アレンの 影と霧 Shadows and Fog |
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ウディ・アレンの重罪と軽罪 Crimes and Misdemeanors |
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1989米アカデミー助演男優賞(ランドー)、監督賞(アレン)、脚本賞 1989NY批評家協会助演男優賞(アルダ) 1989ゴールデン・グローブ作品賞 1990英アカデミー作品賞、助演男優賞(アルダ)、助演女優賞(ヒューストン)、監督賞(アレン)、脚本賞 |
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ハンナとその姉妹 Hannah and Her Sisters |
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1986米アカデミー助演男優賞(ケイン)、助演女優賞(ウィースト)、脚本賞(アレン)、作品賞、監督賞(アレン)、美術監督賞、美術装置賞、編集賞 1986英アカデミー監督賞、オリジナル脚本賞、作品賞、主演男優賞(アレン、ケイン)、主演女優賞(ファロー)、助演女優賞(ハーシー) 1986全米批評家助演女優賞(ウィースト) 1986NY批評家協会作品賞、助演女優賞(ウィースト)、監督賞(アレン) 1986LA批評家協会作品賞、脚本賞(アレン) 1986ゴールデン・グローブ作品賞 1987キネマ旬報外国映画第3位 |
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芸能一家の長女に生まれ、自身も女優であるハンナ(ファロー)の家で毎年恒例の感謝祭のパーティが行なわれた。そこでハンナの夫エリオット(ケイン)は、ハンナの妹で三女のリー(ハーシー)に恋してしまう。一方、ハンナの元夫で今は友達づきあいしているTVプロデューサのミッキー(アレン)は次女で売れない女優のホリー(ウィースト)とつきあい始めるのだった… 特に女性関係では色々と噂の絶えなかったアレン監督が描く姉妹を巡る恋愛関係。設定だけ見ると本当のドロドロの人間関係を描いた作品で、この手の作品が無茶苦茶苦手なのだが、不思議なことに、本作は結構楽しく観ることが出来た。 これを考えてみると、これはアレン特有のシニカルさに裏打ちされているからなのだろう。改めて考えるに、シニカルさというのは、単に物事を斜に見ると言う意味ではない。自分を含めあらゆるものを客観的に観察できるからこそ、全てをカラリと笑い飛ばすことが出来るのだ。その点チャップリンも上手かったが、アレンは更にその視点が洗練されてる。これは真似しようとしたって真似出来ない本物の才能だ(90年代の日本のトレンディドラマはこんな感じを目指していたのだと思うのだが、日本で作られたものはどうしてもウェットになってしまい、ドロドロの人間関係がドロドロのまま。だから大嫌いだった)。 複雑な人間関係をさらっと描くが、それもマンハッタンの中流階級意識とか、ユダヤ人としてのアイデンティティとかに裏打ちされていて、行きすぎた感情と冷静な分析がうまい所折り合いが付いてるのも特徴か。様々な宗教にチャレンジしながら、人生の意味を見いだしたのが『我輩はカモである』だったというのも皮肉で良い。この辺りのバランスの良さは本当にアレンの上手さを感じさせてくれるよ。 キャラクタの配置も見事。アレン自身もそうだが、プレイボーイとして有名なマイケル・ケインの私生活を覗いているような気分にさせられるのも楽しい所だ(四度目のノミネートで初のオスカーを得ている)。一見さばさばけて見えながら、その実結構嫉妬深い役を演じてるファローも、今にしてみるとまるで本人みたいだ(元『ターザン』のジェーン役で一世を風靡したモーリン・オサリバンとその娘ミア・ファローの母娘共演も興味深い)。 ただ、この後のアレンとファローの関係は、まるでこの映画を地でいくようなもので、実際アレンは『アニー・ホール』(1977)のキートンとつきあった後、この時点ではファローとつきあっていたのだが、その間にも数々の浮き名を流し、そしてなんとファローの連れ子と関係を持ってしまい…というもの。本当にドロドロだ。 |
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カイロの紫のバラ The Purple Rose of Cairo |
