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1976 | 2'22 死去 | |
1974 | 恋は緑の風の中 監督・製作 | |
1969 | ひとりっ子 監督・原作・脚本 | |
1964 | 路傍の石 監督・脚本 | |
1963 | みんなわが子 監督 | |
1962 | 若者たちの夜と昼 監督 | |
1961 | 街 監督・脚本 | |
1960 | 弾丸大将 監督 | |
秘密 監督・脚色 | ||
1958 | 裸の太陽 監督 | |
1957 | 異母兄弟 監督 | |
1956 | こぶしの花の咲く頃 監督・脚本 | |
1955 | 胸より胸に 監督・脚本 | |
姉妹 監督・脚本 | ||
1954 | ともしび 監督・脚本 | |
1953 | 雲ながるる果てに 監督・脚本 | |
1950 | 花のおもかげ 監督 | |
1949 | 悲しき口笛 監督 | |
1947 | 若き日の血は燃えて 監督 | |
1944 | 激流 監督 | |
1940 | 木石 助監督 | |
1911 | 9'10 東京で誕生 |
みんなわが子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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裸の太陽 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1958キネマ旬報日本映画第5位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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異母兄弟 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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陸軍大尉の鬼頭範太郎の家へ女中奉公に出た利江。やがて範太郎によって身ごもらされ、良利という息子を生む。やがて範太郎の妻つたが亡くなり、利江は範太郎の後ぞえとなったが、扱いは女中と全く変わらず、範太郎の息子一郎司、剛次郎の二人からも蔑まれて生きていく。それから10年以上、世界大戦の勃発と共に、息子たちは出征していくが… 虐げられた女性の自立に至る道を描いた作品で、日本版「人形の家」とも言える。しかし、その自立というのが最後の最後になってようやくなされるため、本当に爽快感のない話になってしまい、観ていて流石にげんなりしてしまった。 しかし、1950年代。ようやく日本が人権意識に目覚めた頃の話として考えるならば、啓蒙的な意味では本作は大きな足跡を残した作品とも言えるだろう。 ここに描かれる男と女の関係は極端な描き方はされているとは言え、男の弱さと女の強さというのも同時に描いている感じがする。実際日本は母系社会と言われるだけあって、精神的には誰の心にも母という存在に負うところが大きい。父というのは経済的に家を支え、そのため大きな顔が出来るが、それは結局自己満足でしか無く、表面的には夫に従っている母こそが本当の意味で家を支えている存在である。 そういう意味でここで描かれる範太郎は本当に日本人の父親である。過去の栄光にしがみつくだけでありながら、自分が国に対してどれだけ重要人物であるかを強調し、事ある毎に家長である自分がいなければ家族は生きていけない事を言い続ける。これは精神的にも家族を支配し続けねばならないと言う役割を自分に強いているためだった。だが敗戦と息子たちの死いう事実を目の前にした時、アイデンティティをすべて失ってしまう。男とは、まさしくそういう生き物でしかない。しかし、本来自分に強いていた役割、つまり「自分は家長である」という意地だけが残った結果、単に威張り散らすだけの何の役にも立たない人間に成り下がった。 対して母となった利江は範太郎に従ってばかりに見えながら、家をしっかりと守り、たとえどんなに家を取り巻く環境が変化しても、やはり母であり続ける。ここが本当の強さと言えるのだろう。 だから最後の自立シーンがなくても、その強さはしっかり描かれているのだが、最後にあの言葉があって、これまでも強かった母が、自立を目指したときに、本当に人間として強くなるのだ。という時代に即した主張が意味を持つようになる。元々が強い存在が、自由を手に入れたとき、どれだけ強くなれるのか。そんなことを考えさせてくれる作品でもある。 |
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姉妹 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雲ながるる果てに | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1945年4月。沖縄に連合国が上陸した報が日本中をかけ巡っていた。そんな時、九州にある空港では特攻の任務を受けたパイロットたちが出撃命令を待ち望んでいた。だが長雨によって命令はなかなか下りず、パイロットの大瀧(鶴田浩二)と深見(木村功)は、焦りを深くしていった… 家城監督の出世作。何らの美化作用も入らない特攻隊の姿を描いた良作戦争映画。 太平洋戦争末期の特攻隊を描いた作品は結構多い。それでも出来不出来はかなりばらついていて、良いと思えた作品も多いが、どうしようもないものはそれ以上に多い。 そんな中で、私自身が「これは」と思えた作品の一つが本作に当たる。 本作は低予算作品で、特攻隊の華々しさとも戦闘シーンの派手さとも無縁だが、その分、押さえつけられた若者の抑圧された思いや、ただ死ぬことに生き甲斐を見いだしたのに、それを叶えられないまま、何のために自分は生きているのかを考えるような内容になっているのだが、これが妙に胸に迫ってくるのは、やはり“生々しさ”が一番の理由ではないかと思う。本作が作られたのは戦後僅かに8年。まだ日本が敗戦の味を噛みしめている時期だし、作り手側にもじくじたる思いを持っていた人たちも多いだろう。そんな悔しさのようなものがここからは感じ取ることができるし、なによりこの作品を単純な反戦映画で終わらせてはならないと言う監督の執念も感じ取れる。 なにより、単純にリアルに人間を描くことが直接反戦作品に出来ると言うことをよく知っているからこそ描けた作品とも言えるだろう。これは実際に戦争を知っている人間の特権とも言える。 |
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