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1985米アカデミー脚本賞(アレン) 1985英アカデミー作品賞、オリジナル脚本賞、主演女優賞(ファロー) 1985カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞(アレン) 1985NY批評家協会脚本賞(アレン) 1985ゴールデン・グローブ脚本賞(アレン)、作品賞、男優賞(ダニエルズ)、女優賞(ファロー) 1985セザール外国映画賞 1986キネマ旬報外国映画第2位 1986毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞 1986報知映画海外作品賞 |
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1930年代のニュージャージー。ウェイトレスのセシリア(ファロー)は現実の辛さを一瞬でも忘れることが出来る映画館に通い詰めていた。ある日、いつものように劇場の暗闇の中で『カイロの紫のバラ』という映画をを見つめている彼女に、スクリーンの中から映画の主人公トム=バクスター(ダニエルズ)が語りかけてきた。銀幕を飛び出し、現実世界へ降り立ったその主人公は、ウェイトレスを連れて劇場を後にする。映画から主人公が消えてしまったという事態に大慌ての興行者たちは二人を追う。さらに主人公を演じた本物のギル=シェパード(ダニエルズ二役)が連れてこられ… アレン監督が自分の出演なしに脚本・監督して仕上げた辛口のラブ・ロマンス。 アレンはしばらく純粋なコメディとは離れていたものの、一旦作ってみれば、やはり手堅い作りで、さらにアレン流のシニカルさを上手く演出していた。映画の中からスターが出てきたら?映画好きにとっては夢のようなシチュエーションだが、舞台をあえて30年代にしたのは、映画が娯楽の中心であり、映画館には魔力があった時代だったからだろう。今がそうでないとは言わないけど、かなりそれは限定されている。故にこそ、本作はかなり狭い映画マニアにとってはたまらない作りとなっている。それは何も映画の中から本当に登場人物が現れて、映画を観ている私に恋すると言うシチュエーションだけではない。むしろ、現実世界での辛さを、映画によって癒されるという彼女の日常生活が身につまされるのだ。事実として私自身はかなり日常を生きることが苦痛でもある。周囲に何人か親切な、配慮できる人がいても、仕事上大きな失敗もなく生きているとしても、やりがいはあったとしても、やっぱり仕事はストレスがたまるし、落ち込むことも多い。実は人と話すのも苦手だ。 そんな私が曲がりなりにも社会生活を送っていけるのは、生活の中に逃げ込む場所を持っているからに他ならない。破滅的な、あるいは危ない趣味は除外するとなると、映画が最大であり、私自身これをマインドコントロールの手段として使ってる。どんなにきついことがあっても、映画観たら忘れられる。長いことそう自分に言い聞かせている内に本当に依存症に近くなってしまったくらいで(笑) こう言う人間は彼女がよく分かる。本当に一緒なのだから。だからこそ身につまされる。 少なくとも、映画を観ている時間はすべて現実世界を忘れることが出来る。一旦自分自身をリセットして新しく生活を始めることが出来る。それ以上は求めてないはずなのだが、それ以上のものがやってきてしまった、と言うのが本作。戸惑って然りだし、さらにいたたまれない思いになるのは、普通の人以上ではないかと思う。 だが、作品はその“いたたまれなさ”を最後に見事に裏切ってくれる。私自身一瞬唖然としたのだが、次の瞬間には「なるほど。これで良いんだ」と再認識。 映画とは、現実世界で生きるための活力なのだから、生活全体が映画に彩られてしまっては本末転倒なのだ。映画を観ている間は夢に生きても、それが終われば、日常生活が待っている。その事をはっきり思い知らされるのも重要である。 ラブロマンスものはさほど好きとは言えないけど、これくらい辛口だと満足。 難を言えば、やはりアレン作品特有のあっさりさがちょっと鼻についたことくらいか? 最後のアステアとロジャーズのダンスシーンは『トップ・ハット』から。 |
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マンハッタン Manhattan |
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1979アカデミー助演女優賞(ヘミングウェイ)、脚本賞 1979英アカデミー作品賞、脚本賞、主演男優賞(アレン)、主演女優賞(キートン)、助演女優賞(ヘミングウェイ、ストリープ)、監督賞、撮影賞 1979全米批評家協会監督賞 1979NY批評家協会監督賞(アレン) 1979LA批評家協会助演女優賞(ストリープ) 1979セザール外国映画賞 1980キネマ旬報外国映画5位 2001アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
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冒頭、アレンのナレーションでNYの四季と名所が綴られ、ジョージ・ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」がNYフィルの演奏で流れる。 中年男と高校生の純愛が成立するのはNYならではのおとぎ話。 主役はマンハッタンの町そのもの。 これがモノクロで撮られているのは、「それが自分のこどもの頃から覚えている姿」とのこと。 |
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インテリア | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1978米アカデミー主演女優賞(ペイジ)、助演女優賞(ステイプルトン)、監督賞(アレン)、脚本賞、美術監督・装置賞 1978英アカデミー助演女優賞(ペイジ)、新人賞(ハート) 1978NY批評家協会助演女優賞(ステイプルトン) 1978LA批評家協会助演女優賞(ステイプルトン) |
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これまでの作品とは異なり、笑いを一切排除しているのが特徴。これはアレン監督が「コミカルな部分ばかりを殊更賞賛されることが心外だから」とコメントを残している | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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アニー・ホール | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1977米アカデミー作品賞、主演女優賞(キートン)、監督賞、脚本賞、主演男優賞(アレン) 1977英アカデミー作品賞、主演女優賞(キートン)、監督賞、脚本賞、編集賞、主演男優賞(アレン) 1977全米批評家協会作品賞、主演女優賞(キートン)、脚本賞 1977NY批評家協会作品賞、女優賞(キートン)、監督賞、脚本賞 1977LA批評家協会脚本賞 1977ゴールデン・グローブ女優賞(キートン) 1978キネマ旬報外国映画第10位 1992アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
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ニューヨーク在住のボードビリアンでユダヤ系のアルビー(アレン)は実生活ではシニカルさを隠そうともせず、毒舌家で煙たがれていたが、一方では彼には魅力があり、多くの仲間や恋人に不自由することはなかった。そんな彼がある日一人の美人と出会う。アニー(キートン)という彼女は屈託のなく、どこか子供のような雰囲気を持っていた。アルビーはアニーに夢中になり、毎日のようにデートを重ねていく。やがて二人は同棲生活に入っていったが、その頃からお互いのアラが目についてくる…ニューヨークを舞台にした大人の恋物語。 この年のアカデミー賞作品賞オスカーを取り(コメディ映画がオスカーを取ったのは数十年ぶり)、時代そのものを作ったと言う、映画史において特異な位置づけを持つ作品。 こよなくニューヨークを愛し、常にハリウッドとは距離をおいて映画作りを続けているアレン監督だが、本作こそが本当の意味で彼の出世作となった。これまでにも何本もの作品を監督、あるいは脚本しているが、これまでの作品は基本的にコメディ、しかも相当な自虐的コメディばかりで、そう言う監督としか知られていなかったのだが、ここで大きくその才能を見せつけることになった。一応本作も自虐的コメディとされるが、むしろこれは極めてシニカルな当時の風俗を捉えた恋愛劇と言った方が良い。 そもそも本作はインディペンデントな個人企画として、ユナイテッド・アーティスト社から300万ドルをせしめて作り上げたもの。UAとしては、ここらで好きなものを作らせることで次のコメディを依頼しやすいと考えたことと、アレンには固定客が多いので、製作費がその位ならそこそこの黒字は出せるだろうと言う打算によるものだったらしい。 ところが、蓋を開けたらこれが大ヒット。結果的に全世界で3600万ドルもの大ヒットとなったのみならず、コメディには渋いはずのアカデミーで作品賞までもたらしてくれた(コメディがオスカーを得たのは『トム・ジョーンズの華麗な冒険』(1963)以来)。予算は少なくてもしっかりとした作り方とアイディア、そして時代を上手く捉えることで傑作は出来得るという好例だろう。 本作には多くのキー・アイテムが出てくる。それは例えばニューヨークの何気ない街角の風景とか、行きつけの精神分析医とか、男物の格好をした女性とか(この作品のヒットにはこの“アニー・ルック”の存在が大きかったと言われる)。これらはこれまでエンターテインメント中心のハリウッド製映画にはどれも存在しなかったものばかりで、等身大の普通の人間が普通の街角に立っていることで、観ている側の近親感を与えることに成功したからだろう。特にこう言う映画作りを好む日本での受けが良かったことも頷ける。そしてこれらのアイテムはみな70年代と言うものをきちんと伝えてくれている。時代をここまで反映させることに成功したのもアレン監督の実力そのもの。 予算が予算が予算だけに、大スターは起用せずに身内と新人俳優を多数起用して本作は作られているが、本作を足掛かりとして後に大スターになった役者も多数おり、アレンの目の確かさが証明された形となった。事実ここでブレイクしたキートンは実際にアレン監督の恋人で(実は彼女の本名はダイアン=ホール。この物語自体が二人の実際の交際関係がベースになっているとも言われる)、更に脇を固めるキャラはクリストファー=ウォーケン、ジェフ=ゴールドブラム、シガーニー=ウィーヴァーなどが多数。2年後にはこれだけの出演者集めるだけでも大変になったろうに(ウィーヴァーは何度もオーディションを受けるが、どうしても受からず、オフ・ブロードウェイに出演していたところをアレンに見いだされたと言う)。中でもウォーケンは傑出。ほんのちょい役とはいえ、ここまで冥い目をした役者をよく見つけられたもんだ。精神的不安定にあるという役柄のアレンと並べると、次の瞬間に何が起こるか予想できなくて凄く緊張感を感じる。それ以外にもトルーマン=カポーティ本人がカポーティのそっくりさん役で出ているとか、フェリーニ役でメディア理論家のマーシャル=マクルーハンも登場している。 そう言うことで見事に時代の寵児となったアレンではあったが、本作は何かとゴシップも飛び出す作品でもあった。アレンとキートンの関係も色々言われたのだが、何よりもアカデミー作品賞を受賞したにもかかわらず、アレンはその日会場には姿を現さず、いつものようにNYでクラリネットを吹いていたという。アカデミー関係者を呆れさせたらしいが、逆にそれがアレンがハリウッドと距離を置いていることを宣言することとなり、逆に魅力になってしまうのが得なところだ(主演女優賞を受賞したキートンはちゃんと参加しており、劇中の姿“アニー・ルック”で登場。大いに会場を沸かせた)。 更に本作は元々『アンヘドニア』という名前だったが、これは「喜びを味わう能力に欠けている」という精神医学用語。プロデューサーが「このタイトルを変えないと窓から飛び降りてやる」と脅迫して、公開3週間前に題を変えさせたという逸話も残っている。 |
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スリーパー Sleeper |
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胃潰瘍の検診で入院した際、併発症を起こし意識が回復しないため、カプセル凍結にされたマイルズ=モンロー(アレン)は200年後の独裁者によって統治される世界で目覚めた。既に胃潰瘍は治っていたが、周囲の状況に対処出来ずに逃げ回る。忍び込んだロボット工場でロボットの真似をしていた所、ルナ(キートン)という女の家へと連れて行かれてしまうのだった… 俳優としてデビューしたアレンだが、直に頭角を現し、低予算コメディを作る監督になった。本作は初期のナンセンスコメディの代表作だが、アレンらしいシニカルさは充分によく出ている。アレンの初期作品で共通するのは、神経質なユダヤ人が革命騒ぎに巻き込まれ、いつの間にか英雄になってしまう。それで本人にその自覚が全くないのがとても笑える話になる。これは天性の感性と言えようし、その姿勢は今もなお健在。どんなものを作ってもデビュー当時から視点が変わらないというのは、一種貴重な監督と言えよう。 本作はコメディの中でもパントマイムを重要視した作品だが、パントマイム型のコメディにはチャップリン型とキートン型があると思う。どちらも卑下した動作で人を笑わせるのは同じだが、キートン型はそれを純粋に馬鹿げたものとして見せるのに対し、チャップリン型は笑っている内にだんだん自分自身を振り返ってしまうようなもの。 アレンの笑いは間違いなくチャップリン型に入るだろう。ただ特にチャップリンの作品はそれをペーソスという形に持っていくのに対し、アレンは乾いた笑いへと転換していく。最初の内大声で笑っている内に、だんだん笑えなくなっていき、徐々にその笑いも唇を歪めるような笑いになっていくのが特徴か。 はっきり言って、私にとっての本作は皆が言うほど大爆笑出来た作品ではない。社会不適合者を演じるアレンの痛々しい姿が、徐々に自分自身のみにつまされるようになってしまい、笑うに笑えないというジレンマに陥ってしまった。これを笑うのは自分自身をせせら笑ってる気分にさせられる。 現代にいても過去にいても、この人は全然変わらない。それはひょっとして私自身も… …少なくとも、そう思わせてくれるだけでも、アレン監督は貴重な監督と言える。 今観ると、本作は随分古くさいSFにも見えるが、それは単にSFとして古いというのではなく、70年代というヒッピー風俗そのものを未来に持ち込んだため。劇中ではそれをファッションとして捉えているので、不思議な感触が得られる。風俗などもそれがベースなので、本作をSFとして本当に楽しむにはその時代の空気を吸っている必要があるのだろう。そこのところが、知っている人が羨ましい。 ちなみに本作がアレンとキートンの出会いとなったが、このコンビは後々映画史においても様々な意味で影響を与えていくようになる。記念すべき作品だ。 |
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ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう Everything You Always Wanted to Know About Sex* (*But Were Afraid to Ask) |
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第1話 媚薬の効能:中世ヨーロッパのあるお城。王妃(レッドグレーブ)に恋した道化師(アレン)が、魔法使いからもらった媚薬を王妃に飲ませようとする。 第2話 ソドミーって何:内科医のロス博士(ワイルダー)はある農夫から奇妙な相談を受ける。なんと雌の羊に恋してしまったというのだ。興味を持って彼の農場に赴く博士。 第3話 エクスタシーは所を選ばず:新婚の妻ジーナ(レッサー)を燃えさせることのできないファブリチオ(アレン)は、様々な方法を試してみるが… 第4話 女装の歓び:女装癖のあるサム(ジャコビ)は、娘の婚約者の家を訪れるが、そこの夫人の部屋に入った途端、欲望を抑えることが出来なくなり… 第5話 これが変態だ:視聴者参加のTV番組「私は変態」に出演する人々が語る、変態的行為。 第6話 SFボイン・パニック:人間性科学を研究中のビクター(アレン)は、ある日突然巨大な女性のバストに襲われる。 第7話 ミクロの精子圏:人間体内の管制本部。それぞれの器官がセックスの最中に行うパートパートの努力を、操舵師(レイノルズ)と精子(アレン)らを中心に描く。 前年に『ウディ・アレンのバナナ』で監督デビューを果たしたアレンが、次の題材に選んだのは医学博士デイヴィッド・ルーベンによる小説だった。この作品は人間のセックスについて書いた研究書のようなものらしいが、それを面白おかしく、チープな感じに仕上げたオムニバス作品だった。 そりゃ脚本家や役者としての経歴は長いけど、よくこんな題材を第2作に取ろうと思ったものだ。少なくとも、この選択をしたというだけでもアレン監督の非凡さが分かろうというもの。艶笑ものの中でもかなりとんがった内容だが、それが受けたか1972年全米興行成績10位とヒットを記録した。 流石に題材が題材だけにかなりの低予算作品なのだが、それを逆手にとって、チープ感丸出しでどうしようもないコメディに仕上げてるあたりも、特撮ファンにとっては嬉しいところ。一つ一つの作品も決して質そのものが高い訳じゃないけど、それぞれに個性を出して作ってくれている。アレン自らのパーソナリティを表に出し、ほぼ自虐とも言えるどたばた喜劇を作った1話、ワイルダーの役者としての実力を遺憾なく発揮した2話、ラブロマンスのアンチテーゼをセックスに集約してしまった3話、あくまで普通のオッサンに徹して、女装癖の違和感と親和感を描いた4話、50年代に本当にありそうであり得ない変なテレビ番組を演出した5話、本当にどうしようもないナンセンスギャグに徹した6話、子供を作るという本来の目的と乖離しているスポーツ的なセックスと、それに伴う責任を一番感じているのが精子であるというシニカルなギャグに仕上げた7話と、個性は様々。一つ一つが全く違う視点で作られてる。 一般には多分6話が一番評価が低いんじゃないかと思うのだが、私は結構好きだったりする。なんか実相寺昭雄の実験映像を見せられてるみたい。あと、4話なんかだと、そのままモンティ・パイソンネタに出来るくらい(と言うか、あったような気もするが)で、これまた大笑いさせていただいた。7話も芥川龍之介の「河童」をどこか感じさせ、アレンの「俺なんかが生まれて良かったのか?」という徹底した自己韜晦作品と観ることも出来る。 全般的に下品でありつつも、ちゃんと観ている人を楽しませようというサービス精神に溢れてるし、ヌードも一切無しの別な意味でストイックな作品なので、コメディ好きな人には是非ともお勧めしたい。 |
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ウディ・アレンのバナナ Bananas |
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大学を三日で退学したウディ(アレン)は政治活動を行っている美人女子大生に一目惚れ。自分の主張もないまま政治活動へと足を踏み入れるが、あえなく振られ、政情不安の中南米に傷心旅行に出かける。そこで何故か革命戦士となって、ついに大統領にまで選出されてしまうのだが… これまで主に俳優および脚本家として知られてきたアレンの監督としての腕を見せつけた作品。一応パントマイム的どたばたコメディなのだが、政治の裏側の馬鹿馬鹿しさを徹底したシニカルさで味付けした結果、単なる笑いにとどまらない好作に仕上げられていた。さすがアレンが作るとひと味もふた味も違う。 アレン監督のコメディは独特のものがあり、完全に差別を主体としているのが多い。それはアレン監督自身がユダヤ人と言うこともあって民族的な差別であったり、あるいは宗教的、あるいは精神的な弱さを持つものに対する差別であったりする。しかしそれらかなりきついギャグがさほど違和感感じさせずにするっと入ってくるのは、やはり本人自身が自分を徹底的にこき下ろして描くからなんだろう。 ここで登場する監督の分身とも言える(あるいは本人?)ウディは、革命のヒーローだし、実際大統領にまでのし上がる。しかし、それで本人の性格や思いが変わる訳じゃなく、常におどおどして、自分がここにいて良いのか?と迷い続ける。自分の居場所を最後まで見つけられない、雰囲気を読めないキャラとして存在し続ける。結局アレン自身が主演したほとんどの作品の人物描写のフォーマットはここで既に確立していたのだ。 そのおどおどぶりと、思いもかけぬ行動性のギャップこそがアレンの魅力となるし、観てる側としては笑いつつも、なんか居心地の悪さを感じさせられる。それは多分誰しも、人の間にあって居心地の悪さというものを体験しているから、自分自身を思い出させるからだろう(特に私なんかはそうなんだと思う)。 それを狙って出来るのがアレン監督の凄い所なんだろう。 これがチャップリンあたりだったら、同じような姿勢で作るために、似たような感じになるんだろうが、笑いの質としてはずいぶん違ったものが出来ると思う。そう言う意味ではコメディに重要なのは作家性なのかもしれないと思わせられる。本作もこれまでのコメディの作り方だったらB級ナンセンスコメディで終わっていただろうけど、それをこんなにシニカルな感じに仕上げることが出来た。 低予算には違いないにせよ、撮影も色々頑張ってたしね。モンタージュなしの乳母車落ちとか。 アレンが監督作として本作を選んだのはたまたまではなく、前年に『M★A★S★H』(1970)がヒットし、受け手側の質が変わってきたこと、コメディの多様性をいち早く感じ取ったからだろう。時代の波に敏感なのもアレン監督の特徴。 ところで本作冒頭にウディを殴る小太りの不良が登場した時は思わず大笑いしてしまった。後で確認してこれが本当にスタローンだってことを確認してもう一度笑った。 |
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